呪術廻戦
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帰り道をなくして
「眠々子」
夜の高速道路を滑るように進む黒い車体。その後部座席にもたれた五条は、左隣にいる少女を呼ぶ。返事はない。数秒と待たずにもう一度、今度は乱暴な声を投げた。
「眠々子、起きてるんだろ」
きっと車内と言う密閉空間でなければ、眠々子はこの問いかけを「聞こえなかった」とでも言い訳して無視したであろう。五条にそう思わせるには充分な、かなりの間を置いてから眠々子はようやくこちらへ顔を向け、軽いため息を一つ吐いた。
「起きてます」
「ならすぐに返事しろよ」
高専の所有する黒塗りの車。重厚感たっぷりの艶やかな車体には汚れ一つない。闇夜にするりと溶け込む様は呪術師を運ぶにはもってこいのものだ。しかし、どれほど値段が高かろうが車内が劇的に広がるなんてことはある筈もなく、後部座席に二人座ればそれほど余裕はない。百九十センチ以上も背丈がある五条ともなると自身の足を何処に収めようか悩んでしまうのであって、車での移動はとても居心地が良いとは言えないものだった。加えて素っ気ない後輩。何と気が滅入るドライブか。
サングラスを下げてを睨むと、眠々子は分かりやすく視線を逸らした。元々、五条を拒絶するようにぴったりと左側のドアにくっついて座り車窓の外を眺めていた。だから無償に邪魔してやりたくなったと言えばあまりにもガキっぽいか。眠々子の築いた壁をぶち壊した後は土足で踏み荒らすように、一方的に続ける。
「暇だからしりとりしようぜ。五条悟の、る」
「……留守電」
「ふざけんな」
舌打ちをして吐き捨てる。ばれていないと思っているのか、はたまたわざとか。眠々子は一瞬、心底面倒くさいというような顔をした。しかし表情とは対照的に柔らかい声で五条の名前が紡がれた。
「五条さん」
自分より大分年下の子供を諭すようなその口調が気に入らない。
「五条さんは暇かもしれないですけど、私は今忙しいんですよ。もう少し人の気持ちも考えてください」
「は? なんで僕がオマエの事情なんか汲まないといけないんだよ。どうみても暇そうだっただろ」
眠々子は大きく息を吐いた。ならば、さっきの顔も絶対わざとだなと確信する。
「何、オマエ喧嘩売ってんの?」
「……いえ」
「その間はなんだよ」
嘘ではないのだろう。その表情に反抗の意志は感じられなかった。だが五条の威圧的な態度にも動じない、そういう所が生意気だと思う。
「……照明灯を数えてたんです」
五条は思い切り顔を顰めた。
「千まで数えたらやめようと思っていました。後もう少しでした」
「くっだらな」
はっと乾いた笑い声をあげる。
「そんなことしてる暇があったら面白いことの一つでも言えっての」
ただでさえ暇な移動に、つまらない後輩と一緒に過ごすこっちの身にもなってほしいものだ。無論、無茶なことを言っているのは自分でも分かっている。が、五条はどうしてもこの少女のことが気に食わなかった。
灰原と……そして夏油も居たあの日々を、もう遥か昔のことのように感じる。二人を失ってぽっかり空いた場所。入れ替わるように高専にやってきたのが眠々子だった。ただのタイミングの問題だが、五条には受け入れ難いものがあった。お前なんかじゃ二人の代わりは務まらない。眠々子からしたらとんだ八つ当たりだ。しかし、気持ちの整理が付けられない。呪術界最強の存在とは言え、五条はまだ子供だった。
呪術界とは全く関係のない一般家庭に生まれ、呪いだなんだとは無縁な生活を送ってきたわりには眠々子は妙に肝が据わっている部分がある。呪霊を前にしても臆さない辺り、確かに呪術師としての素質はあるのだろう。だが絶妙に五条の空気感とは合わない存在。加えて今回のこの任務。五条一人でも事足りるのに一年のお守りを任されているようで苛々が募る。そんな色々な不満を後輩にぶつけて少し困らせてやるだけつもりだったのだが、眠々子は本気にしたのか暫し考え込んだ後、静かに言葉を落とした。
「そうですね……つまらない話ですが、五条さんの暇つぶし程度にはなるかもしれません」
眠々子は一度大きく息を吸い込んで、車窓の外へ視線を飛ばす。高速道路の複雑なカーブに沿うように並ぶ照明灯。背後からやってきた車がテールを流して追い越していく。タイヤが地面を擦る音だけが耳障りに響いた。
眠々子の話に興味はなかったが、他にやることがない。車の窓枠に肘をついて眠々子を見る。眠々子は五条の様子を確認してゆっくりと話し始めた。
「……昔、よくこのくらいの時間帯に父の運転する車で高速を走ってました」
車内に埋め込まれたアナログ時計。時刻は午前十二時を過ぎたところだ。
「夜中にドライブ? マセガキだね」
舌を出してわざと棘のある言い方をしてやる。
「いえ……」
眠々子はゆっくりとかぶりを振った。
「捨てにいかれるんです」
「——は?」
「叱られて、捨てに行かれるんですよ。笑えますよね」
その言葉通り、眠々子は笑みを浮かべていた。
「あの頃、私はまだ小学校低学年でした。こんな夜中ですからね、眠くて寝ちゃうんですよ。車の揺れって眠気を誘うものでしょう? で、そしたらそのたびに父が殴るんです。起きてろって。私は助手席に座ってるから逃げたくても逃げられない。殴られた勢いで助手席のドアに頭を体を何度もぶつけました。その度に目が覚めて、痛くて怖くて震えました。だけど、やっぱりまた五分もするとうとうとしてしまうんです」
眠々子は一切表情を変えることなく、淡々と話し続ける。
「そんなとき、照明灯を数えると少しは長く意識を保っていられるんです。痛みで麻痺した頭でぼんやりと考えました。この光の数だけ命があって、世界中を探せば今まさに私と同じような人が……いいえ、もっともっと苦しい人がいるんだろうなって」
察しは良い方だと自負している。眠々子がぴたりと左側に体を寄せてシートに座る理由が分かってしまって、なんとも言えない気まずさが胸に広がっていく。
「そうして数時間もすると、どこだか分からない山の麓で車は停まって、言われるがまま降りると、車は行ってしまうんです。真っ暗な道端に置いてかれて、どうするのが正解か分からなくて。いつも長い時間立ち尽くしました。泣いて追いかけることはしませんでした。……もう、疲れていましたから」
眠々子の両手がぎゅっとスカートを握り締めていることに気づく。
「……でも不思議と怖くはなかったです。ただ、胸にぽっかり穴が空いたみたいになって……それがどういう感情なのか、あの頃の私には分かりませんでした。そんな時、ああもうこのまま消えてしまいたいなって思って空を見上げると、星がすごく綺麗なんです」
呪術師という職業柄、人間の汚い部分、暗い部分は山ほど見て来た。呪力という普通では持ちえない力を持って生まれた子供は、時に自身の家族にさえその存在を否定され虐げられることは知っている。しかし身近な人間のそういった話を聞いたのはこれが初めてで、言葉に詰まってしまう。
こんな時、かつての親友ならば——夏油ならば、気の利いた一言を掛けてやることができたのだろうか。補ってくれていた部分の大きさに、今更になって初めて気づく。一人称を変えてはみても、誰かに寄り添う言動ができることとはまた別物だ。五条家に生まれ、常に大勢の大人に囲まれて育った五条には、真っ暗闇で一人、押し潰されそうな孤独の中、星を眺める機会など無かった。五条には眠々子に掛ける言葉が見つけられなかった。
「今日の星空は、ちょうどあの日のものに似てます」
声が震えていた。
「こんな素敵な夜には決まって……」
満点の星空を見てそんな悲痛な声を出す奴がどこにいるんだ、と。思ったけれど、何も言うことが出来なかった。その後に続く言葉を聞いて。
「——死にたくなります」
馬鹿な、と言いかけて、五条は口をつぐんだ。ごく自然な感じで窓から空を見上げた眠々子の瞳に、涙が滲んでいた。それを落とすまいと必死にこらえて唇が小さく震えていた。
「星空を見ると、まだ生きてるんだって実感できる。それと同時に、ああ、今日やっと死ねるんだって希望が湧いてくる。もう痛い思いも苦しい思いもしなくていいんだって。でも朝になればまた、親は私を迎えにくるんですよ。本当に死んだら世間体が悪いでしょう? 朝が来るのが怖かった。夜の闇に溶けて死んでしまいたかった。また空の色を見るのが嫌だった。でも東の空に光が生まれると、ほっとしたのも覚えています。死にたくって、でも生きてもいたいんです。この、どうしようもない気持ちが……五条さん、」
もういい。それ以上は、もう言わなくていい。彼女の肩に手を伸ばす。
「あと十分程で目的地に到着します」
五条の行動を遮るように、補助監督の静かな声が響いた。
「お二人が敷地内へ入ったらこちらで帳を下ろします。……私は帳外で待機しておりますからどうか、どうか、お二人揃ってお戻りくださいね」
直後、車はウインカーを出して高速道路の光の中を抜けた。
薄暗い一般道に入る手前、対向車のライトに照らされて一瞬ガラスに映った眠々子の顔。つぅと頬を一筋、雫が流れ落ちて。
——大丈夫、帰れるよ。
語り掛けている相手は過去の自分か、それとも命を賭して呪霊と戦う今の自分か。
星空を眺めているはずのその目には一切の光は無く、ただ口元にだけ歪な笑みを浮かべていた。
***
「眠々子~!」
まだ大分距離はあったが、見慣れた背中に向かって声を掛けると、ピクリと肩が動く。しかし歩みは止まらない。目隠しを少し上げて視線を送ると、眠々子に群がる蠅頭が蜘蛛の子を散らすよう散っていった。そこでようやく眠々子が五条のほうを振り返る。
「……どうも」
それはただの挨拶なのか、それとも感謝なのか。どちらとも取れない表情を見てふっと笑う。
久々に顔を合わせる眠々子は記憶の中の姿より少し大人びていた。しみじみと時の流れを感じる自分に歳をとったものだなと自嘲する。顎のあたりで切りそろえられた柔らかそうな髪に懐かしさを感じて思わず手を伸ばす。高専生だった頃には容易に触れることができたその頬も、今では触れる寸前で払いのけられて、指先は行き場を失ってしまった。まるで無下限だなと思って軽く笑った。
「反応早っ!」
「……お陰様で。この数年間、治安の悪いとこも色々回ってきましたから」
「あれ? もしかして海外任務押し付けたことまだ根に持ってるの?」
「それなりには」
「ごめんごめん。眠々子なら余裕かなと思ったんだけど、そんなキツかったなんてね」
数年前、日本から海外へ派遣する呪術師のメンバーに眠々子を推薦した。眠々子の実力を買ってのことだが、理由は他にもあった。
「そのちょっと生意気なとこ、全然変わってないねぇ」
「五条さんはなんか色々変わりましたね。軽薄さが増したというか……」
「僕、教師だからね。生徒に大人気の優しい先生だよ」
眠々子の中での五条のイメージは昔のままで止まっているようで、頬を抑えていわゆるぶりっこポーズをとってみせる五条を怪訝な面持ちで眺めている。かと思えば「怖……」と呟いて、ふいと目を逸らした。
「でもそんなキツい任務だったわりには前より少なかったねぇ、アレ」
そう言って眠々子の斜め後ろを指さしてやれば、それを追うように視線を送る。コーヒーカップほどの大きさの蠅頭が数匹、まさに眠々子の元へ戻ってこようとしているところだった。
「すっかり懐かれてんじゃん。ウケるね」
五条の様子を窺いながらもしっかり眠々子の肩に収まったそれを見てけらけらと笑う。
「嫌な事、あんまりなかったの?」
「そうですね……。現地で組んだ呪術師の方は五条さんと違って皆さんすごく親切でしたし、色々な国のご飯を食べれて結構楽しかったです。むしろ、ここ数年で一番のストレスを今この瞬間に感じています」
「えー、それってつまりどういうことなのかな。僕分かんないや」
「……んん」
くぐもった声を喉の奥で発する。七海と同じ反応だ。僕ほどの男を前にしたらみんなうまく話せなるなるのかな、なんて冗談を考えつつ指を両手の人差し指をピンと立てて眠々子を指さす。
「あのさ、眠々子」
「嫌です」
「あれっ、そんな態度でいいの? 僕先輩だよ? 上司だよ?」
「その、指さすのやめてください」
ずいと身を引いた眠々子に構わず本題へ入る。
「恵見なかった?」
五条の問い掛けに眠々子が少し目を見開いた。しかしすぐに普段の表情に戻り、素っ気ない反応が返ってくる。
「見てないです。さっき高専に来たばっかりなんで……」
なんでいっつもいっつも一番に五条さんに会っちゃうのかな、と悩まし気に頭に手を当てて独り言を漏らす様は以前と何ら変わりなくて淡い懐かしさが胸に広がった。
「そっか。どこに行っちゃったのかな。恵にぴったりの呪霊がいるから今夜にでも祓いにいってもらおうと思ったんだけどね」
「五条さん、まだそんなことやってるんですか……」
「そんなことって?」
「はあ……」
高専時代、等級を偽った呪霊祓除を押し付けたことを言っているのだろう。
「なんか最近呪霊多くってさ。ほら、呪術師って全然数足りてないじゃない? だからこれも仕方ないっていうか」
「ただでさえ足りてない呪術師が五条さんのせいで減りそうですけど」
「やだなあ、それじゃまるで僕が鬼みたいだろ」
「違うんですか?」
「今は生徒思いのGTGさ」
五条がぱあっと笑顔を咲かせてみせると、眠々子の顔からは僅かに残っていた表情が奪い去られた。
「……あ、そうだ。丁度いいや。任務地まで恵のこと送ってやってくれない?」
「ノリで言うのやめてもらえませんか。私なんかに頼まずとも補助監督の方々がいるでしょう」
「まあまあ、聞いてよ。今日さ……」
あの夜の光景が、鮮明に蘇る。
「——すっごく星が綺麗な夜らしいよ?」
五条の言葉を受けてから数秒の間を置いて、眠々子は窓の外に目をやった。
僅かに残っていた赤い夕焼けの名残が、深い藍色と混ざり合う。逢魔が時、と初めに呼んだのは一体誰だったのだろうか。紫に染まる世界で、得体の知れない魔物たちが蠢き出して。眠々子の中に巣食う呪いもまた、じわり滲み出す。
気の利いた一言は、今も用意していない。しかし五条の胸に気まずさは一切ない。
眠々子の声は震えない。空を見上げるその瞳には、高揚感すら感じられた。
——五条も眠々子も、もうあの頃とは違う。
眠々子が流し目で五条を捉える。あの日と同じ歪な笑みを浮かべていることを、眠々子は気づいているだろうか。
「……趣味悪いですね」
「眠々子に言われたくないなあ」
山も、街並みも、人の心も。全てを溶かすような黒い闇が、すぐそこまで忍び寄っていた。