呪術廻戦
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その男、特級につき
うだるような暑さもまとわりつく湿気もすっかり消え去った秋の昼下がり。柔らかく屈折した光が窓から差し込み、ソファに寝そべった私の体を優しく暖める。
「眠々子」
世界中の幸せの全てが私の手の中にあるような状況で、穏やかな声が私の名を呼んだ。まるで頬を撫でるそよ風のように、それは心地良く耳に届いて、私は答えることなくただその響きの余韻を味わう。
「眠々子」
足フェチとか、腕筋フェチとか、ほくろフェチとか、匂いフェチとか。ぐっとくるポイントって人それぞれ色々あるけれど、じゃあ自分は何かって考えてみたら、もしかして私は声フェチなのかもしれないと思う今日この頃。二度目の呼び掛けもスルーして、そんなことを考える。
もう一回呼んでくれたら返事をしようかな、なんて思いながら持っていた漫画を少しずらしてそっと声の主の方を盗み見ると、バッチリと目が合ってしまった。あ、やべ。
視線の先にいるその人は、至極穏やかな笑みを湛えてもう一度私の名を呼んだ。
「眠々子」
これで三度目か。仕方ない……。この安穏とした時間が終わることに淡い寂しさを覚えつつ、私はようやく視線を合わせて、その呼びかけに応えることにする。
「何ですか傑さん」
いつも通りの落ち着いた眼差し。私がにっこり笑み返すと、傑さんも少しだけ微笑んだ。
「自分の足が今どこにあるか分かる?」
「……」
「眠々子」
「嫌です」
「邪魔なんだ」
「嫌です」
「会話しようか、眠々子」
「……嫌です」
ノーと言える日本人、眠田眠々子。私は視線から逃れるように、持っていた漫画で顔を隠す。
私の足がどこにあるかは、勿論私が一番よく分かっている。それはずばり、傑さんのおみ足の上だ。
先輩に足を向けるなんてどうかと思います、とか思ったそこのあなた。ちょっと待ってほしい。一旦落ち着いて冷静に考えてみてほしい。そうさせる傑さんが悪い、そうは思いませんか。足をのせたくなる空気を出してた傑さんがいけないとは思いませんか。
それに、足は頭よりも上にあげてたほうが血流がよくなると言うではないか。夏の間は任務続きで長時間移動も多かったし、祓除の際は常に身一つで走り回っていたから、足には老廃物が溜まっているはず。女性にとってこれは由々しき事態だ。というわけで時間があれば念入りにマッサージをしてみたけれど、やっぱりまだなんとなく重い気がする。疲労回復、血流改善。これは当然の行動であって咎められるべきところは一つもない。
頭の中で一通りの言い訳を述べて、漫画の影から傑さんの出方を窺う。
私に向けられた傑さんの視線が、顔から足先まで一度滑るように移動する。そうして困ったような呆れたような微妙な表情を作ると、はあ、と軽いため息を吐いた。
「こんな後輩は初めてだよ」
「傑さんの初めていただきました!」
「……行いを改める気は?」
「全くございません!」
自信満々にそう言い切ってみせると、傑さんは流し目で私を見遣ってから諦めたようにソファの背もたれに身を預けた。
……やった。私の勝ちだ。
私だって伊達に後輩やってるわけじゃない。それぞれの先輩への対応の仕方はバッチリ弁えているし、傑さんのこともよく分かってる。呪霊との戦いでは容赦ない傑さんだが、こと上下関係においては甘々なのだ。
「傑さんって、五条さんとは大違い」
独り言みたいに呟いてみる。
「傑さんは、優しいから好きです」
五条さんも年上感はあるし、めちゃくちゃに強いというところにおいては安心感もある。でも包容力という言葉とは無縁な人だ、と私は思う。外見も呪力も言動も何もかも、とにかく圧がすごすぎるのだ。それに比べて傑さんは、五条さんと同じ強さを持ちながら、人としての温かみを感じる。こんなお兄ちゃんがほしい人生だった。
「私の気はそんなに長くないよ」
と傑さんは言うけれど。傑さんの声は今だ穏やかさを保ったままだ。だいたい私はこれまで傑さんの怒ったところを見たことがない。五条さんと喧嘩しているのはよく見かけるけれど、それはほとんどの場合、五条さんから仕掛けたもので。五条さんは毎度毎度煽りがキレキレすぎるのだ。あれも一種の才能だよな、なんて。でければ、こんなに温厚な人を怒らせるなんてできやしない。
そんな私の考えを読み取ったかのように傑さんが口を開く。
「悟のところに行くといい」
「人生終了のお知らせですね」
「灰原は」
「逆に膝枕してあげたい」
「なら七海は」
「脚の部分で7対3される未来が見えます」
だから傑さんじゃないと嫌だ。お願い、傑さん。そんな思いを込めて傑さんを見つめてみる。
絶対に動きたくないという私の強い意思を感じたのか、何も言わなくなった傑さん。寝心地を確保した私はほくほく顔で再び安らぎの世界へと意識を戻す。
「いい天気ですねぇ……」
ちょうど目線の先にある窓の外には爽やかな青空が広がってる。薄手の服で過ごせるこの季節。最近買った可愛いスポーツウェアのショートパンツは今日の空みたいな綺麗な水色をしていて、私ってばいい買い物をしたなあと自然と口元が緩んでしまう。午前中は外で鍛錬をしていたからか、心地良い疲労感が全身に広がっていくのを感じがたまらない。気温よし、金木犀の香りよし、寝心地よし。白いカーテンが風に揺れ、木漏れ日の影がゆらゆらと形を変える様子なんてもう芸術作品では? これはもう映画のワンシーンなのではなかろうか。
「平和だなあ……」
こんな世界を見ていると、日々呪霊と戦っているのは夢なのではないかとすら思えてくる。ずっとこうしていたい。現実なんて見たくない。読んでいた漫画を顔の上にのせて、静かに目を閉じる。木々が風に揺れる音とか、遠くの方で誰かが騒いでる音とか、さっきまでは聞こえなかったものがすっと耳に入ってくる。こういう認識しきれない音ってBGMには最適のやつだ。隙間から少しだけ入ってくる日の光が更に安心感を与えて。このまま眠気に身を委ねてしまうのもいいかもしれないな、なんて。うとうとしていた——その時だった。
「——!?」
すうっと足を撫でられる感覚がして、私はガバッと上半身を起こした。その間、多分0.1秒。
「な、何してるんですか……?」
「触ってる」
「そ、それは見れば分かります!」
先程までの甘い微睡みは一瞬にしてどこかへ飛んでいって、完全に覚醒した頭で冷静に考えようとする。が、だ……だめだ、全く分からん。おおおお落ち着け私。何か言おうにも状況が全く整理できないからとりあえず足を引っ込めようとしたが、ガシッと足首を掴まれてしまい、私は遂に思考を停止した。無になるというのは心を守るために必要な能力だ。
そんな私に向かって傑さんは堂々と言い放つ。
「どうした? 置きたいんだろう。好きなだけ置けばいい」
は——、と口を僅かに開けて。しかし声にはならない。今の私は何とも間抜けな表情をしていることだろう。
「遠慮はいらない」
そう言って追い打ちをかけてくる傑さんの微笑みの威力たるや。これは完全に今まで何人もシメてきた人の顔だ。まあその相手の大半は呪霊か、もしくは五条さんだとは思うけども。まさか自分が同じ状況になる日が来るなんて考えたこともなかった。これはやばいやつや、と私の危機管理能力が瞬時に察知する。
びっくりしすぎて傑さんから目を逸らせないまま、慎重に言葉を選んで口を開く。いやいやいや……気抜いたら声震えそうなんですけど。がんばれ、私。
「い、いや……あの、もういいです……」
「嫌」
「足、下ろしたいです」
「嫌」
「本当に切実に下ろしたいです。お願いします」
「嫌」
「傑さん!」
会話のキャッチボールが全く成り立たないことに半泣きになりながらも精一杯強い口調で抗議する。しかし傑さんは素知らぬふりをして余裕の笑みを浮かべて言った。
「ただの暇つぶしだよ。だから眠々子は気にせず読書を続けるといい」
読んでいた漫画は床に落ち、今はただソファーに両手をついて片足を掴まれているという何とも微妙な体勢。読書なんて続けられる状態じゃないと分かっているはずなのに、この人はよくもまあ、そんなことを。
「も、もう読書は終わりにします! だから離してください」
「私はまだここから動かないよ」
「……私は動きたいんです! お、お茶! お茶飲みたいんで!」
「知らない」
「——!!!」
声にならない声を上げて、唇を噛み締める。とうとう何も反論の言葉が出てこなくなってしまった私を見て、傑さんは薄く唇を動かして笑った。
「自分だけが好きにできるなんて余りにも身勝手な考え方じゃないか」
そりゃそうかもしれないけど、こんなのってある?
「私は退けて欲しいと何度も言ったけど、眠々子は聞き入れなかっただろ」
「それは! 確かに、そう……ですけど……」
反論しようと口を開くも情けなく尻すぼみになってしまう自分の声。この状況にどんな感情が正解なのかよく分からなくなって、ただただ傑さんに視線を送る。
だって、傑さんがこんなことするなんて思わないじゃない!? 高校生くらいの男子はそういうお年頃だとは聞くけれど、五条さんの待ち受けは井上和香だけど、傑さんは違うじゃないか。私のなかの『年上の綺麗なお姉さんと並んで歩いてほしい人ランキング』五条さんを抑えて堂々の第一位だ。やだ、別世界……! と思わせてほしい人ナンバーワンだ。そんな傑さんが後輩なんかにちょっかいを出すなんて、そんな、まさか。
「傑さんがこんな人だと思わなかった……」
苦し紛れにそう呟く。
「どうしてそう思う? 私だって男だよ」
目の前に脚があればそりゃ触りたくもなるさ、と言う傑さん。
やだやだやだ、傑さんはそんなのじゃない! 私の中の傑さんのイメージが崩れる! ひとり葛藤する私を見て、傑さんは可笑しそうに目を細めた。
「傑さん」
悪戯っ子を咎めるようにそう言って、もう一度足に力を込めてみる。が、やはりびくともしない。
——夏油はああ見えて結構ガキだよ。
いつだったか、硝子さんが言っていたのを思い出す。あの時はそんなまさかと笑って流してしまったが。いま目の前にある悪戯っぽい笑顔を見て、その言葉の意味をようやく理解した。硝子さん。そのお話、もっと詳しくお聞きしたかったです……! だが今更後悔してももう遅い。
「……ごめんなさい傑さん、もうしません……」
そろそろ腹筋も限界を迎えていたので降参の意思表示に両手を上げてソファに背を預け、消えそうな声で謝罪の言葉を述べると、今まで見たこともないような屈託の無い笑みが私に向けられた。
——なんてこった。この人って高専で一番怖い先輩だ、と初めて気付く。そうして遂に手は離されて、私の足は自由の身となった。
私は素早く足を下ろして全力でソファの隅に寄る。恥ずかしいやら悔しいやらで両手で顔を覆って、しかし最後の気力を振り絞りこの大人気ない先輩に対して不満の声を上げた。
「ずるいですよ……」
「仕掛けてきたのはそっちだろ」
「傑さんの馬鹿」
「これも後輩教育だよ」
くっくとわらう夏油さんを、指の隙間から恨めしげに見詰めてみても全くの無意味。物腰柔らかな雰囲気を出しておいて、こんなのって。五条さんよりタチ悪い。そんな傑さんを前にして今の私が出来ることと言えば、精いっぱいの拗ねた表情を作って唇を尖らせてみせることだけだ。
「傑さんって結構子供……」
「フフ、そうだよ」
だなんて、あっさり認めてしまうところがまた手強い。
——傑さん、特級要注意人物。
特級呪術師の子供みたいな部分を垣間見て、新情報が私の頭の中にしっかり刻み込まれる。
そうしてこの日、私の中の『怒ると怖い先輩ランキング』第一位が高専に入学して以来初めて、五条さんから傑さんへと変動することとなったのだった。