短編
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彼がこの店に来たのは一体いつだったろうか。
最初は流行りの髪型としてテクノカットを注文していた彼が、いつの間にかそれが定番になり出した。
少し伸びるとすぐに整えに来る彼はすぐに常連になり、まだ駆け出しだった俺を揶揄いながらも、指名してくれるようになった。
艶がある黒い髪。一度も染めた事のない絹のような、それでいて男らしく芯のある髪。
その髪を何度も何度も触るうちに、いつの間にか指が、心が、その髪を持つ男に惹かれていった。
しかし一時期、その彼が姿を消す。
なんとなく、その筋の男と勘づいていた為、彼も消されてしまったか、と思いもしぼみかけていた頃。
唐突に彼が帰ってくる。
黒い髪を引っ掴みにして、無造作に伸ばされた髪をこちらに委ねる彼。
手入れもされず、ただ邪魔だと言わんばかりに纏められた髪に、彼の変化を感じる。
しかし店を変えずに何年も待ち続けた俺を、揶揄いながら笑う片目になった彼の顔は、変わっていなかった。
再び心の熱が灯ったのを感じた。
そこからまた常連になった彼は、忙しい身でありながらも、暇を見つけては伸びた髪を整えに来る。
ばっさりと切ったあの日から伸ばし始めた髭も、俺に整えてくれと言う彼に、何とも言えない嬉しさが込み上げた事も思い出す。
時が経ち、髪質も変わっていく。指先から伝わる彼の歳月を感じながら、己もまた、彼と同じく歳を重ねる。艶のある黒髪は次第に芯が柔らかく、色味を落としていく。ある時は陽に透けると茶色く見える程に。
それ程の月日を彼と過ごせた事を嬉しく思いながらも、伝えられない思いに心の火が燻る事もあった。こうやって彼の姿を見られるだけで満足だ、そう言い聞かせる事すら我慢ならない日もあったが、この街で、波はあれど彼らしく、波瀾万丈に生きる彼が大好きだった。その邪魔だけはしたくなくて、締め上げられ、悲鳴を上げる心に蓋をした。
今日もまた、彼はうちの店にやってくる。
「また髪と髭、整えてや」
「いつものですね」
笑う彼に快く答える。擽られる心に鎖をかけると、やっと彼に笑いかける。
髪を整える為にケープをかけると、彼は言う。
「いつも通り、ようしてや」
「分かってますよ」
鏡越しに笑いかける彼の顔を見て、吹き出すように笑う自分の顔は、上手く笑えていただろうか。
「これから、桐生ちゃんに会いにいくんや」
髪を切る手が真島の髪を掬い上げる。海にでも入ったのか、荒れている上にかなり伸びている。
「真島さんの大親友ですよね、ならカッコよくしなくちゃ」
「そやで!男前にしてや?」
ヒヒッと笑う彼の顔に胸が跳ね上がる。締め付けたはずの鎖に食い込む心。整え終わると、顔剃りに移る。姿勢を倒して彼の顔を見下げると、徐に口を開く彼。
「……見舞いに行くんや」
どこか儚い、切なさを孕んだ瞳で宙を見る彼の顔を見て、胸がキリキリと痛む。
「……なら、清潔感のある、いつもの真島さんにならないとね」
こんな髭じゃあ、心配させちゃいますよ。俺の言葉にせやな、と笑う彼。
伸びた髭を、何十年と使い込んだ、手に馴染む剃刀で剃っていく。彼の、男らしくガサつく、しかし繊細さもある肌に滑らせる刃は、丁寧に研いである。滑らかに剃れた顔を拭き、席を戻すとサービスのマッサージをする。
目を閉じて享受する彼の肩は、様々な重圧を背負った証拠に凝り固まっていた。俺の熱が少しでも届くように、少しでも彼の負担が減るように、丹念にマッサージをする。最後に肩を軽く叩くと、
「……もう終わりか」
「少しは休めましたかね」
ああ、と少し眠気で下がった目元で答える彼。そんな顔も愛おしい。お会計をする為、ケープを外し、レジに向かう。
「お前は、はなからマッサージだけは上手いもんやったなぁ」
「いつの話ですか!」
現金を受け取り、お釣りを用意する傍ら、雑談を挟んでくれる彼。俺の密かな楽しみだった。
「……お前の熱、伝わってんで」
おおきに、とお釣りを受け取り去っていく彼。
お釣りを渡す手が震えなかったのが奇跡だ。彼に伝わってたなんて、思いもしなかった。じわじわと染み込む彼の言葉が、心の鎖を解いていく。
期待してはいけない、自ら掛けたその鍵を彼自身で開けていくなんて、卑怯だ。
膝に力が入らない。暫くその場に蹲み込み、赤くなる顔を両手で隠すので精一杯だった。
彼は俺の心を掴んで離さない、魔性の男だ。
最初は流行りの髪型としてテクノカットを注文していた彼が、いつの間にかそれが定番になり出した。
少し伸びるとすぐに整えに来る彼はすぐに常連になり、まだ駆け出しだった俺を揶揄いながらも、指名してくれるようになった。
艶がある黒い髪。一度も染めた事のない絹のような、それでいて男らしく芯のある髪。
その髪を何度も何度も触るうちに、いつの間にか指が、心が、その髪を持つ男に惹かれていった。
しかし一時期、その彼が姿を消す。
なんとなく、その筋の男と勘づいていた為、彼も消されてしまったか、と思いもしぼみかけていた頃。
唐突に彼が帰ってくる。
黒い髪を引っ掴みにして、無造作に伸ばされた髪をこちらに委ねる彼。
手入れもされず、ただ邪魔だと言わんばかりに纏められた髪に、彼の変化を感じる。
しかし店を変えずに何年も待ち続けた俺を、揶揄いながら笑う片目になった彼の顔は、変わっていなかった。
再び心の熱が灯ったのを感じた。
そこからまた常連になった彼は、忙しい身でありながらも、暇を見つけては伸びた髪を整えに来る。
ばっさりと切ったあの日から伸ばし始めた髭も、俺に整えてくれと言う彼に、何とも言えない嬉しさが込み上げた事も思い出す。
時が経ち、髪質も変わっていく。指先から伝わる彼の歳月を感じながら、己もまた、彼と同じく歳を重ねる。艶のある黒髪は次第に芯が柔らかく、色味を落としていく。ある時は陽に透けると茶色く見える程に。
それ程の月日を彼と過ごせた事を嬉しく思いながらも、伝えられない思いに心の火が燻る事もあった。こうやって彼の姿を見られるだけで満足だ、そう言い聞かせる事すら我慢ならない日もあったが、この街で、波はあれど彼らしく、波瀾万丈に生きる彼が大好きだった。その邪魔だけはしたくなくて、締め上げられ、悲鳴を上げる心に蓋をした。
今日もまた、彼はうちの店にやってくる。
「また髪と髭、整えてや」
「いつものですね」
笑う彼に快く答える。擽られる心に鎖をかけると、やっと彼に笑いかける。
髪を整える為にケープをかけると、彼は言う。
「いつも通り、ようしてや」
「分かってますよ」
鏡越しに笑いかける彼の顔を見て、吹き出すように笑う自分の顔は、上手く笑えていただろうか。
「これから、桐生ちゃんに会いにいくんや」
髪を切る手が真島の髪を掬い上げる。海にでも入ったのか、荒れている上にかなり伸びている。
「真島さんの大親友ですよね、ならカッコよくしなくちゃ」
「そやで!男前にしてや?」
ヒヒッと笑う彼の顔に胸が跳ね上がる。締め付けたはずの鎖に食い込む心。整え終わると、顔剃りに移る。姿勢を倒して彼の顔を見下げると、徐に口を開く彼。
「……見舞いに行くんや」
どこか儚い、切なさを孕んだ瞳で宙を見る彼の顔を見て、胸がキリキリと痛む。
「……なら、清潔感のある、いつもの真島さんにならないとね」
こんな髭じゃあ、心配させちゃいますよ。俺の言葉にせやな、と笑う彼。
伸びた髭を、何十年と使い込んだ、手に馴染む剃刀で剃っていく。彼の、男らしくガサつく、しかし繊細さもある肌に滑らせる刃は、丁寧に研いである。滑らかに剃れた顔を拭き、席を戻すとサービスのマッサージをする。
目を閉じて享受する彼の肩は、様々な重圧を背負った証拠に凝り固まっていた。俺の熱が少しでも届くように、少しでも彼の負担が減るように、丹念にマッサージをする。最後に肩を軽く叩くと、
「……もう終わりか」
「少しは休めましたかね」
ああ、と少し眠気で下がった目元で答える彼。そんな顔も愛おしい。お会計をする為、ケープを外し、レジに向かう。
「お前は、はなからマッサージだけは上手いもんやったなぁ」
「いつの話ですか!」
現金を受け取り、お釣りを用意する傍ら、雑談を挟んでくれる彼。俺の密かな楽しみだった。
「……お前の熱、伝わってんで」
おおきに、とお釣りを受け取り去っていく彼。
お釣りを渡す手が震えなかったのが奇跡だ。彼に伝わってたなんて、思いもしなかった。じわじわと染み込む彼の言葉が、心の鎖を解いていく。
期待してはいけない、自ら掛けたその鍵を彼自身で開けていくなんて、卑怯だ。
膝に力が入らない。暫くその場に蹲み込み、赤くなる顔を両手で隠すので精一杯だった。
彼は俺の心を掴んで離さない、魔性の男だ。