夜の静けさと湯気の向こう

 陸は即座に膝を折り、廊下に片膝をついた。
 目線を猫と同じ高さまで下げている。
 そして、そっと右手の甲を差し出した。
 攻撃意思のないことを示す、動物への基本姿勢だ。

 十数秒の緊張の後、子猫は恐る恐る陸に近づいてきた。
 小さな鼻を陸の手の甲にちょん、と触れる。
 ぴょこりと立ち上がった耳が愛らしい。

「……」

 陸の口元がかすかに緩む。
 子猫も安心したのか、今度は陸の太ももに体を擦りつけ始めた。
 喉を鳴らす小さな音が、静かな廊下に心地よく響く。

「陸? まだそこにいるの?」

 先にリビングへ入っていた日奈子が、首を傾げて戻ってくる。
 麦と戯れる陸の姿に、一瞬呆気にとられた表情になった。
 が、すぐに柔らかい笑みへ変わる。

「上がって。コーヒー淹れるね」

 日奈子が先導し、リビングへ。
 陸は麦を軽く抱き上げて移動する。
 ソファーには座らず、ラグの上に胡坐をかいて、麦を膝の上に乗せた。
 キッチンへ向かう日奈子の背中を見送りながら、陸がぽつりと呟く。

「……名前は」
「麦ちゃん」
「……麦」

 その二文字を噛みしめるように繰り返す。
 指先で麦の小さな額をくすぐると、にゃあと甘えた声が返ってきた。
 陸の目尻がほんの少し下がる。
 猫相手になると表情筋が緩むらしい。
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