呪術廻戦
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
加虐性愛
生きていく上で人は誰しも、多少のストレスを必要としているらしい。怖いのに何故かホラー映画を見てしまうというものがまさにそれで、代り映えの無い毎日のスパイスとして恐怖感を欲し、その負荷から解き放たれたときの安堵感に快感を得て楽しんでいるのだという。
だが裏を返せばそれは、自分には決して害が及ばないと分かっていて、画面の中の登場人物が恐怖と痛みに泣き叫んでいるのを楽しんでいるという残虐性のようなものも持ち合わせているとも言える。
そしてこれらの特性は、呪術師という職業に必要不可欠な要素と言っても過言ではない。
呪いなどというグロテスクで吐き気を催すようなもとの対峙する際に、何故戦うのか、これは正しいことなのか、だなんていちいちその意味について考えていては祓うより前に心が壊れる。であればいっそ振り切ってどちらかに属してしまったほうが少しは気も楽というものだろう。
被虐性と加虐性。その境地に達してこそ一人前の呪術師というのならば、五条悟は間違いなくそこにいる。
そしていま目の前にいる三歳下の後輩、眠々子もまた、そのうちの一人だった。
***
——カチッ。時計の針が午前七時五分を指した音を合図に、眠々子がハッと目を見開く。
約三百秒、といったところか。随分と長い間呆けていたものだ。これが実践ならもう死んでるよ、という言葉は飲み込む。クソ真面目な眠々子のことだ。どうせ「誰がつけたのその傷」という言葉の意味が分からなくて考え込んでいたに違いない。
「誰って……呪霊しかいないでじゃないですか」
眠々子の口から発せられたのはおもしろくもなんともない回答。人の事を長らく待たせておいてそれかよ、と軽く息を吐く。五条はゆったりと足を組み替え椅子の背に体を深く預けると、声を低めてそれに応えた。
「なるほど。ソイツ殺そうか」
「いやだから、私がもう祓ってきました」
額に手をあてて宙を仰ぐ。極めて退屈で全く以て生産性のないやり取りが交わされていることを悲観したからだ。普段の眠々子ならばもっと勢いよく毒づいてくるはずなのに、今日は相当疲れているのか眠そうな目をして、疲労の滲んだため息をひとつ。
「死ぬほど疲れているのでもう部屋に戻ってもいいですか」
眠々子をこれほどまでに疲弊させた原因。
——過重労働により多くの死者を出し廃業した製菓工場に巣食う一級呪霊の祓除。それは紛れもない五条自身が眠々子に与えた任務であった。
二級ではなく一級。五条はそのこと把握していたし、それが些か彼女の手に余る程度の任務であることも重々承知していた。
鬼畜とも言えるその所業を知った後輩の七海は「アナタ本当に嫌われますよ」と軽蔑の眼差しを寄越したし、同級生の家入硝子は「拗らせるのも大概にしなよ」と鼻で笑った。「死んだ人間は私にも治せないよ」とも。
最強たるが故に普段は物事を軽々しく捉えがちな五条自身も、今回ばかりは下手したら眠々子は死ぬかもしれないな、と考えたほどだった。
だが、いつの間にそれほど優秀な呪術師に成長したのか、或いは幸運の星の下にいる女だったのか。眠々子は生きて帰ってきた。
任務帰りの眠々子と早速顔を合わせることになったのは、何も彼女の安否を思い煩って眠れず無事の帰還を待ち構えていたというわけではない。たまたまいつもより早くに目が覚めて、たまたま足を踏み入れた一室で穏やかな朝の時間を過ごしていた五条の元に、ただ本当に偶然に、眠々子がやってきただけだ。
せっかくなので少し揶揄……労ってやろうと考えだけなのだが、こうも愛想の無い対応されるとそう簡単には寝かせてやるものかという気持ちが沸々と湧き上がってくる。やめろと言われたら逆にやりたくなるのが人の性。カリギュラ効果とかいうらしいその心理に忠実に、五条の許可を待たずにくるりと背を向けた眠々子を呼び止める。
「だめだめ。傷そのままにしてたら跡が残っちゃうよ」
「もう半日ほったらかしてるので今更ですよ」
本当に拒絶したいのならばそのまま部屋を出ていけば良いものを、律儀に立ち止まってこちらを振り返る。——そういうとこだよ、眠々子。
「それに、大した顔でもありませんから」
眠々子はそう言って五条の顔を暫く眺めた後、おもむろに自身の腕に視線を落とす。今回の戦闘でついたであろう無数の真新しい傷。派手に裂けた黒い制服から覗く、細くて白い腕にしっかりと刻まれたそれは、未だ華咲くような鮮やかさを残したままだった。——美しくもなんともない。五条は思う。そんな傷にはただの一つも意味がないからだ。
「……傷は勲章、と言うじゃないですか」
「何その兵士みたいな言葉ウケる。とても花の女子高生とは思えないね」
淡々と述べる姿を見ていると、随分と成長したものだと感心する。
——良い術式を持った少女がいる。
窓を通してそんな情報が入り、当時高専生であった五条はスカウト兼高専までの帯同役を任された。
新しい生徒のスカウトに高専生が赴くのはよくある事。ましてや五条にとってそれは目を瞑っていてもできるようなチョロい任務だった。
だが現場に到着してみると、その内容は事前に聞いていたものとはかなり違っていた。
今思うと、あれはなかなかに胸糞悪い状況だったと思う。五条がその少女の居住地に到着した時、何があったか、少女の両親は既に呪霊に取り込まれた後だった。
頭から血を流して建物の隅で震える少女は、自身が普通の人間とは違う、何かしらの能力を使えることには気づいているようだった。その力は、目の前の異形のものに対して使用するもとであるということも、直感的に感づいていたのだと思う。
ならばなぜ両親を助けなかったのか。それが少女にとって余りにも残酷な問いであることは、若き日の五条にも想像できた。呪われた両親はもう助からない。ならば最優先にするべきは、呪術師となり得る力を持った少女を助けることだった。呪術師の人口はまだまだ少ない。こんなことで無駄死にさせるのは少々惜しいというものだ。だが少女は迫りくる呪霊を目の前に、動こうとはしなかった。——死ぬつもりか。瞬時に理解した。
簡単に生を諦めるやつはどうせロクな呪術師になれやしない。早々に見限った五条と反して、一つ下の後輩、灰原が「逃げてください!」そう叫んで少女を突き飛ばす。少女の体は宙を飛び、間一髪、命は守られた。しかし少女はその先で立ち上がるどころか、両手で頭を抱えて泣き出した。
五条の気は決して長いほうではない。ぷつん、と何かが音を立てるようにして容易く我慢の限界に達した。
——自分は普通の人間で、怖くて泣いてたら誰かが助けてくれるって、まだそう思ってんの?
虚ろな目をして五条を見上げる少女向かってそう言い放つ。
——死にたいなら一人で死ねよ。
与えられた力があるなら戦え。その想いから出た言葉であった。
その後、呪霊は五条が速攻で祓除し任務は終了したものの、少女は高専へ向かう車の中でもずっと震えて泣いていた。何とか安心させようと懸命に話しかける灰原を横目に、コイツはきっとすぐに死ぬな、と思った。戦う気のないヤツを身を呈して守ってやるほど、五条の懐は深くない。それが一般人ではなく、自身と同じ呪術師であるなら尚更だった。
しかし五条の予想は見事に外れることとなる。
スカウトから半年後、少女は正式に呪術高専に入学してきた。再び相まみえた少女は、出会った時とは全くの別人だった。自分の両足で立ち、真っすぐ世界を見据え、全身傷だらけになりながら勇敢に呪霊と戦う姿を見た時は驚いたものだ。
——自分のやるべきことは分かった。あとは耐えられるところまで耐えるだけです。
真っすぐ五条を見据えてそう言ってのけた少女の目には、一種の狂気にも近いものが宿っていた。呪われた両親を見た時に感じた違和感。五条はその時、その全てを理解した。
あれから五年。眠々子の体には今も傷が増え続けている。果たしてその傷は外見的なものだけだろうか、と五条は考える。
本来であれば呪術師の先輩として、上司として、教職に就いた者として、仲間の精神状態も気にかけてやるべきなのだろう。だが、五条が手助けせずとも、眠々子の精神は驚くほどの均衡を保って、今も呪術師であり続けていた。初見では確かに呪術師としての将来性は皆無だと思われたが……この不憫な後輩の存在は、人は見かけによらないものだという学びを五条にもたらした。
過去を思い起こしながら、眠々子にゆっくりと近づいていき、その頬に触れる。眠々子は特に驚いた様子はなく、少し嫌がるようにろのろと身を引いた。乱れた前髪の隙間から覗く傷跡は今も尚、眠々子の存在を傷付ける。
「あーあー、綺麗な顔が台無し」
頬に走る切り傷からは、血が垂れた跡が残っている。こんな姿のまま数時間も電車を乗り継いで帰ってくるなんて本当にどうかしている。眠々子はいつも、五条たち上級呪術師のことをイカレているというが、自分も他の呪術師に負けずとも劣らないイカレ具合だということには気づいていない。
——自分がどういう空気出してるか分かってる?
声には出さずに問いかける。眠々子はもっと自覚するべきだ。世の中加虐性を持っているのは、五条だけではないのだから。
その赤い一本線に沿って、すぅっと指を走らせる。
「眠々子を傷つけていいのは僕だけなのに」
そんな言葉が無意識のうちに口をついて出てきた。
眠々子は一瞬呆気にとられた何とも言えない顔をした後、心底嫌そうに眉を寄せた。
「今のってパワハラに入りますか? 録音して提出しようかな」
「やだなあ、眠々子も合意の上、でしょ」
「ええ……怖いこと言わないで下さい」
五条を見上げる真っすぐな瞳は、人の暗い部分なんて何も知らない澄み切ったもので。自身の持つ六眼よりもずっと、稀有で美しいものなのではないかとすら思えてくる。
「加虐性愛と被虐性愛ってあるでしょ?」
果たして彼女に理解できるだろうか。
「僕さ、呪術師はだいたいどちらかに分かれると思うんだよね」
止めどなく沸き上がるこの加虐心が。
眠々子は自分の事を、ごく普通の感性を持った人間だと思っているみたいだけれど、それは違う。高専に来て五年。自分が昔と変わったことに、眠々子は全く気づいていない。それが何とも可笑しい。
「可愛い後輩には、やっぱ強くなってもらいたいからさ。これも一種の愛情表現ってヤツ?」
ありきたりな言葉で隠す。その中に少しの本音を混ぜてみても、眠々子は五条の宿す加虐性には気づきもしない。
「でもさ、その愛がいつ憎しみに変わるかは分かんないよね」
”愛”という言葉を用いる五条が、今眠々子を見て考えていることが何か、など想像したこともないのだろう。彼女の思う愛はきっと純粋無垢で、無償で与えるもので。人の感情に誰より敏感で、人の苦しみを自分の物と考える。だから眠々子、自分にもたくさん憑いてるの気づいてるよね。それなのに自分じゃ祓うこともできない。「この小さいのには害はないですから……」そう言いながら顔色悪くして、歯を食いしばって、一体どこまで耐えるつもりなのか。
眠々子はきっと将来すごい呪霊になれるよ、なんてのは褒め言葉でも何でもないか。でもだからこそ、簡単に死なせてやるつもりはない。
「ホラ、可愛さ余って憎さ百倍って言葉もあるじゃない? 愛ってのは一度逆方向へ向くと怖いもんだよ」
思案顔で黙り込む眠々子の滑稽な姿を見ていると、自然と笑みが零れてくる。眠々子の考えることは手に取るように五条の中に伝わってくる。だからこそ思うのだ。その均衡が崩れた時、眠々子はきっとだめになる。
考えなくても分かる。呪術師の末路なんてクソだ。
どれほど崇高な目標を持って呪術師になったとしても、気が遠くなるほどの呪霊を祓い、呪い呪われ、いずれ精神の歯車は狂い出す。——五条のたった一人の親友がかつてそうであったように。
思えば五条自身も、どこかのタイミングで頭の螺子が外れてしまっていたのだろう。それが親友を更に追い詰めた。あんな思いはもう耐えられない。失うのはもう嫌だ。
それでも、やはり眠々子もいつか自分の元から離れていってしまうなら。
——いっそこの手で殺したい。
五条の眼下、眠々子が小さく息を呑んだ。
「五条さん……」
「ん? 何?」
「……今、すっごく怖い顔してます?」
僅かに恐怖の色を滲ませた眠々子に、どくんと心臓が脈を打つ。
「えー? ないない、ないよ」
「で、ですよね」
「そうそう。目隠しの下はいつでもグッドルッキングフェイスがあるだけさ。あ、もしかして僕の顔見たかった? だからそんなこと聞いて——」
「あ、じゃあ私は部屋に戻りますね」
「つれないねぇ」
去っていく眠々子の後ろ姿を眺めて拳をぐっと握りしめた。特級呪術師ともあろう自分が、たかが準一級呪術師に感情の波を気取られるとは。
ドアの前で、眠々子はもう一度こちらを振り返る。
「どうしたの?」
「いえ……」
——ああ、眠々子。君って本当に。
「なに、まだGLGと居たいって?」
「それだけは無いですけど」
——本当に、馬鹿だよね。
手を適当にひらひらさせて、追い払う。
「ほら、早く行きなよ」
今すぐその体にこの手で傷をつけることができたならどれだけ安心するだろう。愛というものは本当に皮肉なもので、相手を慈しむ気持ちは一度反転すると悲惨な結末を生み出す。愛とは決して純粋無垢なものなどではなくて、愛とは憎悪。それは眠々子自身が一番よく分かっているはずだ。愛とは相手に無償で与えるものではなく、相手の全てを奪うもの。その矛盾はまるで自身の領域内にいるかのようだと自嘲する。
「早く行きな、」
眠々子が廊下へと足を踏み出したのを確認して、もう一度同じ言葉をかける。
五条の声に眠々子が振り返ることはなく、後ろ手でドアを閉めながら「おやすみなさい」とだけ言い残して、今度こそ部屋を出て行った。
眠々子は何も分かっていない。
眠々子は自分で思うよりもずっと傷つくのが好きな異常者なんだってこと。
「……聞こえなくてよかったねぇ」
眠々子は本当に馬鹿で、そして本当に運がいい。
五条は自身の目元を覆う黒い布を僅かに上げる。色素のない真っ白な睫毛に縁どられた澄み渡る空のような瞳が、去って行った眠々子を思って美しく弧を描く。
今はまだ好きなように生きれば良い。けれどもしこの先、眠々子がおかしくなって、心を壊して、どこかへ行こうとするのなら、自ら命を絶とうとするのなら、それを許容するつもりは一切ない。それはたった一人の親友を失った五条が、果てしない絶望と虚無を伴って得た学びだ。選択肢は二つある。今度は絶対に、間違えない。
「早く行きな、僕が逃してあげてるうちに」
いつか迎える最後の瞬間、眠々子の運命はこの手の中にある。