逢魔ヶ刻動物園

「くしゅん!」
「あら、どうかしたの、ハナちゃん。風邪?」
「いえ、何か急に鼻がムズム…はっくしゅん!」
「花粉症かしら?」

くしゃみを連発する華に、首を傾げてウワバミは不思議がった。

「何をしとるんじゃ?」
「園長、ハナちゃんがくしゃみが止まらなくなったみたいで」
「やわじゃ「はっくしゅん!!」

唾を飛ばされた椎名は、ピキッと血管を浮かび上がらせんばかりに苛ついた。

「園ちょ…すみませ……は、はっくしゅん!!」
「さっきより酷くなったわね、ハナちゃん……」
「ワシに向かってくしゃみをするな!」

ゴシゴシと飛ばされた唾を拭った椎名は憤慨した様子で華に忠告した。

「でも…ふぁ、くしゅん! うぅ…園長が近づいたら急に……」
「ワシが近づいたらじゃと?」

失礼な奴じゃ、と椎名が外方を向くと、細かいモノがフワフワと……


「…………それが原因です!!」
「ん?」

椎名が身動きをするたびに空中に舞う白い物体を指して、華は断言した。

「園長の抜け毛です!!」
「そう言えば、そろそろ抜け替わる時期じゃったか」

華の言葉に納得した椎名は、道理で服に白いものが着くと思った、と疑問が解決した。


「園長! ちゃんとブラッシングしてください!! ブラッシングさえすれば換毛期でもそこまで舞いません!!」
「めんどうじゃ」

フワフワとした毛を舞い上がらせながら椎名はバッサリと断った。

「だいたい、全部替わるまで放っておけばよいじゃろ」
「園長はよくても他に迷惑がかかります!!」
「誰にじゃ?」

周りを見渡しても、誰一人としてくしゃみや迷惑を被っている者は見えなかった。
むしろ……


「ハナちゃん、園長だけじゃなくて他も換毛期よ……」

こっそりと教えるウワバミの言葉は正しく、そこらかしこで毛が舞っていた。

「とにかくッ、掃除をするんでこれ以上毛を落とさないでください!!」



華に怒鳴られた後、ふて腐れたように水族館に来た椎名。
そんな相手を、軽く口元に笑みを浮かべて迎えた伊佐奈は面白そうに訊いた。


「珍しいな、椎名。そっちから来るのは」
「暫く出てけと言われたんじゃ」

伊佐奈へと近づいた椎名は、視界の端に映ったものに気付き、質問した。


「お前は怒らんのか?」
「何をだ?」
「そこらかしこに毛が舞っても怒らんのかと聞いてるんじゃ」

確かに椎名の通った後は、所々に白い毛が空中に舞っていた。
しかし、伊佐奈にとっては、気にする要因でもなければ、怒ると言う考え自体思い浮かばないものだった。

「椎名が来てくれるなら、俺は嬉しいと思う」
「よく歯が浮かないものじゃ」

華には怒られたものを、伊佐奈は怒らなかった。
その事に、表面上は呆れた様に言いながら、椎名は少しだけ気分を直した。


「目立つな?」
「服が濃い色なのがいけないんじゃ」

何気なく質問した伊佐奈の指すものを理解し、椎名は渋い顔で返した。

「気になるならブラッシングをすればいいだろ?」
「めんどうじゃ」

お前までそれを言うんじゃな、と言う目で伊佐奈を見る椎名。
その目に、一瞬考え込んだ伊佐奈は、次に苦笑しながら申し出た。

「俺がやってやろうか?」


有言実行とばかりに、椎名の答えを聞く前にサカマタにブラシを用意させた伊佐奈は、丁寧に椎名にブラシをあて始めた。
反論をする機会も無いままに始められた椎名は、何か言おうとは思ったが、途中で口を噤んだ。
面倒事だとばかり思っていたブラッシングは、人に遣ってもらう分には楽で、すっきりとして気持ちの良いものだった。


「兎の毛は筆の材料になるらしいな」
「……売る気じゃないじゃろうな?」

ブラッシングをしながら、ポソリと伊佐奈が呟いた言葉に、椎名は胡散臭さ気に相手を睨んだ。

「そんな勿体ないことを誰がするか」
「そう言いながら、ワシの抜け毛を何で集めとるんじゃ。ごみ箱に捨てるものじゃろ」
「椎名。恋人のものを自分の手元に置きたいと思うのは不思議な事か?」

平然と言う伊佐奈の言葉を理解するのに、数分を有した。
その間にも丁寧にブラッシングされ、毛玉を袋に集められた。

集められたものの行く末を理解し。
ゾワッと悪寒が走った椎名は、伊佐奈からブラシと抜け毛を集めた袋を奪い取った。


「ワシは園に帰る!!」

まさしく脱兎のごとく走り出した椎名。
一人残された室内で、伊佐奈は自分の軽率さを呪った。



換毛期
「チッ……本音は言うものじゃないな」


end
(2010/10/26)
5/16ページ