募る想いは果てしなく

本性



 叩かれた頬が熱を帯びる。
 時間差でこめかみにも痛みが襲ってきた。

「……ごめんね遥。遥が言うこと聞いてくれないから殴っちゃった」

 目を細めて彼は微笑む。悪びれてる様子はない。信じられない気持ちで私は呆然と彼を見つめた。頭を殴られたようなショックが全身を貫く。

 今まで人を殴ったこともなければ、殴られた経験なんてない。ましてや相手は男で、かつて私が好きだった人。頭が痺れて目の前の現実が受け入れられない。驚きと恐怖で声すら出なかった。

 こめかみが痛い。どこもかしこも鈍痛が響く。手足も思うように動かせない。立ち上がることもできずに崩れ落ちている私の視界に、気怠そうに腕を伸ばしてくる青木さんの姿が映った。

 また殴られる――
 思わず身を固くする。
 痛みを伴う衝撃は、けれどいつまで経っても訪れなかった。

 でも、状況はより悪くなった。
 青木さんが私に馬乗りになったからだ。

「……っ!?」

 慌てて身を起こそうとしたけど遅かった。彼は私の首元に指を巻き付け、ゆっくりと力を込めてくる。喉仏をぐっと押され、ひ、と喉がひきつった。吐き気を催す程の気持ち悪さに襲われる。

 必死に体を捩っても、退けてくれる気配はない。両手で胸を突っ張ってみても微動だにしなかった。所詮女の力が男に敵うわけがない。彼に首を絞められている状況は一向に変わらなかった。

 額に脂汗が滲み出る。
 まともな抵抗もできないまま、やがて来るかもしれない死の瞬間に怯えることしかできなくて涙が滲む。
 でも、彼の力は酷く弱いもの。私を殺そうという意思は感じられない。それでも息苦しいことに変わりはない。苦痛に歪む私の様子を、青木さんは悠然とした態度で見下ろしている。

 その表情はやっぱり穏やかなまま。
 彼の心理状態がわからなくて困惑する。

「ねえ遥。俺、嬉しかったんだ。ここに来れば、いつも遥が笑顔で出迎えてくれるから。俺がどれだけ、その笑顔に癒されてきたかわかる? 奥さんの気持ちも考えろって遥は毎回言うけどさ。結婚生活なんて、遥が思ってるような綺麗なものじゃないんだよ。あの女は常に何かにイライラしてて、俺に八つ当たりするし暴言は吐くし、子供にもヒステリックに叫んで、傍から見ても見苦しいったらない。そのくせ家の外では、さも良き妻っぽく周りに愛想を振り撒いて、男には媚売って。どこまでも汚くて不快な女だ。おかえりも、いってらっしゃいの一言もない。労いの言葉すら掛けてくれない。でもここに来れば、いつでも俺の帰りを喜んでくれる恋人がいる」

 捲し立てるように紡ぐ。
 ふふ、と青木さんは無邪気に笑った。
 本当に嬉しそうに笑うから、一瞬だけ恐怖を忘れてしまった。

「遥はいつも綺麗におめかしして、俺を招き入れてくれる。部屋も掃除してくれて、お風呂も用意してくれて、お酒も用意してくれて。夜食まで作ってくれる。労いの言葉もたくさん言ってくれる。会いに来てくれてありがとうって、感謝の言葉もくれる。キスもたくさんしてくれる。全部、俺の為に。でしょ?」

 くすくすと、楽しげに笑い声を零す。

「それに、セックスも。遥は何度抱いても綺麗なままで可愛い。本気で感じてくれて、可愛い声で啼いてくれるからたまんない。――ああ、安心してね。妻とはセックスレスだから。もう抱きたいとすら思わないよね、あんなの」
「やだっ、手、離し……ッ」
「ほら遥、ちゃんと俺に謝って。悪いことをしたらごめんなさいでしょ? 謝ってくれたら、またたっぷり愛してあげるから。意地張ってないで、俺のところに戻っておいで」

 優しい口調で諭されても、私の意志は揺らがない。むしろ嘘をついていたのはこの人だし、お前が私に謝れよと言いたくなる。

 どうにかして、この状態から抜け出さないと。彼が退けてくれないなら、自分でどうにかするしかない。でも、どうすればいい。この絶望的な状況を覆す何かがあれば――

「……?」

 何気なく片手を動かした時。
 指先に固い感触がぶつかった。
 視線だけを動かして確認する。それは私のスマホだった。倒れた拍子に、コートのポケットから滑り落ちていたらしい。
 床に落下した際にスリープ機能が解除されたようで、画面にはLINEのトーク画面が表示されている。

 瞬間、真っ先に頭に浮かんだ。

 何かあったら連絡しろ、
 そう言ってくれたあの人の顔。


 ――……早坂、

 早坂、ごめん。
 助けて。


 震える指先が通話アイコンに触れる。爪先でタップして、脱力した手を画面から離した。
 咄嗟に早坂へ電話してしまったことを、青木さんに悟られちゃいけない。会話なんてできなくてもいい。この状況を電話越しに聞いてくれたら、早坂ならすぐに事態を察して助けに来てくれる。そういう奴だから。

 だからお願い。
 気付かれる前に電話に出て。
 祈るように願いながら、彼に繋がる瞬間を待つ。

「――今、何したの?」

 ……だけど、やっぱり青木さんは見逃してくれない。

 スマホを奪われて、絶望的な心境に陥る。青木さんの指が画面を軽くタッチして、通話を切られたことを悟った。早坂に繋がる前に、助けを求められなかった。
 そればかりか、最悪な展開になった。

「遥、早坂って誰? 同性のお友達かな? それとも男?」
「……女、友達」
「嘘つくな。男だろこれ」
「ちがうっ、」
「なんで俺と話してる時に他の男に連絡しようとしてんだよッ!」

 逆上した青木さんが、再び片手を振り上げる。胸ぐらを掴まれて、パンッと右頬に音が弾けた。
 口内に鉄の味が広がっていく。唇の端が切れたんだろう。殴られたのは頬なのに、身体中が痛みで悲鳴を上げている。

「遥、自分が何したかわかってる?」
「……っ、痛、い」
「そうだね、痛いね。でも、俺はもっと痛いよ。こんなに綺麗な遥を殴らなきゃいけないなんて辛いよ。ねえ。全部遥が悪いんだよ? 浮気なんかするから、俺から離れようとするから」

 どうしてそうなるんだ。浮気してるのはアンタじゃん。さっきから言ってる事がチグハグだ。案外面白いなこの人。

「浮気されたのは悲しいけど、でも俺は寛大な男だから。謝ってくれれば、1度目の浮気は許してあげる。もちろん2度目はないけどね。ほら、ちゃんと俺に謝って」

 ……今、ここで素直に謝れば。
 きっと、この人は大人しくなるんだろう。
 歯向かえば、また殴られる。
 そんなことは容易く予想できた。

「……いやよ。誰が謝るもんか」

 直後、彼の目の色が変わる。再び拳を振り上げた青木さんに殴られて、蹴られて。意識が徐々に遠退いていく。彼の怒声も全く耳に入ってこない。
 こんなに散々な状況なのに、頭は酷く冷静だ。なぜか心は落ち着いている。明日の出勤の事を呑気に考えてるくらいには。

 ほっぺ腫れたらどうしようとか。
 男から殴られて、顔が腫れてるので休みます。なんて傷病休暇は会社に通用するのかな、とか。
 菅原エリアに言ったら「じゃあマスク着用して出勤してね」なんて軽く言われそうだけど。あの人なら絶対言う。鬼かよ。

 ……あと、心配してくれた早坂とかなえちゃんに、死ぬほど謝らなきゃな……なんて考えが浮かんで。
 そこで、ぷつんと意識が途絶えた。
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