柳鏡

涼やかに鈴と音を響かせ、柳田は鏡斎のいる家を訪れた。


「鏡斎、絵を貰いに来たよ」

墨の匂いが充満する部屋を覗いても、鏡斎の姿はなかった。
部屋の中へ入り、見回してもいつもと何も変わらない空間があるだけだった。
硯に入った墨も、墨が浸された筆も、畳一面に散らばる紙も、全ていつも通り。
ただ一つ足りないのは部屋の主だけ。

「鏡、斎?」

暫くその場に立ちすくんだ柳田は、縁側の床板が軋む音に急いで振り返った。
訪問者にさして驚いた様子もない鏡斎は柳田を見ながら口を開いた。


「来てたのかよ、柳田サン。絵ならまだ出来てないぜ」
「鏡斎……今まで何処に?」
「紙がなくなったんだよ」

だから部屋に取りに行っていた、と答えれば柳田はそう、とだけ返答した。

「……柳田サン。あんた何て顔してんだよ」
「何が哉?」

不思議そうに訊き返す柳田に、鏡斎は気付いてないのかよと返した。

「そんなに変な顔をしてた?」
「無自覚なら別にどうでもいいけどな」


追及するだけ無駄だと思った鏡斎は、和紙の束を畳に置き座り込んだ。
手元に一枚紙を置き、筆を持って何を描こうかと考え、まだ後ろにいる柳田に気付いた。


「……絵はまだ出来ないぜ、柳田サン」
「もう暫く、此処にいさせてくれない哉」

柳田の言葉に、珍しいなと思いつつも鏡斎は断るように返答した。


「集中できないだろ」
「いつもならボクが来ても気にせず描いてるくせに?」

今日は随分冷たいねと軽口を叩く柳田に、鏡斎は筆を持ちながら頭を掻いた。


「柳田サン、あんた少し変だぜ?」
「そう哉? いつも通りだと思うよ」
「オレがあんたが来た時この部屋にいなかったからか?」
「何を言ってるのか分からないよ、鏡斎。ボクはいつも通りだよ」
「じゃあ、何で今日に限って……」


これも追及するだけ無駄かと判断しながら、鏡斎は続きを言わなかった。
その代わりに、別の事を訊いた。


「いてもいいが……オレは絵を描いてる間、あんたに話しかけないぜ?」


楽しくもないだろ、と目で問えば、柳田は少し考えてから答えてきた。

「君が此処にいて絵を描く姿を見てると安心する。この答えじゃ駄目哉?」
「……別にいいけどな」


鏡斎は相槌を打ちながら納得した。

つまり、来た時に自分がいなかったのが不安だったのかと。
それにしても、あそこまで不安げな顔をしなくてもいいのではと思う。

どうせ頼まれなくても外出する事は稀。
生活に必要なものは柳田が用意する。
手を伸ばせば紙があり、筆が壊れたとしても別の物がある。
変化のない生活でもたまの手土産で十分、来るものはある。

そこまで考え、ふと引っかかるものがあった。


「……柳田サン」

家から出なくてもいいと思える理由は全て、柳田によって与えられていた。
気付いてやっているのか、それとも無意識なのか。


「あんた、そんなにオレが此処にいないのが嫌かよ」
「……そうだね。君がいないとボクは不安になる哉」


だから居心地のいい場所を提供するのか、とは鏡斎は続けなかった。
相手の望みに応える気はないが、結果的にそうなっていた。
どちらにとっても好都合なら、別にこのままでも良いだろと考えた。


依存
持ちつ持たれつの関係。


end
(2012/01/02)
3/11ページ