働く橙の亀さん
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「戻りましたーぁ……」
喫茶店でサワコから心を抉られるような言葉を浴びせられた後。
ミケランジェロはなんとか当初の予定通り外回りをこなして、会社に戻った。
「ん……みんな出払ってるんだ……」
社内には、普段社長室にいるはずのスプリンターが1人、レオナルドのデスクに座っていた。
ハマト運送は社長以下従業員4人の小さな会社。
仕事が立て込めば、社長自ら電話番にあたることも決して珍しいことではなかった。
「おお、お帰りミケランジェロ」
優しい笑みを向けてくれるスプリンターに、笑顔を返す力が、湧いてこない。
ーどうせ、何とも思ってない、くせに……ー
いまだ頭の中で響き渡る、サワコの冷たい声。
その表情は怯えを通り越して、傷ついているようにすら見えた。
今まで自分が見てこなかった、見ようと思うことすらなかった部分を、まざまざと見せつけられた気分だった。
「……あのー社長、」
「ん、どうした?」
口では『社長』と言いながらも、声音に滲んでいるのは明らかに息子としてのそれで。
スプリンターはそんな末っ子を微笑ましく思いながら、書類に目を落としたまま返事をした。
「オイラって……」
「うむ」
「その……自分勝手?なのかな……」
自分の席ではなく、スプリンターの座るレオナルドの席の隣ー本来はラファエロのデスクであるーに腰を下ろしたミケランジェロが、チェアの背をキイと鳴らしながらぼそっと口にした。
予想とは違ったその言葉に、スプリンターは思わず書類から顔を上げる。
「レオも、ラフも、ドニーも……自分じゃない人の気持ちもちゃんと考えてるのに。オイラ、オイラ……」
「自分は考えていない、と。そう思うのか?」
コチ、コチ、コチ。
壁掛け時計の秒針の音だけが聞こえる社内に、スプリンターの静かな声が響く。
「女の子に、言われたんだ。『どうせ、何とも思ってないくせに』って。言われて、オイラ……」
「……」
スプリンターは無言でミケランジェロの言葉を待つ。
そしてー
「すっごく、寂しかった……」
聞こえてきた声に、デスクチェアを回して身体ごとミケランジェロの真正面に向き直った。
「その時、みんなのこと思い出して。みんな誰かを大切にしてるのに。オイラ、今まで何とも思わないで、ただ自分が楽しいからって、女の子たちと付き合ってきたのかなって……」
「うむ」
「それって、自分勝手なんじゃないかなって……。ひょっとしたら、自分勝手に、誰かをすっごく傷つけてきたんじゃないかなって……」
脳裏に、先ほどのサワコの顔がまた蘇った。
怯えを通り越して傷ついたかのような、表情ー。
「ミケランジェロ」
「は、はいっ」
真正面からスプリンターに見据えられて、ミケランジェロが思わず姿勢を正す。
「わしは、お前のことを自分勝手だと思ったことはないぞ?」
「そう……ですか?」
ミケランジェロがおずおずと遠慮がちな瞳を向ける。
「うむ。お前のその奔放さは、わしら家族をいつでも力強く照らしてくれる、大事な光じゃ」
「……」
「しかし」
スプリンターの言葉に明るんだミケランジェロの顔が、再び緊張に彩られる。
「その奔放さで、誰かを傷つけてしまったと思うのであれば」
「それは、きちんと謝罪しなければならない」
「光は救いとなる。しかしーこれはどんなことにも言えることだが、人によってはその救いが凶器にもなり得る」
「……」
「だからこそ、真摯な言葉を重ねていかなければいけない。……一度や二度の逢瀬では、なにもわからんぞ?」
スプリンターが、片眉を上げて困ったように微笑んだ。
「せんせっ……、社長」
思わず普段の呼び方を口にしかけたミケランジェロが、慌てて呼び直す。
そんな彼のさまに、スプリンターは口元の笑みを深くした。
「お前が心からの気持ちで相手に接すれば、相手も心を見せてくれるものじゃ」
そういうと、スプリンターはミケランジェロの頭にそっと手のひらを置き、優しく撫でた。
幼いころ、よくしてくれたように。
「お前はいい子じゃよ、ミケランジェロ」
「へへ……っ」
数分前、海の底に沈んだような暗い顔をしていたミケランジェロの頬に、緩やかな笑みが戻った。
++++++++++
それから数日が経った。
あの日以来、ミケランジェロは毎日のように喫茶店に赴き、サワコの姿を探していた。
『どうせ、何とも思ってないくせに』
そう思わせ、そしてあんな悲しい顔をさせてしまったことを、謝りたかった。
馴染みの店員が言っていたセリフを、今更ながら思い出す。
ーでもね、サワコちゃんは難しいと思うよー。なんたって、ウブだから
それに、自分はなんと答えた?
ーウブな子とデートとか、最近してないからなー
確かに、そう言った。
まるで、ゲームか何かの商品のような言い草ではないか?
そう。
『どうせ、何とも思ってないから』こそ、あんな言い方が出来たのではないか。
何とも思ってないからこそ、言われた側の気持ちを考えることなんて思いつきもしなかった。
ーけど、けど、今ならオイラわかるんだ
ーあんな言い方は、相手を傷つけるだけだって。相手を傷つけて、オイラ自身も、傷つくって
ーだから、ちゃんと真剣に、謝りたいんだ
しかし、そんなミケランジェロの思いを知る由もないサワコは、彼の姿を見かけるたびに店の奥へ引っ込んだり他の客のテーブルへ水を補充しに回ったりーとにかくミケランジェロを避け続けていた。
ただ、あれ以来たった一度だけ、ミケランジェロのテーブルにサワコが注文を取りに来たことがあった。
##########
それは、つい昨日のこと。
「アンチョビピザと、ホットココア、ください」
「……かしこまりました」
ぎこちなく言葉を発したミケランジェロの注文を受け、これまたぎこちなく伝票に書き込んだサワコが、その身を店の奥へと向けた時、ミケランジェロは再び口を開いた。
これ以上ないというくらい緊張して。
けれど、精一杯の気持ちを込めて。
たった一言、
「ごめんなさい」
と。
するとサワコは動きを止めて、ゆっくりとミケランジェロの方に振り向き、その目を、合わせた。
サワコの黒い瞳が、ミケランジェロの真剣な瞳を、確かに捉えたのだ。
その黒い瞳はハッとしたように大きくなり、そしてー
我に返ったように店の奥へと行ってしまった。
##########
ーサワコちゃんは、確かにオイラのこと見てくれた。
ーだからきっと、いつか話せるはず
気づけばミケランジェロの中で、サワコの存在が大きなものになってきていた。
自分の軽率な発言に傷ついてしまった、その繊細な心の内をもっと知りたい。
あの鈴が鳴るような可憐な声を、もっと聞きたい。
そしてー
ーオイラのこと、もっともっと、見てほしい
ーわかって、ほしい
これまで、相手の女性に『自分をわかってほしい』などとは、微塵も思ったことはなかった。
デートを約束して食事をしー時には、肌を合わせることも少なくなかった。
ーでも、それだけだったんだ
むしろ、それだけでいいとさえ、思っていた。
毎日のようにかかってくる電話をただただ鬱陶しいと感じ、何故に更なる逢瀬を求めてくるのかが理解できなかった。
でも、今ならわかる。
あの電話の向こうの女性たちも、ひょっとしたら今の自分のように『あなたを知りたい、私を知ってほしい』という切ない願いを持っていたのかもしれない、と。
そこまで考えて、とてつもない罪悪感に苛まれた。
けれど、すべては自分が蒔いた種なのだ。
いつかはそれらの女性たちにきちんと誠意を持って謝罪しなければならないだろう。
だがー
ー今は、サワコちゃん
ー君のことしか、考えられないよ
++++++++++
サワコの引越しまで、あと1週間となった。
今日も今日とて、ミケランジェロはサワコが働く喫茶店に通っていた。
今では、ここで彼女を見つめながら朝食と昼食をとるのが日課となっている。
「おはよ、ミケちゃん。今日は早番だから、もういるよ。……今、ココア持って行くから」
「ん、おはよー。……そっか、いるんだ」
毎日通ってきては、切なげにサワコを見つめていくミケランジェロ。
以前とは明らかに変わってきている彼の姿を見つめ、馴染みの華やか店員は穏やかに微笑んで店の奥へと入っていった。
そんな彼女と入れ替わるかのように、サワコがホールへと出てくる。
あのたった一言の『ごめんなさい』を伝えられた時以来、彼女と話らしい話はできていなかった。
けれど、サワコを見つめるだけで穏やかになる自分がいる。
ー誰かを見ているだけでこんな気持ちになるなんて
ーこんなに気持ちがほかほかするなんて、知らなかったなあ……
まともに話なんてできていないはずなのに、サワコをこの目に映せただけで、嬉しさのあまり小さく笑みが浮かんだ。
ココアを運んできた華やか店員にも、『ありがと』と簡潔に返すだけ。
店内に入った途端、女性店員を見回す癖もいつしかしなくなっている。
それくらい、ミケランジェロの心はサワコに埋め尽くされていた。
と。
今店内に入ってきた男がミケランジェロの目に留まった。
どこかで見たことがあると思いきや、いつぞや、サワコに話しかけてあの花のような笑顔をもらっていた相手だと思い当たった。
なんとなく面白くない気分のままに見ていると、彼は友人らしき男を2人連れており、そのままミケランジェロの後ろのテーブルに腰掛けた。
どうにも居心地の悪さを感じて、今は早々に引き上げまた昼にゆっくり来ようかと腰を浮かせかけたミケランジェロの耳に、彼らの会話が入ってきた。
「あ、あの子?お前が言ってたのって」
「そーそー。な?可愛いだろ?」
「まあ確かに……。でもなんか、おとなしそうだな。つまんなくね?おとなしすぎるのって」
「馬っ鹿、そこがいいんじゃん」
彼らの視線の先を見るに、会話の中心となっているのはどうやらサワコらしかった。
聞いていて決して気分がいいとは言えない会話の行く末が気になり、ミケランジェロはそのまま椅子に座りなおした。
「てかさあ、俺、あいつ知ってる」
座りなおしてココアを一口飲んだ途端聞こえた声に、心臓がどくりと脈打った。
ーサワコちゃんの、知り合いなの……?
そのまま、意識を後ろのテーブルに集中する。
「あいつ、学生時代の同級生だったんだよ」
「へーえ!」
「でな、すっげぇ笑える話があるんだけど」
「なになに?」
男たちが幾分声を潜め、楽しげに含み笑いを漏らす。
「あいつさあ、すっげーおとなしくてさ、なんつうの、全然恋愛とか縁なかったみたいで」
「でもそこそこ可愛いじゃん?だから、俺の友達が声かけたわけ」
「ふんふん」
「あ、なんか俺展開よめてきたわー」
男たちの口調と、サワコがウブだということ。
いやがおうにも、ミケランジェロの心に嫌な予感が渦巻き始めた。
「まあ聞けって。それで友達がさ、軽く、デートしよーって言ったらホイホイついてきて。ファーストキスもらったとか言ってたわ」
「そんなおとなしい女がファーストキスとかしたら、もう相手にメロメロになるんじゃねえの?」
「メロメロって、古いなお前ー」
「いやいやそれがその通りだったみたいで。で、アイツんちってすっげぇ金持ちなの。ほら、この菓子ー」
と言って、男が何やら鞄から取り出すような物音が聞こえる。
ミケランジェロは、すでに湧き上がる怒りをどうセーブするかで精一杯になっていた。
「今売れてるやつじゃん」
「そうなんだよ、ここ!この菓子の会社の役員なの、あいつの親父。だから俺の友達さ、あいつが自分に参ったのをいいことに、本命の彼女に貢ぐための金をあいつからもらったりしてたって言ってたんだよ」
「うわあ」
「ほら、予想通りだったー」
「しっかしすげぇなお前の友達。それまでにも何人か騙してたんだろ?」
「それが違うんだよ、あいつもそんなことしたの初めてで。だから、サワコがウブすぎんだよ」
「ん、ってことはさ、今回うまいことヤれるまでいったら、俺、そいつよりもすっごい金手に入っちゃう?」
そして、3人でゲラゲラと笑いだす男たち。
ミケランジェロは、もう限界だった。
しかし、ここは店内なのだ。
社会人の端くれとして、店の中で揉め事を起こしてはまずいことに神経を配れるくらいには、落ち着いていた。
ゆっくりと、肩越しに振り返る。
突然振り向いた前の客に、男たちが怪訝そうな視線を向けてくる。
「あのさあ」
「ん?なにアンタ」
「女の子をそんな、ゲームの商品みたいに扱っちゃダメだよ」
「はあ?」
男の1人から、明らかに嫌悪の色が含まれた声が発せられた。
けれど、ミケランジェロは淡々と続ける。
「そんな、そんなの……相手も自分も傷つくだけなんだから」
「……オイラにも経験があるから、すっごくわかるんだ……」
最後、消え入るように呟かれた言葉は聞こえたのかどうか。
それでも男たちを怒らせるには充分で。
「お前、なんなんだよ」
「腹立つなぁ」
「オイラは」
くるりと身体を反転させ、男たちを真正面に見据える。
「お前らのほうがよっぽど腹立つよ」
「ああ?」
男たちのうちの1人、サワコに笑いかけられていた男が立ち上がり、ミケランジェロの胸倉を掴んだ。
そのまま引き上げられ、ミケランジェロが座っていた椅子が大きな音を立てて床に転がる。
「きゃあ!」
客か、店員かー
どこかから女性の悲鳴が聞こえた。
途端にざわめき始める店内。
「おい、やめとけ!人目あるし、まずいって」
友人の言葉に、握った拳を宙に浮かせたまま躊躇する男。
対してミケランジェロは罵りの言葉を言うでもなく、殴りかかるでもなくー鋭い目を男に向けていた。
その目に、サワコを侮辱した男たちへの憤りの色をたたえて。
「もうこんなやつ放っておけよ、お、俺は行くぞ!」
「チッ!」
怯えたように震え声で言い捨て、1人が入り口から姿を消した。
と、まるでその後を追うかのように残りの2人もバタバタと退散していった。
掴まれた胸倉に多少の息苦しさを感じるものの、店内は椅子が倒れている以外は無傷だった。
とりあえずそのことに安堵し、ミケランジェロは店内を見渡した。
そこそこに混み合う朝の時間の客たち、それに、店員たちも全員ホールに出てきている。
ーそこにはもちろん、サワコの姿もあった。
サワコを見つめ過ぎないように、意識して視線を外す。
倒れている椅子を直して今一度店内に目をやる。
そして。
「お騒がせして、申し訳ありませんでしたー!」
大声でそう言い、ミケランジェロは以前レオナルドに特訓された深い深いお辞儀をした。
顔をあげ、ココア代金には少し多い金額をテーブルに置く。
店中の視線を集めたまま入り口まで歩いたところで、振り返る。
そしてー他の店員に混じって不安げな顔を向けているサワコにちらりと視線をよこして、もう一度ぺこりとお辞儀をし、店を出ていった。
++++++++++
ミケランジェロが店を出ていってから数十分後。
店内は、ようやく普段の落ち着きを取り戻しつつあった。
小休憩のためバックヤードに入ったサワコを、先に休憩に入っていたキキョウがふんわりと笑顔で迎えた。
「お疲れ様、サワコちゃん」
「キキョウさん……お疲れ様です」
「さっきは、びっくりしちゃったね」
「ええ、本当に……」
「もう、なんなんでしょう、あんな野蛮な……。誰にも怪我なくてお店も無事だったから良かったですけど……」
息を吐きながら、キキョウの横のパイプ椅子に腰掛ける。
『ごめんなさい』と自分に謝ったミケランジェロと、男たちとあわや喧嘩という事態を引き起こしそうになったミケランジェロの差異に戸惑いを隠しきれず、つい、責めるような口調で口にした。
「違うよ、サワコちゃん」
しかし、そんなサワコにキキョウの諭すような声が届く。
「え……?」
キキョウを見やれば、彼女はとても真剣な表情をしていた。
「私ね、あの3人組のお客様の近くで対応していたから、聞こえたの」
「何が、ですか?」
「あの男の人たちね、」
キキョウはそこで一旦言葉を区切り、椅子に腰掛けている自分の膝を見つめ、そして、再びサワコを見つめた。
「あなたのこと、話していたの」
「私の、こと……?」
「3人のうちの1人が昔のあなたを知っていたみたいで……その」
キキョウは言いづらそうに、口をつぐんで、けれど言うしかないというように軽く息を吸って、続けた。
「男の人に、騙された、って……」
「……」
サワコの顔から、表情が抜けた。
ーはあ?俺がお前に本気になるとでも思った?
ー馬鹿じゃねえの、お前と付き合うメリットなんて金持ちってことくらいだろー?
蘇る声に、思わず眉がくっきりと歪んでしまう。
「嫌な思い出、だよね、きっと。ごめんなさい、思い出させてしまって」
「でもね、それに対して」
「怒ったの、ミケランジェロさんが」
その時、サワコの心の暗闇に、小さな光が灯った。
少しだけ緩められたサワコの眉に気づいたキキョウの声音が、より優しいものに変わる。
「あの人が、ですか……」
「うん。『女の子をゲームの商品みたいに扱っちゃダメだよ、そんなことしたら、相手も自分も傷つくだけなんだから』って」
「……」
「『自分にも経験があるからわかるんだ』って、言ってた」
「……」
黙りこくったままのサワコに視線を向けたキキョウが、ゆっくりと話し始める。
「違ったらごめんね。……ハマト運送が見積もりに来た次の日、サワコちゃんの元気がなかったのって」
「ひょっとして、ミケランジェロさんに何か言われちゃったからなのかな、って思ったの」
サワコがハッとしたようにキキョウを見つめた。
「ふふ、私もね、前に声かけられてびっくりしちゃったことがあったから」
「……」
「私はびっくりで済んだけど、その……サワコちゃん、そういう思い出があったなら、きっと、すごく嫌だったんじゃないかなって」
キキョウの言葉に、サワコの唇が何かを言いかけるかのように開いた、が。
そのまま、閉じてしまった。
そんなサワコに、キキョウはゆるりと微笑みかける。
「でも、優しい人で、良かったね」
「優しい……?」
すがるようなサワコの目が、キキョウを見つめた。
「うん。ミケランジェロさん、優しいよね?だって、サワコちゃんのことを考えて怒ったんだろうから」
「お店のものも何一つ壊してないし。ね?」
朗らかに微笑むキキョウの声を聞きながら、サワコは考えていた。
ー私のことを考えて、怒った
ーあの人が……ううん、
ーミケランジェロさん、が
それは、初めてー
サワコがミケランジェロの名を紡いだ瞬間だった。
++++++++++
翌日。
もうすっかり染みついた習慣ーミケランジェロはその習慣をこなすため、今朝も1人喫茶店を訪れていた。
いつも通りの朝食メニューをたいらげながら、彼女の負担にならないようにと細心の注意を払いつつサワコをちらちらと見つめる。
視線の先に映るサワコの姿に喜びを感じながらも、彼女の引越しまで1週間を切ってしまったことに多少の焦りも感じていた。
引越しまでに、果たしてきちんと謝罪ができるのか。
ー何とか早くお話しして、引越し、オイラも行っていいか、聞かなくちゃ……
しかし、どのように話を繋げればいいのか。
いまだ数えるほどーしかもそのほとんどが店員としての挨拶のみであるーしか会話をできていない現状を打開するため、必死で慣れない脳内シミュレーションをしていた時だった。
サワコが、こちらのテーブルに近づいてくるのが見えた。
ーえ、わ、わ、サワコちゃん??
ーこっち、来る……!?
あれだけ避けていたのに何故?
そんな疑問を検討する間もなく、サワコが水差しを持ったまま、横に立った。
「あの……お、お水……入れます、か?」
今まで、サワコからこのような、しなくても特段支障はない給仕をされたことはなかった。
そのことに嬉しさを感じるーと同時に、大きな戸惑いにも襲われた。
「あ、は、はいっ!」
緊張のあまり、思いの外声を張ってしまった。
その大きさにサワコの肩がびくりと強張る。
ーっとと、ダメダメ!怖がらせちゃダメなんだから!
とくとく、と水差しからコップに水が注がれていく。
俯くサワコの顔を、そっと覗き見る。
ーそういえば、初めて会った時も、こうやって俯いてる顔、見たなあ……
何故か、そんなことを思い出した。
その間に、コップは水で満たされていた。
「どうも、ありがとう……!」
彼女を威圧しない程度に、けれど、しっかりと気持ちを込めて。
感謝を口にした。
しかし。
ーつ、次になんて言えばいいのおー!!?
どうやって、心からの謝罪を言い出せばいいのか。
全く頭に浮かんでこない。
そう遠くない昔、女の子に次から次へと声をかけられていたことが、嘘のようだと思った。
ーオイラ、なんであんなにすらすら言葉が出てきたんだろう
そこまで考えて、ふと気づく。
ーあ、違うや。『何とも思ってなかったから』あんなにべらべら喋ることが出来たんだ
ー大切にしたいと思う子と話すのが、こんなに大変なものだなんて、オイラ知らなかったよ……
無意識に浮かんだ、「大切にしたいと思う子」という言葉。
その言葉が持つ意味に、ミケランジェロはまだ気が付いていない。
「あ、の……」
その時。
水を補充した後無言だったサワコが、口を開いた。
ミケランジェロはその目を大きく見開いて、彼女の顔を凝視した。
ーサワコちゃんが、喋って、くれる……?!
「昨日、は……」
たどたどしく、けれどしっかりと伝えるという意思を持って
「ありがとう、ございました」
その感謝の言葉は、ミケランジェロへと紡がれた。
サワコからの言葉に、ミケランジェロは言葉を失った。
けれど、いつかのように暗く沈んでいるわけではなくーそこには、驚きと喜びに満ちた表情が浮かんでいる。
「う、ううん!そんな、お礼なんてオイラ……!」
「……じゃ、じゃあ」
それだけ言うと、ミケランジェロに背を向けようとするサワコ。
ーあ、ちょ、ちょっと待って!!
「あ、あの……!」
彼女をただ引き留めたくて、思わず出てしまった大きな声。
しかしサワコは怯えることなく、おずおずと振り返ってくれた。
探るような彼女の黒目が、自分を見つめている。
「その、えっと……」
呼び止めたはいいが、どうにもうまい言葉が浮かんでくれない。
頭をフル回転させて、初めて声をかけた時とはまるで別人のように必死で言葉を探す。
「その、なんて言ったらいいんだろ、ええと……」
「……」
サワコは、じっとミケランジェロの言葉を待ってくれていた。
笑顔こそ浮かべてないものの、その眉はしかめられても、いない。
「あ、の」
「オイラ、君に、謝りたくて」
「……君のこと何も知らないくせに、考えなしに、声、かけちゃって……」
子供のようにたどたどしく、言葉をつなげるミケランジェロ。
こんな彼の姿を兄弟たちが見たら、何と言うだろうか。
「嫌な思い、させちゃったよね。……本当に、ごめんなさい」
「……」
そこまで話したミケランジェロが、おそるおそるサワコの目を見つめれば。
彼女は、しっかりと。
ミケランジェロの目を見つめ返してくれていた。
ーサワコちゃん、オイラの目、見てくれてる
目も合わせてくれなかった、見積もりの日。
あの時は、寂しくて寂しくて。
ーお前が心からの気持ちで相手に接すれば、相手も心を見せてくれるものじゃ
父からもらった言葉が、胸に蘇る。
その言葉を支えに、ミケランジェロは意を決して口を開いた。
「それでね、えっと……君のこと」
びく、と。
サワコの身体に力が入ったのが伝わってきた。
けれど。
どうかどうか、この真摯な気持ちが届きますようにと願いを込めて。
「オイラ、君のこと、もっとちゃんと知りたいんだ。それで……オイラのことも、知ってもらえたら……って」
やっとで言葉を口に出して、サワコの目を再び見つめる。
その綺麗な黒目が、無言のまま大きく見開かれている。
「あ、あの、だから……っていうか、サワコちゃんのお引越しを、オイラ、手伝いたいんだ」
「ダメ、かな……」
依然として一言も発しないサワコの様子に、ミケランジェロの心が徐々に重さを増してくる。
怖い。
どんな言葉を返されるのか。
けれど、その恐怖に耐えながらサワコを見つめ続けるミケランジェロに
「……わ」
小さく、鈴のような音が聞こえた。
「わかり、ました。引越し……よろしくお願いします」
切望していながらも、聞こえてきた言葉が信じられなくて。
「いい、の……?」
「いいも、なにも……」
茫然としながら聞き返せば、
「私も、あなたのこと……よく知らないくせに、ひどいこと、言っちゃったから」
俯いたサワコが、ぼそぼそと呟いた。
「ごめんなさい……」
そこまで言うと、サワコは勢いよく顔を上げた。
「……っあ、じゃあ、その……仕事に戻ります」
「あ、う、うん!!」
そう言い放ち店の奥へと向かいかけた彼女が、ふと動きを止めてこちらを振り返った。
そして。
「引越し、よろしくお願いします」
小声で呟くと、ぺこり、と小さくお辞儀をして。
店の奥に駆け戻ってしまった。
「は、ぁ……」
一気に脱力したミケランジェロは、椅子の背に身体をもたれさせながらつい今しがたのサワコの表情を思い起こした。
ー笑っては、なかったけど
ー怖がって、なかった……よね……!?
そう。
サワコの表情は戸惑いに満ちてはいたもののー
その眉は、決して怯えに彩られてはいなかった。
++++++++++
サワコの引越し当日。
既に荷物は全て新居に運ばれ、レオナルドが事後説明を行っていた。
その傍らにはーミケランジェロの姿。
あの日、サワコに引越しの手伝いの了承をもらったミケランジェロはレオナルドにその件を報告した。
その後レオナルドが念のためにサワコへ確認の電話を入れるとー
ーはい。勝手言いまして申し訳ないんですが、ぜひ、ミケランジェロさんに来ていただけたら、と。その……見積もりにも来ていただきましたし
と。
他意は感じられない穏やかな声で、サワコは答えたのだった。
そして今日。
ミケランジェロはこれまでのように仕事中に軽口を叩くわけでもなく、ただ一身に業務に取り組んでいた。
その様はレオナルドも目を見張るほどで。
ミケランジェロの中で何かが変わりつつあることを感じて、レオナルドは温かいまなざしを末弟に向けていた。
「ありがとうございます。これで書類関係は終了です。どうも、ありがとうございました」
レオナルドの言葉に、隣に立つミケランジェロもぺこりとお辞儀をする。
「いえ、本当にご丁寧にしていただいて……こちらこそありがとうございました」
そう深くお辞儀をしたサワコは顔を上げるとミケランジェロに視線を向け、ぎこちなくその口角をほんの少しだけ持ち上げた。
++++++++++
サワコの引越しからひと月ほど過ぎた、ある日。
「ううーさっむい!!」
真冬の到来を知らせるような、身体の芯まで冷やそうとする北風から逃げるように喫茶店に入るミケランジェロ。
サワコの引越しが終わってからも、ミケランジェロは喫茶店通いをやめていなかった。
「あ、サワコちゃん……お、おはよー!」
「あ……おはよう、ございます」
「今朝も、いつもの……ですか?」
おずおずと返事をしたサワコが、小さな声で問えば。
「うん、お願いしまっす……!」
へへ、と照れくさそうに、ミケランジェロがはにかんだ。
引越し以来、2人はぎこちないながらも会話を交わせるまでにその関係を温めていた。
ーミケランジェロさんを毎日見るようになって、初めてわかったことがある
サワコは彼へ提供するココアを待ちながら、ホールを見渡した。
そこには、テーブルに座った彼が同僚の店員と朗らかに話している姿があった。
その同僚は今朝、こう言っていた。
『昨日すごく嫌なことがあって、朝から落ち込んでいる。しんどい』と。
けれどー。
ひとしきりミケランジェロとの会話に興じた彼女が、店の奥へ帰ってくるなり笑顔を向けてきた。
「はー、ほんとミケランジェロさんって楽しいよね!朝から落ち込んでたけど、吹き飛んじゃった!」
すると、サワコとともに食事の出来上がりを待っていた別の店員が口を開く。
「わかる!!どんな時でもあの調子だからさ、こっちが元気もらっちゃうんだよねー」
「前はさあ、もっとなんていうか……軽くてちゃらいし、正直どうなのかなーって思ってた部分もあったんだけど」
「そうそう!私も思ってたー」
「なんか、変わったよね、彼」
そんな同僚たちのやり取りに、心の中で同意する。
ーそう、ミケランジェロさんのあの明るさは、人を笑顔にするんだって
ー正しい明るさ、っていうのかな。うん、本当に、変わった気がする。ミケランジェロさん……
同僚たちのお喋りを耳にしながら、ぼんやりとミケランジェロを見つめる。
引越ししてひと月経って。
その間仕事で落ち込むこともあったし、色々なことに疲れて泣きたくなることもあった。
けれど、そんなとき。
『なんか、元気……ない?あ、ううん、ちょっと気になったから!』
『サワコちゃんはいつも一生懸命だよね。……えらいなあ』
店に来たミケランジェロはいつも声をかけてくれた。
最初の出会いが出会いだったせいなのだろうが、常にこちらの反応を気にかけて、緊張気味にではあったが。
でも、その言葉にはきちんと気持ちがこもっている気がして。
いつしか、彼に声をかけてもらえることが、嬉しいと感じるようになっていた。
ーほんと。ミケランジェロさんといると、楽しい気持ちになれるの……
ミケランジェロを見つめるサワコの口元に、自然と優しい笑みが浮かんだ。
その日の仕事帰り。
遅番勤務のサワコは、同僚たちと別れて真っ暗になった夜道を1人帰っていた。
アパートまでの帰り道には、ハマト運送の会社がある。
いつからだろうか。
通るときは、それとなく自動ドアの向こうへ意識を向けるようになっていた。
視界の先にハマト運送が見えてきたとき。
横の通用口を施錠している人物が見えた。
ーあれ、って
歩を進めるにつれ、向こうもサワコの存在に気がついたようで。
「あ、サワコちゃん……」
「ミケランジェロ、さん」
「こんな遅くまでお仕事なんだね」
「遅番のときは、いつもこのくらいの時間なんです」
ばったりと出会い、挨拶を交わした後。
どちらからともなく、並んで歩き出した。
冬の夜はとっぷりと暮れていて、街灯の小さな灯りだけが2人を照らしている。
「そうなんだ。この時間じゃもう真っ暗なのに、大変だねえ……。それなら、オイラが……」
「はい?」
「ううん、なんでもない」
何かを言いかけたミケランジェロだったが、慌てたように首を振ってにこり、と笑った。
「……ミケランジェロさんこそ、遅くまでお仕事なんですね」
ミケランジェロの態度に不思議そうな顔をしたサワコだったが、ややあって、白い息を吐きながら呟いた。
「んー、今日はたまたまだったんだ。明日までに作らなきゃいけない書類をね、オイラ頑張って作ったの!昨日のうちに!!なのにさ、実は必要箇所が埋まってなかったって帰る直前に気づいてー!!」
「ふふっ……」
失敗談を、面白おかしく話すミケランジェロのその様子に、思わずサワコから笑いがこぼれた。
「あ、あ、あー!今!サワコちゃん今笑ったでしょ!ひどいなぁ、もう!」
対するミケランジェロも、そんな軽口を叩きながら朗らかな笑みを浮かべる。
ー楽しい、なあ……
ふと、サワコの心に湧き上がる思い。
ー最初は散々な出会いだったけど、会えてよかったな、ミケランジェロさんと
そんな穏やかな気持ちにサワコが思いを馳せていたとき。
それは突然聞こえてきた。
ぐぅ
「!!!」
「ん……?」
サワコの腹部から聞こえた小さな音に、ミケランジェロがその歩みを止めた。
「今、聞こえたお腹ちゃんの声……オイラじゃ、ないよ?」
そう言いながら、ミケランジェロがこちらを向く。
その顔にうっすらと笑みを浮かべながら。
「……!!」
サワコは頬を真っ赤にして、俯いてしまう。
「ふふっ、オイラのお腹ちゃんも今にも鳴いちゃいそうなんだー」
殊更に明るくそう言ったミケランジェロが、次の瞬間、やや声のトーンを落とす。
そして
「あ、あの、さ。だから、よかったらオイラと……ご飯、食べに、行かない……?」
後頭部を掻きながら、おずおずと呟いた。
探るようなミケランジェロの視線。
さらに染まった頬を見られないようにとより俯きながら、サワコはコクリと頷いた。
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思いがけず巡ってきたサワコとの食事の機会。
どこの店がいいか、と逸る気持ちを抑えつつ近場で何度か兄弟たちとも行ったことのある店を選んだ。
さほど広くない店内には、それぞれのお客の会話を邪魔しないようにという配慮からだろう、控えめにクリスマスソングが流されている。
さりげなく小さなツリーや松ぼっくりなどが飾られた店内を進み案内されたテーブルには、スノーマンの形のキャンドルが入ったグラスが置かれており、小さな灯火をちろちろと揺らしていた。
「わあ、これかわいい……!」
席に着くなりキャンドルを眺め、顔を綻ばせるサワコ。
「ありがとうございます。雑貨も扱っていますので、よろしかったらご覧になってくださいね」
愛想のいい店員が水の入ったコップを置いていきながら店内の一角を指し示した。
そこにはサンタクロースやジンジャーマンなどのオーナメントが実に可愛らしく飾られていて、見ているだけで心が浮き足立ってしまうようだった。
「素敵……!」
ー喜んでもらえて、よかったあ……
どうやらこの店を気に入ってくれたらしいサワコを見つめて、ミケランジェロはそっと安堵の息を吐いた。
それから。
2人でメニューや飲み物を選びながら、たわいもないことで笑いあう。
料理を食べて、その感想を言い合って。
そしてまた、笑いあう。
ー楽しい、な
このひと月の間で縁を切った女の子たちとの食事では、こんなに笑いあったりしなかった。
どんなに美味しい食事をとろうが、それらは全部同じ味に思えていた。
そう、料理なんてどうだってよかった。
相手がどう思っていようが、自分とは関係ないと考えていた。
けれど。
選んだお店をサワコは気に入ってくれるだろうか。
自分の好きな料理を、サワコも美味しいと言ってくれるだろうか。
サワコはどんな料理が好きで、何が嫌いなのか。
そんな自分の心の動きが、なんだかとても嬉しかった。
嬉しくて、楽しかった。
ーあ、そっか
ーこれが、普通の女の子と、彼女の違い、なんだ
美味しそうに料理をほおばるサワコを見つめながら、ふと気づいた感情。
ーそうだよ、オイラ
ーサワコちゃんが好きなんだ
ーサワコちゃんが好きだから、一緒にいて楽しいし、楽しんでほしいし
ー笑顔でいてほしいんだ
「サワコちゃん……」
「ん……何ですか?」
思わず漏れた呟きを、自分への問いかけと勘違いしたサワコが紙ナプキンで口を拭って返事をする。
ーあー……
そんな何でもない仕草にすら、胸が締め付けられた。
「サワコちゃん、オイラ」
握っていたフォークを置いて、サワコの目を見つめた。
出会ったときは、見つめることすら許されなかった、この目。
「君のことが、好き、みたい」
「!?」
サワコの目が零れ落ちんばかりに見開かれ、次いでー
その頬が真っ赤に染まった。
「だから、もっともっともーっと、サワコちゃんのことが知りたいんだ」
「そ、……」
「オイラのことも、同じくらいもっともっともーっと、知ってほしいし」
「……」
「だからね」
そこで一旦言葉を区切ったミケランジェロは、しっかりと姿勢を正し、サワコをまっすぐ見つめた。
「オイラの彼女に、なってください」
ミケランジェロの真摯な目に見つめられたサワコは視線を逸らすこともできず。
恥ずかしそうに、でもその言葉を噛み締めるように微笑んでから、ぽつりと呟く。
「……はい」
その返事にミケランジェロは驚いたような顔をし、そしてー大きく破顔した。
そんな彼を見て、サワコの頬にもはにかんだような笑みが浮かぶ。
たどたどしく歩き始めた恋人たちを、スノーマンの小さな明かりが優しく照らしていた。
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