募る想いは果てしなく

失望



 夜の帳が下りる頃。古びた建物の駐車場に、1台の車が停車する。
 早坂が運転する車だ。
 一緒に退勤した後は、飲みに行かなければこうして送り届けてくれる。

 街灯がぼんやりと辺りを照らす。そこは私が住む賃貸マンション。そして今夜、青木さんがここに来る。気が滅入るったらありゃしない。
 私が重いため息をつけば、後部座席からも悩ましげなため息を漏らす人物がひとり。

「七瀬さんに彼氏がいたなんて知らなかった……早坂さんとくっつく気配がないから、なんで? って思ってたらそういうことですか……」

 私のため息とかなえちゃんの気落ちした声が、虚しく交差している車内。まるでお通夜状態だ。彼女の中では、私と早坂がくっつく未来予想図が出来上がっていたみたいだけど、私には既に別の恋人がいた、その事実に打ちのめされて落ち込んでいるみたいだった。

 事務所での一件の後。彼女にはあらかた、事情を説明しておいた。とはいえ、かなりザックリと。他人の不倫の内情なんて、本当は知らなくてもいい事だ。
 かなえちゃんは19歳。まだ成人を迎えたばかり。これから社会に出て様々な学びを得るだろう。そんな子に、泥沼化した大人の事情を話すなんて気が引ける。

「相手、部屋に来るんだよな?」
「うん、そう。仕事終わったら連絡してって伝えてる。多分19時頃じゃないかな」

 今の時刻は18時。そろそろ彼から連絡が来るかもしれないと思い、ちらりとスマホをチェックしてみる。が、まだ通知は来ていない。

「鈴原を家に送ったら俺も帰るけど。何かあったらすぐ連絡しろよ」
「うん」
「あと青木が来たら、喫茶店に行け」
「なんで?」
「2人きりは危ないだろ」
「2人きりは危ないです!」

 2人の発言が見事にハモる。
 そこまで警戒することなんだろうか。

「絶対に2人きりで話し合おうとするなよ。もし相手が拒んだら、さっさと部屋から追い出せ。あと、一応俺にも連絡して。心配だから」
「う、うん。わかった」

 さすがに心配性が過ぎる。と思ったけど、早坂は私の身を案じて言ってくれてるわけだから口に出さないでおいた。
 ふうっと大きく息を吐く。よし、と気合を入れて、私は助手席から降りた。ドアを閉め、車内の2人に向き直る。

「じゃあ、七瀬帰ります! お疲れっした!」
「マジでやばくなったら連絡しろよ!」
「はーい!」

 お行儀よく返事を返す。彼らに背を向け、急ぎ足でマンションへ向かった。
 寒風が刺すように痛い。まるで氷の鞭のよう。冷たい風から身を守るように肩をすぼめて、1階にあるエレベーターのボタンを押した。

 点滅する表示盤を眺めていた時、ふと、早坂の言葉が脳裏をよぎる。

『切羽詰まった人間ほど、何をするかわからない』

「……まさかね」

 男女間のトラブルは危険も多いと聞く。交際のもつれが事件に発展する例も増えている。早坂がやたらと『2人きりになるな』と口にするのも、その危険性を踏まえての忠告だということもわかる。
 でもまさか。あの青木さんに限ってそんなこと。
 もう一度スマホをチェックする。青木さんからの連絡はない。仕方なくLINEのトーク画面を開いて、早坂にメッセージを打ち込んだ。

 "お疲れ。話が終わったらLINEするね"

 仕事外のことなのに、心配ばかりさせてる。
 申し訳ないなと思いつつ、コートのポケットにスマホをそのまま仕舞い込んだ。



 この日の夜。

 何の危機感も抱かず、1人でのこのこ部屋に帰ってきてしまったことを――私は一生、後悔することになる。



「あれ?」

 人気のない共用廊下に、自分の声が反響する。
 バックから取り出した鍵を鍵穴に挿し込んだ時、ありえない異変に気付いた。

「……なんで?」

 部屋の鍵が、開いてる。

「締め忘れたっけ……?」

 今朝のことを思い出す。早朝に目が覚めたら、早坂が帰る支度をしていて。寝惚け眼をこすりながら彼の背中を見送った。その際に鍵を締めたのは覚えてる。
 早坂が帰った後は朝風呂に入って。朝食を作って、メイクをして。一連の行動をひとつひとつ思い起こしてみる。
 そして部屋を出る時に施錠した。ちゃんと確認もした。やっぱり締め忘れてなんかいない。
 なのにドアは開いている。

「……」

 どうしようと迷ったのは一瞬のこと。ドアノブを掴み、慎重に捻ってみる。恐る恐る開ければ、ギィー……と不快な軋み音。それが余計に恐怖心を駆り立てる。

 数センチ開け放たれたドアの向こう。隙間から中を覗いても、深い闇夜に包まれた空間が広がっているだけ。室内はシンと静まり返っている。当然だ、1人暮らしなんだから。この部屋に私以外の誰かがいるはずがない。

 このマンションは築何十年と経つ古い建物だ。オートロックも付いていない。監視カメラすら設置されていない、防犯性の低い物件。
 それに合鍵も作ってない。賃貸マンションの決まり事で、鍵の複製は禁止されているから。だから私以外、誰も入室もできないはず。

 なら、この状況は一体何だ。
 施錠したはずの鍵が開いている事態に背筋が冷える。

「……だ、誰かいますか?」

 アホな問い掛けだとわかってる。わざと声を発しないと、恐怖で胸が押し潰されそうで。肝試し中に歌って恐怖を振り切ろうとする人の、あの心理状態と同じ状況に陥っている。
 部屋が荒らされていたらどうしよう。誰かが潜んでいたらどうしよう。考えるだけで不安と恐怖が全身に纏わりつく。

 弱々しい私の呼び掛けに応じる声はない。
 でも、感じた。微かに動く人の気配。
 間違いなく、この部屋の中に誰かがいる。

 それがわかった今、私がするべき事は決まった。
 すぐにこの場から逃げよう。そして大家さんに連絡しないと。もしかしたら空き巣犯かもしれない。あらゆる可能性を考えて、そっとこの場から立ち去ろうとした時、駐車場の街灯の光が玄関を照らした。

 煌々と射す光の先。そこにあったのは私以外の靴。サイズ的に男性のものだ。それが見覚えのある靴だと気づいた瞬間、強張っていた体から力が抜けた。
 ここで安堵を覚えるのは間違いかもしれないけれど、部屋に潜んでいた人物が私の知らない誰かよりはマシだ。

 ……にしても。
 この人、どうやって私の部屋に入ったんだろう。

「……何してるんですか、青木さん」

 誰かさえわかれば怖いものはない。ズカズカと部屋に入り、電気をつける。
 パッと室内を照らす照明は、暗がりで見えていなかった人物の姿を曝け出した。

「おかえり、遥。お仕事お疲れさま」

 ベッドに背を預け、悠長にスマホをいじっている人物――青木忍さん。私の気配に気付いてにっこりと微笑む。
 出会った頃と何も変わってない柔和な笑顔。半年前まで私が好きだった人。過去形だ。

「電気くらいつけてください」
「怖かった?」
「当たり前です」
「ごめんね。俺がいるってバレたら部屋に来てくれないと思って。わざとつけなかったんだ」
「どうやって部屋に入ったんですか? 鍵は締めてたはずだけど」

 私の問いに青木さんは答えない。ゆったりと微笑むだけで何も言わない。この人はいつもこうだ。都合の悪いことは沈黙でやり過ごそうとする。目の前の問題に、真摯に向き合ってくれない。だから、いつまで経っても別れ話に決着がつかないままなんだ。

「……いつから居たんですか?」

 仕事が終わったら連絡して。そう伝えていたはずなのに。
 私の伝言が無駄になってしまった。

「ついさっきだよ。遥に会えると思ったら嬉しくて、急いで帰ってきたんだ」
「……急いで帰ってくる場所が違うでしょ」

 つい嫌味を言ってしまう。
 それでも彼の表情は変わらない。

「奥さんとお子さん、青木さんの帰りを待ってるんじゃないですか? 早く帰ってあげたらどうです?」
「……もう名前で呼んでくれないんだね」
「貴方も名前で呼ばないでください。私達はもう、何の関係もない他人同士ですから」
「遥、俺は」
「七瀬です」
「……」

 取りつく島もない私の様子に、彼は小さくため息をついた。

「……俺、疲れたよ」
「私だって疲れてますよ」
「抱かせてよ」
「……は?」
「だから、俺疲れてるの。遥で癒されたいんだ。恋人なんだからいいでしょ?」

 本気で言ってるんだろうか。
 全く理解できない。

「あの。人の話聞いてます?」
「おかしなこと言ってるかな」
「言ってますよ。私はもう恋人じゃないし、何度も別れたいって言いましたよね」
「俺は別れたつもりはないよ」
「じゃあご家族はどうするつもりなんですか」
「妻とは離婚する。俺は遥と一緒にいたいんだ」
「……」

 頭が痛くなってきた。まるで言葉の通じない動物と話してる気分。私が何に対して怒っているのか、彼は全く理解できていないらしい。

 離婚する、とか簡単に言うけれど。
 それで私がヨリを戻すとでも?
 そんなわけがない。既婚者だから怒ってるんじゃない、彼の不誠実さと裏切りに対して腹を立てているんだ。離婚云々は知らない。関係ない。

 既婚者の癖に外に恋人を作る行為は、奥さんに対する最大の裏切りだ。恋人の私にも、既婚者である事実を隠してきた。4年もだ。4年も騙され続けていた。これを不誠実と言わずに何と言うのか。
 そこまでの事をされて、それでも彼と一緒にいたいなんて私には思えない。

「青木さん、もう一度言います。私と別れてください。貴方には、一生を添い遂げると誓った相手がいるんです。それは私じゃない。奥さんとお子さんのこと、ちゃんと考えてあげて。こんなところで他の女にうつつを抜かしてる場合じゃないでしょ?」

 これが本当に最後。そう言わんばかりに説得を試みる。それでも彼は動じない。穏やかな眼差しで私を見つめているだけ。別れ話をしている男女の雰囲気とはほぼ遠い。
 ここまで表情が変わらないと逆に怖い。
 彼の瞳に浮かぶ感情が何なのか、私には読み取ることもできなかった。

「そんなに俺と離れたいの」
「今後一切会いたくないです」
「……そう」

 目を閉じて、彼は深く息を吐く。顔には諦めの表情が染みついていて。やっと納得してくれた、そう安堵した私の身体は、次の瞬間、青木さんに抱きすくめられていた。

 驚きで目を見張る。
 瞬きをすることも忘れて、私を腕の中に閉じ込める彼を呆然と見上げた。

「……ちょ、なにっ、離して!」
「ああ、遥の匂いだ」

 陶酔したような声が落ちる。私の髪に指を絡め、顔を埋めてくる彼の仕草にゾッとした。身の毛がよだつほどの嫌悪感が身体中を支配する。

「っ、いい加減にして!」

 必死にもがけば、その勢いに押されて彼の体が離れた。
 どうしてわかってくれないの。
 どうして、こんなに。

「もう帰って! 2度とここに来ないで! あなたには奥さんと子供がいるでしょ!?」
「……遥はいつもそれだ。奥さんがどうとか、子供がとか。妻と子がいるから何? いたところで、今までと何も変わらないよ」
「何言って……」
「俺は遥を恋人扱いするし、遥も今まで通り俺と会えて、ここでセックスできて嬉しいでしょ?」

 ――……なにそれ。

 ショックで視界が黒く染まる。
 思考が絶望に染まっていく。
 私の存在価値を軽んじてる発言に、腸が煮え繰り返る程の憤りを感じた。

 この人が抱いている恋人の認識と、私が抱いている恋人の認識が全く違う。
 ちゃんと話し合おうなんて最初から無理だったんだ。見ている方向が全然違うんだから。

「……はっ」

 乾いた笑いが喉の奥から溢れ落ちた。

「待って、マジうける。あはは」
「……遥?」
「恋人扱いって、そんな事してくれるんですか私なんかの為に。ははっ……、ふ……ッ」

 嗚咽まで漏れる。
 悔しくて悔しくて涙が滲んだ。

 ねえ、早坂。聞いた?
 この人、奥さんがいても私を恋人扱いしてくれるらしいよ。

 笑っちゃうよね。
 恋人『扱い』って。
 私は、恋人ですらなかったよ。

 私達が過ごした4年間って、この人にとって一体何だったんだろう。青木さんから連絡が来る度に嬉しくなって、舞い上がっていたのは私だけだったなんて、なんともお粗末すぎる話だ。

 恋人だと思っていたのは私だけ。
 彼にとって、私は恋人ごっこの相手。
 ちょっと恋人扱いすればしっぽを振って喜んでくれる、まるで彼のペット扱いだった私。
 最悪だ。惨めすぎる、こんなの。

 本当に大好きだったのに。
 彼との将来を夢見ていた、過去の自分を呪った。同時に憎しみも湧く。

「――2度と来んなクズ」

 怒りに任せて口走ってしまった直後、

 ――パンッ!

 その瞬間、顔に響いた破裂音。物理的な衝撃を受けて、体が真横に吹き飛んだ。
 テーブルの脚に躓いて倒れ込む。ガツッ、とこめかみに嫌な衝撃が伝わった。テーブルの角に頭をぶつけたと悟った瞬間、身に起こった事態を把握する。

 ……ぶたれた。
 わたし今、頬をぶたれた。
 青木さんに殴られた。

「……あーあ」

 頭上から落胆の声が落ちる。
 すごみさえ感じる低音。
 ゆるりと顔を上げた私の瞳に映ったのは、こんな時でも穏やかに微笑んで私を見下ろす、青木さんの姿。

「せっかく大事にしてたんだけどなあ」

 けれどその声は、背筋が冷える程に温度がなかった。
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