スネイクさんの変な話2

「人間を飼ったことってあるか?」
ビルディング・スネイクは言った。

馴染みのバーのドアに『しばらく休業します』の張り紙を見つけ消沈していたベックマンに声をかけたのは、たまたま通りかかったバーテンダーのスネイクだった。
「飲みに来たのか?よかったら開けるけど」
「休業じゃないのか?」
ん、おじいちゃん(彼は店主のことをこう呼ぶ)温泉旅行に行くっつっておれに鍵置いていったんだよな。開けたかったら開けろってさ」
小柄な老紳士がやっているその小さな店はベックマンのお気に入りだった。しばらく手掛けていた厄介ごとが片付いたので、一人で祝杯を上げようと来たのだ。
ベックマンの返事も聞かずにスネイクは「こっちこっち」と裏口にサンダル履きでペタペタ歩いていく。
「おい良いのか本当に」
「ベックマンだけなら。他の客は入れねえよ、おれも飲みたいし」
スネイクは店主がいない隙にこっそり一人で飲むつもりで店に来たらしかった。飲んだ分は払うからさあなどと誰に言うでもなく言い訳している。
あ、でも女の子とか呼ぶ?と人好きのする笑みで言うので苦笑して首を振る。ベックマンも今日はもともと一人で静かに飲みたくて来たのだ。

「へいジントニック一丁お待ち!」
「ラーメン屋かよ」
カウンターの中ではTシャツにデニムというおよそバーテンダーらしくもない格好のスネイクがグラスを拭いている。店員と客、というより友人同士の飲み会のようで妙な気がするが、そう悪い気分ではない。自分用の水割りを作ったらしいスネイクが、おもむろに投げかけてきたのが冒頭の質問だ。
「あいにくそんな経験はねえな。お前もおれを反社かなんかだと思ってるのか?」
どう見てもかたぎじゃねえよとからかってくる赤毛の友人を思い出して顔をしかめる。
スネイクはきょとんとした。
「え、いやそういう訳じゃねえよ。でも人を使う仕事だろ。多分キャバかヘルスのオーナー。じゃなきゃホストクラブかな」
「全部夜職じゃねえか」
くつくつと喉で笑いながらも、ベックマンは内心驚いていた。全部当たりだったからだ。
若いころにホストをして稼いだ小金を元手に投資で増やし、自分の店を出すようになったのはもう二十年も前だ。金を稼ぐことと人を使うことは自分の天職で、きっと死ぬまで飽きない趣味の一つだろう。
「だがおれは人間に首輪をつける趣味はねえよ」
「そう?意外だな。いや、でもおれが言いたいのはそういう犬猫みたいな飼い方じゃなくて、もっと小さいメダカとかカエルとか虫とか」
両手の親指と人差し指で長方形を作って言う。
「小さいケースで飼うみたいにさ。人間をしたことあるかと思って」
ベックマンは煙草に火をつけた。頭の回転は速い方だと自覚しているが、スネイクとの会話はいつもまるで先が見えない。次に何が起きるのかわからない不条理小説のようでベックマンはこれを意外と気に入っていた。
「ないな。ついでに言うと虫を飼ったこともない」
「えマジ?男の子ならバッタでもクワガタでもセミでも捕まえるだろ」
「あいにく都会育ちでな」
嘘だ。子供の時分にそんな普通の遊びができる環境ではなかっただけだ。
それに気付いてか気付かずか、スネイクはふうんと頷くと深くは聞いてこなかった。
「おれはよく捕まえて遊んだな。でさ、でかいバッタとか蜻蛉とかケースに入れといて、ガキだから忘れちゃうんだよ。次の日には。捕まえた時は大事に飼おうと思うんだけど、すぐに興味なくなっちゃって」
可哀相なことするよな、とまるで他人事のように言う。
スネイクはおれも吸おう、と煙草に火をつけた。二人分の煙が交じり合って漂う。
「でももっと残酷なガキっていてさ、捕まえた蜻蛉とか蝶々とかの羽だの足だのを捥ぐんだよ。捥ぐために捕まえてるっいうのかな」
人間をそうしたいって思うやつも世の中にはいるんだろうな、と嫌悪も羨望もこもらないプラスチックの声でスネイクはつぶやいた。

 ***

あの時のおれはマジでしくじったね。
おじいちゃんに拾われる前だから七、八年前かな。当時よくつるんでたやつのうちの一人が最近姿を見ないなって話になった。なんでもやばいクスリにはまっちゃって、やばいところから金借りて、当然返せないからやばい人たちに取り立てられてるって。仲間内のやつがそう言って、ああもうあいつには近寄らない方がいいなって結論になった。
おれはその時ふと、そういやあいつに3DS貸したまんまじゃんって思い出した。え、やべえおれの3DSもう返って来ないの?最悪の借りパクじゃんと思って取り返しに行くことにしたんだ。
まさかもう本人には会えないだろうけど、そんなら勝手に3DSだけ持ってこようと軽い気持ちでそいつんちに行ったら、幸か不幸かそいつは家にいたんだけど取り立て屋さんもいた。
そいつはどうしようもない馬鹿で、おれのことを助けに来てくれたんだと思ったらしくてさ。やっぱりクスリでおかしくなってたんだろうな。良かった、よく来た、とか言うから取り立て屋さんも信じちゃって。
おれが「ふざけんじゃねえよおれもブツを回収に来たんだよ」って言ってやったら部屋にいたやつらみんなビビってたな。おれ体も声もデカいからさ。
一番ガタイが良くて目つきの悪いのが「てめえどこのもんだ、いくら持ってく気だ」って怒鳴り返してきた。やめとけばいいのにおれは「どこのもんでもねえよおれは3DSとマリオ回収に来てんだ」って怒鳴り返して、いやさすがに今はそんなことしねえよ。そん時はさ、色々あって自暴自棄だったしどうにでもなれみたいな。

何だか分かんねえけど、あれよあれよという間に軽バンに積み込まれてたね。両手はガムテープで後ろ手グルグル巻き。
ただそいつら本当に下っ端の下っ端だったみたいでさ。手際が悪いのなんの。つれは引き渡し先が決まってたみたいでさっさとどっかに連れて行かれたんだけど、おれの処分に困って右往左往してやがる。あちこち電話してどうしましょうとかなんとかやってて、もうだったらおうち帰してくれってかんじなんだけど。
適当に暴れて逃げようと思えば逃げられたかもしれねえけど、もうここまで来たら自分がどう始末されるのか行くとこまで行ってみようと思って、まあ社会見学みたいなもんだよね。でおとなしく座ってて、隣でおれを見張ってる一番の後輩みたいな当時のおれよりちょっと若いくらいのそばかすの兄ちゃんに話かけて時間つぶしてたんだけど、とうとう「虫かごに入れておけ」ってなった。
道中ずっと目隠しされてたから分かんねえけど、車で三十分くらいかな。降ろされたのは人気のねえ山中の廃墟の前だった。
外から見ると木造二階建ての戦前から残ってるようなボロボロのアパートってかんじ。多分午後六時ごろだったんじゃねえかな。電気もつかねえ水道も通ってねえ壁も天井も崩れかけのそこに、とりあえずおれを監禁しておくことになったらしい。
初夏だったから夕方とはいえまだそう暗くもなくて、そばかすくんにひっぱられておれは廃墟に入った。ぎしぎしいう階段を上って一番つきあたりの部屋。六畳程度の一間に窓は一つ。錆で覆われた鉄格子がはまってる。うわマジかここに監禁されるの?この純和風ホーンテッドマンションに?と思って、ぼそぼその畳の上に土足で上がって「おいこれ便所行きたくなったらどうすんだよ」って言ったら、なんでかそばかすくんは半泣きの顔で「知るかたれ流せ!」って捨て台詞みたいに言うとドアを閉めた。外でがたがたやってるのはたぶん閂と錠前をかけてたんだろうな。
窓が一つしかないせいで部屋は暗かったけど、目が慣れてきたから部屋を観察することにしたんだよな。鉄格子がはまった窓は曇りすぎて外が見えない。外から見た時はアパートだと思ったんだが、その割に部屋の中には流し台らしきもんがなかった。風呂・便所共同の格安物件にしたって普通シンクと水道くらいはあるだろうに。使わなくなったから運び出したって訳でもないらしい。ドアのそば、土間が妙に広くて畳二畳分ぐらいコンクリートむき出しで隅に排水溝が一つある、妙な造りだ。
おれ、一体いつまでここに置いておかれるんだろうとか、ひょっとして置き去りにされたんじゃないかとか色々考えたけど、まあ壁もボロボロだから最悪大暴れすれば逃げられるかって割と楽観的に思ってたな。スマホは取り上げられてるし両腕は縛られたまんまだしすることもないんで、湿気でめくれかけの畳の上に寝転んだ。屋内とはいえほぼ野宿みたいなもんだけど季節的に凍死はしねえだろって。

何時間眠ってたのか分んねえけど、激痛で飛び起きた時には辺りは真っ暗だった。
右足首が急に、ねじ切られるんじゃねえかって言うくらいに痛み出したんだ。飛び起きた瞬間に痛みは消えて、なんだったんだ、夢か?夢に痛覚ってあるか?とか汗びっしょりかいたまま横たわってると、ふいに声がした。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」って。
半分寝ぼけてたから自分がどこにいるのか、一体誰の声なのかとか考えないまま反射的に「え誰?」って言うと、「どっか苦しいの?お兄ちゃん、新しく来た人?」って相手は言った。
声は壁の向こうから聞こえてきてた。おれが入れられたのが一番突き当りの部屋だったから、その一つ手前ってことだな。艶っぽい女の声で、おれはなんとなく昔のピンク映画に出てくるエロい未亡人を思い浮かべた。「うんそう、お姉さんは?」って聞くと向こうは「もうずっとここにいるよう」って返事した。おっとりした声で、場違いなくらい普通に返事がくるもんだから本当にアパートのお隣さんと話でもしてるような気分になった。
相手の顔は見えねえし、まぁどうせなら美人と話がしたいよなと思って、さっき思い浮かんだ未亡人を想像してたら、向こうから「お兄ちゃんは何がないん?これからかなあ?」って不思議なこと聞いてくるんだわ。よく分からないまま「さあ、しいていえば運かなあ」って言ったらころころ上品に笑って「運はうちもないなあ」って言った。少し西の方の訛りが色っぽいんだ。
お姉さんは親父さんが残した借金を返すために若いころからあくせく働いて、やっと返し終えて良い人ができてこれから幸せになれるんだと思ったら結婚した男っていうのがろくでもないやつで、また馬鹿でかい借金を背負わされてこんなところにいるんだって言ってた。不幸の見本市みたいな人生だねって言ったら本当になあ、って自嘲するみたいに笑ってそれがまた艶っぽくて、なんとなくこの人いじめられっ子体質だなってかんじがした。
外はすっかり暗くなってて鉄格子の曇り窓からかろうじて月明かりが入ってくる程度だった。外は何だかわからねえ虫が鳴く音しか聞こえない。お姉さんは「こんな夜は手足が痛むなあ」って言った。「もうないはずなのになあ」って。
どういうことか考える前に、隣の部屋から急に「あっ」って鋭く息をのむ音がして、続いてひゅうひゅう細い喉で荒い息を吐く音がした。「お姉さん?」って声をかけたんだけど聞こえてるのか聞こえてないのか返事はなかった。
おれは起き上がるとずりずり畳の上を膝で歩いて、声が聞こえる側の壁に近寄った。薄い土壁に耳を寄せるとお姉さんがぶつぶつつぶやくのが聞こえる。
「来た、来た、堪忍してください、堪忍してください」
誰かが来たのかと思ったけど全然そんな音はしない。このおんぼろの建物に誰かが入ったら足音ですぐ分かるのに。お姉さんはずっと誰かに謝ってる。おれは「ああ、これ幻覚見てんのか」とぴんときた。親に殴られて育ってトラウマになったガキの怯え方だった。
女の声はどんどん大きくなっていった。
「堪忍してください、隣、隣の部屋に若い新しい男がおります、どうか、どうかそっちに」
あっこのアマおれを売りやがったなと思ったね。てめえのせん妄相手にさ。それで急に冷めちまって相手にするのも面倒になった。さっきまで仲良くおしゃべりしてた女だし、多少いかれてても可哀相だなって同情する気持ちがあったのにな。薄情かなおれ。
おれはまたずりずり膝で這いずると部屋の真ん中に戻って横になった。とりあえず朝までここですごして、それから壁でもなんでもぶっ壊してトンズラしよう。そのために今は寝ておかなきゃなって。
隣は幻覚相手にもう大盛り上がりで、やめろだなんだとずっと喚いてる。しばらくすると「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」とすすり泣く声だけになって、おれはそれを子守歌に眠った。

十分か三十分か一時間か分からないけど、しばらく寝たと思うんだよな。
また激痛で飛び起きた。今度は左の足首。熱いんだか痛いんだか分からねえくらいの衝撃で、さっきと同じように目が覚めたとたんにじんわり消えた。
なんなんだ畜生、寝相のせいかなとか思ってると「お兄ちゃん、お兄ちゃん」って声がかかる。さっきと同じに。
ああくそ、なんだよさっきのいかれ女がまた話しかけてんのかと思って「ああ?」って自分でもやばいと思うくらいガラ悪い声が出た。壁の向こうの声は全然気にするかんじもなく「どっか苦しいの?お兄ちゃん新しい人?」って言う。あ?さっきと同じじゃん。
おれは痛いやら眠いやらうざいやらでいらついて「うるせえな!」って怒鳴りつけた。でも女は「こんなところに入れられるなんてお兄ちゃんもついてないなあ」って自分の身の上話すんの。さっきとまるっきり同じ親父の借金と旦那の借金の。で、ずっと無視してるとまた静かになって、ぶつぶつ懇願だかなんだか分かんないことつぶやきだして、おれを売ろうとして、で喚いてすすり泣く。
ああ、この女完全にいかれてんなって思った。少し前までそんなの気付かないで当たり前に会話してたのに。
おれはもうまるっきりしかと決め込んで畳にうずくまった。なるべく壁から離れて。もうこっちに話しかけてくんなよと思ってさ。

でも駄目なんだよ。すこしうとうとすると体のどっかに激痛が走る。右の手首、左の膝、左手首、右の肘、右の膝、左のふともも、右の肩ってな具合に。目とか耳っていうのもあったな。そんで飛び起きるたびに隣の部屋から声がかかる。「お兄ちゃん、お兄ちゃん」って。
目が覚めるたびに隣のいかれ女の身の上話が始まって、すすり泣きで終わる。おれが眠ると体が引きちぎれるみたいに痛む。ずっとその繰り返し。頭がいかれるかと思ったね。

そうやって眠ったんだか眠ってないんだかよく分からないうちに朝になってたみたいで、昨日のそばかすくんが起こしに来た。外カギを外してドアを開けると、畳の上にあぐらかいてるおれを見てびっくりしたみてえな顔しやがる。「この部屋に一晩いるとなんでかみんな頭がおかしくなるかじじいみてえになるか死ぬかのどれかなのに、あんたなんで平気な顔してんだよ」って言うから「ふざけんなてめえそんなクソホテルに泊めるんじゃねえよ」って言い返したらドン引きされた。心外だよな。
おれがのたうち回ったり頭のおかしい女の話し相手してる間におれの身元洗いは終わって処分も決まったみたいで、おうちに帰れるぜってそばかすくんは疲れた顔で言った。
おれはふと思いついて、おれの両腕に張り付いてるガムテープを四苦八苦しながらはがすそばかすくんに、隣の部屋の女はいつまでここに置いとくんだって聞いた。あの人もここに入れられてたから頭がいかれちまったのかなって。もうずいぶん長くここにいるみたいだし。
そしたらそばかすくん、「この建物にはあんた以外誰もいねえよ」だって。「そもそも隣の部屋とか入れねえし」って言われて部屋から出たら、確かにおれがいた部屋の隣のドアらしき部分はコンクリートで埋められてた。
おしまい。

 ***

「……………………」
ベックマンは新しい煙草に火をつけると大きく吸い込んだ。
いつもよりやや時間をかけて吸い、その間にスネイクがハイネケンを瓶のままラッパ飲みしてやっぱりビールはそのまま飲むのが一番だよな、とビールカクテルを全否定するようなことを言っているのを見て、もう続きを話す気はないのだなと判断した。
「で、その後はどうなったんだ」
「ん?その後すぐ黒くて内装が豪華な車に乗せられて、身なりの良い組長とか呼ばれてるおっさんが『いやあ兄ちゃん災難だったなあ』ってげらげら笑うから、『ホントそうなんだけどお詫びになんか飯おごってほしい』って言ったら松坂牛食べさせてくれて家まで送ってくれた」
「うん?うん。そうか」
煙草を灰皿に押し付ける。少し頭痛がする。首と肩を軽く回して筋を伸ばした。いつの間にか全身が凝り固まっていたようだ。
「おれが聞きたいのはそこじゃあねえんだが」
「あんとき食べた松坂牛を超える肉に未だ巡り合えてねえ……」
強者を求める戦士のような精悍な顔で言うので、ベックマンは思わず吹き出した。
「じゃあ今度食いに行くか」
「おごり?おれめっちゃ食べるけど」
「ああ」
目をまん丸くして屈託なく言うのを見て、組長が松坂牛を食べさせてやった気持ちが分かるな、と思った。女にもモテそうだが年上の男にも気に入られるタイプのようだ。
「ステーキ食べながら組長さんに聞いたんだよなおれ。あの建物何なの?ってさ」
スネイクは空き瓶を手の中で弄びながら言った。
「あ、なんか飲む?」
「ああ、じゃあマティーニを。それで?」
「うん、組長さんが『お兄ちゃん、私娼窟って知ってるか?』って。四代前までシノギにしてたらしい。今はもう使ってないんだけど片付けるにしても金がかかるし、更地にしたところであんな山奥じゃあ使い道もないってんで今は放置してるんだって」
グラスに氷を入れながら首を傾げた。何かを思い出すような顔をする。
「ちょっと変わってる客が来るところだって言ってたな。うん、ガキの頃に蝶々の羽を捥ぐのが好きだった連中ばかりが来るんだとさ。だから虫かごって呼ばれてるって」
ベックマンは無意識に頭の中にある近隣の組織の系譜と縄張り範囲にある山奥の廃墟を思い出そうとしたが、意味のないことだと気付いて頭を振った。スネイクはこの近辺の話だとは一言も言っていない。
「おれはそれ以上突っ込んで聞かなかった。あんまり聞くと家に帰れなくなるかもしれねえし。なんかえらい気に入られて『お兄ちゃんプー太郎か?就職困ってるんならうち来るか?』ってやけに誘われたし」
やくざにヤサ割れてるの嫌すぎてその後すぐ引っ越したしもうあの街には近付いてねえよおれ、とあまりに嫌そうに言うのでベックマンは喉の奥で笑った。
「マスターに感謝だな。就職先があって本当に良かった」
「本当マジでそれ」
「じゃあもうそれっきりか?」
グラスを受け取りながらベックマンは言った。なぜだか薄暗い店内の誰もいないはずの背後がやけに気になる。
「組長さん?あれから一度も会ってないけど」
「そっちじゃなくて」
ベックマンは言いよどんだ。なんと言えばいいのからしくもなく迷っているのに気付いてスネイクは「ああ、いかれ女の方」と言った。
「それがさ、その後もたまに声が聞こえるんだよね。一人でいる時とか、壁の向こうからさ」
「おい冗談だろう」
「いや、本当。手とか足とかはもう痛まないし普通に動くから気にしてねえけど。声だけなら無視してれば聞こえないのと一緒だし」
スネイクはあっけらかんと言った。
「さっきもさ、このバーの入り口でベックマンが張り紙読んでる時に中から聞こえてたぜ。『お兄ちゃん、お兄ちゃん』ってさ」
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