だから彼女はにゃーと鳴く。
空が青い。吐く息は白い。そうして混ざり合って水色になればいいと思う。別に水色、それほど好きじゃないけど。
とりあえずあれだよね。二月って寒いよね。
「シロ」
広い公園の隅っこにしゃがんでいたら、背後で聞き慣れた声がする。こんな日には決まってやってくる。それを分かってて来てるわけじゃないけど。ここは私のお家。君はお邪魔してる身なんだよ、だから。
「気安く呼ばないでよ」
「あ、ごめん」
「別に謝んなくていい」
「ごめん……あっ」
「……」
こんな寒いお家にやって来る物好きさんは、黙って隣に腰を下ろす。私はその人をじぃっと見詰めてみる。
「シロ、照れる」
「あっそ」
「あっそ、って。もっと構ってよシロ」
その瞳は柔らかく垂れる。
「どうしたのシロ」
その人は穏やかな口調で囁いた。私の頭を撫でる手。子供扱いされてるみたいで気に入らない。そもそも、この公園に入っていいって言ってないし。これ不法侵入で通報できる?
「……」
「シロ?」
「気安く触んないで。毎日来ないで。それから先に言っとくけど謝まんないで」
「ごめ・……あっ」
「……今のはノーカン」
「よし!」
「・……」
「今日は寒いね。シロはそんな薄着で寒くないの? 風邪ひかないの?」
「寒いよ」
「じゃあなんでいっつもここにいるの?」
「……」
「シロ」
マフラーに顔半分埋めたら、その人はわざわざ私の顔を覗き混んで「ねぇ、なんで?」と聞いてくるから、私は立ち上がってブランコに座った。凍りそうに冷たいチェーンを握って強く地面を蹴る。
「シロ寒くない?」
「寒い」
「じゃあブランコ止めてこっちおいで」
ほらっと制服のポケットからカイロを取り出してみせるその人の手は赤い。私より寒そうに見えた。
風に揺れる、その明るい色した髪に触れてみたい。少し震えてる体をギュッとしてみたい。だってそうすれば、きっと私があったかいから。
「シロー」
「……」
「こっちおいでー」
「……やだ」
「なんでー」
「好きだから」
「……俺が?」
キッと睨みつければ、その人は頭を掻いてはにかんだように笑う。顔が真っ赤。耳まで真っ赤。ついでに鼻まで赤い。間抜け。
「寒いの、好きだから」
「あ、そっちね……」
「寒いのが、好きだから」
「いや二回言わなくてもいいよ。分かったから」
「好きだから」
「……? それは、何が?」
「ココア」
ずっと遠くに見える自販機を指差してそう言えば、不思議そうに首を傾げる。
「要るの?」
「別にそういうわけじゃない」
「ちょっと待ってて」
ズズッて小さく鼻をすすりながら優しく微笑んでその人は走り出す。——甘やかしすぎだと思う。捨て猫程度にこの待遇じゃ、良い人過ぎて騙されないか心配になる。
君は優しく頭を撫でてくれる。柔らかく微笑んでくれる。でもそれって甘いだけじゃん。物好きなだけじゃん。こんなとこに捨てられているのがおもしろいから近寄って見てるだけでしょう? 暇だから少し構ってやるかって軽いノリでしょう? いつもすぐに謝ってくるけど、それって口だけでしょう? ——ねえ、私のこと嫌いでしょう?
「俺も好きだよ」
足元に薄い影ができたと思ったら、いつのまに戻ってきたのかその人が隣に立っていた。
「……何が」
「え? ココア」
「……ふん」
吐く息が白い。走って戻ってきたの? それは優しさなの? じゃあ、どうして私を拾ってくれないの?
「あったかいよ。シロ」
「……よかったね」
「そんな人事みたいに言ってないで、はいこれシロの分」
「……」
「……冷たっ」
「……ねぇ、馬鹿なの? なんで自分は冷たいの飲んでるの?」
君には寒いという感覚がないんですか。
「馬鹿じゃないよ。あったかいココアと冷たいココア並んでて、うっかり間違えて押しちゃった」
「やっぱ馬鹿だ」
あったかいココアは冷え切った指先をじんわり暖める。凍りそうだった手が溶けてくみたいに、心も溶けたらすごいのに。
見上げた空はさっきよりほんの少しだけ柔い色。
「私そっちのがいい」
「え? あっシロ……」
「あんたがあったかい方飲めば」
「……」
「……」
「じゃあカイロあげる」
「要らない」
「いーから」
そう言ってその人は私のブレザーのポケットに無理やりカイロを押し込んでくる。要らないって言ってるのに。めんどくさい。こんな優しさは要らない。
——君は聞いたことがない?
「捨て猫がいました。お腹が減ってるみたいでした。雨に濡れて震えていました。だからご飯をあげました。命を救ったみたいで誇らしい気持ちになりました。それをお母さんに話したら、もう餌をやってはだめだといいました」
「何かの話? 絵本とか?」
「次の日も猫に会いに行きました。それを話したら今度は叱られました。撫でてもだめと言われました。もう会いに行っちゃだめだと言われて悲しくなりました」
「なんかリアルだね。それ実話?」
「はい問題。なんでお母さんはだめといったのでしょうか」
「おーいシロー。会話できてないんだけど」
「十秒以内にお答えください。じゅう、きゅう、はち……」
「ちょっ、タイムタイム! 考えるから!」
「はい、時間切れ。正解は、餌をやったら期待するからです。次も貰えると期待するからです。抱きしめられたらあったかさを覚えるから、平気だった寒さが平気じゃなくなるからです。前より弱い存在になってしまうからです」
「・……シロ?」
「そうして、死んでしまうからです」
——全部全部、君のせい。
私がこんなにも寒いのも、死にたくなるのも君のせい。無責任な優しさで、私を振り回す君のせい。
「私みたい」
「何が?」
「さっきの話」
「えっ! どこが!?」
「全部」
「全然違うよ」
「違わない」
だって飼ってくれないじゃん。見てるだけじゃん。去ったあとの寂しさも後ろ姿を見送る苦しさも知らないくせに。わざわざこんなとこ来なくていいのに。別の場所で、他に良いの探したら? 他にたくさんいるでしょ。こんな捨て猫に会いに来なくても……ほら、血統書付きとか? 君は良いとこの制服を着ているよね。
あんまりな例えを想像して、自分で苦笑いをする。
「……それってつまり、学校とかで良い人探せってこと?」
「そうだけど」
「シロは例えがおもしろいね。うん、発想が普通と違うわ」
何がおもしろい? 正直言えば、悪口言いたかっただけなんだけど。動物扱いしたんだよ今。君の周りの人のこと。私って最悪な奴でしょ。だから愛想つかして下さい。嫌いになって下さい。私が死ぬほど弱くなる前に。
***
「今日も寒いね」
「寒いなら来なきゃいいじゃん」
「それはだめ。俺が見てなきゃ他のやつにすぐもらわれる」
拗ねたような、はたまた冗談みたいな、読み取れない口調で君は言った。その後はただ黙ってこちらを見つめてくる。
「ほら、これ結構恥ずかしくない?」
「別に」
ふいと目を逸らしてまた足元を見たら、さっきまで眺めていた蟻の行列はもういなかった。なんだ、蟻にも帰る家があるんだ。
「誰ももらわないよ」
やっぱりないのは私だけ。今の言葉に何も返してこないのは、君なりの優しさですか?
「安心して家に帰っていいよ」
「……シロが帰るなら俺も帰るよ」
「ふぅん、じゃあ一生帰れないね」
「まじすか。じゃあ今夜はここで寝る感じか……いやでも死ぬのかなこれ。超寒いし」
「君が寝てる間に私は勝手に帰るけどね」
「ひでー」
君は、楽しそうに笑う。笑い方も存在感も、ふわっと髪を撫でる風みたいに心地よくて優しい。ずっとその感覚を味わっていたい。
だけど数日前に突然現れた君は、また突然いなくなるのかもしれない。こんな私に構う物好きは君だけ。みんな素通りする。助けてって力一杯言ってるつもりなのになあ。
あそこで泣いてる小さな女の子は、どうしたの? どこか痛いの? 悲しいの? 迷子なの? って聞いてもらえるのに、私には誰もそんな言葉はくれない。可哀相なやつだなって、せいぜい物好きが寄ってきて、暇つぶしに構ってくれるだけ。どうでもいい言葉をくれるだけ。
私だって泣いてるのに。気付いてよ、助けてよ。少し話しかけて、頭を撫でてそれで助けたつもり? いい加減にして。そういうのは自己満って言うんです。だけどお願い。こんなこと言う私を嫌いにならないで。
隣に目を向けてみれば、君は空がだんだんと鼠色に変わっていくのを心配そうに眺めていた。
「……もう帰ったら」
そんなに雨が心配なら。
「でも……」
「何?」
「シロは……いや、いい。やっぱなんでもない」
「言ってよ」
「……」
「言っとくけど、寂しくないよ私」
ハッとしたように目を見開いてから、君はとても悲しそうに微笑んだ。
「一人はいいよ。何も起こらないもん。疲れないもん」
誰かと触れ合う暖かさも。離れていくときの孤独も。心にぽっかり穴が開くような虚無感も。
君を突き放すためにはこの言葉は必要で、私は当然のことを言ってるつもりなのに、それには慣れてるはずなのに。どこか苦しいような気がした。
「それはつまり、穏やかってこと?」
「そう」
一人きりの海に波はたたない。
「それは孤独と同じことだよシロ……」
「孤独なんかじゃない」
認めたくない。認めたら今まで強がってきたこと全部、無駄になっちゃうみたいで。
「……じゃあどうしてシロは泣きそうな顔してるの?」
「……」
「何が怖いの?」
「……」
「言ってよ、シロ」
そんなこと、絶対ない。もしあったとしても君には教えない。私はあの人にしか教えない。
「もう帰ってよ」
その人から目を逸らして出来るだけ冷たい声で突き放す。
「……」
「ばいばい」
「……シロもちゃんと帰りなよ」
「……」
「ずっとこんなとこにいたら風邪ひくからさ」
「……」
「ごめん」
一言、そう残して去っていく後ろ姿は寒そうに背中を丸めてる。風邪ひきそうなのはそっちのほうじゃん。
だけど、無責任なきみのせいで、私も今年の冬を越えられそうにない。