圓鏡

鏡斎がいなくなったと聞いた時、またかと圓潮は頭の片隅で思った。
周期的ではないにしろ、鏡斎は時折消息を絶つ。

もっとも、そうは言っても組の妖怪達は自分の好き勝手に行動している。
だから、別に誰がどこへ行こうと干渉する権利はない。


「圓潮師匠、鏡斎は何処へ行ったのでしょうか」
「さぁ、〈山ン本さん〉にでも聞けば分かるだろうけど、奴良組にいて暇な方じゃないからネェ」


不安そうに訊く柳田に対し、圓潮はさほど気にした様子もなく返した。


「やっぱり、ボクはもう少し探してみます」
「そうかい。まあ、その内に帰ってくるかもしれないから、気楽に探しなさい」

心配そうに外へと出て行った柳田を見送り、圓潮はため息を吐いた。

居場所なら、とうに分かっている。
それでも、何の為に鏡斎がそこにいるかが分かっている手前、極力周りには知らぬふりをしようと考えていた。


「出来ればあたしも、何も考えずに鏡斎を探したかったネェ」


それが出来ればどんなに良かったか。
もう一度ため息をつき、圓潮は少し黙り込んだ後、歩き出した。





床板が軋む音を聞き、鏡斎は振り返った。
後ろに立っていた人物は、目を細めてから問いかけてきた。


「〈小生〉のもとに何故いていただけるのでしょうか?」
「気まぐれだろ」

邪魔だったかと問えば、男は否定をした。


「貴殿が望むのなら、いくらでも〈小生〉の細道にいて頂いて構いません」

妙に甲斐甲斐しく気遣う男に、こんな一面もあったのかと鏡斎は微笑した。


手から離れた作品を、間近で見ることはまれだった。
柳田を通してでしか、その後を知らず、知らされる事すらも稀だった。


男が社から出ていけば、また音のない空間が広がった。

白一色の紙を前に、暫く考えてから筆に墨を浸した。
来る来ないは関係なく、ただ機械的に墨を置き。
自分で描いておきながら、駄作だと笑いたくなる出来の絵に墨を塗り。

無意識にも考えたくなる人物の事が、邪魔だと思った。





何故どうして、なくてはならない存在なのに何故、と柳田の頭の中はぐるぐると回った。


「なんでいなくなったの哉! 鏡斎!!」


〈産む〉役は鏡斎にしかできない。
いくら噺を聞き〈集め〉ても。
どんなに噺を〈語り〉広めても。
妖は産まれない。

鏡斎がいなくなると思うとゾッとする。

〈山ン本さん〉の為に、畏れを集めるのは重要な事だった。
なのに、その役目を担う妖がいなければ意味がない。

少しでも目立つと奴良組に噺が潰される中。
たえず新しい噺を広め続け、畏れを集めなければいけないのに。
肝心の妖が、その絵が、描きだす〈腕〉がいなければ。


心の奥底から震えが止まらなくなる思いだった。

地獄にいる〈山ン本さん〉と意思を共有し、体の部位を管轄する〈脳〉には頼れない。
〈山ン本さん〉の他の部位には場所を確認する能力はない。
いっそ絶望的とも言える状況なのに、何故誰も慌てないのか。


「ああ、鏡斎、鏡斎! 早く早く戻ってきて!! 君は百物語組になくてはならない存在なんだから!!」


血を吐きそうな思いで叫ぶ柳田は、涙を流しながら探し回った。





社の中で絵を描いては塗りつぶしていく鏡斎を眺め、男は手元の鋏を握り締めた。


邪魔はしたくない。

けれど、帰したくもない。

そんな思いが日に日に膨らんでいく。


いつまでも続きはしないと分かってはいる。

噺を〈語る〉人物には、とうにこの場所は知られている。
社の中にある紙は全て、その人物から貰ったものだった。


何を考えているのか、返せと言ってこないのは何故なのか。
それとも、所詮は捨て駒に過ぎない妖程度は眼中にないのか。


ただ、全てを忘れて、このままこの場所に残りたいと相手が望むのなら――



手元の錆びた鋏が、擦り合わさり鈍い音を立てた。





何日が過ぎたのか、何か月が過ぎたのか、それとも、それほど時間が経っていないのか。
時間感覚のない細道では分からなかった。

もっとも、たとえ分かったとしても数えてはいなかったと鏡斎は考えた。
床に散らばる墨が塗られた紙の量に、おそらくは数日は経っているのだろうと思った。


もう、ここにいる必要はなくなった。
ようやく、前のように描ける。

そんな風に考えていると、いつの間にか後ろにいた男が外套で覆うように抱きしめてきた。


「帰したくないと申しても、宜しいでありマシょうか」

ただ真剣に、許しを請うように男は囁きかけてきた。
その言葉に、こんな事を相手が言う理由を考え、鏡斎はふと笑った。


「……お前は優しい奴だな」

本当に、手から離れた妖の意外性ばかりが見つかる。
それとも、無意識にそんな風に描いていたのか。
どこまでも義理堅く、一途に気遣ってくる。


「オレはもう行くぜ、また今度な」

大丈夫だとでも言うように、鏡斎は相手へと別れの言葉を渡した。


鏡斎の言葉を聞いた男は、一瞬目を見開いてから何かを言おうとし、口を閉じた。




今度など、存在はしない。


自分の元を離れようとする相手が此処の事を思い出すのは、噺が終わったとき。

覆うように抱きしめていた手を離し、男は居住まいを正した。


「お待ちしておりマス」

これがたとえ、今生の別れになると分かっていても。
来た時よりも荒れていない相手の後ろ姿を見送り、男は口元を結んだ。



何もつかめなかった手を眺め、男は目を閉じ、自嘲の笑いを零した。

優しさなどではなかった。
あれは自分の物にしたい、ただそれだけの思いだった。

帰したくはなかった。
〈細道〉は自分の領域、帰さない事もできた。


それでも、と男は思考に終止符を打った。


「〈小生〉は、貴殿の事を――好いておりました」

欲しかった、けれどそれ以上に、邪魔はしたくなかった。
絵を描くことを相手から奪ってまで留めるのは、おこがましい事だった。





「鏡斎!!」

目の下にくっきりとした隈を作った柳田は細道から出てきた鏡斎を抱きしめた。

「何でいるんだ? 柳田サン」

驚く反応が薄い鏡斎に答えるように、近くにいた雷電が口を開いた。

「圓潮が〈脳〉に訊いたんだとよ!」
「もう、ずっと煩く探し回るから圓潮が根負けしたのよ」

不機嫌そうに言う珠三郎の言葉に、鏡斎は辺りを見回すが圓潮の姿はなかった。
当の圓潮はと問うと、青蛙亭の方があるから来なかったと柳田が答えた。

「……そうか」
「さっさと帰ろうぜ鏡斎!」
「今度外出する時は書置きぐらい残しておいてね?」
「その前に重要な事がある哉!」

ストップをかけた柳田に、今度はなんだと雷電と珠三郎は露骨に嫌な顔をした。

「きっと食事を抜いていただろうから、まずは鏡斎に食事をさせるのが先哉」
「いっそ、そこまで鏡斎の行動が分かるのは凄いわね」
「まさか全員の行動パターン知ってんのかよ」
「当然哉。〈山ン本さん〉達の事ならボクは全部把握してるよ」
「柳田サン。気持ち悪いぜ」
「食事ぐらい今更一食抜いたところでどうなるもんでもないだろ」
「そうね。早く帰るのが先決なんだから」

柳田の発言を無かった事にして、珠三郎達は鏡斎を連れて青蛙亭へと戻ることにした。

「あ! 待ってほしい哉!!」



戻ってからの鏡斎は、前と同じように絵を描き、妖を産み出していた。

あれだけ柳田が大騒ぎをしたのにも関わらず、相変わらずの生活ぶりだった。
珠三郎や雷電は毎回大騒ぎをする柳田に対し、いい加減に慣れろと文句を言い。
それでも心配なものは心配なのだから、と柳田は開き直っている。

いつも通りの日常に戻ったと考えるべきなのだろうと、思いながら圓潮はあばら家の縁側を歩いて行った。

前と何も変わらずに、訪問者にも気づかずに絵を描き続ける鏡斎。
その後ろ姿を眺め、本当に、何も変わらず前に戻っていると圓潮は感じた。


鏡斎は、絵を描くのに必要ない物を忘れる。

何度も、何度も、不調になっては何処かへ隠れ。
暫くしたら不調などと言うものを忘れたように戻ってくる。
そのたびに思う、嗚呼また忘れたのかと。


「鏡斎。絵は出来たかい?」
「もう少し待っててくんな、もうすぐ出来るぜ」

声をかけると、筆を休めていた鏡斎は此方を向いてきた。
振り返ってきた鏡斎を眺め、圓潮はふと目を細めた。


今度も何を忘れたのか――


忘却
その目を見て、理解した。


end
(2011/12/31)
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