呪術廻戦
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
深海にて呪を孕む
人間の嫌いなとこ。蛆虫みたいにいっぱいいるところ。
人間の嫌いなとこ。自分達が一番賢いと思っているところ。
人間の嫌いなとこ。この世のどんな物よりも汚いところ。
***
東京。とあるビルの屋上。
「真人の髪は綺麗だね」
真人の髪を梳かす眠々子の言葉が、頬を撫でる風と共に軽やかに耳に届く。かれこれ一時間ほどはこうしているだろうか。真人は大方の時間をじっと座り、しかし時折暇を持て余してはゆらゆらと体を前後左右に揺らしてみる。すると眠々子は「動いちゃだめ」と言って後ろからぎゅうっと真人の頭を抱き込み、頬を擦り付けた。そうするとせっかく長時間かけて整えられた真人の髪は滅茶苦茶になり、この美容室ごっこはまた初めから仕切り直しになるというわけだ。
「さらさらで、ふわふわで、柔らかいね」
まるで子供をあやすような、大好きなペットを愛でるような声色でそう言う眠々子は、きっと今、無防備に瞳を垂らして笑っているのだろう。背後にいる眠々子の姿を思う。
「白く光って綺麗だね」
雪みたい、鏡みたい、月みたい、刃物みたい。思いつく限りの銀色が順番に並べられてゆく。
人間の感性は嫌いではない。
だが、夏目漱石の「月が綺麗ですね」の逸話を知った時は、どう思考を繋げればそのような全く違う言葉に変化するのかと三日は悩んだし、明治の小説家二葉亭四迷が、ツルゲーネフの片恋の一文「Yours(私はあなたのものよ)」を「死んでもいいわ」と訳したと知った時には、どう咀嚼してみても彼の心情が何一つ理解ができなかった。もしも真人が同じことを言われたならば、言葉通り受け取って本当に殺してしまったことだろう。
人間は——特に日本人という人種は、言葉遊びが大好きだ。自分の本心を隠すことを美徳とする。自ら進んで窮屈になる。だからこそ長年蓄積されて腹の奥でぐちゃぐちゃに混ざり合って熟んだ呪いはより強い呪霊を拵える。
「はい、完成」
そんな言葉と共に真人はようやく自由の身となった。三つに分けて結ばれた自身の髪を一瞥して、そのまま少し後ろへ重心を傾けて見上げると、当然のように真人を見下ろす眠々子と視線が交わった。
「綺麗だねぇ、真人の瞳は宝石みたい」
先ほど想像していた通りの、満面の笑顔が零れ落ちてくる。
「右が琥珀、左がサファイア」
そう言って眠々子は真人の体に腕を回した。
「綺麗だね、真人は本当に綺麗」
消毒液の臭いが鼻を刺激する。嫌な気はしなかった。今日みたいに爽やかで澄んだ空気よりも、陰鬱な感じがしてよっぽど気持ちがいい。
「眠々子もすごく可愛いよ」
そう返すと、眠々子は真人から体を離してはにかんだ。しかしすぐにぎゅっと目を瞑って眉を寄せる。眠々子の口元にうっすらと血が滲んだ。眠々子の額にかかる前髪を少しよけて、眼帯のついた目をそうっと撫でる。
「ここ、痛いのかい?」
「うん」
「人間って酷いもんだね」
人間は己の魂の形を全く理解していないから、一度壊れたらもう二度と戻らない。だから真人は人間が嫌いだ。我が物顔でこの世の全てを掌握した気分になっているくせに、実際は驚くほど脆く、地球上のどんな生き物よりも愚劣で、醜い。
「真人は痛いの分からない?」
「うん」
「そっか」
先日、深海についての本を読んだ。その本によると、深海とは何も見えず音も聞こえずただただ圧迫された空間らしい。人間は、遥か遠い宇宙へ行くよりも、下へ潜るほうが難しいのだという。それは人間の魂の脆さが関係しているのではないかと真人は考察する。外部からの刺激に弱く、己の形を保つことができないのだ。
光の届かない海中では、全ての物が青く見え、更に深く沈んでゆくと人の目で見える世界はかなり暗くなり、次第に色を感じられなくなる。そして400メートルを限界に、人間の視覚では知覚できない世界になる。
つまりそこまで行くと、人はただ無の中に漂っているだけということになるのだろうか。それは母親の腹の中にいる胎児のようなものだろうか。だとしたら——。
眠々子の魂はまるで深海のようだと思う。水面で何が起ころうとも、光りも喧騒も眠々子の魂までは届かない。代謝は限りなく穏やかで、真人に向けられる眼差しはいつでも仄暗い虚無感を湛えていた。
「真人はまだ子供だからね」
人間の判断基準で見るするならば、真人は青年と言ってまず間違いない。だが呪霊としてなら、確かに真人はまだ発生して間もない子供のようなものだ。だからこそ知的探求心に溢れ、好奇心の赴くままに日々新しいことを学び、触れて、壊して、成長する。眠々子はそれを感じているというのだろうか。だから眠々子の目には、真人は幼く映るのだろうか。人間なのに、魂の形を知覚しているのか。
「興味深いね」
真人は小さく呟いた。傍らに座る眠々子は、ポケットから取り出した小さな入れ物を手にして何やら黄色いストローのような物を口に含む。するとその棒の先から生まれてくるのは、透明で丸い球体。
「わあ、初めて見たよ。何なのそれ」
「シャボン玉だよ」
「へぇ……!」
鳥肌が立つほどの無数の小さな泡沫が宙へ放たれる。それはまるで、街を埋め尽くす程に増えた人間のようだと思う。
「人間はなんでそんなもの作ったんだろう?」
眠々子の返事はない。ただその球体に空気を送り込むことだけに神経を集中させていた。黄色い吹き具の先、生み出されたものがゆっくりと膨れていく。真人は考える。人間もこんな風に大きく膨らますことはできないだろうか、と。
眠々子が慎重に育てた一際大きな泡沫。憎悪に肥えた人間の魂に酷似している。宙に放たれたそれは危なっかしく震えながらよたよたと宙を漂い、真人の目の前でぷつんと弾けた。眠々子は酷く冷たい目でそれを眺めていた。
真人は眠々子に問いかける。
「どうして眠々子の家族は眠々子を殴るんだい?」
吹き具を液体に浸しながら眠々子は数秒何かを考えるような間を置いて、抑揚のない声で真人に応える。
「多分、私が悪いから」
「どうしてそう思うんだい?」
「さあ……どうしてかな。人は特に理由がなくても他人に悪意を向けられるものだから、理由を探しても意味がないよ」
眠々子はそう言って今度は注意深く笑顔を作ると、青黒く変色した腕を宙にかざした。
「人間じゃないみたいだ」
真人は思ったままを口にした。人間は多少の差こそあれ、みんな何パターンかの配色に振り分けられ、同じ形、同じ手足の本数、同じところに口があって、同じように気持ち悪い。しかし眠々子の開かない片目は眼帯で覆われ、口角は痛々しく裂け、袖から覗く肌はいくつもの殴打痕が見える。その姿は人間というよりはどちらかというと継ぎ接ぎの真人に近い。
呪霊——特に真人達のような特級と呼ばれる者にとって、人間を殺すのは簡単だ。跡形もなく潰すなんて一瞬あれば事足りる。形を変えることも、切り刻むことも容易い。けれど、一体人間にどう力を加えれば青くなるのだろう。それが真人には分からない。殺しもできない弱い力のくせに、他人に殺意と暴力を向ける。
「人間ってほんときしょい」
眠々子に向けた言葉ではなかったが、眠々子は自分のものとして受け取ったようで、薄っすらと笑った。
「私も、そう思う」
眠々子の声とほぼ同時に、真人は自身の指を変形させた。
白く光るそれは刃物といって差し支えない形状をしている。なるほど、これが殺意の形か、と思う。自分自身の体のことを真人はまだ全て把握しきれていない。
眠々子が驚くほど滑らかにその手を取った。ぷつりと皮膚が切れて、眠々子の指先から赤い赤い血が滴る。眠々子から恐怖は感じられない。眠々子の魂はどこまでも安らかで乱れがない。
真人はまた眠々子に問いかける。
「同じ目に遭わせたいとは思わないのかい?」
「何のために?」
「おかしなことを言うね。それは呪霊の俺よりも人間のほうがよく分かってるはずだろ」
「……」
「眠々子は呪詛師なんだから、人を傷つけることなんて容易いはずだ」
「誰かを呪うためにこの力を使いたいわけじゃない」
真人は人が人を憎み、恐れた腹から生まれた呪いだ。だから人間の淀んだ腹の中は余すことなく知っている。誰かに悪意を向けられたとき、人間の魂は可笑しいくらいに歪に動く。憎悪に溢れた本心を偽り言葉を発する時、人間の顔は驚くほど醜い。しかし今、眠々子の魂は全く動いていなかった。
「へぇ……」
本心なのか、と真人は小さく感嘆の声を上げた。このような人間もいるのかと、改めて興味がわいてくる。それでいて眠々子は呪詛師だ。サンプルとしては申し分無い。どうやって遊ぶのが一番面白いだろう? 想像を巡らせるとゆるゆると口角が上がる。
真人の視線に気づいているのかいないのか、眠々子は言葉を続けた。
「だけど、確かにここに積もってく」
眠々子はそう言って胸の辺りをぎゅうと握る。
「ずっと前から、ここが苦しい」
真人は眠々子の表情、そして魂を観察する。そうしてあることに気が付いた。どうやら眠々子の魂は全く怒りを感じていないわけではない。ただ驚くほどに緩やかなのだ。眠々子の負の意識はどんどんどんどん、ゆっくりと、しかし確実にその内側へ降り積もっていっているのだ。空から雪が舞うような、という比喩を浮かべてみたが少し違う。
「海中に降る雪——マリンスノウってところかな」
まだ見ぬ深海に思いを馳せる。真人にはそれはとても心地よさそうに見えた。果てしない虚無の中に浮かんでいるのはきっと安らぎを与えてくれる。
もっとそれを感じるにはどうすればよいのだろうか。ついこの間見た下らない恋愛映画のように、その手を取って、唇を食み、自身を捻じ込んでみれば、その感覚をもっと深く得ることができるのだろうか。眠々子の体の中は温かいだろうか。
眠々子が真人に問いかける。
「真人は人間が嫌い?」
「もちろんさ。……ああ、でも眠々子は別かな」
「私も人間だよ」
「確かにそうだね。でも、眠々子のことは結構気に入ってるんだ。この感情を人間の言葉で表すとしたら、好き、かな。うん。間違いない」
眠々子はたくさんいる人間の中でも、救いようもない馬鹿だから好きだ。
真人の軽い告白を受けた眠々子は曖昧な反応を示し、遠くのほうを見つめる。それは何かを大切なものを捨てようとしているような、越えてはいけない線の前で耐えているような葛藤の眼差しだった。
眠々子の魂が今までで一番大きく揺れている。愛の告白というものが人間にとって特別であることは書物や詩集、映画などから学んだ。しかしその概念を理解しているかと言わればそれは違う。
「もう……死にたいな」
ぽつり、眠々子が呟いた。
初めて目にする表情だった。呪いとしての真人の感性は、おそらく人間の美の物差しとはかなりずれているだろう。しかし真人は思う。きっと人間は、こういう女のことを美しいと言うのだ。いつかぶらりと立ち寄った映画館で見た映画に、今と似たようなシーンがあった気がする。その恋愛映画で見た光景を思い起こし、まるで自分が主人公であるかのように口を開く。
「嬉しいよ、眠々子。俺たちは両想いだったんだね」
堂々たる声だ。眠々子へと歩みより背後から腕を回してその身を抱く。
「命に価値も重みもない。人間なんて腐るほどいるんだから、もうこれ以上生まれなくていいと思うんだよね」
耳元へ唇を寄せて熱を込めて囁く。
「それでさ、すっごく良いことを思いついたんだ」
真人は妖しい微笑みで口元を歪め、継ぎ接ぎだらけの手をそっと眠々子の下腹部へ滑らせて、ゆるりと撫でた。
「子供を作ろう」
眠々子の魂が揺らめいた。
「呪霊の種が人間の腹で成長する。そうして産まれてくるそれは、人間なのかな? それとも呪霊なのかな? 結構、興味あるんだよね」
「……その相手は、別に私じゃなくてもいいんじゃない」
「あれ、不満? 告白の仕方が違ったのかなあ」
眠々子は少しだけ首を動かして真人を見やると、僅かに眉を顰めた。
「呪霊にだって美の基準はある。それでいったら眠々子は俺の好みだよ。俺と眠々子の子供なら死ぬほど可愛いに決まってる。だから——」
眠々子のような魂と、呪霊が混ざり合ったらどんなものが出来上がるのか見てみたい。眠々子が自分の力で人を呪いたいと思わないのが本当ならば、呪霊と交わることは水と油を無理やり混ぜるようなものだ。それは真人の好奇心をくすぐる。呪霊と人間の混血といえば、呪胎九相図という前例がある。それがどのようにして生み出されたのかは想像が及びもつかないが、人の形をした真人であれば、人間と同衾することはより自然なことなのではないかと感じられた。
「——ねぇ、試してみようか?」
眠々子は目を細めて真人を眺めた。そうして応えるように眠々子の唇がゆっくりと弧を描く。
清白な言葉の下に隠した狂気。眠々子の深い胸の内に静かに積もり積もる怨恨の情。「呪いたくない」なんて言葉は、笑えるほどに嘘だと分かる。何千何万と呪霊を生み出してきたドブみたいに濁った魂だ。そんな人間の腹から生まれた真人と交わることは、人として侵してはいけない領域だろう。眠々子は自分自身の子と体を重ねるのだ。
「——いいよ」
一体何をどう考えたらそんな答えを導きだせるのか真人には到底理解できない。しかしそれは確かに美しく、眩暈がするほど醜穢な、人間そのものだった。