スネイクさんの変な話

「ラブホのガラス張りの風呂ってエンターテイメントだよな」
ビルディング・スネイクは言った。
 
平日、駅前のサブウェイは昼時をとうに過ぎたこともあって閑散としていた。カウンターの向こうで小さくあくびをかみ殺す店員が見える。
ライムジュースは二つ隣の席に座る女性客を気にしながら眉をひそめた。
「それって今話すのに適切な話か?」
スネイクは驚いた顔をした。
「ダチとだべるのに不適切な話題ってあるか?」

ライムジュースは正直に言うと、なぜ彼が自分をダチと呼ぶのかが分からなかった。
少し背伸びをして入ったバーでスネイクに出会ったのはずいぶん前のことだ。小柄な老紳士がマスターのその小さな店で、スネイクはバーテンダーをしていた。
嘘みたいに背が高くて嘘みたいにスタイルが良くて、ハリウッドスターかよほどのうぬぼれ屋でなければ選ばないようなサングラスをかけていて、それがまた嘘みたいに似合っていた。
その日一緒にいた友達以上恋人未満の女の子はしゃべりが面白くて人懐っこい笑い方をする年上の男に一瞬で落ちてしまい、ライムジュースは人生最悪の気分を味わったが、なぜだかスネイクの方はライムジュースを気に入ったようで名前にちなんだカクテルばかり作ってくれた。
お前ノンアルって感じの顔だな、と仲間内でつけられたほぼ悪口のようなあだ名だったが、おかげでライムジュースはこの名前が意外と嫌いではない。

「まあお前が話したいなら別にいいけど」
スネイクの自由奔放さは今に始まった話ではなかったので、チリチキンサンドを食べながらそう言うと、野菜全部抜きで作らせたBLTサンドをもさもさ食べていたスネイクは、口の中のものを全部咀嚼、嚥下し終えてから「あんがとな」と言った。
ライムジュースはこの人意外と育ちがいいのかもな、とどうでもいいことを思った。

 ***

おれ一度店に来た人の顔って意外と忘れないんだよな。その子のことも覚えてて、確か前は女の子三人連れで来たうちの一人だなって思った。ファジーネーブルばっかり飲んでた子だ。
二度目の来店が一人っていうのは珍しくないんだけど、お?って思ったのは前回と違って一杯目にスネークバイトを頼んだから。カウンターでちみちみ飲んで、二杯目はラズベリー・スネークバイト。で三杯目にまたスネークバイト。
その日は平日で店は暇だったしおじいちゃん(彼は店主のことをこう呼ぶ)も用事足しに出かけておれ一人だったんで、思わず「それ気に入った?」って聞いたんだわ。そしたら彼女、びっくりしたみたいな顔で「これ注文したら店員さんとエッチできるって聞いたんだけど」って言うんだよ。
おれ全然知らなかったんだけど店に来る女の子たちの間でそんな噂が出回ってるらしいんだわ。スネイクにスネークバイトを注文すると「抱いてください」って意味なんだって。女って変なこと考えるよな。バーに来た客を抱いたことなんてないのに。思わず笑っちまって「お姉さんおれに抱かれたいの」って聞いたら、うんってガキみてえに真面目な顔で頷いたのが結構可愛かった。
で、丁度おじいちゃんも帰ってきたし店も閉める時間だったから外で待たせといて、即行片づけてホテルに行ったんだ。
顔は正直全然タイプじゃなかったんだけど、紳士は金髪がお好きの時のマリリン・モンローみたいなスタイルで、むっちりしたふくらはぎと細い足首がエロいな、ってスタスタ歩く後ろ姿を見て思ったよ。酔っぱらって頭が回ってねえんなら何もしないで帰さねえとな、って心配してたんだけどまるっきり素面って感じで、店を出たらシャンとした姿勢で歩き出したのはなかなかおれ好みだった。

あー名前忘れちまったな。マリちゃんでいいか。マリリン・モンローみたいなマリちゃん。

マリちゃんはホテルのガラス張りの風呂に馬鹿みたいに喜んで、自分が先に入りたいって言いだした。風呂って面白いよな。普段は体洗う時って何考えてる?おれほぼ無意識。多分みんなそうなんじゃねえかな。人に見られることなんてねえだろ。銭湯だって他人が体洗ってるとこなんてじろじろ見ねえじゃん。女の子もそうじゃねえ?知らんけど。
おれはベッドでくつろぎながらマリちゃんが風呂に入る様子を眺めてた。テレビとかもあったけどせっかくガラス張りだしな。
マリちゃんはもこもこに泡立てたボディーソープで念入りに体を洗いだした。細い足首からむちむちのふくらはぎ、丸い膝にまっちろい太もも。外国の古いポルノ映画の女優みたいに、焦らすみてえに自分の脚を撫でまわしてる。
ガラスの向こうの音は聞こえないから無音で映画見ているみたいな不思議な気分だった。マリちゃんはちらっともこっちを見ねえ。ガラスなんだから向こうからもこっちが見えてるはずなのに恥ずかしそうな素振りも全然見せない。
分かってんじゃん、と思った。これはショーだ。演者がマリちゃんで観客はおれ。
おれはいつの間にかベッドに浅く腰かけて前のめりになって見ていた。女の裸なんて別に珍しい訳でもないのに。マリちゃんは鼻歌でも歌ってるようなご機嫌な様子で、もこもこの泡を体中に塗りたくってる。

その時おれはあれ?っと思った。風呂場にもう一人誰かがいるように見えたんだよ。マリちゃんの後ろのあたり。最初は湯気かなんかの見間違いかなと思ったんだけど、ガラスは曇り止め加工されてるのかクリアだし水滴がついているとはいえマリちゃんの姿ははっきり見える。
そいつは最初うずくまるみたいにしていたんだが、ゆっくりと音もなく立ち上がった。小柄なマリちゃんと比べると倍近くにも見える。天井にも届くほどの大男だった。おれはやべえと思った。部屋に誰かが忍び込んだのか、いやさっきから息を潜めて隠れていたのか。おれはすぐに警察に連絡して、大声を上げながら風呂に飛び込もうとした。そうするべきだった。
おかしなことにマリちゃんは真後ろのそいつに全く気付いていないようだった。相変わらずご機嫌な様子でおっぱいを念入りに洗っている。観客のおれは一人で泡食ってるってのにな。おれは巨人がゆっくりとマリちゃんに近づくのを食い入るように見ていた。照明が当たってそいつの顔が見えた。

おれだった。

毎日鏡で見てるおれの顔だ。顔だけじゃない。右腕に入れてるタトゥーに両耳のピアス。そいつは全裸のくせにグラサンだけはかけていて、ひどく間抜けな格好だったけどおれの顔面にあるやつと全く同じデザインだったから全然笑えなかった。
ガラスの向こうのおれはなまけものみたいなゆっくりのっそりした動きでマリちゃんに近づいた。おれは、こっち側のおれはそれをじっと見ていた。もう警察に連絡する気も風呂場に突入する気もなくなっていた。ただベッドに腰かけて瞬きも忘れて見ていたんだ。
おれが見ているのに気付いているのかいないのか、おれはマリちゃんの首に手を伸ばすと両手でゆっくりと締めあげだした。おれの手指の長さじゃあマリちゃんの細い首なんて余裕で一周する。それを両手で握り絞めてるもんだから、グルグルと細い蛇が何周も絡みついているみたいだった。
ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。
細い首はそのまま絞め上げられる。背後から首を絞められて、マリちゃんはうっとりとした表情をしていた。少しだけ眉根を寄せて、気持ちよくてたまらねえみたいな、感じてるみてえな顔。もともと白かったほっぺたは風呂で血行が良くなったせいかピンク色でつやつやして、その顔が絞め上げられるにつれてどんどん右に傾いていく。おれの両手の指十本で圧迫されてるせいで首の骨が、椎間が伸び切ってるんだろうなと思った。
目の前のマリちゃんの首を握りしめるおれはどんな顔をしているのか分からなかった。丁度風呂の照明の影になっててグラサンが反射してる。口は笑っても怒ってもない。と思う。自分の顔なのにどんな気持ちの時にする表情なのか分からない。普通そうだろ。自分が嬉しい時、悲しい時、ムカつくとき、いちいち鏡を見て確認したことなんてない。あれはどんな気持ちの時に浮かべる表情だったんだろうな。多分おれには一生分からない。

マリちゃんの両足は床から浮いてしまっていた。立っているおれに首を絞められているせいだ。だらんと力なく二本のむっちりした足が垂れ下がっていて、無性に噛みつきてえなと思った。おれは、こっち側のおれは信じられねえくらいに勃起していて、ああくそなんかちんこ痛えと思ったんだよな、とか考えながらほとんど無意識でズボンに手をかけた。ベルトを取ろうとしたんだけど引っかかってて、ああこのバックル外しにくいやつだ畜生って一瞬、本当に一瞬だけ目を股間に向けてまた風呂を見上げると、中のおれもマリちゃんも消えていて湯気だけが漂っていた。いつの間にか隣には湯上りのいい匂いさせたマリちゃんが素っ裸にタオルだけ羽織って立ってて「やだあすっごい勃ってるじゃん」って馬鹿っぽくケラケラ笑った。おしまい。
 
***

「……………………………………………………は?」
ライムジュースは完全に冷めたコーヒーでカラカラになった口の中を湿らせて、スネイクの話を頭の中でたっぷり反芻した後に、人類で初めて火を見た人間のような声で言った。
「え、え、それどうなったんだ?」
「ん?とりあえず口でしてもらって口でしてやって正常位とバックと対面座位でやってから解散して、おれは一旦家帰ってからスーパー銭湯に行った」
うちの近くに二十四時間営業のとこあっから、とスネイクは言った。
「いやいやいやそういうことじゃねえんだよ」
ライムジュースはアメリカ人みたいな動作で首を振った。ぱさぱさと金髪が揺れるのをスネイクは不思議そうに見ている。
「え?おれがおかしいの?なんでそんなやべえもん、おばけ?夢?幻覚?分かんねえけど、そんなもん見た後で普通にやることやってんの?」
「やりたかったので……」
スネイクはエロ本を万引きしたところを補導された中学生のようにしゅんとした。
「大丈夫?クスリやってる?あっクスリで幻覚見た?」
「やってないやってない。やったことない」
妙に子供じみたしぐさで否定する。
「最初はあんまタイプじゃねえかなと思ったんだけどマリちゃんすげえエロかったし、愚息はガチガチになってたし、なんかめちゃくちゃ相性良かったし。マリちゃんもおれのこと気に入ったみたいでLINE交換したんだけど」
「いかれてんのかお前」
「普段は店の客とはこんなことしねえんだって」
スネイクは右の耳のピアスを触った。何かを思い出そうとしたり深く考えるときに無意識にする癖だった。
「そうなんだよな、普段は店の客とはこんなことしねえんだよ。よっぽどタイプじゃねえ限り、色目使って来る客は相手にしないようにしてる。おじいちゃんにも迷惑かかるし。だから家帰って、スーパー銭湯であっつい風呂入って、マッサージチェアでくつろいでる時になんか気持ちわりいなって思ってLINEブロックしたんだよな」
やっぱりあの時のおれ、ちょっとおかしかったのかもなあ、とけろりとした顔でスネイクは言った。
「なんだそれ……」
ライムジュースは前のめりになっていた体をゆっくりとおこし、椅子の背もたれに体重を預けた。全身の関節が硬くなっていた。悪い夢を見たあとみたいだ。
スネイクの前にはまた新たにヴィーガンを殺すために作られたようなサンドイッチが置かれている。ライムジュースが呆けている間に注文してきたものだった。
「これ?照り焼きサンドの野菜抜きベーコン・たまご・スライスチーズトッピング追加。おれ甘いパンにしょっぱいおかずってどうなのって思ってたけどハニーオーツめっちゃ美味いわ」
「いやサンドイッチはどうでもいいんだよ……」
昼下がりのファーストフード店で話すような内容ではなかったし、友人との暇つぶしに話すようなものでもなかった。TPOどれをとっても間違っている。作り話の嘘や悪ふざけにしても質が悪かった。
「すまん、やっぱり不適切な話だったか?」
スネイクがすまなそうに眉を下げたのを見て、ライムジュースはため息をついた。二つ隣の席に座っていた女性客はいつの間にかいなくなっていた。
「いや、それは別に構わねえんだが、なんで今話したんだ?それは一体いつの話だ?」
「先月くらいかな」
 ジンジャーエールのストローから口を離してスネイクは言った。
「なあ、ライムジュース。今日ここ来るとき駅のどっち側から来た?警察がいなかったか」
「西口だけど。たしかに騒がしかったな」
「お前ニュース見ない人?」
デニムの尻ポケットからスマホを出して素早く操作しながら言った。この男は大概の持ち物をポケットに入れて管理しているようで、鞄というものを持っているのを見たことがない。
「ほらこれ、そこの裏のラブホ」
差し出された画面を見ると『ラブホテルで女性遺体』の文字が見えた。
「で、おれとマリちゃんが行ったところな」

『●日午前9時ごろ市内のラブホテルの客室で女性が死亡しているのを従業員が発見した。遺体は浴室で見つかり、頸部を圧迫された状態だったという。女性は市内の会社員、×××××さん(24)とされており……』

ニュース記事の日付は昨日のものだった。
「……この死んだ子がマリちゃんってか?」
「さあ、本名知らねえし。でもその記事の子は本名でSNSやるタイプだったみたいでな」
スネイクはライムジュースの目の前からスマホをひょいと取り上げると親指一本で画面を操作した。数秒の後に目的の画像にたどり着いたらしくため息をつく。それは彼には珍しく、暗い穴の底から響くようだった。
「この顔どう見てもマリちゃんなんだよなあ」
「……」
思わず見せてくれと言いそうになったが、見たところでなんの意味もないなと思いなおしライムジュースは口をつぐんだ。それをどう受け取ったのか、スネイクは慌てて「おれじゃねえよ」と言った。
「死亡推定時刻にはアリバイあるからなおれ。店に出てたからおじいちゃんとか客が証言してくれる」
「別にお前のことは疑ってねえけど」
「あ、そう?」
スネイクはほっとしたように笑った。
「犯人まだ見つかってねえんだけどさ、もしかしておれの代わりになったのかなとは思うんだよ」
大きな両手で口元を覆いスネイクはつぶやいた。サングラスが光の具合で反射して表情はまるで読めない。
「時間か場所か、場面か。あるいはその全部かな。たまたま合致したからおれのいないところでそうなったけど。もしかしたら、いや多分きっと、本当はおれの役割だったんだろうなって思うんだよな」
テーブルに覆いかぶさるようにしてうつむく姿は、廃教会に置き去りにされた聖人の像のようだった。午後の柔らかい日差しがピアスに反射してきらきら輝いた。
こいつに抱かれたい女の子が沢山いるというのがよく分かる。多分、こいつに殺されたいと思う女の子も沢山いるのだろう。
そう思ったが、あいにくライムジュースは生粋の野郎だったので共感はできなかった。
「映画」
「いでっ」
ライムジュースは通路にはみ出していた長い脚を蹴飛ばした。
「あっ映画?時間だっけ?」
「忘れてんのかと思ったわ」
「悪い悪い」
スネイクはへらへら笑った。
 
スネイクがテーブルを片付けているのを横目に財布に入れた優待チケットを確認する。最近ライムジュースがふられたばかりだというのを知っていながら、「彼女と一緒に行けよ」と意地の悪い知人が寄越したものだ。しかもサメ映画。くそかよ。
鼻にしわを寄せて、にやにや笑う赤色を脳裏から追い出し、席を立つと早足で歩き出す。
後ろからスネイクがついてきた。
「いや、時間ギリギリだな。おれなら競歩の速度で間に合うけどお前は短距離走の走り方じゃないとやべえかも」
「おい人の足が短えみたいな言い方すんな。お前に比べれば誰だってちびだし短足だわ」
スネイクはセリフとは裏腹にのんびりした歩き方でライムジュースを悠々と追い越すと、駅の方向はちらりとも見ずに映画館へと歩を進める。ゆらゆらと揺れるような大きい背中を見ながらライムジュースも後を追う。

二人はもう、映画のことしか考えていなかった。
 
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