呪術廻戦
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聞こえる?
乱暴に揺さぶられる体。足元から聞こえてくる熱のこもった荒い息遣い。繰り返される単調な動き。頭上からは別の手が伸びてきて、私の喉を圧迫する。些か力加減の危ういそれは私の息の根を止めかねないことを、快楽の渦中にいる男達は気づいていない。空気が一気に遮断され、次第にぼんやりとしてくる頭の中。もはや抗う術も気力もない。閉ざした瞼の裏、次々と浮かんでは消えていくこの情景は、人が死に際に見るという走馬燈なのだろうか。
***
——狗巻家の子。呪言師の末裔。
年々衰退していく呪術師の一族。昔は数あった呪師の家系も、今や御三家と、狗巻家のような滅亡しかけの一族が幾つか残っているのみだ。それでも他の一族はなんとか血筋を残そうと躍起になっている中、呪言師の家系である狗巻家は呪術界では異端な立場で、家系から呪術師を絶やしていくという方針だった。
”呪言”という高等術式を相伝する狗巻家。言霊を増幅強制するその術式のため、狗巻家の者は皆、己の語彙を絞って生活することを余儀なくされた。——力が、強すぎたのだ。呪術師全盛の時代においては大いに役立ったであろうその能力も、現代の日本では余りに危険すぎた。もしも家系から呪詛師となる者を輩出してしまえば、声だけで敵も味方も呪うことができる呪言の能力は相当に厄介なものになり得る。呪言の能力を絶やす道を決断した家長の判断は、正しいものであったと私は思う。しかし、皆がその方針に賛成というわけではなかった。反対派の者達はどうにかして呪言師の血を残そうと水面下で暗躍していた。
一族総出の取り組みによって呪言の能力持ちは徐々にその数を減らしてきたものの、やはり偶に力を宿した子が生まれることがある。
殺そうとする者と、手籠めにしようとする者。一族内で意見は真っ二つに分かれ、そして相伝持ちの子供の奪い合いが始まった。生まれて間もなく両親を失った私は、その争いの中に放り込まれ、狗巻家の中でもかなりの保守派の家に引き取られることとなった。
たった一言呟くだけで、人を呪える力。狗巻家の強力な呪言の力を利用したい呪詛師はもちろんのこと、単に金目当ての誘拐犯に狙われることも多々ある。声さえ防がれてしまえば、呪言の能力は無力だった。そのためある程度の年齢になるまではほぼ軟禁状態で過ごすことを余儀なくされた。
幼い頃から多くの制限を強いられてきた。人の寄り付かない離れの部屋に閉じ込められて、世界と隔離された幼少期を過ごした。力を制御する術を身に着けるまでは、歌うことも、話すことも、笑うことも、泣くことも。自分の意思で口を開くことすらも許されなかった。人前に出すときは飾りのように扱われ、特殊な縄をかまされて引き出される。そのくせ、舌に刻まれた呪印を見たいと、無理やり口を固定され見世物のように扱われた。寄ってたかって確認しようとする熱い空気。今思い出しても吐き気が込み上げてくる。年々力を失っていく狗巻家で、呪言の能力を継いだ大事な子供だ。私だけではない、狗巻家で力を宿して生まれた子供はきっと皆、同じ目に遭っていたのだと思う。
世間一般的に見て、それは大層異常な状態だったろう。年端もいかぬ子供を軟禁していただけではない。躾と称してされてきた数々の行為——今にして思えば、あれは単なる大人達の腐った欲望の捌け口として扱われていただけだったということがはっきりと分かる。しかし当の本人達は幼くて、まだ世の中のことを知らなかった。それがせめてもの救いだった。
風光る春の日。呪術高専への入学を控えた私は、生まれて初めて自分一人で奥の離れを出た。お付きの者はもういない。これからは自分の意思で好きなところへ行くことができる。身を包む黒い制服は華やかさの欠片も無かったけれど、私にとってそれは自由の証だった。あの時はまだ、そう信じて疑わなかった。
柔らかな春風が頬を撫で、庭に咲いた立派な桜の木から小さな薄桃色の花びらがひらひらと舞い落ちる。手を伸ばしてそっと一枚、包み込んだ。
屋敷内がやけに騒がしい日だった。飾り立てた大人たちがどこか興奮したような異様な笑みを浮かべ、何かを話しながら一番広い部屋へと吸い込まれるように入っていく。見覚えのある光景だ。またお披露目会でもやっているのか、と気づいてため息を吐く。それと同時に、今でもまだ呪言の能力を持つ子が生まれているんだなと少し驚いた。
私が五歳になった時も、同じような会が催された。お披露目会——狗巻家の中でも保守派の者達だけが集まって、自身の有する子供の呪言の能力を見せると同時に、将来の結婚相手の候補を決める言わば親同士のお見合いのようなものだ。呪言の能力を残していくならば、どこの血と混ぜるかが重要になってくる。彼らにとってそれは、最も重要な事柄だった。
彼らの目線が私の姿形に注がれていることを感じ取り、咄嗟に目を伏せる。口元の呪印を隠すように俯いて、足早に廊下を進んだ。
暫く進んだところで、ふと珍しい気配を感じて顔を上げる。
廊下の角から現れた数人分の人影。大人たちに囲まれるようにして歩いてくる小さな姿。一目見てその子の気配だと分かった。
俯いた小さな体を、虚ろな表情を、食い入るように見つめて立ち止まる。白に近い金髪、紫の瞳。色濃く受け継いだ一族の特徴。一見淡く美しい印象を与える見た目ではあるが、それは私達を呪いの言の葉のように縛り付ける忌まわしき血の姿。すぐそこまで近づいてきた男の子が、私の視線に気が付いて顔を上げた。口元に刻まれた蛇の目の紋様。それはまさしく呪言師の末裔、狗巻家の呪印だった。
雅な着物を着せられて、豪華な屋敷の中を大人に手を引かれて歩く。至れり尽くせり飾りのように扱われ、端から見たら大層恵まれた子供にみえただろうか。
男の子の小さな口には、しっかりと猿轡がはめられていた。まるで、昔の自分を見ているようだと思った。
すれ違う直前、まるで呼吸をするような自然さで床へと両膝をつく。同じ目線になった男の子のあどけない丸い瞳が、私の髪、目、そして口元へと順番に移動する。私たちは本当によく似ていた。
産声をあげた瞬間に、縛りを受けた。初めて意味ある言葉を発した日、その言霊は人を呪い、一生消えない罪を背負った。それは己の意志で自由に発した、人生最後の言葉となった。これから先、どれほどの苦しみが待っているか、その小さな肩にどれほどの重みを背負っていくか想像できるだろうか。体が震えるほどの喜びが、身を引き裂かれるような痛みが、例えようもない悲しみが襲ってきたとしても決して声をあげることなく、歯を食いしばって耐えていかなければならないことを——。
それでもまだ、そんな顔はしなくていい。私の胸に僅かな希望があるように、この子にも同じものを、真っ暗闇の中にある一筋の光を見つけて生きて欲しい。春風に揺れる青白い髪をそっと掬って、私は優しく微笑んだ。
これは他の誰にも聞こえない、私たちだけの内緒話。
『ねぇ、君。——攫ってあげようか?』
幼い紫色の瞳が驚いたように見開かれた。
こんな麗らかな春の日は、白い雲がふわふわと浮かぶ淡く優しい水玉模様の空を見上げて「綺麗だね」と笑い合うものだ。はらはら舞い散る花びらを、その小さな手に幾つも掴まえて、並べて数えて集めて、両手を広げてまた空に返すのだ。私たちにだってその些細な幸せを願う権利がある。
「眠々子様」
男の子のすぐ傍にいたお付きの女中が私の名を呼んだ。私が何か言いやしないかと警戒しているのだろう。呪印を刻まれた私が呪言の能力持ちであることは一目瞭然。注がれるのは、好奇と怖れの入り混じった目だ。私はそっと手を開いて桜の花びらを見せる。
「あら、取って下さったのですね。ありがとうございます」
こくりと頷いた私を見て安堵したのか、女中は表情を緩めた。
「棘様、この方は棘様と同じ呪言の力を持つ眠々子様ですよ。ご挨拶しましょうか」
その言葉にぐっと拳を握り締める。言えるわけがないじゃないか。私も、その子も。私達から言葉を奪ったのはあなた達だろうに。怒りを胸の奥に隠して、私を見上げる男の子に向かって微笑んでみせる。それを見た女中は満足げに頷いて、「それでは失礼します」と私に一礼をして再び歩き出した。その一行を眺める私の顔は、ちゃんと微笑んでいただろうか。
大人たちは、呪言の能力を宿す子供の体を決して傷付けることはしない。ただ、別の方法で躾られる。私たちが何も言えないことをいいことに、大人たちは私たちを弄び、傷の残らぬ方法で痛めつけ、精神を破壊した。声を出すことは無駄なことだと思い込ませた。そうしていつしか、私たちが意思のない人形だとでも勘違いしたのだろうか。だけどそれは違う。幼い私は胸の内に炎を燃やし、密かに、強く、機会を狙っていた。そう、今でもずっと——。
***
男達が去って行った暗い部屋の中、暫く呆然と天井を見つめていた。あのまま絞め殺してくれればよかったのに。固く閉ざされた扉を眺めて思う。
いつものことだ。「苦しい」と言えない私は、きっと苦しいなんて思っていない。言葉にしなければ感情は無いものと同じだ。私は平気だ。痛む体をゆっくりと起こす。夜風に揺れるカーテンの隙間から見える青白い月。その光が僅かに部屋の中に差し込んで、視界にかかる前髪が白く反射する。いつか触れた月白の柔らかな髪。指先に蘇る感触。
あの男の子は元気だろうか。今、幾つになったのだろうか。酷いことをされてやしないだろうか。こんな真っ暗な部屋の中で一人、肩を震わせて蹲ってはいないだろうか。散々な状況ながら、惨めな自身のことではなく人の心配をする自分が滑稽に思えてきて思わず頬が緩む。
「ハッ……」
軽く息を吐き出せば、音が生まれる。それは堰を切ったように溢れ出して。
「アッハハハハハハハ……ハハハ……」
私は声を上げて笑った。意味のない音だ。何も起こりはしない。両手で顔を覆って、大声で笑い続けた。
「ハハハハハ……ハッ、ううっ……ハハハ……」
笑っている、と思っていた。自分の声など遠の昔に忘れていたのだ。頬を流れ落ちる温かいものが、口元まで流れてきて唇に触れる。気が触れたような笑い声は、途中から嗚咽に変わっていた。塩水のようなしょっぱさが舌に広がる。——私は、泣いていた。
そうして涙も声も枯れた頃、蹲って膝に埋めていた顔を上げる。刺すような喉の痛みに堪らず咽返ると、ぽたり、真っ赤な血が一滴。手の平に落ちた。じわりと広がるその形はまるで桜の花びらのようだった。
「と、げ……」
あの時聞いた、その名を初めて口にする。
「棘、棘……」
聞こえる? この声が、棘、君に聞こえる?
同じ髪、同じ瞳、同じ呪印を宿して生まれた私たちは、狗巻の血に選ばれたんだから、きっと心で繋がっているはずじゃないか。もうほとんど呪言師が生まれなくなった狗巻家で、私たちの運命は同じ縛りの下にあるんだから、いつか感じた喜びも、絶望に溺れるこの心も、分け合うことができるはずじゃないか。
「棘……」
次の朝が来たらこの暗い部屋を出て、会いに行こう。桜の花びらを数えて遊ぼう。もう一度、二人で内緒の話をしよう。
それがこの壊れかけの心を保つ、唯一の方法に思えた。