募る想いは果てしなく

過呼吸



「――はい、これ。さっき撮ったレントゲン。ここ、あばら骨ね。ヒビ入ってるのわかる?」
「……」
「全治2ヶ月だね」

 淡々と告げられた言葉に呆けてしまう私。
 人生初の骨折はあまりにも唐突で。

「肋骨の場合はね、基本は放置してくっつくのを待つしかないんだ。だから体は動かさないようにね。コルセットいる?」
「あ……はい。お願いします」
「じゃあ鎮痛剤と一緒に処方しておくね。もし合わなければ、薬局に他の種類も売ってるから」
「はい……」
「採血もしよっか。いま準備するね」

 トントン拍子に診察が進んでいく。下された診断は肋骨の骨折。額の傷は浅くて、縫うほどでもなかった。消毒後に絆創膏を貼った程度の怪我だった。
 おでこは小さい傷でも血がドバーって出るからね~、なんて爽やかな笑顔で言い放つ先生に戦慄が走った。そういうものなのか。

 ……まるで実感が湧かなかった。
 自らの身に起きたこと。
 なんだか悪い夢を見ているかのようで。
 気持ちが追いつかない。

 ――けれど。

 体中に残された痣の数々。
 肋骨に響く鈍痛が。
 まぎれもなく、数時間前に起こった現実を私に突き付けてくる。

 診察室を出て、長椅子に腰を下ろす。待合室に患者の姿はない。院内は木目を基調とした優しい空間だ。オルゴール調のBGMが、沈みかけた気持ちを掬い上げてくれる。

 病院の待合室には苦手意識があった。でも案外、居心地がいいものだ。温かな内装は人に安心感を与えてくれる。医師の先生も看護婦さんも、フレンドリーに接してくれて。患者と話しやすい雰囲気作りを徹底しているように見える。
 そこでふと思った。

「……帰りたくないな」

 帰りたい気持ちはある。
 早く休みたい気持ちもある。
 ただ、私の帰る場所はあの部屋だ。
 数時間前まで暴力を受けていたあの場所に帰りたいとは、今はさすがに思えなかった。

 壁時計は21時を表示している。随分遅くなってしまった。かなえちゃんは自宅に着いた頃だろうか。早坂が送り届けてるはずだけど。

『私は1人で帰れるから、早坂もそのまま帰っていいよ』

 そう送れば、すぐに既読がついた。即座に返信が返ってくる。いま戻るから待ってろ、と素っ気ない反応だった。
 ふふ、と笑みが漏れる。早坂は相変わらず心配性なんだから。私なら平気なのにね。

「……」

 ……平気、なんだけどな。

 スマホをポケットに戻してから息を吐く。膝の上で、両手を強く握りしめた。拳がやけに冷たくて、微かな震えが止まらない。拭い切れない不安が暗雲のように広がっていく。
 体はすでにヘトヘトだ。早く温かいベッドで眠りたい。だから帰宅の許可が下りて嬉しいはずなのに、気分は全く浮上しない。

 やっと帰れるのに帰りたくない。
 1人で眠れる気がしない。

「七瀬」

 心の何処かで待ち望んでいた声に、はっと我に返る。顔を上げれば、早坂が入口から顔を覗かせていた。
 本当に戻ってきてくれたことに安堵の息を漏らす。緩く手を振って笑いかけた。どれだけ心がしんどくても、条件反射で笑顔を作ってしまうのも、もう慣れた。

「診察終わったのか?」

 私の隣に腰掛けて、早坂は上着を脱いだ。そのまま手元に置く。

「うん。採血の結果待ち」
「そうか」
「かなえちゃん、大丈夫そう?」
「……ショックだったと思う」

 その言葉が、心に重くのし掛かる。

「だよね……申し訳ないことしちゃったな……」

 深く頭を垂れてしまう。自己嫌悪で気分は下に沈んでいく。済んでしまった事をあれこれ言っても仕方がない。いま一番気がかりなのは、かなえちゃんのことだ。

 女が男から暴力を振るわれる、その場面に立ち入ってしまった彼女の心境を思うと胸が痛い。異性に対しての畏怖を、まだ幼いあの子に植え付けてしまった。その罪はきっと重い。今日の出来事がかなえちゃんにとって、一生消えない心の傷になってしまったら私のせいだ。
 早坂からの忠告を聞き入れていれば。もっと危機感を抱いていれば。こんな事態にはならなかったのだろうか。

「……怪我、どうだった?」
「肋骨折れてた」
「マジで?」
「うん。ヒビだけどね」
「え、動けんの? 大丈夫かよ」

 神妙な面持ちで尋ねてくる。服越しに手を当てて、大丈夫だと答えた。過度な動きをしなければ、さほど痛みは感じない。

「しばらく重い物とか持てないのが不便だけど。あ、全治2ヶ月だって」
「2ヶ月か……しばらく出勤は無理だな」
「え、出勤するよ?」
「は?」

 早坂が目を見開く。瞳の奥に映る光が動揺で揺れていた。深い驚きを吐き出すようにため息をつく。

「そんな状態で働かせられるか。休めよ」
「品出しは無理だけど、事務所で出来ることはあるでしょ? だから大丈夫。仕事は行くよ」

 そのあたりは医師から許可を得ている。絶対に無理はしない、との条件付きで。
 本当は完治してからの仕事復帰が望ましい。でもこれからクリスマス、そして年末商戦がピークを迎える。小売業にとって一番の稼ぎ時だ。そんな大事な時期に休めるわけがない。全員に負担をかけてしまう。早坂に全ての業務を押し付けるのも忍びない。何より上の反応が一番の不安要素だ。

 本部の人間だって悪質ではない。傷病休職を申請すればきちんと受理してくれる。ただ、間違いなく嫌味を言われる。それが嫌だ。

「あ、でも明日は休み貰ってもいい? 頭の検査しなきゃいけなくて」
「わかった。シフトは問題ないからちゃんと休めよ」
「うん。急でごめんね」
「頭は何かあったらマジで怖いからな。ちゃんと調べてもらった方がいい」

 早坂の言葉に頷きながら、体を背もたれに預ける。瞳を閉じれば、心地良い沈黙に包まれた。 
 じんわりと押し寄せる背中への倦怠感。ストレスによる筋肉疲労かもしれない。
 今日は本当に疲れたな……。

「……七瀬」
「なに?」
「あのさ」
「――七瀬さん、診察室にどうぞ」
「あ、はい」

 名前を呼ばれ、慌てて立ち上がる。瞬間、あばらに鋭い痛みが走った。つい顔をしかめてしまう。本当に骨折してるんだ、と今更実感する。

「ごめん早坂。ちょっと行ってくる」
「……ああ」
「……?」

 はたり、と瞬きを落とす。糸のような細い声音。その弱々しさに引っ掛かりを覚えて動きを止める。

「……どうしたの?」
「……後で話あるんだけど」
「話?」
 
 早坂は俯きながら言葉を紡ぐ。その横顔は曇りがち。固い面持ちは何かを耐えているように見えて。

 ……私のせいかな。
 私が彼に、こんな表情をさせてるのかな。

「えっと、説教系?」
「いや、そういうんじゃない」
「……わかった。あとで話聞くね」

 らしくない態度に後ろ髪を引かれつつも、私は診察室に足を向けた。



 結局、1週間の休職を貰えることになった。私が診察室にいる間、早坂が菅原エリアに連絡をして頼み込んでくれたお陰だった。

 たとえ作業が出来たとしても、無理をし過ぎて完治が長引くようなことになったら目もあてられない。けれど、シフトを長期間抜けるわけにもいかない。様々な事情を考慮した結果、菅原さんは1週間の猶予をくれた。
 たった1週間で骨折は完治しないけど、休養できる期間があるだけでもありがたい。そのぶん早坂も安心して、仕事に集中できるだろうから。

 ……本音を言えば、出勤したかったけど。仕事に没頭していれば、余計な事を考えずに済む。でもそんな無責任なこと、言えるはずもない。

「2週間分の痛み止めの錠剤と、患部に貼る湿布を処方しておくね。明日は頭の検査と怪我の状態を診ますので、もう一度来てください」
「はい」
「……それと」

 一通り話を終えた後、医師の先生は意味深に言葉を切った。ぎこちない笑顔が私に向けられる。

「……もし傷害罪として警察に訴える場合、警察提出用診断書を作成しますので。その時は仰ってください」

 警察、という単語に顔が強張る。無意識に、痛々しく残る痣を手で隠していた。無理だけはしないでくださいね、何度も掛けられる優しい心遣いが胸に染み渡る。すみません、と深く頭を下げて診察室を後にした。



 帰宅する頃には22時を回っていた。 

 外来入口の扉を開ける。外の冷気が風になって、玄関に流れ込んできた。コートの裾がぱたぱたと扇ぐ。横髪が乱れ、耳元でひゅうひゅうと唸る。頬を強張らせる夜風は鋭く尖って冷たかった。
 病院の周辺は静寂に満ちている。外来を訪ねる人の姿もない。街灯が照らす光を頼りに、私達は駐車場へ歩き出した。

「さむいねー」
「今の気温、5度だって」
「どうりで寒いはずだわ……」
「……」

 沈黙が続く。うまく会話が繋げられない。ここまで互いにぎこちないのは、出会って以来初めてのような気がする。
 頭が全く働かなくて、何も言葉が生まれない。だからって無理に話題を振るのも違う気がするし、何よりも億劫だった。

 何をしても疲労を感じる。
 体が鉛のように重い。
 結局一言も発しないまま、早坂の車に辿り着いた。

「……色々ごめんね。迷惑かけて」

 助手席に乗り込んでから一言詫びる。私の謝罪に早坂は何も言わなかった。ハンドルに手を掛けたまま、車を動かす気配もない。
 重苦しい空気が車内に淀む。ひどくやるせない心持ちだった。やっぱり怒ってるのかな、呆れてるのかな。もう一度謝罪の言葉を口にしようとした時、早坂が急に私の方を振り向いたからどきっとした。

「今日、どうする?」
「え?」
「マンションに戻っても大丈夫か?」

 その口調に怒気は含まれていない。むしろ私を気遣うような、静かな優しさが滲んでいる。

「……うん、戻るよ。あそこしか帰る場所ないしね。心配してくれてありがと!」

 気まずさを誤魔化すように笑う。意識的に口角を上げて、ぎこちない笑顔を取り繕った。
 こんな事態になったのは自業自得。早坂の忠告を聞かなかった私が悪い。だから、もう迷惑をかけられない。これ以上は心配かけちゃいけない。私なら大丈夫だと告げて、この話を終わらせるつもりだった。

 でも早坂の表情は険しいまま。眉根を寄せて、真剣な眼差しで私を射抜く。

「……アイツ、待ち伏せしてたらどうすんだよ」
「え……」

 その一言に肝が冷える。
 全身の血が冷え渡って、急に動悸が高まった。

 青木さんが待ち伏せしてる可能性を、一切考えていなかったと言えば嘘になる。でも、あんな事があったばかりなのに、彼がまた部屋で待ってるなんてありえない、普通であればそう考える。
 絶対に大丈夫だと断言できる確証はないのに、あの人は逃げて家に帰ったんだって信じたかった。虫のいい話だ。

 彼がこのまま引き下がるとは思えない。また私に接触してこようとする。もしこのまま部屋に帰って、あの人が待ち受けていたら。そう思った瞬間、悪寒が背筋を駆け巡った。

 待合室にいた時も、病院から出た後も、私の中に残っていた、漠然とした正体不明の不安。
 その正体はこれだ。あの人がまた会いに来る、それがいつなのかがわからない、何処から現れるのかわからない未知の恐怖。それが私の心を支配しているからだ。
 もし彼と鉢合わせてしまったら、理不尽な暴力を受けるんじゃないか。もしかしたら、今もどこかで私を見てるんじゃないか、尾行されてるんじゃないか。そんな被害妄想に囚われてしまっている。

 戦慄が心に波打つ。両手が、また小刻みに震え始めた。血の気がどんどん引いていくのがわかる。冷や汗も止まらない。
 指先の感覚もわからなくなってきて、全神経が麻痺していくような錯覚を覚えた時。

 あ、まずい――
 そう気付いた時には遅かった。

 呼吸ができなくなっていた。
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