呪術廻戦
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夢を結ぶ
白い布に包まったまま、のそりと体を起こす。
朝のひんやりとした空気のおかげで、ぼやけた頭が覚醒するまでにそう時間はかからなかった。
高専の自室。窓際に置かれたベッドから見えるいつも通りの景色。木の枝に小鳥が数羽やってきて、何やら話している風なのをぼうっと眺めるのが私の日課だ。
「あれ?」
起床一分。私の思考が停止する。
視線をやった窓の外。いつもあるはずの木がない。当然、小鳥さんたちも居ない。じわり、冷汗と共に嫌な予感が胸に浮かぶ。自身の纏う白い布をまじまじと見つめて、その予感は現実へ変わった。
「嘘、でしょ……」
呟いた私の背後。明らかに人のいる気配がして、私は事の最終確認するべく、ゆっくりと後ろを振り返る。
「おはよう」
当然のように穏やかな朝の挨拶をする様は、やはりもう一線を越えてしまった者同士の空気感なのでは、とますます不安になり、緊張で急激に喉が渇いてくる。
ボリュームのある黒い制服。肩ほどまである黒い髪。可笑しそうに目を細めるその人に、意を決して問いかけた。
「……ヤりましたっけ?」
その人は切れ長な瞳をぱちりとさせたかと思うと、クックと肩を震わせて笑った。
「眠々子、聞き方」
もうちょっと恥じらいを持って、だなんて。今そんなこと気にしている場合ではないのだ。
「ちょ、え? 待って。いや、え? え?」
「落ち着いて」
「よく分からんけどなんかほんとごめんなさい」
「何に対して謝ってるの。落ち着いて」
「いやこれが落ち着いていられますか!?」
昨夜は、久々に休みが被ったから気晴らしに愚痴でも言い合いながら徹夜でボードゲームをしましょう! ということで、傑さんの部屋にお邪魔して夜遅くまで遊んでいた。愚痴を言い合う、というよりは、傑さんが聞き上手なこともあって、調子に乗った私は日本酒の一升瓶片手に……と言いたいところだけど自重して。メロンソーダの缶片手にほぼ一方的に私の話を延々と聞かせ続け、飲み続け……そしてそのまま……寝たのか、それとも何か他にあったのか。……ええ、そうなんです。分からないんです。
両手で祈りのポーズを作り、縋るような気持ちで傑さんの返答を待つ。傑さんは少し頭を傾けてふ、と笑った。
「ヤッてないよ」
その言葉を聞いて引きつっていた顔の筋肉が、解けていくのを感じる。私はどうやら無意識に息を止めていたようで。呼吸の仕方を思い出した私の体がふぅっと長く息を吐いて、また酸素を吸い込んだ。そうしてやっと声を出す準備が整った。
「……良かった。私、犯罪者にならなくて済みました」
「そもそも何で眠々子が襲う側? 普通逆の心配をするもんじゃないかな」
「いやいや! 傑さんがそんなことするはずがありませんから! やるとしたら私しかいないですからね!?」
言い切ったあとに、何言ってんだ自分という気持ちになる。これではまるで常に機会を狙っていたみたいじゃないか。遅れてやってきた羞恥心。慌てて言葉を付け加える。
「だ、だって傑さん、すごく綺麗だから!」
どんな言い訳だ。いや、そもそも言い訳にすらなっていない。だから何? っていう。ただ褒めただけとか、更に気持ち悪さが増しただけでは。
まあ、常日頃から傑さんを綺麗だと思っていたことは事実だ。
五条さんのあの天使のようなお顔を西洋の美とするなら、傑さんはアジアンビューティー。外見で右に並ぶものはいない五条さんに劣らず背が高く、性格は五条さんよりも常識的で物腰柔らか。私たち後輩にも優しい。切れ長の涼し気な目元に、黒くて真っすぐな長い髪。後ろで一つにまとめると知的でセクシー、下ろしてると普通にセクシー。あ、二回も言ってしまった。中国映画のマフィア役とか絶対に会うと思うんだよなあ。
でも違うんです傑さん、これは見たまんまの素直な感想であって邪念はない。決してそんないやらしい目で見ているわけではないんです。
早急に訂正しなければいけないのだが、口を開けばまた墓穴を掘りそうで。頭の中で最善のフレーズを組み立てようと試みたけれど、何も思い浮かばない。ちらり、傑さんへと視線を送る。
目が合った傑さんは「ありがとう」と言って笑った。それを見てホッと胸を撫で下ろす。
「あの、ちなみに傑さんはどこで寝たんですか?」
「ん? ここ」
ここ、と指さす場所はベッドの下の床。何も敷いてない木の床。さあっと血の気が引いていく。
「本当に申し訳ございませんでした」
瞬時にベッドの上で正座をして深々と頭を下げる。
「あっ、こんなベッドの上からなんて頭が高いですよね! すみません、私もいま同じ位置に……」
「眠々子、ほんと一回落ち着きな」
傑さんは笑いながら髪を結ぶ。いつも通りの傑さんの完成だ。
「叩き起こしてくれてよかったんですよ!?」
「できないよ、そんなこと」
「何でですか!」
「幸せそうに寝てたから」
寝顔なんて見ないでくれよ! 傑さん意外とデリカシーない! と思ったけれど、人の部屋でベッド占領して寝られたらそりゃ苛ついて見るよな。なんならもう殺気くらい込めて見るかもしれんわ、と思い直す。私は文句を言える立場ではないのだ。
「歯ぎしりしてました?」
「してたね」
「ごめんなさい」
昔から歯ぎしりの大きさに定評のある私。実家にいたころはよく妹に「ほんとにやばいよ。そのままだと歯無くなるよ」と忠告されたものだ。自分の歯の心配よりも、皆の安眠を妨害していることが申し訳なくて仕方なかった。高専の寮に入って、これでもう大丈夫だと思っていたのに、まさかこんな形で再び人様に迷惑をかけることになるとは。
「そういえば眠々子、寝言を言いながら……」
項垂れる私に、傑さんが声を掛ける。
なんと、歯ぎしりのみならず寝言まで言っておりましたか。言いながら、何ですか。とんでもないことをしていたらどうしよう。実は夢遊病者で、部屋の中うろついてたとかだったらどうしよう。
大きな不安を湛えながら続く言葉を待った。
「すごく幸せそうに笑ってたよ。見てると本当に面白かった」
……え? 歯ぎしりしながら笑ってたんですか? それってめっちゃ怖くないですか? と思ったけど、傑さんが本当に可笑しそうに笑うから、まあ楽しんでもらえたのなら良いか、と思うことにする。
それにしても声に出して笑うだなんて私は一体何の夢を見ていたのだろうか。
「あ……!」
脳の奥底に沈みかけた夢の記憶の端っこをかろうじて掴んで、引き上げる。
「思い出しました! めっちゃ良い夢見たんです!」
「へぇ、どんな?」
「傑さんの呪霊に乗って世界一周する夢です!」
傑さんの反応は微妙だったけれど、素晴らしい夢の興奮が蘇ってきて、私は構わず話を続ける。
「どこかの国の花畑の上を飛んでたんですよ。浮いてる感じもすごくリアルで! 朝焼けの空がすっごく綺麗だったんで、写真撮るからもっと近づいてください! って私がお願いして、傑さんもそっちに向かってくれるのに、何故か全然近づけないんです。そのうち何故か呪霊が二つに分かれてしまって……傑さんは暗い空の方へ行っちゃうんですよ」
そこまで語って、あれ、と思う。
これは楽しい夢ではなかったのか。そのあと傑さんはどうなった? 終わり方はどうだった? 私はどのタイミングで目を覚ましたんだった?
私の話が途切れたところで「なるほど」と、傑さんは短く答えた。
私が能天気に夢の話なんてしたせいで、少し微妙な沈黙が生まれてしまった。何か次の話題を、と周囲に目を走らせて気づく。
「あれ? 傑さんはこれからどちらへ?」
今日が休みだから、という理由で昨夜は遅くまで一緒に遊んでもらったのに。目の前の傑さんは制服を着ていて、その傍らには旅行用の荷物がまとめてある。
「急な任務が入ったんだ」
「まぁじですか! だっる!」
まだ学生の身分とはいえ、呪術師は呪霊を祓うことが仕事。我儘を言うつもりはないが、今年の夏は特に任務が多い気がしてウンザリしていたところだ。夏は移動するだけでも体力を奪われるから嫌いだ。
それでも昨年まだよかった。暑さも、陰鬱な任務内容も、今と同じだったし、慣れないことばかりで常に死と隣り合わせだったが、それでも先輩と一緒に行く任務は楽しくもあった。しかし時は流れて先輩達は其々が術師としての力をつけ、個人任務に出ることが多くなった。ゆっくり顔を合わせて話すことも随分と減ってしまった。
このクソ熱い中、連日任務に駆り出され、人ではなく呪霊の声を聞いていると、気が狂いそうになる時がたまにある。
おどろおどろしい呪霊の姿を見た時、大きな傷を負った時、祓除の瞬間に呪霊の悲しさを垣間見たとき。
もう耐えられない、という思いが浮かぶことがある。そしてすぐにしまい込む。考えてしまったらもう、後には戻れない気がして。
傑さんのような特級呪術師ならば、そんなことはないのだろうなと思った。
昨夜。任務帰りだった私は自室へ戻る途中に自販機に寄った。そこで偶然傑さんと出会った。いつぶりだっただろうか。ジュースを飲みながらお互いの近況を話していると、偶然休みが被っていることを知った。私自身が限界だったというのもあるが、それ以上に傑さんがやつれたような気がして、何か話せたらいいなと思い勇気を出して誘った。昔のように皆でわいわい……とはいかなかったけれど、傑さんと二人だけでも、夜更かししてはしゃいでいると高専に入学したての頃の先輩後輩の関係に戻れたような気がして楽しかった。それなのに。
「ごめんなさい、これじゃ傑さんを疲れさせただけでしたね……」
傑さんを元気づけるつもりが、自分の愚痴ばかりを話しまくった上に、まさか傑さんのベッドで寝てしまうとは。
「大丈夫だよ」
顔こそ微笑んでいるものの、どこか生気の抜けた抑揚のない傑さんの声。空気が沈んでいる気がして、私は咄嗟に話題を変える。
「傑さんのベッドって特別製ですか? 特級だから?」
「まさか。皆同じだよ。なんで?」
「いや、なんかめちゃくちゃ寝心地よかった気がして」
布団が特別なのか、それともベッドの大きさか。それとも微かに感じる傑さんの匂いの安心感だろうか。高専の静かな夜は苦手だ。そのまま暗闇に引き込まれるのではないかと、目を閉じることが怖くなる。誰かと一緒に眠る感覚が、私に安眠をもたらしたのかもしれない。だからこそ、寝言で笑えるほど楽しい夢を見ることができたのだろう。傑さんも毎晩幸せな夢を見ているといいな。傑さんにとっての幸せって何なのか私には全然分からないけれど、漠然とそんなことを考える。
傑さんはフフ、と笑って「眠々子にそう言ってもらえて私のベッドも喜んでいるよ」とよく分からないことを言ったかと思うと、すぐに真顔に戻る。
「でも夢を見るときは熟睡できてないっていうから、眠々子はもう一度寝た方が良い。疲れた顔してるよ。眠々子も明日からまた遠方へ任務に行くんだろう」
「……そうでした!」
「そのまま二度寝してもいいよ」
そう言って私が跳ねのけた布団を、もう一度ベッドの上に戻してくれる。傑ママ……。何かを与えてくれるのは、いつも傑さんのほうばかりな気がする。冷静で、しっかりしていて、後輩にも親切で、気遣いもできる優しい人だ。傑さんがいなければ、私はとっくに呪術師を、高専を辞めていたかもしれない。
——術師は非術師を守るためにある。
傑さんが教えてくれた言葉が胸にあったからこそ、いつも寸でのところで踏ん張ることができた。「また強くなったね」と褒めてくれる傑さんが好きだったし、心から尊敬していた。
だけど今の傑さんは以前と少し違っていて、纏う空気に重さがある。疲労のせいだろうか。……何か楽しいことはないものかと思い巡らせ、私は一つ提案をする。
「じゃあお互いにお土産買ってきて、どっちのが美味しいか勝負しましょう!」
「それ、楽しいかな。ちなみに審査員は誰?」
「うーん……五条さん?」
「甘ければ何でもいいんじゃない」
確かに。審査員は別に他の誰でも良かったけれど、五条さんなら傑さんのことをもっと元気づけてくれるような気がした。去年まではいつ見かけても二人一緒にいたけれど、最近はどのくらいの頻度で顔を合わせているのかは知らない。お互いに特級術師同士で、任務を共にすることはもうほとんど無いのかもしれない。でも、もし少しでも時間があるのならばまた二人で笑ってほしい。——私たちは最強なんだ。そう教えてくれたあの頃に戻ってほしい。私では傑さんを笑わせてあげることができないことは、重々承知している。
「じゃあ私はもう行くよ」
荷物を持ちあげ、肩にかける。
「鍵は開けといてくれていいよ」
どうせ何もないから、と傑さんは言った。
「おやすみ」
そう言って部屋を出て行こうとする傑さんのズボンの裾を、ベッドから身を乗り出して掴んで引き留めた。
「傑さん」
こちらを振り返った傑さんは、少し驚いたように黒い瞳を見開いた。
「……大丈夫ですか?」
「ん? 何が?」
「傑さんの方がもっと疲れた顔してる」
どうしてそう思ったのかはわからない。ただ、傑さんは遠くへ行ってもう戻って来ない。そんな気がして。裾を握る手に力を込める。
待って、まだ行かないで。何か楽しい話をしよう。そんな顔しないで。胸がぎゅうっと苦しくなって私は慌てて口を開く。でなければ、傑さんはもう部屋を出て行ってしまう。
「……いつか、本当に世界一周したいですね」
任務じゃなくて、のんびりと。傑さんと色んな場所に行って、色んな美味しいもの食べて、綺麗な景色を見るんだ。おじいちゃんおばあちゃんになってからでもいい。その時、他のみんなも一緒だといいなあ。寝言じゃない、これが本当の私の夢。
「世界中の呪霊を祓除したら、一緒に行きましょうね」
馬鹿げたことを言っているのは分かる。だけど、そんな日は来ない、なんて思いたくない。
黙ったままの傑さんを見つめて、私は笑顔を作り努めて明るい声を出す。
「あ、そうだ! 世界一周はすぐには無理だけど、今回の任務が終わったら、近場にお出かけしませんか!?」
予定が合えば、五条さんと硝子さんも誘って。新宿に美味しいパンケーキのお店ができたんですよ。生クリームもりもりのやつ。五条さんは絶対あれ好きだよ。七海君も伊地知君も呼んだら来てくれるかなあ……皆マイペースだから喧嘩しないようにしなくちゃ。団体行動できそうな人が皆無で、かなり不安だ。まあでも、いつか行く世界一周旅行の予行練習みたいなものだから。
「約束です」
傑さんの瞳を真っすぐ見据えて言う。
「ああ、約束だね」
傑さんが微笑んだ。
***
「嘘、だよね……?」
声って本当に震えるんだ。ぐちゃぐちゃの頭で、そんなくだらないことを考える。またいつもの冗談でしょ、だなんて。問いかける必要がないことは、目の前の五条さんの顔を見れば分かった。
「え、だって……だってついこの間まで一緒にゲームして……それで……っ」
いつか一緒に世界旅行しようって……そう、約束したじゃないか。
——大丈夫ですか?
本当は、そんな言葉なんの意味もないって知ってたんだ。
「眠々子……」
硝子さんが私の肩に手を置いた。
「ごめんなさい」
その僅かな重みで、私は深く俯き、唇を噛み締める。
「ごめんなさい、私が……」
傑さんが任務地へ向かう時、最後に会ったのはきっと私だった。どうしてあの時もっと本気で傑さんを引き留められなかったんだろう。
傑さんの心に届く言葉を、私は言えなかったんだろう。
——ああ、約束だね。
あの時の言葉が、微笑みが、心の底からのものではないと私は気づいていたはずなのに。
傑さんは大丈夫。今は苦しくてもまた戻ってくる。だって傑さんはすごい人だから。
そういう期待も尊敬も何もかもが、傑さんの重荷となっていたのかもしれない。
——傑さんも幸せな夢を見ているといいな。
傑さんが呪霊を取り込むとき。誰にも気づかれない程にほんの少し眉を寄せて辛そうな顔をしているのを知っていた。何と言葉をかけたら良いか分からず、私はただただそれを見守った。
いつの頃からか。傑さんが人を見る時の目が冷たくなった。その瞳の奥に軽蔑があることを知っていた。それでも私が声を掛けた時は、前と変わらず優しく目を細めて笑ってくれたから、だからあえて聞くことはしなかった。
任務帰りのあの夜。たくさんの呪霊を祓って祓って祓って、頭が変になって、逃げ場もなくて、もういっそ任務中に一思いに死んでしまえば良かったのではないかと最低なことを考えていた。自販機の前で突っ立っていた私に「大丈夫か? 話を聞こうか?」そう尋ねてくれた傑さんの目を見て思った。ああこの人は、私なんかよりずっと、もうあちら側に行ってしまっている、と。
傑さんはきっと、幸せな夢なんて見ていなかった。
全部、全部知っていたのに。私は一度だって気の利いた言葉をかけることができなかった。
何かが頬を伝っていく感覚がして、足元にぱたぱたと小さな染みができる。自分は泣いているのだと、初めて気づいた。
私、面白い話をたくさん用意しておきますから。呪霊の味がどんなのかなんて私には想像もつかないけれど、そんな辛いこともうしなくていい。私がその分たくさん呪霊を倒しますから。いつかなんて言わないから。一人にしないから。そんな暗い方じゃなくて、他の道を一緒に見つけるから。だから。
「そんな顔しないで、傑さん……」
夢じゃなかったんだ。分かっていた。
あの夜、ふと目を覚ました時に見えた。震える傑さんの背中を、迷わず抱きしめていれば良かった。