呪術廻戦
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1.2ミリの後悔
「ピアス開けるのって痛いですか?」
ここ最近でもう何度も耳にした質問。いい加減うんざりしながら読んでいた本をパタンと閉じる。
「それほど痛くないよ」
しかしいつものように穏やかな口調で答えてやるのは、目の前のこの後輩が自分へ向けるきらきらの眼差しに応えたいと思ってしまうからであって、自分もまだまだ未熟だなと呆れにも諦めにも似た感情がため息となってもれる。
夏油の隣——本来は五条の席であるそこに堂々と腰かけ、両手で頬杖をついて夏油を見つめる眠々子。放課後になると決まって眠々子はやってきて、毎日毎日飽きもせず同じ質問を投げかけてくる。やってくる、と分かっているのなら事前に手を打てば良いのに、わざわざ待っていてやる自分も愚かだなとは思うのだけれど。「今日も楽しんで~」などと揶揄うような笑みを浮かべながら教室を出て行ったクラスメイト二人の目には、近頃の夏油はさも滑稽に映っていることだろう。
眠々子は少し険しい顔をしている。夏油のほうを向いてはいるが、目は合っていない。ピアスを見ているのだ。
「ほんとですか?」
「ああ」
「ほんとのほんとのほんとにですか?」
「何度もそう言ってるだろ」
「ファイナルアンサー?」
「……そろそろ怒るよ、眠々子」
そこで初めて視線が重なった。ふふ、と嬉しそうな笑みが眠々子は夏油に向けられる。このタイミングでその笑顔。本当に面倒な後輩に絡まれたものだ。
ピアスを開けて欲しい、と頼まれたのは一か月ほど前だっただろうか。大したことではない。今時ピアスを開けることなんて珍しくもなんともないし、友人同士で開け合うことも多いのだろう。
しかしいくら親しい相手とはいえ、一生消えない傷をつける責任など自分には取れない。そもそも、頼む相手は自分でいいのか。親友とか恋人にやってもらえばいいのではないか。そう思ったから「すまない、それは出来ない」とはっきりと断ったのに、眠々子は諦めなかった。
自分の外見も呪術師としての位置も理解している。だからこそ、後輩を委縮させないよう普段から言動には気を遣っている。無闇に傷付けないよう怖がらせないよう、毎回慎重に言葉を選んでいる。そんな夏油の気も知らず、断っても断っても暇さえあればこうしてねだってくる彼女のしぶとさにはもはや執念すら感じる。強面の夏油にも入学当初から妙に懐いてきたところを見るにつけ変わった性格の後輩だとは思ってはいたが——夏油に向けられる柔和な笑顔。柔らかく垂れた瞳のその奥に眠々子の持つ感情が透けて見える。眠々子にとっては夏油の返事などもはやさほど重要ではなくて、今はただ純粋にこの生産性のない問答を楽しんでいるのだろう。気付いているから、自然と語気が強くなる。
「……眠々子、遊びはもう終わりだ」
「何のことですか?」
眠々子は小首を傾げ白々しく目を瞬かせた。
授業の一環とは言え、与えられる任務は常に危険と隣り合わせ。少しでも気を抜けば足元を掬われ真っ黒な闇へと落ちていく。すぐにへこたれるような性格ではとても生きてはいけない、それが呪術界だ。まだ呪術師の卵とはいえ、そんな世界に身を置く眠々子が普通の人に比べ変わっているのは当然と言えば当然か。だがその粘り強さを自分に発揮されても困る。「面倒臭いな……」と小声で呟いてみる。眠々子はそれを華麗にスルーして微笑んだ。——本当にやりにくいな。眉間に手を当てて嘆息をもらす。
「何度言われても無理だ」
「どうして」
「ご両親が大切に育てた娘さんの体に傷をつけるようなこと、私には出来ない」
「ええ……傑さん重……」
眠々子は両手で口元を抑え身を引いた。透き通るように白くて小ぶりなその手には傷一つなく、淡い桃色の爪が綺麗に並んでいた。
人は努力次第で変われる、何者にでもなれるとはいうが……やはり育った環境というのは染み込んでいるもので、纏う空気感やふとした時にでる仕草に表れるものだと思う。眠々子が愛されて育ってきただろうことは眠々子の普段の言動から十分に分かっていた。家族の話をするときの眠々子は本当に幸せそうだった。だからこそ、眠々子の両親はよくもまあ呪術師になることを許したものだなと思うのだ。もし自分に子供がいたとして、その子が呪術師になるなどと言い出したらどんな手を使ってでも止めるだろう。あの穏やかな灰原でさえ兄として、妹には絶対に呪術師になるなと必死になって言い聞かせているというのだから。親であれば尚更だろう。
「呪霊との戦闘になれば嫌でも怪我をするんだ。つけなくてもいい傷をわざわざつける必要はない」
「そんなこと言って、傑さんは開けてるじゃないですか!」
「私は自分でやったから良いんだ」
これは効く言葉だったようで、眠々子は悔し気な表情で口を噤んだ。難しい場所ならいざ知らず、一つ二つ耳たぶに穴を開けることなんて、自分でやるものだと夏油は思う。きっと眠々子も心のどこかにその気持ちがあるのだろう。本当になんの痛みも感じずに開けたいのなら、この一か月の間に病院にでも行けばよかったのにそうしなかったのが証拠だ。眠々子は穏やかそうに見えてかなり負けず嫌いなところがある。無痛でという選択肢はないのだろう。諦めさせるまであと一押し。そう確信して言葉を続ける。
「自分で開けられないならやめた方がいい。人に頼んでまでするものじゃない」
「……」
「どうしてもと言うのなら硝子を連れてきな」
「……それはどうして?」
「硝子の反転術式で治してもらいながらあけよう」
「……そんなの大がかりすぎて恥ずかしいです」
「なら諦めて」
「ああ、でもそういうことなら逆に五条さんの赫で一思いに……」
とんでもないことを言い出した彼女にまさか本気ではないよなと多少の不安を覚えつつ、後で五条にも言い聞かせておかなければ、と胸に刻む。別に眠々子が自分以外の誰を慕おうと口出しするつもりはないが、五条に変なことを吹き込まれては困る。近ごろ眠々子が時折見せる挑発めいた笑みは、まさに五条が夏油を煽る時のやり方で。眠々子は素直な性格故に他人も自分と同じ善人だと信じすぎているところがある。人間が胸の奥に隠すどす黒い部分に気付かない。言葉を簡単に信用する。そこが眠々子の危うさだ。猜疑心にまみれて過ごす人生なんかよりよっぽど良いとは思うが、呪術師としては決して褒められたものではない。いつか取返しのつかないことになって後悔する前に知ってほしい。
ついこの間も五条と何かを話し込んでいるところを見かけたところだ。五条の言葉に目を輝かせ、懸命にメモを取っていた眠々子。悪い予感しかしない。今でさえ眠々子の言動に手を焼いているというのに、五条という悪い先輩にこれ以上影響されてはますますやりにくくなる。「人の言うことを簡単に信じてはいけないよ。世の中良い人ばかりじゃないから」と言って聞かせてはみたものの、眠々子には到底理解できないようだった。眠々子の一挙一動に気をもんで苛々する夏油の様子を見て「可愛い後輩が心配だねぇ」と硝子はニヤニヤしていたが——眠々子に対する自分自身の感情が大切な仲間に向けるものなのか、それともまた別のものかは自分自身もまだ測りかねている。ただ、なんと言われても手助けするつもりはない。たった針一本分の傷だとしても、彼女の体に刻むつもりはない。大事にしたい後輩への誠意なのだろうと思う。
「どうしても誰かにやってほしいのなら、硝子にでも頼んでくれ。さあ、もうこの話は終わり。そんな顔をしても無駄だ」
そう言いながら立ち上がる。あからさまに拗ねた顔をして「傑さんのケチ……」と夏油を見上げる眠々子の頭にぽんと手をのせ、教室の扉へ向かって一歩踏み出した。これ以上は受け入れないと行動で示すためだ。明日からはもう、放課後にここで彼女を待つことはしない。
硝子なら眠々子が頼めばきっとやってくれるだろう。七海でも灰原でも伊地知でもいいじゃないか。誰か一人くらいは承諾してくれるはずだ。
不意に背後で「あっ」と何かを思い出したように小さな声をが聞こえた。くい、と制服の裾を引かれる感覚。もう終わり、と拒絶したのは夏油自身なのに、反射的に振り向いてしまった。
「確かに他の人にお願いしてもいいんですけど……」
お手本のような上目遣いでこちらを見上げる眠々子に、また何か企んでいるなと瞬時に察して心構えをした。——したが、それは全く意味を成さなかった。
「でも……初めては傑さんじゃなきゃ嫌だな……」
五条の無下限呪術でも喰らったのかと錯覚するほどの、無。衝撃を越えて、空っぽになった脳内。ただただ唖然として、今なんと言われたのかと理解するまでに数秒を要した。
「ハッ……」
ようやく思考が現実に追いついた時、乾いた笑いがもれる。人の気も知らずとんでもないことを言ったものだ、と。
「……それ、誰に教わったんだい?」
「ご、五条さんです」
「なるほど」
眠々子の視線の先をちらりと見遣ると教室のドアの向こう、二人分の人影が慌てた様子でわたわたと動く。——もう手遅れだったか。ため息を吐くと同時にズズズと不穏な音を立てて取り込んだ呪霊が夏油の意思により姿を現す。眠々子は驚いた顔をして夏油の服を掴む手をパッと離した。
「えっ、傑さんそんな殺気出してどこ行くんですか!?」
「悟のところだよ」
「私を放置してですか!?」
「眠々子は自分の言葉を反省しながらそこで待ってな。すぐ戻るから」
「そんなこと言われたら絶対待ちませんって……」
驚く夏油が見たくて眠々子にこんなことを吹き込んだのだろう。二人が腹を抱えて笑う様子が容易に想像できて腹立たしい。
それに眠々子も眠々子だ。あれほど「人の言うことを簡単に信じるな」と伝えた夏油の思いは全く伝わっていなかったということか。
「眠々子が悪いんだよ」
そう言って穏やかな笑みを向けてやれば、眠々子の表情が凍り付いた。ようやく自分が何かとんでもないことをやらかしたと気付たらしい。が、もう遅い。今すぐにでも思い知らせてやりたいところだが、まずは五条から。眠々子はその後だ。
痛みは一瞬。けれど一生残る1.2ミリの傷に、眠々子はこの先ずっと後悔すればいい。軽々しく動いたその口を、簡単に人に騙された自分自身を、心の底から反省すればいい。
一生、後悔すればいい。