働く橙の亀さん
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ー仕事は好きだよ。別にラフみたいに筋肉バカじゃないけど、身体動かすのって気持ちいいしー
ー楽しいこと、美味しいものも、うん、止められないねー
ーあーでも、1番好きなのはって聞かれたら
ーやっぱり、女の子かなー
ーだってさ、女の子ってあったかくて柔らかくって、ぎゅって抱きしめるだけですごく気持ちいいじゃない?
ーいい匂いするし、いるだけでなんだか空気がきらきらするし
ーまあ、毎日のように鳴り響く携帯の着信には……
「正直、参っちゃうけどー……」
思わず言葉となって漏れた思考は、幸い社内の誰にも聞かれていなかった。
しかし、目の前で鳴り続ける携帯電話の着信は社内中に響いている。
「だあーっ!おいうるせえぞ!仕事中はマナーモードにしろって言ったろ!」
向かいのデスクで苦手な書類と格闘していたラファエロが、ミケランジェロに向かってがなり立てる。
「ラフ……。マイキーはマナーモードにしたって振動が途切れないからあんまり意味ないだろ……」
ラファエロの隣でパソコンのキーを叩いていたレオナルドが、息を吐きながらうんざりしたように呟いた。
「すみませんちょーっとだけお待ちくださいね?……マナーモードじゃなく電源を切らなきゃ、マイキー。仕事中なら繋がらなくたって言い訳できるんじゃないー?……はーい、お待たせいたしました申し訳ありませんー!それでですね、費用なんですが……」
ドナテロはミケランジェロへ簡潔に対処法を伝授すると、話していた受話器を口元へと戻し、すぐさま流暢に『ハマト運送単身引越しプラン』についての説明を再開した。
「へへー、ごめんちゃい。んじゃちょっとおトイレ行ってきまーす」
喚き続ける携帯電話を片手に、手洗いへと席を立つ。
鳴っている最中に切ってしまうのはいけない。
相手を刺激して、第二弾、第三弾の着信の呼び水になりかねないのだ。
そんなことを考えながら通話ボタンを押す。
途端に聞こえてくる甲高い声。
「え、あーうんうん、もちろん覚えてるよぉ!君と行ったのは駅前のイタリアンだったよねー」
手洗いに、ミケランジェロの軽快な声が響く。
「ん?次会える日?そうだねー」
「あーっと、社長に呼ばれちゃった!ごめん、またかけるねぇー」
終了ボタンを押した途端、漂う静寂。
そのタイミングを逃さぬように、素早くマナーモードに設定を切り替える。
「ふう」
ー失敗しちゃった。今朝はマナーモードにしてくるの忘れちゃったんだよなー
と、すぐさま再び震え出す携帯電話。
「はーい、ミケちゃんでーす!あー、久しぶり!覚えてるよぉ」
通話ボタンを押して、もはや決まり文句となっている『久しぶり』『覚えてるよ』を繰り返す。
実際のところは、声の主の顔さえはっきりと思い出せないのだが。
「こないだの約束?そうだねー……」
手洗いの壁の上方にある小さな窓から、太陽がさんさんと降り注いでいる。
見るともなしに顔をあげ、陽光を顔に浴びる。
ーうーんいい天気。デート日和だなあ
ー今日のお客さんで、デートできる子がいるといいなー
レオナルドとラファエロが聞いたら頭を抱えるか、あるいは拳骨で殴られるか。
いや、電話の相手にも殴られるかもしれない。
そんなセリフを心で呟きながら、ミケランジェロは電話向こうで喋り続ける声に向かって相槌を打ち続けた。
++++++++++
午前中に苦手な事務作業を済ませ、午後からの荷物積み下ろしに向けて英気を養おうと入った、馴染みの店。
その日の従業員たちの顔ぶれを無意識に確認するのも、もはや習慣になってしまっていた。
と、変わらぬはずの店員たちの中に、一人、初めて見る女性がいた。
丸い瞳に浮かぶのは、透き通った黒目。
白い肌に、薄く色づいた唇が映えている。
ー初めて見る子だ。んー、かーわいいなー……
「あ、ミケちゃんこんにちはぁ!」
「あーこーんにちはー!」
ぼんやりとその女性を眺めていたミケランジェロの元に、甘ったるい声が投げかけられた。
声の主は華やかな顔立ちの、美人といって差し支えないだろう容姿の店員。
何を隠そうこの彼女は、ミケランジェロが過去にデートした人物だった。
いや、彼女だけではない。
気がつけば、ミケランジェロはこの店の女性店員ほぼ全員とデートしていた。
それも、ほとんどが一回限りの付き合い。
同じ女性とデートを重ねないことに深い理由はない。
ただ、『またデートしたいな』とは思わないから。
それだけなのだ。
「なーに?サワコちゃん見てたの?」
華やか顔の店員が、ミケランジェロの頬に顔を寄せて囁く。
この彼女とは今でこそ友人のような付き合いができているが、デート直後はなかなかの修羅場だった。
一見気が強そうにも見受けられるこの店員が、一度きりの付き合いを望んでいたミケランジェロに泣いてすがって……。
ーまあ、泣かれるくらいならいいんだよねー。問題はさあ……
そこまで考えたところで、意識して思考を停止した。
『楽しくないことは、(極力)考えない』
それも、ミケランジェロのモットーだったから。
ーそういうことは大抵レオか、たまにドニー、かな、辺りが考えてくれるから、オイラは考えなくていいんだもんねー
「ん、あの子サワコちゃんって言うの?」
気を取り直して、華やか店員に問う。
頭の中では、すでに今日のデート候補としてどうだろうか、という検討が始まっている。
「そうよ、今週入ったばかりでね。すっごく頑張り屋さんなのよー」
「へえー……」
ーうん、真面目な子は嫌いじゃない。それになんてったって、可愛いしなー、サワコちゃん!
思考は早くも第二段階、『どうやってデートに誘うか』に移った。
「……まーたデートに誘うの?」
「え」
聞こえてきた図星なセリフに思わず固まったミケランジェロを見つめ、華やか店員が赤く彩られた唇を得意げに緩める。
「ミケちゃんの行動なんてワンパターンなんだからわかっちゃうっての。でもね、サワコちゃんは難しいと思うよー。なんたって、ウブだから」
「ウブ?」
「そうよー、サワコちゃんのお父さんはね、ほら、なんだっけ、今売れてるお菓子……とにかく、有名なお菓子会社の役員さんなんだってよ?」
「へーえ」
相手の女性のバックグランドには、正直興味がなかった。
興味があるのは、その女性そのものなのだ。
いや、ミケランジェロの場合はもはや、その女性というよりも『女性と過ごすこと』といったほうが正しいかもしれない。
「ウブな子とデートとか、最近してないからなー」
「まったくミケちゃんは……。そのうち地獄に堕ちちゃうぞー?」
華やか店員が綺麗にマニキュアの塗られた指先でミケランジェロの頬をつついたとき、奥から彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「あっ、やば……!ミケちゃん、ゆっくりしてってね!」
「あーい」
小走りで走り去る彼女に返事をしながら、ミケランジェロは
ー決めたっ!今日のデートはサワコちゃん!!
いつものように、ごく軽く。
本日のデート相手(候補)を決定した。
ポケット内の携帯電話は、昼時を狙ってなのか、ここぞとばかりに震え続けている。
が、今のミケランジェロの意識には浮上してこない。
今日の、いや、今彼の意識は、サワコだけに向いていたから。
その時、サワコがミケランジェロの近くを通り過ぎようとした。
すかさず声をかける。
「あ、ちょっとちょっとー」
「はい?ご注文ですか?」
「んー、声もかーわい」
「え……?」
「ううん、こっちのことー。あ、注文はねこれ。アンチョビピザ!あ、あとね、あったかいココアも!」
「はい、かしこまりました」
にこやかな笑顔で、伝票に書き込むサワコ。
俯く頬に、耳にかけられていた髪がひと房さらりと落ちた。
ーほんとに可愛いなあ、サワコちゃん
その様をぼんやりと眺めながら、本題を口にする。
「で、もひとつ注文があるんだけどー」
「はい、何でしょう?」
サワコは変わらず笑顔を浮かべている。
しかし、それはミケランジェロの一言によって豹変した。
「オイラと、今日、デートしよ?」
「……」
「ね?サワコちゃーん?」
「……」
サワコが浮かべていた笑みが、一瞬にして消えた。
怒っているようには見えない。
無表情では、あるが。
そんな彼女の様子にミケランジェロが
ーこれは、いけるかな?
そんな呑気なことを考えたときだった。
「ふ……」
サワコのふっくらとした唇が、かすかに動いた。
「ふ?」
そして、無表情のまま消え入りそうな声でサワコが続けたのは
「ふけつ……」
「……え??」
ミケランジェロにとっては、おそらく人生で初めて言われる言葉で。
「ふ、ふけつ……?」
思わず鸚鵡返ししたミケランジェロを見ることなく、サワコはそれだけ呟くと逃げるように店の奥へと立ち去ってしまった。
完全に取り残された様子のミケランジェロの横を、先ほどの華やか店員が通り過ぎる。
「……見てたよー。ミケちゃん、私言ったじゃない。サワコちゃんはね、お嬢様なのよ?純粋培養っていうの?だからねえ、気安いナンパなんかにはなびかないよー?」
「ぐっ……」
からからと笑う華やか店員。
彼女のこの一言が、ミケランジェロの軟派心に火をつけた。
ーん、決めた
「オイラ絶対、サワコちゃんとデートしてみせるんだから!!」
++++++++++
その日の夜。
日中の業務を終えた4人が、レオナルドを中心にシフト組みを行っていた。
「えーと、今日入った依頼はあと……あ、これだ」
レオナルドが資料を皆に配る。
「他市からの転入。依頼者は女性一人暮らしだっていうから、おそらくさほど負担はないと思う」
「ここには明日、いつも通り俺とラフで見積もりに行ってくる。予定では今月末あたりに引越しを……」
ここまでレオナルドが説明したとき、資料に目を通していたミケランジェロが
「あーーーーーー!!!」
大声で叫んだ。
「なんだようるせえな」
すかさずラファエロが注意するが、当のミケランジェロはそんなラファエロなど目に入らない様子で
「うそぉこれ!サワコちゃんじゃん!名前も苗字も一緒だし……うっわぁ、サワコちゃーん!!」
女性の名前をまくしたてている。
「ちょっとちょっとマイキー、とにかく落ち着きなよ。全然話が見えないんだけど?」
思わずデスクチェアから立ち上がっていたミケランジェロのTシャツの裾を、隣に座るドナテロがくいくいと引っ張った。
促され座り直したミケランジェロが、満面の笑みで書類を指差す。
「この子!サワコちゃんってね、すぐそこの喫茶店で働いてる子なんだよー」
「へえ、そうなのか」
「おいレオ、ボケっとんなこと言ってる場合じゃねえぞ」
「え、あ!」
驚いた風に相槌を打ったレオナルドが、ラファエロに小突かれハッとしたようにミケランジェロを見つめた。
「おいマイキー、ってことは、お前、このお客さんと知り合い……なんだな?」
恐る恐る問いかけるレオナルドに、ミケランジェロは天井を見つめて今日の昼の様子を思い起こす。
「んー知り合いっていうか、今日喫茶店で初めて会ったんだ!でさあ、デート申し込んだら断られ……」
「うし、この件は荷物の積み下ろしも基本レオと俺でいいな」
「ちょ、ちょっと待ってよー!!せっかく知り合いなんだから、オイラに行かせてよ!!」
「ねえマイキー、お前の今までの所業を考えたらさあ、その申し出は却下されると思わない?」
呆れたようなドナテロの言葉に耳も貸さず、ミケランジェロはデスクの上に登りそうな勢いで向かいのレオナルドとラファエロにくってかかった。
「ねえ2人とも!オイラの話聞いてる!?」
「あー聞いてる。聞いてっから、却下してんだよ」
「……俺はもう、土下座は御免だからな。だから、明日は俺とラフで……」
まるで聞く耳を持たない2人に、ミケランジェロはその頬を膨らませる。
そんなミケランジェロを気にすることなく話を戻そうとしたレオナルドが、はた、と何かに気づいたように動きを止めた。
「ちょっと待て。ラフ、お前明日休みとってなかったか……?」
「あっ、そーだ!そーじゃんラフ!!とうとう押し切られたんだよねー、あの子にー」
「っ!!」
ニヤニヤと自分を見つめてくるミケランジェロに、ラファエロは『しまった』という表情を作った。
「くそ、なんで知ってんだよてめえら……っ」
「へっへ、オイラなんでも知ってるもんねー」
「っぐ……」
今にも『ギリギリ』という音が聞こえてきそうな顔でミケランジェロを睨んでいたラファエロが、ふと余裕の表情を浮かべーー
「……俺ぁ、会社出たっていいんだぜ?」
そう言い放った。
しかし。
「ダメだよラフー、キキョウさんの気持ちを踏みにじっちゃさ?」
聞こえてきたドナテロの至極真っ当な意見に、
「……フン」
一瞬にして真面目な表情になると、ラファエロは鼻を鳴らしてそのまま黙り込んでしまった。
「ということでー、明日のそのサワコちゃん?の見積もりは、僕がレオと行くよ」
「ああ、そうだな。そうしよう」
「ええー!!」
気づけば自分の希望が全く通っていない。
思わず抗議の叫びを上げたミケランジェロだったが。
「マイキー、次の案件説明するぞ。ほら、ちゃんと座れって」
真面目な顔のレオナルドにそう諭され、ぼすっ、と力なくデスクチェアに腰掛けた。
「ま、今回ばっかりは諦めるしかないんじゃなーい?」
隣のドナテロに肩を叩いて慰められたミケランジェロは説明を続けるレオナルドを見ることなく、『どうしたら明日、サワコの自宅へ見積もりに行くことができるか』そればかり考えていた。
++++++++++
翌日。
サワコの見積もりは朝一番に組み込まれていた。
その自宅のドアの前に、レオナルドと並んで立っているーミケランジェロ。
「マイキー、頼むから、問題は起こさないでくれよ……?」
インターフォンに手をかけようとしてはおろす、そんな動作を繰り返しているレオナルドが、本日何度目かのため息をついた。
本日、何故ミケランジェロがサワコの家の前に立つことが出来ているのかー。
その理由は、昨日のシフト相談後に遡る。
##########
「んー……」
「マイキー、お前がどんなに考えたって無理だよ。レオとラフが許さないって。今回のその……サワコちゃん?だっけ、その子との縁はなかったものとして諦めるんだね」
帰宅のためデスク上を片付け始めたドナテロが、隣で腕組みしたままデスクチェアから動こうとしないミケランジェロに笑いかける。
「またさ、きっといい子が……おっと」
ドナテロが胸ポケットで震える携帯電話を取り出して話し出した。
言葉じりを漏れ聞くに、どうやら相手はこの夏想いを通じ合わせた彼女、のようだ。
会話に興じるドナテロの頬が、面白いくらい緩んでいる。
兄弟の中で同類だと信じていたドナテロが、他の女の子との関係を全部切ってまで、その想いを成就させた子。
今までドナテロに対してクールで冷静であるという認識をなんとなく持っていたが、彼女と出会って以来の様子を見るにつけ、それが崩れつつある。
ードニーがここまでメロメロになる娘がいたなんてねー……
ドナテロの弾む声を聞きながら、ふと心に浮かぶ。
ー彼女、ねえ……
ー欲しくないわけじゃない
ーけど、特別欲しいわけでも……なあ
ーだってさ
ー彼女、って、なに?
ーデート相手の子たちと、何が違うっていうのさ……
腕組みをして、幸せオーラ全開のドナテロを横目で見つめていたとき。
「えっ!?それほんと?!」
ドナテロの焦ったような声が聞こえた。
「何でもっと早く言わないのさ!!ああ本当にもう、サクラは……!!」
「なんかあったの?ドニー」
「なんかじゃないよ!サクラ、骨折しちゃったみたいなんだよ!!」
ミケランジェロの間延びした声とは対照的な、ドナテロの鋭い声が社内に響いた。
「え、えええっ!?」
「大丈夫なのか?」
「それまじか?!」
打ち合わせを終え社長室から出てきたばかりのレオナルドとラファエロが、ドナテロの声に慌てて近寄ってきた。
3人が周りに集まる間も、ドナテロは真剣な顔でサクラと話をしている。
数分後。
「じゃあ、彼女、今日怪我したってわけなのか……」
「うん。歩いてた時に突っ込んできた自転車を避けようとして、ね。あ、骨折じゃなくてひび、なんだってさ。今日は1日病院に泊まって、明日家に帰るらしい」
「まあ、あれだ、大事にならなくて良かったな」
「うん、まあね」
サクラとの電話を終えたドナテロはラファエロの労りの言葉に考え込むような顔で返事をすると、社長室から出てきたスプリンターに近づいた。
「あの、社長」
「うん?」
スプリンターの柔和な目が、ドナテロを見つめる。
「急な話で申し訳ないのですが、明日、休みをもらってもよろしいでしょうか?」
「サクラ殿が怪我をしたとか。その件か?」
「そうなんです。彼女一人暮らしですし、せめて退院の日くらいは付いてやって、いろいろ支度をしてあげたいんです。足が不自由な状態でこれから家事や何やらやるのに、いろいろ入り用なものが出てくるでしょうから……」
「ふむ、それで、明日の仕事はどうする?」
「それは……」
先ほどのシフト相談で、ドナテロはレオナルドと組んでサワコ宅に行くことが決まっていた。
俯くドナテロを見つめるミケランジェロの眼が、きらりと光る。
「はい!はいはいはーい!」
「なんじゃ、ミケランジェロ」
残りの3人が、ハッとしたようにミケランジェロを振り返った。
「明日、オイラがドニーの代わりにサワコ……っじゃなくって、朝イチの見積もり、行きますっ!」
「……レオナルド、どうする?」
スプリンターが探るように、レオナルドをチラと見やる。
その視線にしばらく目を泳がせていたレオナルドだったが、ドナテロを見つめるとぴた、と止まった。
ー彼女が心配なんだ、頼む
そんな色を浮かべている、ドナテロの瞳。
大切な彼女がそんな状況だったら、何はなくとも駆けつけてやりたい。
数ヶ月前、同じようにかけがえのない存在と巡り逢ったレオナルドには、その気持ちが痛いくらい理解できた。
「……見積もりはミケランジェロとで対応可能な範囲なので、業務に支障はないです。なにより、サクラも困っているでしょうし……今回はドナテロの希望を汲んでやっていいと思います」
「そうか」
目を閉じて薄く笑ったスプリンターが、後方のミケランジェロを見た。
「ミケランジェロ。ではお前がドナテロの代わりに明日、見積もりに行くように」
「はいっ!!」
##########
「オイラは大丈夫だって!それよりもさ、ドニー大丈夫かなあ?」
昨日の一連、特にドナテロの心配げな顔を思い出しながらミケランジェロがレオナルドに顔を向けた。
「まあ、ドニーのことだから、準備万端で向かってるだろうさ」
「あとでオイラたちもお見舞い行こうねー」
「ああ、そうだな。っと。その前に、仕事だ」
と言いつつも胸の内を探るかのようにじっと見つめてくるレオナルドに、満面の笑みを返す。
「もーう、レオってば心配性!!大丈夫だって!」
自分の言葉に眉間の皺を一層深くしたレオナルドを押しのけて、ミケランジェロは思い切りよくインターフォンを押した。
「いいかマイキー、本当に余計なことは言うなよ」
「あーい」
ため息混じりのレオナルドにミケランジェロが返事を返したとき、ドアが開かれた。
##########
「あ、お電話いただいて伺いました、ハマト運送です……!」
「荷物のお見積もりに参りましたー!」
ドアの向こうから、昨日デートを断られたあの女性ーサワコが現れた。
「あ、今日はよろしくお願い……」
会釈をしかけたサワコが、その視界にミケランジェロを認めた途端、表情を固まらせた。
「あ……」
「やっほー、サワコちゃん!」
「お、俺は営業担当のレオナルドと申します。こっちは作業員の……」
「ミケランジェロです!!」
「……」
胸をそらせ自信満々に挨拶したミケランジェロを一瞥したサワコは、みるみるうちにその整った眉をしかめーまるで、怯えたような表情を作り上げた。
そしてそのままの表情で、ミケランジェロから逃げるようにレオナルドに向き直った。
「じゃあ……何からしたらいいんでしょうか?」
「えっ、あ……で、では、お部屋をまわりながら運び出す荷物を一つ一つ確認させていただきたいのですが」
完全に怯えの表情となっているサワコに戸惑いながらも、我にかえるレオナルド。
「わかりました。こちらへ、どうぞ」
サワコはそんなレオナルドの戸惑いを気にした風もなく、そのまま先に立って室内へ進んでしまったーミケランジェロを再び見ることもなく。
「……」
「っ、おい!行くぞ、マイキー」
レオナルドに腕を掴まれたミケランジェロが、茫然自失といった様子で引きずられていく。
ーえ、えええ
ーねえ、今、今さあ
ーサワコちゃん、お化けでも見るような目でオイラのこと、見てなかった……?
これまで、女の子から怒鳴られたことはある。
怒られたことも数え切れないし、平手をかまされたことも一度や二度じゃない。
泣かれることだって日常茶飯事だ。
ー逃げられることも、うん、あったね
ーけど、あんな風な、怖がるような目で見られたことって、初めてだよ……!?
++++++++++
ー信じられない、信じられない!!
懸命に平静を装いながらも、サワコの心は軽くパニックになっていた。
ーなんであの人が……来ちゃったのよお……
昨日勤務先で声をかけられたことを思い出し、サワコの心にザワザワと嫌悪感が湧き上がった。
初めての仕事。
職場に近い方がいいだろうと、学生時代から住んでいたこの部屋から引っ越すことを決めた。
良くしてくれている先輩が『引っ越すならここがいいよ』と教えてくれた運送会社。
評判はいいから安心して、と言われたのだがー
ーうそばっかり!!
ー評判がいいですって?!あんなことを言う作業員がいる運送会社のどこがいいっていうのよ!!
心の中で愚痴を呟きながら、おそるおそる、作業中の2人を見つめる。
ー最初に挨拶した人は、特段変わった印象はなかったけど……
青色の鉢巻の営業を見れば、自然と視界に入ってしまう、橙色の鉢巻の作業員。
ーああ嫌!あの橙色の人は、嫌!!
ーなあサワコ、今日、俺とデートしよ?ー
サワコの頭に、苦い記憶が蘇る。
ーはあ?俺がお前に本気になるとでも思った?馬鹿じゃねえの、お前と付き合うメリットなんて金持ちってことくらいだろー?ー
大勢の友達の前で、辱められた。
あんな思いは、もう二度としたくない。
ー次に恋する人は、誠実な人がいいの
ーあんな、ちゃらんぽらんな人……関わることすら嫌なのに……!!
あの時の嘲笑が耳について離れない気がして、思わずギュッと目を瞑った。
「あ、えーと、サワコさん?」
声をかけられハッとして顔を上げれば、目の前にはその、大嫌いな橙色の鉢巻が揺れていた。
途端に、自分の眉がしかめられるのがわかる。
「……」
「あ、っと、レオ……ナルドがですねー、この箇所を確認するようにって言うんですが……」
無言で見つめれば、目の前の人物がおそるおそる書類を差し出してきた。
部屋の隅に、青色鉢巻の営業が電話で話しているのが見える。
ーできればこのひととは話したくないんだけどな……
青色鉢巻を見つめながらしばし祈っていたが、彼の電話はまだまだ終わりそうにない。
しぶしぶ、サワコは差し出された書類を手に取った。
「どこですか……」
「えーと、あ、これです。この荷物の梱包についてなんですけど……」
たどたどしく説明を始める橙色鉢巻の声を拒否しようとする心を『自分の引越しのためなのだから』となんとかおさめて、最低限の説明を耳に入れる。
「……ってことなんですけど、それでもいいでしょうか?」
彼が自分を見つめているのはわかっていた。
けれど、とてもじゃないが目なんて見られない。
見たくない。
「ええ、結構です」
俯いたまま、それだけ答える。
と、
目の前の彼から、なんとも言えない雰囲気が漂ってきた。
切ないような、寂しいようなー
自分を覆い尽くすようなその雰囲気に纏われたくなくて、サワコは俯いたままそそくさと別室に移動した。
「では、これで全部、ですね」
「はい」
一人暮らしのサワコの部屋。
さほど時間をかけずに見積もりは終了した。
「では、またお引越しの日……2週間後、ですね。その時にお伺いいたします。サワコさんはそれほどお荷物も多くないので、作業員2人で対応させていただこうと思うのですが、よろしいでしょうか?もし、何かご希望などありましたら……」
青色鉢巻の営業が、窺うような視線を向けてきた。
「あ……」
作業員は何人でも構わない、ただー
ーこの、橙色のひとを、連れてこないで!!
そう心は叫んでいるのだが、さすがに、
ーなんて、いくらなんでもこの場では言えないわよね……
常識的にそれはまずいだろうという気持ちが勝り、
「ええ……」
と呟くのみにとどめた。
そのまま、2人は退出する。
帰りしな、橙色鉢巻が何度も自分を見つめていたのはわかっていた。
でも。
ーなんなのよ!なんでこっちばっかり見るの!!
ーどうせ、いいカモになりそうとか、思ってるくせに……っ!!
そんな思いが動作に出たのか。
思ったよりも大きな音を立ててドアを閉めてしまった。
「あっ……」
ー失礼になっちゃったかしら……
単なる運送会社員とはいえ一抹の不安が頭をよぎった。
しかし、すぐさま思いなおす。
「いいか、別に……」
ーやな客、って思われたっていいわ。どうせ引越しが終われば会うこともないし。もう、どうだっていいもの……
息を吐きながら、玄関の床を見つめる。
ミケランジェロがいる間、結局サワコの眉は一度も緩められることがなかった。
++++++++++
翌日の、朝礼終了後。
「おいマイキー、ちょっといいか?」
真面目な顔のレオナルドに社内の一角にある接客スペースへと呼び出された。
ここに呼ばれるときは大抵、会社に関わる大ごとをやらかしてしまったときや、プライベートな相談事などの時だ。
ーえ、なんだろー。こないだの社長とレオに土下座させちゃった事件以来、特に何もしてないはずなんだけど……
促され、合皮張りのソファに腰を下ろした。
向かいに座ったレオナルドが、ふう、と息を吐く。
「なーに?レオ。そんな溜めないでよー、緊張しちゃうじゃ……」
今回は心当たりがないだけに、気分も楽だった。
だからこそ、いつものように叩いた軽口。
けれど。
「昨日、サワコさんから連絡があった。荷物積み下ろしのときは、お前を連れてこないでほしい、って」
レオナルドの言葉に、軽口は最後まで言うことができなくて。
ミケランジェロは丸みを帯びているその目を見開いたまま、しばらく動けなかった。
「え……?」
「余計なことは言うなって、俺、言ったよな?」
「い、いや……」
「サワコさんは特別ご立腹している様子じゃなかったけど……。お前、昨日彼女に何を言ったんだ?」
淡々と、けれど、どんな言い逃れも見逃さないという意思を秘めたレオナルドの目が、ミケランジェロを射るように見つめている。
「オ、オイラ、何も言ってないって!本当だよ!!」
「でも、だとしたらなんで……。そもそも、部屋に入った時点からサワコさん、お前のこと全然見なかっただろ?なんでだ?」
「そんなこと、オイラに聞かれたってさあ!」
正直、ミケランジェロも戸惑っていた。
一昨日喫茶店で声をかけたとき、「不潔」と言われ逃げられた。
言われた言葉には多少……いや、まあ、かなり戸惑ったものの。
声をかけてすんなりいかないことなんて今までも多々あった。
だから、驚きこそすれそれほど気にはしていなかったのだ。
でも。
「オイラだって、なんであんなに怖がられちゃったのか、わかんないんだよう……!!」
「だから、昨日だって仕事の話以外全然話かけられなくて……」
あそこまで避けられる、いや『怯えられてしまう』とは思いもしなかった。
ああいった拒否のされ方は初めてだったから、正直、
ーすっごい、寂しかったんだ
「怖がられた……?」
消え入りそうな声で呟いてそのまま黙ってしまった弟を、レオナルドが心配そうに見つめている。
「なあ、マイキー。お前、サワコさんとは一昨日喫茶店で会って、デートを断られたって言ったよな?」
「う、うん」
「……どんな誘い方をしたんだ?」
「どんな、って、別にいつも通りの……」
あたふたと言葉を並べるミケランジェロに、レオナルドが息を吐いた。
「なあ、マイキー」
「な、なに?」
レオナルドが組んだ両手を膝の間に置き、ミケランジェロを覗き込むように身を乗り出す。
「俺は、お前のプライベートなやり方にまで口を出すつもりはないけど……一つ、俺の考えを言っておく」
「世の中の女性すべてが、そういう声のかけられ方を望んでいるわけじゃないと思うぞ?」
殊更に優しいレオナルドの口調に、ミケランジェロはなんだか居心地の悪さを感じ始めた。
清くて正しい自慢の兄の言葉が、今は何故か、苦しい。
「なにさー、もう!あの、レオと同じタイプの彼女ちゃんと相当うまくいってるんだねー?そんな……そんなこと言うなんてさ!!」
「なっ!ち、違うぞマイキー!そう言う意味じゃなくてだな!」
この堅物な長兄から逃れるには、彼の色恋の話を振ってその意識を逸らしてしまうのがなかなか効果があった。
レオナルドの一瞬の隙をついて立ち上がったミケランジェロは、素早く歩を進め玄関の自動ドアまで辿り着くとくるりと振り返った。
「んじゃ、オイラちょっと外回りに行ってくんねー」
「おい待て、マイキー!まだ話は終わってないぞ!」
レオナルドの声が響いたが、聞こえないふりをしてそのまま外へ飛び出した。
ーレオがこんなふうに隙を見せるようになったのも、彼女が出来てからだよねー
ーなんていうか、いい意味で柔らかくなったっていうか、さ
ードニーも、レオも。どんどん変わっていくなあ……
冬の朝。
深く息を吸えば、キンと冷えた空気が身体全体に行き渡る。
けれど、澄んだこの空気でさえも、もやもやした心のうちを浄化してはくれない。
そのまま向かったのは、サワコの働く喫茶店。
浮かんだもやもやをそのままにして悩むなどということは、ミケランジェロの得意とするものではなかった。
ーだから、聞く!
ーなんで、オイラが引越しの日行っちゃダメなの?って
ーオイラ、サワコちゃんに何かしちゃった?って!!
ーよし!
意気揚々と、店内へと足を踏み入れた。
暖かな暖房に冷えかけていた身体がほぐされていく。
開店直後の店内は空いていると思いきや、朝食の客だろうか、思いのほか混み合っていた。
ーサワコちゃん、サワコちゃん……
それほど広くない店内を見回せばー
ーいた!
若い男性に、おかわりのコーヒーを淹れているようだ。
と、その男性がサワコに向けて何か話しかけた。
すると。
サワコが、笑った。
ふんわりと、開いたばかりの花のように。
ーあんな風に、笑うんだ
自分の前では決して見せなかった笑顔に、無性に悲しさがこみ上げる。
ーでも!あの人はサワコちゃんにとってお客さんだもん。逆にさ、オイラは依頼された側だったんだから、あんな風に笑ってもらえなくても当然……
自分に対して怯え通しだったサワコを思い出し、その理由を思いついて頭の中で反芻する。
けれど、一度生まれた寂寥感はそう簡単には消えてくれなくて。
いつしか自分の口角が下がっていることに、ミケランジェロは気づいていなかった。
「あれ、ミケちゃん?」
入り口にぼんやりと突っ立っていたミケランジェロに、聞き慣れた甘ったるい声がかかった。
「どうしたの?こんな朝から。珍しいね?」
「ん……ああ」
いつもならば明るく挨拶をしてくるはずのミケランジェロの、明らかに気落ちしている様子に、馴染みの華やか店員は驚きを隠せなかった。
「ちょっと、どうしたの?とにかくほら、席に座って?」
「ん……」
形ばかりの返事をしながらも、ミケランジェロの視線は一点に注がれている。
その視線の先を確認した彼女は息をつくと
「いつものココア、持ってくるから。ね?」
まるで耳に入っていない様子のミケランジェロに言い聞かせるように呟き、店の奥へと姿を消した。
ーサワコちゃん
ー早く、話したいな。早く、聞きたい
ーなんかしちゃったなら、オイラ謝るよ
店の奥から華やか店員に押されるようにホールに出てきたサワコが、ココアを手に自分が行くべきテーブルを確認してハッとしたような表情になった。
慌てて華やか店員を振り返るが、彼女はにっこりとサワコの背を押した。
何か言おうと口を開きかけたサワコだったが、ややあって、眉を顰めながらミケランジェロのテーブルへと近づいてきた。
「……お待たせいたしました、ホットココアです」
聞こえてきた声に、テーブルに突っ伏していたミケランジェロの頭がばっと上を向く。
「サワコちゃん……!」
「……っ」
ミケランジェロの勢いに、サワコの眉がはっきりと怯えの色を見せた。
おずおずとココアをテーブルに置くと、まるで自分を守るかのようにトレイを抱きしめる。
そんな彼女の姿に、ミケランジェロの胸がツキン、と痛む。
ーまた、怖がってる
ーねえ、どうして?
「サワコちゃん、オイラ……」
「や、」
とにかく理由を聞きたい一心で話し出したミケランジェロを遮り、サワコが俯いたまま口を開いた。
「やめて、ください……」
「え……?」
いきなりの懇願に、ミケランジェロは戸惑いを隠せない。
ーやめて、って……
「何を……?」
思ったことそのままを、口にする。
サワコは、いまだ俯いたまま。
「どうせ……」
食い入るように、サワコの顔を見上げ続けるミケランジェロ。
彼女の唇は、かすかに震えながら呟いた。
「どうせ、何とも思ってない、くせに……」
「!」
ガン、と、頭を殴られたような気がした。
気づけば、サワコは店の奥に走り去ってしまっている。
後に残されたミケランジェロの頭の中では、サワコからぶつけられた言葉だけがぐるぐるとまわっていた。
『どうせ、何とも思ってないくせに』
その言葉とともに、なぜか、脳裏に兄弟の姿が浮かぶ。
相手の気持ちを踏みにじることはしない、ラファエロ。
怪我をしたサクラを助けるために、一生懸命なドナテロ。
ヤエコと出会って、より柔らかくなったレオナルド。
女の子は好きだ。
暖かくて柔らかくて、抱きしめればいい匂いがして。
いるだけで、空気がきらきらする。
そこまで考えてミケランジェロはあることに気づいた。
ーオイラ、自分が楽しければそれでいい、って……思ってた?
ーオイラ、オイラ……
ー自分のことしか考えてなかった、のかなあ……?
悲しい。
気づいたその事実が、ただただ悲しかった。
暖かな湯気をあげているホットココアに手を伸ばすこともせず、ミケランジェロは俯いたまま動くことが出来ずにいた。
++++++++++
店の奥に駆け戻ったサワコは、ざわつく胸をなんとか抑えてトレイに乗せたコーヒーと共に持っていく、朝食プレートの出来上がりを待っていた。
「あ、サワコちゃん。元気?」
「キキョウさん……」
声をかけてきた彼女は、サワコとほぼ同時期に他店舗から異動してきた従業員だった。
先輩ではあるものの、この店に入った時期が同じだったためか当初から親しくしてくれている女性だ。
そう、サワコにハマト運送を教えてくれたのも、この彼女だった。
「ハマト運送にはもう電話したかな?小さな会社だから、そんなに混むこともないとは思うけど……」
笑顔を浮かべてこちらを見てくる彼女に、思わず目を伏せてしまった。
「どうかした?」
「見積もり、来てもらったんですけど……」
「うん。あ、見積もりは誰がー」
「朝食プレート、3番テーブルねー!あと、10番のホットサンドも出来たからすぐ持ってって!」
「あっ、ホットサンド、私行きます!サワコちゃん、あとでゆっくりお話ししようね」
厨房からかかった声にハッとし、ホットサンドをトレイに乗せた彼女はテキパキとホールに行ってしまった。
朝食プレートを受け取ったサワコも、慌ててそのあとを追う。
ーまだ、いるの、かな……
ホールに出たサワコはこわごわとミケランジェロの席に視線を向けたのだがー
テーブルには彼の姿はなく、全く手のつけられていないココアが置かれたままで。
サワコの脳裏に、自分の言葉に表情を失ったミケランジェロの顔が思い出された。
ーひょっとして、傷つけた……?ううん、そんなことあるわけないわ
ーどうせ、いい加減な人なんだから……
頭を切り替え顔に笑顔を貼り付けると、サワコは3番テーブルへ近付いていった。
怒涛のランチタイムが終わった、午後。
ようやく入った昼休憩。
「ここの店舗は駅が近いからやっぱり混むね……。よし、ご飯食べようか、サワコちゃん」
「サワコちゃん……?」
サワコは賄いを前に、俯いたままぼんやりしている。
ー何も言わないで帰ったんだ、あの人
ーやっぱり言いすぎた、かしら……。ううん、違うわ!だって事実だもの!もっと何かされる前にあのくらい強く言って、よかったのよ……!
キキョウが心配げな色を滲ませて、彼女を覗き込んだ。
「ねえ、サワコちゃん?もしかしてお仕事、辛い……?大丈夫?」
そこでようやくサワコは思考の淵から我に返った。
「あ、すみません、いえ、そうじゃないんです……!!」
「あ……ひょっとして」
何かに思い当たったように、キキョウが身を乗り出した。
「ハマト運送、何かダメだったかな……?」
ハマト運送の名を聞いた途端、サワコの肩があからさまに震えた。
「え、え……やだ、何かあった?ラファエロさんなら大丈夫だと思ったんだけど……」
「ラファエロさん……?」
聞こえてきた男性の名前に、サワコが顔を上げる。
すると、キキョウはうっすらとその頬を染めた。
「あ、ううん。そうだ、見積もりは誰が来たの?」
「名前は……誰だったかしら……。ええと、青い鉢巻の人と……橙色の、ひと、です」
サワコがぽつりと答える。
「青色と橙色……じゃあ、来たのはレオナルドさんと、ミケランジェロさんね」
「そんな名前だったような気が、します」
「レオナルドさんは営業で、確かリーダーをされてるんだったと思うけど……何か問題があったの?」
キキョウの質問に、サワコの唇が引き結ばれた。
しかし、その唇は次の瞬間には引き上げられて。
「いえ、見積もりに問題ってわけではないんです。……すごく丁寧にしてもらえましたから。教えていただいて良かったです」
ーあの人の態度と、見積もりは関係ないもの、ね。実際丁寧にやってもらえたし……。キキョウさんを責めるのは筋違いだわ
そう心で判断し、サワコは笑顔を浮かべた。
「そう?それならよかった……」
そんなサワコに笑顔を返しながらも、キキョウはサワコがハマト運送に何か懸念を抱いていることを感じ取っていた。
ー楽しいこと、美味しいものも、うん、止められないねー
ーあーでも、1番好きなのはって聞かれたら
ーやっぱり、女の子かなー
ーだってさ、女の子ってあったかくて柔らかくって、ぎゅって抱きしめるだけですごく気持ちいいじゃない?
ーいい匂いするし、いるだけでなんだか空気がきらきらするし
ーまあ、毎日のように鳴り響く携帯の着信には……
「正直、参っちゃうけどー……」
思わず言葉となって漏れた思考は、幸い社内の誰にも聞かれていなかった。
しかし、目の前で鳴り続ける携帯電話の着信は社内中に響いている。
「だあーっ!おいうるせえぞ!仕事中はマナーモードにしろって言ったろ!」
向かいのデスクで苦手な書類と格闘していたラファエロが、ミケランジェロに向かってがなり立てる。
「ラフ……。マイキーはマナーモードにしたって振動が途切れないからあんまり意味ないだろ……」
ラファエロの隣でパソコンのキーを叩いていたレオナルドが、息を吐きながらうんざりしたように呟いた。
「すみませんちょーっとだけお待ちくださいね?……マナーモードじゃなく電源を切らなきゃ、マイキー。仕事中なら繋がらなくたって言い訳できるんじゃないー?……はーい、お待たせいたしました申し訳ありませんー!それでですね、費用なんですが……」
ドナテロはミケランジェロへ簡潔に対処法を伝授すると、話していた受話器を口元へと戻し、すぐさま流暢に『ハマト運送単身引越しプラン』についての説明を再開した。
「へへー、ごめんちゃい。んじゃちょっとおトイレ行ってきまーす」
喚き続ける携帯電話を片手に、手洗いへと席を立つ。
鳴っている最中に切ってしまうのはいけない。
相手を刺激して、第二弾、第三弾の着信の呼び水になりかねないのだ。
そんなことを考えながら通話ボタンを押す。
途端に聞こえてくる甲高い声。
「え、あーうんうん、もちろん覚えてるよぉ!君と行ったのは駅前のイタリアンだったよねー」
手洗いに、ミケランジェロの軽快な声が響く。
「ん?次会える日?そうだねー」
「あーっと、社長に呼ばれちゃった!ごめん、またかけるねぇー」
終了ボタンを押した途端、漂う静寂。
そのタイミングを逃さぬように、素早くマナーモードに設定を切り替える。
「ふう」
ー失敗しちゃった。今朝はマナーモードにしてくるの忘れちゃったんだよなー
と、すぐさま再び震え出す携帯電話。
「はーい、ミケちゃんでーす!あー、久しぶり!覚えてるよぉ」
通話ボタンを押して、もはや決まり文句となっている『久しぶり』『覚えてるよ』を繰り返す。
実際のところは、声の主の顔さえはっきりと思い出せないのだが。
「こないだの約束?そうだねー……」
手洗いの壁の上方にある小さな窓から、太陽がさんさんと降り注いでいる。
見るともなしに顔をあげ、陽光を顔に浴びる。
ーうーんいい天気。デート日和だなあ
ー今日のお客さんで、デートできる子がいるといいなー
レオナルドとラファエロが聞いたら頭を抱えるか、あるいは拳骨で殴られるか。
いや、電話の相手にも殴られるかもしれない。
そんなセリフを心で呟きながら、ミケランジェロは電話向こうで喋り続ける声に向かって相槌を打ち続けた。
++++++++++
午前中に苦手な事務作業を済ませ、午後からの荷物積み下ろしに向けて英気を養おうと入った、馴染みの店。
その日の従業員たちの顔ぶれを無意識に確認するのも、もはや習慣になってしまっていた。
と、変わらぬはずの店員たちの中に、一人、初めて見る女性がいた。
丸い瞳に浮かぶのは、透き通った黒目。
白い肌に、薄く色づいた唇が映えている。
ー初めて見る子だ。んー、かーわいいなー……
「あ、ミケちゃんこんにちはぁ!」
「あーこーんにちはー!」
ぼんやりとその女性を眺めていたミケランジェロの元に、甘ったるい声が投げかけられた。
声の主は華やかな顔立ちの、美人といって差し支えないだろう容姿の店員。
何を隠そうこの彼女は、ミケランジェロが過去にデートした人物だった。
いや、彼女だけではない。
気がつけば、ミケランジェロはこの店の女性店員ほぼ全員とデートしていた。
それも、ほとんどが一回限りの付き合い。
同じ女性とデートを重ねないことに深い理由はない。
ただ、『またデートしたいな』とは思わないから。
それだけなのだ。
「なーに?サワコちゃん見てたの?」
華やか顔の店員が、ミケランジェロの頬に顔を寄せて囁く。
この彼女とは今でこそ友人のような付き合いができているが、デート直後はなかなかの修羅場だった。
一見気が強そうにも見受けられるこの店員が、一度きりの付き合いを望んでいたミケランジェロに泣いてすがって……。
ーまあ、泣かれるくらいならいいんだよねー。問題はさあ……
そこまで考えたところで、意識して思考を停止した。
『楽しくないことは、(極力)考えない』
それも、ミケランジェロのモットーだったから。
ーそういうことは大抵レオか、たまにドニー、かな、辺りが考えてくれるから、オイラは考えなくていいんだもんねー
「ん、あの子サワコちゃんって言うの?」
気を取り直して、華やか店員に問う。
頭の中では、すでに今日のデート候補としてどうだろうか、という検討が始まっている。
「そうよ、今週入ったばかりでね。すっごく頑張り屋さんなのよー」
「へえー……」
ーうん、真面目な子は嫌いじゃない。それになんてったって、可愛いしなー、サワコちゃん!
思考は早くも第二段階、『どうやってデートに誘うか』に移った。
「……まーたデートに誘うの?」
「え」
聞こえてきた図星なセリフに思わず固まったミケランジェロを見つめ、華やか店員が赤く彩られた唇を得意げに緩める。
「ミケちゃんの行動なんてワンパターンなんだからわかっちゃうっての。でもね、サワコちゃんは難しいと思うよー。なんたって、ウブだから」
「ウブ?」
「そうよー、サワコちゃんのお父さんはね、ほら、なんだっけ、今売れてるお菓子……とにかく、有名なお菓子会社の役員さんなんだってよ?」
「へーえ」
相手の女性のバックグランドには、正直興味がなかった。
興味があるのは、その女性そのものなのだ。
いや、ミケランジェロの場合はもはや、その女性というよりも『女性と過ごすこと』といったほうが正しいかもしれない。
「ウブな子とデートとか、最近してないからなー」
「まったくミケちゃんは……。そのうち地獄に堕ちちゃうぞー?」
華やか店員が綺麗にマニキュアの塗られた指先でミケランジェロの頬をつついたとき、奥から彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「あっ、やば……!ミケちゃん、ゆっくりしてってね!」
「あーい」
小走りで走り去る彼女に返事をしながら、ミケランジェロは
ー決めたっ!今日のデートはサワコちゃん!!
いつものように、ごく軽く。
本日のデート相手(候補)を決定した。
ポケット内の携帯電話は、昼時を狙ってなのか、ここぞとばかりに震え続けている。
が、今のミケランジェロの意識には浮上してこない。
今日の、いや、今彼の意識は、サワコだけに向いていたから。
その時、サワコがミケランジェロの近くを通り過ぎようとした。
すかさず声をかける。
「あ、ちょっとちょっとー」
「はい?ご注文ですか?」
「んー、声もかーわい」
「え……?」
「ううん、こっちのことー。あ、注文はねこれ。アンチョビピザ!あ、あとね、あったかいココアも!」
「はい、かしこまりました」
にこやかな笑顔で、伝票に書き込むサワコ。
俯く頬に、耳にかけられていた髪がひと房さらりと落ちた。
ーほんとに可愛いなあ、サワコちゃん
その様をぼんやりと眺めながら、本題を口にする。
「で、もひとつ注文があるんだけどー」
「はい、何でしょう?」
サワコは変わらず笑顔を浮かべている。
しかし、それはミケランジェロの一言によって豹変した。
「オイラと、今日、デートしよ?」
「……」
「ね?サワコちゃーん?」
「……」
サワコが浮かべていた笑みが、一瞬にして消えた。
怒っているようには見えない。
無表情では、あるが。
そんな彼女の様子にミケランジェロが
ーこれは、いけるかな?
そんな呑気なことを考えたときだった。
「ふ……」
サワコのふっくらとした唇が、かすかに動いた。
「ふ?」
そして、無表情のまま消え入りそうな声でサワコが続けたのは
「ふけつ……」
「……え??」
ミケランジェロにとっては、おそらく人生で初めて言われる言葉で。
「ふ、ふけつ……?」
思わず鸚鵡返ししたミケランジェロを見ることなく、サワコはそれだけ呟くと逃げるように店の奥へと立ち去ってしまった。
完全に取り残された様子のミケランジェロの横を、先ほどの華やか店員が通り過ぎる。
「……見てたよー。ミケちゃん、私言ったじゃない。サワコちゃんはね、お嬢様なのよ?純粋培養っていうの?だからねえ、気安いナンパなんかにはなびかないよー?」
「ぐっ……」
からからと笑う華やか店員。
彼女のこの一言が、ミケランジェロの軟派心に火をつけた。
ーん、決めた
「オイラ絶対、サワコちゃんとデートしてみせるんだから!!」
++++++++++
その日の夜。
日中の業務を終えた4人が、レオナルドを中心にシフト組みを行っていた。
「えーと、今日入った依頼はあと……あ、これだ」
レオナルドが資料を皆に配る。
「他市からの転入。依頼者は女性一人暮らしだっていうから、おそらくさほど負担はないと思う」
「ここには明日、いつも通り俺とラフで見積もりに行ってくる。予定では今月末あたりに引越しを……」
ここまでレオナルドが説明したとき、資料に目を通していたミケランジェロが
「あーーーーーー!!!」
大声で叫んだ。
「なんだようるせえな」
すかさずラファエロが注意するが、当のミケランジェロはそんなラファエロなど目に入らない様子で
「うそぉこれ!サワコちゃんじゃん!名前も苗字も一緒だし……うっわぁ、サワコちゃーん!!」
女性の名前をまくしたてている。
「ちょっとちょっとマイキー、とにかく落ち着きなよ。全然話が見えないんだけど?」
思わずデスクチェアから立ち上がっていたミケランジェロのTシャツの裾を、隣に座るドナテロがくいくいと引っ張った。
促され座り直したミケランジェロが、満面の笑みで書類を指差す。
「この子!サワコちゃんってね、すぐそこの喫茶店で働いてる子なんだよー」
「へえ、そうなのか」
「おいレオ、ボケっとんなこと言ってる場合じゃねえぞ」
「え、あ!」
驚いた風に相槌を打ったレオナルドが、ラファエロに小突かれハッとしたようにミケランジェロを見つめた。
「おいマイキー、ってことは、お前、このお客さんと知り合い……なんだな?」
恐る恐る問いかけるレオナルドに、ミケランジェロは天井を見つめて今日の昼の様子を思い起こす。
「んー知り合いっていうか、今日喫茶店で初めて会ったんだ!でさあ、デート申し込んだら断られ……」
「うし、この件は荷物の積み下ろしも基本レオと俺でいいな」
「ちょ、ちょっと待ってよー!!せっかく知り合いなんだから、オイラに行かせてよ!!」
「ねえマイキー、お前の今までの所業を考えたらさあ、その申し出は却下されると思わない?」
呆れたようなドナテロの言葉に耳も貸さず、ミケランジェロはデスクの上に登りそうな勢いで向かいのレオナルドとラファエロにくってかかった。
「ねえ2人とも!オイラの話聞いてる!?」
「あー聞いてる。聞いてっから、却下してんだよ」
「……俺はもう、土下座は御免だからな。だから、明日は俺とラフで……」
まるで聞く耳を持たない2人に、ミケランジェロはその頬を膨らませる。
そんなミケランジェロを気にすることなく話を戻そうとしたレオナルドが、はた、と何かに気づいたように動きを止めた。
「ちょっと待て。ラフ、お前明日休みとってなかったか……?」
「あっ、そーだ!そーじゃんラフ!!とうとう押し切られたんだよねー、あの子にー」
「っ!!」
ニヤニヤと自分を見つめてくるミケランジェロに、ラファエロは『しまった』という表情を作った。
「くそ、なんで知ってんだよてめえら……っ」
「へっへ、オイラなんでも知ってるもんねー」
「っぐ……」
今にも『ギリギリ』という音が聞こえてきそうな顔でミケランジェロを睨んでいたラファエロが、ふと余裕の表情を浮かべーー
「……俺ぁ、会社出たっていいんだぜ?」
そう言い放った。
しかし。
「ダメだよラフー、キキョウさんの気持ちを踏みにじっちゃさ?」
聞こえてきたドナテロの至極真っ当な意見に、
「……フン」
一瞬にして真面目な表情になると、ラファエロは鼻を鳴らしてそのまま黙り込んでしまった。
「ということでー、明日のそのサワコちゃん?の見積もりは、僕がレオと行くよ」
「ああ、そうだな。そうしよう」
「ええー!!」
気づけば自分の希望が全く通っていない。
思わず抗議の叫びを上げたミケランジェロだったが。
「マイキー、次の案件説明するぞ。ほら、ちゃんと座れって」
真面目な顔のレオナルドにそう諭され、ぼすっ、と力なくデスクチェアに腰掛けた。
「ま、今回ばっかりは諦めるしかないんじゃなーい?」
隣のドナテロに肩を叩いて慰められたミケランジェロは説明を続けるレオナルドを見ることなく、『どうしたら明日、サワコの自宅へ見積もりに行くことができるか』そればかり考えていた。
++++++++++
翌日。
サワコの見積もりは朝一番に組み込まれていた。
その自宅のドアの前に、レオナルドと並んで立っているーミケランジェロ。
「マイキー、頼むから、問題は起こさないでくれよ……?」
インターフォンに手をかけようとしてはおろす、そんな動作を繰り返しているレオナルドが、本日何度目かのため息をついた。
本日、何故ミケランジェロがサワコの家の前に立つことが出来ているのかー。
その理由は、昨日のシフト相談後に遡る。
##########
「んー……」
「マイキー、お前がどんなに考えたって無理だよ。レオとラフが許さないって。今回のその……サワコちゃん?だっけ、その子との縁はなかったものとして諦めるんだね」
帰宅のためデスク上を片付け始めたドナテロが、隣で腕組みしたままデスクチェアから動こうとしないミケランジェロに笑いかける。
「またさ、きっといい子が……おっと」
ドナテロが胸ポケットで震える携帯電話を取り出して話し出した。
言葉じりを漏れ聞くに、どうやら相手はこの夏想いを通じ合わせた彼女、のようだ。
会話に興じるドナテロの頬が、面白いくらい緩んでいる。
兄弟の中で同類だと信じていたドナテロが、他の女の子との関係を全部切ってまで、その想いを成就させた子。
今までドナテロに対してクールで冷静であるという認識をなんとなく持っていたが、彼女と出会って以来の様子を見るにつけ、それが崩れつつある。
ードニーがここまでメロメロになる娘がいたなんてねー……
ドナテロの弾む声を聞きながら、ふと心に浮かぶ。
ー彼女、ねえ……
ー欲しくないわけじゃない
ーけど、特別欲しいわけでも……なあ
ーだってさ
ー彼女、って、なに?
ーデート相手の子たちと、何が違うっていうのさ……
腕組みをして、幸せオーラ全開のドナテロを横目で見つめていたとき。
「えっ!?それほんと?!」
ドナテロの焦ったような声が聞こえた。
「何でもっと早く言わないのさ!!ああ本当にもう、サクラは……!!」
「なんかあったの?ドニー」
「なんかじゃないよ!サクラ、骨折しちゃったみたいなんだよ!!」
ミケランジェロの間延びした声とは対照的な、ドナテロの鋭い声が社内に響いた。
「え、えええっ!?」
「大丈夫なのか?」
「それまじか?!」
打ち合わせを終え社長室から出てきたばかりのレオナルドとラファエロが、ドナテロの声に慌てて近寄ってきた。
3人が周りに集まる間も、ドナテロは真剣な顔でサクラと話をしている。
数分後。
「じゃあ、彼女、今日怪我したってわけなのか……」
「うん。歩いてた時に突っ込んできた自転車を避けようとして、ね。あ、骨折じゃなくてひび、なんだってさ。今日は1日病院に泊まって、明日家に帰るらしい」
「まあ、あれだ、大事にならなくて良かったな」
「うん、まあね」
サクラとの電話を終えたドナテロはラファエロの労りの言葉に考え込むような顔で返事をすると、社長室から出てきたスプリンターに近づいた。
「あの、社長」
「うん?」
スプリンターの柔和な目が、ドナテロを見つめる。
「急な話で申し訳ないのですが、明日、休みをもらってもよろしいでしょうか?」
「サクラ殿が怪我をしたとか。その件か?」
「そうなんです。彼女一人暮らしですし、せめて退院の日くらいは付いてやって、いろいろ支度をしてあげたいんです。足が不自由な状態でこれから家事や何やらやるのに、いろいろ入り用なものが出てくるでしょうから……」
「ふむ、それで、明日の仕事はどうする?」
「それは……」
先ほどのシフト相談で、ドナテロはレオナルドと組んでサワコ宅に行くことが決まっていた。
俯くドナテロを見つめるミケランジェロの眼が、きらりと光る。
「はい!はいはいはーい!」
「なんじゃ、ミケランジェロ」
残りの3人が、ハッとしたようにミケランジェロを振り返った。
「明日、オイラがドニーの代わりにサワコ……っじゃなくって、朝イチの見積もり、行きますっ!」
「……レオナルド、どうする?」
スプリンターが探るように、レオナルドをチラと見やる。
その視線にしばらく目を泳がせていたレオナルドだったが、ドナテロを見つめるとぴた、と止まった。
ー彼女が心配なんだ、頼む
そんな色を浮かべている、ドナテロの瞳。
大切な彼女がそんな状況だったら、何はなくとも駆けつけてやりたい。
数ヶ月前、同じようにかけがえのない存在と巡り逢ったレオナルドには、その気持ちが痛いくらい理解できた。
「……見積もりはミケランジェロとで対応可能な範囲なので、業務に支障はないです。なにより、サクラも困っているでしょうし……今回はドナテロの希望を汲んでやっていいと思います」
「そうか」
目を閉じて薄く笑ったスプリンターが、後方のミケランジェロを見た。
「ミケランジェロ。ではお前がドナテロの代わりに明日、見積もりに行くように」
「はいっ!!」
##########
「オイラは大丈夫だって!それよりもさ、ドニー大丈夫かなあ?」
昨日の一連、特にドナテロの心配げな顔を思い出しながらミケランジェロがレオナルドに顔を向けた。
「まあ、ドニーのことだから、準備万端で向かってるだろうさ」
「あとでオイラたちもお見舞い行こうねー」
「ああ、そうだな。っと。その前に、仕事だ」
と言いつつも胸の内を探るかのようにじっと見つめてくるレオナルドに、満面の笑みを返す。
「もーう、レオってば心配性!!大丈夫だって!」
自分の言葉に眉間の皺を一層深くしたレオナルドを押しのけて、ミケランジェロは思い切りよくインターフォンを押した。
「いいかマイキー、本当に余計なことは言うなよ」
「あーい」
ため息混じりのレオナルドにミケランジェロが返事を返したとき、ドアが開かれた。
##########
「あ、お電話いただいて伺いました、ハマト運送です……!」
「荷物のお見積もりに参りましたー!」
ドアの向こうから、昨日デートを断られたあの女性ーサワコが現れた。
「あ、今日はよろしくお願い……」
会釈をしかけたサワコが、その視界にミケランジェロを認めた途端、表情を固まらせた。
「あ……」
「やっほー、サワコちゃん!」
「お、俺は営業担当のレオナルドと申します。こっちは作業員の……」
「ミケランジェロです!!」
「……」
胸をそらせ自信満々に挨拶したミケランジェロを一瞥したサワコは、みるみるうちにその整った眉をしかめーまるで、怯えたような表情を作り上げた。
そしてそのままの表情で、ミケランジェロから逃げるようにレオナルドに向き直った。
「じゃあ……何からしたらいいんでしょうか?」
「えっ、あ……で、では、お部屋をまわりながら運び出す荷物を一つ一つ確認させていただきたいのですが」
完全に怯えの表情となっているサワコに戸惑いながらも、我にかえるレオナルド。
「わかりました。こちらへ、どうぞ」
サワコはそんなレオナルドの戸惑いを気にした風もなく、そのまま先に立って室内へ進んでしまったーミケランジェロを再び見ることもなく。
「……」
「っ、おい!行くぞ、マイキー」
レオナルドに腕を掴まれたミケランジェロが、茫然自失といった様子で引きずられていく。
ーえ、えええ
ーねえ、今、今さあ
ーサワコちゃん、お化けでも見るような目でオイラのこと、見てなかった……?
これまで、女の子から怒鳴られたことはある。
怒られたことも数え切れないし、平手をかまされたことも一度や二度じゃない。
泣かれることだって日常茶飯事だ。
ー逃げられることも、うん、あったね
ーけど、あんな風な、怖がるような目で見られたことって、初めてだよ……!?
++++++++++
ー信じられない、信じられない!!
懸命に平静を装いながらも、サワコの心は軽くパニックになっていた。
ーなんであの人が……来ちゃったのよお……
昨日勤務先で声をかけられたことを思い出し、サワコの心にザワザワと嫌悪感が湧き上がった。
初めての仕事。
職場に近い方がいいだろうと、学生時代から住んでいたこの部屋から引っ越すことを決めた。
良くしてくれている先輩が『引っ越すならここがいいよ』と教えてくれた運送会社。
評判はいいから安心して、と言われたのだがー
ーうそばっかり!!
ー評判がいいですって?!あんなことを言う作業員がいる運送会社のどこがいいっていうのよ!!
心の中で愚痴を呟きながら、おそるおそる、作業中の2人を見つめる。
ー最初に挨拶した人は、特段変わった印象はなかったけど……
青色の鉢巻の営業を見れば、自然と視界に入ってしまう、橙色の鉢巻の作業員。
ーああ嫌!あの橙色の人は、嫌!!
ーなあサワコ、今日、俺とデートしよ?ー
サワコの頭に、苦い記憶が蘇る。
ーはあ?俺がお前に本気になるとでも思った?馬鹿じゃねえの、お前と付き合うメリットなんて金持ちってことくらいだろー?ー
大勢の友達の前で、辱められた。
あんな思いは、もう二度としたくない。
ー次に恋する人は、誠実な人がいいの
ーあんな、ちゃらんぽらんな人……関わることすら嫌なのに……!!
あの時の嘲笑が耳について離れない気がして、思わずギュッと目を瞑った。
「あ、えーと、サワコさん?」
声をかけられハッとして顔を上げれば、目の前にはその、大嫌いな橙色の鉢巻が揺れていた。
途端に、自分の眉がしかめられるのがわかる。
「……」
「あ、っと、レオ……ナルドがですねー、この箇所を確認するようにって言うんですが……」
無言で見つめれば、目の前の人物がおそるおそる書類を差し出してきた。
部屋の隅に、青色鉢巻の営業が電話で話しているのが見える。
ーできればこのひととは話したくないんだけどな……
青色鉢巻を見つめながらしばし祈っていたが、彼の電話はまだまだ終わりそうにない。
しぶしぶ、サワコは差し出された書類を手に取った。
「どこですか……」
「えーと、あ、これです。この荷物の梱包についてなんですけど……」
たどたどしく説明を始める橙色鉢巻の声を拒否しようとする心を『自分の引越しのためなのだから』となんとかおさめて、最低限の説明を耳に入れる。
「……ってことなんですけど、それでもいいでしょうか?」
彼が自分を見つめているのはわかっていた。
けれど、とてもじゃないが目なんて見られない。
見たくない。
「ええ、結構です」
俯いたまま、それだけ答える。
と、
目の前の彼から、なんとも言えない雰囲気が漂ってきた。
切ないような、寂しいようなー
自分を覆い尽くすようなその雰囲気に纏われたくなくて、サワコは俯いたままそそくさと別室に移動した。
「では、これで全部、ですね」
「はい」
一人暮らしのサワコの部屋。
さほど時間をかけずに見積もりは終了した。
「では、またお引越しの日……2週間後、ですね。その時にお伺いいたします。サワコさんはそれほどお荷物も多くないので、作業員2人で対応させていただこうと思うのですが、よろしいでしょうか?もし、何かご希望などありましたら……」
青色鉢巻の営業が、窺うような視線を向けてきた。
「あ……」
作業員は何人でも構わない、ただー
ーこの、橙色のひとを、連れてこないで!!
そう心は叫んでいるのだが、さすがに、
ーなんて、いくらなんでもこの場では言えないわよね……
常識的にそれはまずいだろうという気持ちが勝り、
「ええ……」
と呟くのみにとどめた。
そのまま、2人は退出する。
帰りしな、橙色鉢巻が何度も自分を見つめていたのはわかっていた。
でも。
ーなんなのよ!なんでこっちばっかり見るの!!
ーどうせ、いいカモになりそうとか、思ってるくせに……っ!!
そんな思いが動作に出たのか。
思ったよりも大きな音を立ててドアを閉めてしまった。
「あっ……」
ー失礼になっちゃったかしら……
単なる運送会社員とはいえ一抹の不安が頭をよぎった。
しかし、すぐさま思いなおす。
「いいか、別に……」
ーやな客、って思われたっていいわ。どうせ引越しが終われば会うこともないし。もう、どうだっていいもの……
息を吐きながら、玄関の床を見つめる。
ミケランジェロがいる間、結局サワコの眉は一度も緩められることがなかった。
++++++++++
翌日の、朝礼終了後。
「おいマイキー、ちょっといいか?」
真面目な顔のレオナルドに社内の一角にある接客スペースへと呼び出された。
ここに呼ばれるときは大抵、会社に関わる大ごとをやらかしてしまったときや、プライベートな相談事などの時だ。
ーえ、なんだろー。こないだの社長とレオに土下座させちゃった事件以来、特に何もしてないはずなんだけど……
促され、合皮張りのソファに腰を下ろした。
向かいに座ったレオナルドが、ふう、と息を吐く。
「なーに?レオ。そんな溜めないでよー、緊張しちゃうじゃ……」
今回は心当たりがないだけに、気分も楽だった。
だからこそ、いつものように叩いた軽口。
けれど。
「昨日、サワコさんから連絡があった。荷物積み下ろしのときは、お前を連れてこないでほしい、って」
レオナルドの言葉に、軽口は最後まで言うことができなくて。
ミケランジェロは丸みを帯びているその目を見開いたまま、しばらく動けなかった。
「え……?」
「余計なことは言うなって、俺、言ったよな?」
「い、いや……」
「サワコさんは特別ご立腹している様子じゃなかったけど……。お前、昨日彼女に何を言ったんだ?」
淡々と、けれど、どんな言い逃れも見逃さないという意思を秘めたレオナルドの目が、ミケランジェロを射るように見つめている。
「オ、オイラ、何も言ってないって!本当だよ!!」
「でも、だとしたらなんで……。そもそも、部屋に入った時点からサワコさん、お前のこと全然見なかっただろ?なんでだ?」
「そんなこと、オイラに聞かれたってさあ!」
正直、ミケランジェロも戸惑っていた。
一昨日喫茶店で声をかけたとき、「不潔」と言われ逃げられた。
言われた言葉には多少……いや、まあ、かなり戸惑ったものの。
声をかけてすんなりいかないことなんて今までも多々あった。
だから、驚きこそすれそれほど気にはしていなかったのだ。
でも。
「オイラだって、なんであんなに怖がられちゃったのか、わかんないんだよう……!!」
「だから、昨日だって仕事の話以外全然話かけられなくて……」
あそこまで避けられる、いや『怯えられてしまう』とは思いもしなかった。
ああいった拒否のされ方は初めてだったから、正直、
ーすっごい、寂しかったんだ
「怖がられた……?」
消え入りそうな声で呟いてそのまま黙ってしまった弟を、レオナルドが心配そうに見つめている。
「なあ、マイキー。お前、サワコさんとは一昨日喫茶店で会って、デートを断られたって言ったよな?」
「う、うん」
「……どんな誘い方をしたんだ?」
「どんな、って、別にいつも通りの……」
あたふたと言葉を並べるミケランジェロに、レオナルドが息を吐いた。
「なあ、マイキー」
「な、なに?」
レオナルドが組んだ両手を膝の間に置き、ミケランジェロを覗き込むように身を乗り出す。
「俺は、お前のプライベートなやり方にまで口を出すつもりはないけど……一つ、俺の考えを言っておく」
「世の中の女性すべてが、そういう声のかけられ方を望んでいるわけじゃないと思うぞ?」
殊更に優しいレオナルドの口調に、ミケランジェロはなんだか居心地の悪さを感じ始めた。
清くて正しい自慢の兄の言葉が、今は何故か、苦しい。
「なにさー、もう!あの、レオと同じタイプの彼女ちゃんと相当うまくいってるんだねー?そんな……そんなこと言うなんてさ!!」
「なっ!ち、違うぞマイキー!そう言う意味じゃなくてだな!」
この堅物な長兄から逃れるには、彼の色恋の話を振ってその意識を逸らしてしまうのがなかなか効果があった。
レオナルドの一瞬の隙をついて立ち上がったミケランジェロは、素早く歩を進め玄関の自動ドアまで辿り着くとくるりと振り返った。
「んじゃ、オイラちょっと外回りに行ってくんねー」
「おい待て、マイキー!まだ話は終わってないぞ!」
レオナルドの声が響いたが、聞こえないふりをしてそのまま外へ飛び出した。
ーレオがこんなふうに隙を見せるようになったのも、彼女が出来てからだよねー
ーなんていうか、いい意味で柔らかくなったっていうか、さ
ードニーも、レオも。どんどん変わっていくなあ……
冬の朝。
深く息を吸えば、キンと冷えた空気が身体全体に行き渡る。
けれど、澄んだこの空気でさえも、もやもやした心のうちを浄化してはくれない。
そのまま向かったのは、サワコの働く喫茶店。
浮かんだもやもやをそのままにして悩むなどということは、ミケランジェロの得意とするものではなかった。
ーだから、聞く!
ーなんで、オイラが引越しの日行っちゃダメなの?って
ーオイラ、サワコちゃんに何かしちゃった?って!!
ーよし!
意気揚々と、店内へと足を踏み入れた。
暖かな暖房に冷えかけていた身体がほぐされていく。
開店直後の店内は空いていると思いきや、朝食の客だろうか、思いのほか混み合っていた。
ーサワコちゃん、サワコちゃん……
それほど広くない店内を見回せばー
ーいた!
若い男性に、おかわりのコーヒーを淹れているようだ。
と、その男性がサワコに向けて何か話しかけた。
すると。
サワコが、笑った。
ふんわりと、開いたばかりの花のように。
ーあんな風に、笑うんだ
自分の前では決して見せなかった笑顔に、無性に悲しさがこみ上げる。
ーでも!あの人はサワコちゃんにとってお客さんだもん。逆にさ、オイラは依頼された側だったんだから、あんな風に笑ってもらえなくても当然……
自分に対して怯え通しだったサワコを思い出し、その理由を思いついて頭の中で反芻する。
けれど、一度生まれた寂寥感はそう簡単には消えてくれなくて。
いつしか自分の口角が下がっていることに、ミケランジェロは気づいていなかった。
「あれ、ミケちゃん?」
入り口にぼんやりと突っ立っていたミケランジェロに、聞き慣れた甘ったるい声がかかった。
「どうしたの?こんな朝から。珍しいね?」
「ん……ああ」
いつもならば明るく挨拶をしてくるはずのミケランジェロの、明らかに気落ちしている様子に、馴染みの華やか店員は驚きを隠せなかった。
「ちょっと、どうしたの?とにかくほら、席に座って?」
「ん……」
形ばかりの返事をしながらも、ミケランジェロの視線は一点に注がれている。
その視線の先を確認した彼女は息をつくと
「いつものココア、持ってくるから。ね?」
まるで耳に入っていない様子のミケランジェロに言い聞かせるように呟き、店の奥へと姿を消した。
ーサワコちゃん
ー早く、話したいな。早く、聞きたい
ーなんかしちゃったなら、オイラ謝るよ
店の奥から華やか店員に押されるようにホールに出てきたサワコが、ココアを手に自分が行くべきテーブルを確認してハッとしたような表情になった。
慌てて華やか店員を振り返るが、彼女はにっこりとサワコの背を押した。
何か言おうと口を開きかけたサワコだったが、ややあって、眉を顰めながらミケランジェロのテーブルへと近づいてきた。
「……お待たせいたしました、ホットココアです」
聞こえてきた声に、テーブルに突っ伏していたミケランジェロの頭がばっと上を向く。
「サワコちゃん……!」
「……っ」
ミケランジェロの勢いに、サワコの眉がはっきりと怯えの色を見せた。
おずおずとココアをテーブルに置くと、まるで自分を守るかのようにトレイを抱きしめる。
そんな彼女の姿に、ミケランジェロの胸がツキン、と痛む。
ーまた、怖がってる
ーねえ、どうして?
「サワコちゃん、オイラ……」
「や、」
とにかく理由を聞きたい一心で話し出したミケランジェロを遮り、サワコが俯いたまま口を開いた。
「やめて、ください……」
「え……?」
いきなりの懇願に、ミケランジェロは戸惑いを隠せない。
ーやめて、って……
「何を……?」
思ったことそのままを、口にする。
サワコは、いまだ俯いたまま。
「どうせ……」
食い入るように、サワコの顔を見上げ続けるミケランジェロ。
彼女の唇は、かすかに震えながら呟いた。
「どうせ、何とも思ってない、くせに……」
「!」
ガン、と、頭を殴られたような気がした。
気づけば、サワコは店の奥に走り去ってしまっている。
後に残されたミケランジェロの頭の中では、サワコからぶつけられた言葉だけがぐるぐるとまわっていた。
『どうせ、何とも思ってないくせに』
その言葉とともに、なぜか、脳裏に兄弟の姿が浮かぶ。
相手の気持ちを踏みにじることはしない、ラファエロ。
怪我をしたサクラを助けるために、一生懸命なドナテロ。
ヤエコと出会って、より柔らかくなったレオナルド。
女の子は好きだ。
暖かくて柔らかくて、抱きしめればいい匂いがして。
いるだけで、空気がきらきらする。
そこまで考えてミケランジェロはあることに気づいた。
ーオイラ、自分が楽しければそれでいい、って……思ってた?
ーオイラ、オイラ……
ー自分のことしか考えてなかった、のかなあ……?
悲しい。
気づいたその事実が、ただただ悲しかった。
暖かな湯気をあげているホットココアに手を伸ばすこともせず、ミケランジェロは俯いたまま動くことが出来ずにいた。
++++++++++
店の奥に駆け戻ったサワコは、ざわつく胸をなんとか抑えてトレイに乗せたコーヒーと共に持っていく、朝食プレートの出来上がりを待っていた。
「あ、サワコちゃん。元気?」
「キキョウさん……」
声をかけてきた彼女は、サワコとほぼ同時期に他店舗から異動してきた従業員だった。
先輩ではあるものの、この店に入った時期が同じだったためか当初から親しくしてくれている女性だ。
そう、サワコにハマト運送を教えてくれたのも、この彼女だった。
「ハマト運送にはもう電話したかな?小さな会社だから、そんなに混むこともないとは思うけど……」
笑顔を浮かべてこちらを見てくる彼女に、思わず目を伏せてしまった。
「どうかした?」
「見積もり、来てもらったんですけど……」
「うん。あ、見積もりは誰がー」
「朝食プレート、3番テーブルねー!あと、10番のホットサンドも出来たからすぐ持ってって!」
「あっ、ホットサンド、私行きます!サワコちゃん、あとでゆっくりお話ししようね」
厨房からかかった声にハッとし、ホットサンドをトレイに乗せた彼女はテキパキとホールに行ってしまった。
朝食プレートを受け取ったサワコも、慌ててそのあとを追う。
ーまだ、いるの、かな……
ホールに出たサワコはこわごわとミケランジェロの席に視線を向けたのだがー
テーブルには彼の姿はなく、全く手のつけられていないココアが置かれたままで。
サワコの脳裏に、自分の言葉に表情を失ったミケランジェロの顔が思い出された。
ーひょっとして、傷つけた……?ううん、そんなことあるわけないわ
ーどうせ、いい加減な人なんだから……
頭を切り替え顔に笑顔を貼り付けると、サワコは3番テーブルへ近付いていった。
怒涛のランチタイムが終わった、午後。
ようやく入った昼休憩。
「ここの店舗は駅が近いからやっぱり混むね……。よし、ご飯食べようか、サワコちゃん」
「サワコちゃん……?」
サワコは賄いを前に、俯いたままぼんやりしている。
ー何も言わないで帰ったんだ、あの人
ーやっぱり言いすぎた、かしら……。ううん、違うわ!だって事実だもの!もっと何かされる前にあのくらい強く言って、よかったのよ……!
キキョウが心配げな色を滲ませて、彼女を覗き込んだ。
「ねえ、サワコちゃん?もしかしてお仕事、辛い……?大丈夫?」
そこでようやくサワコは思考の淵から我に返った。
「あ、すみません、いえ、そうじゃないんです……!!」
「あ……ひょっとして」
何かに思い当たったように、キキョウが身を乗り出した。
「ハマト運送、何かダメだったかな……?」
ハマト運送の名を聞いた途端、サワコの肩があからさまに震えた。
「え、え……やだ、何かあった?ラファエロさんなら大丈夫だと思ったんだけど……」
「ラファエロさん……?」
聞こえてきた男性の名前に、サワコが顔を上げる。
すると、キキョウはうっすらとその頬を染めた。
「あ、ううん。そうだ、見積もりは誰が来たの?」
「名前は……誰だったかしら……。ええと、青い鉢巻の人と……橙色の、ひと、です」
サワコがぽつりと答える。
「青色と橙色……じゃあ、来たのはレオナルドさんと、ミケランジェロさんね」
「そんな名前だったような気が、します」
「レオナルドさんは営業で、確かリーダーをされてるんだったと思うけど……何か問題があったの?」
キキョウの質問に、サワコの唇が引き結ばれた。
しかし、その唇は次の瞬間には引き上げられて。
「いえ、見積もりに問題ってわけではないんです。……すごく丁寧にしてもらえましたから。教えていただいて良かったです」
ーあの人の態度と、見積もりは関係ないもの、ね。実際丁寧にやってもらえたし……。キキョウさんを責めるのは筋違いだわ
そう心で判断し、サワコは笑顔を浮かべた。
「そう?それならよかった……」
そんなサワコに笑顔を返しながらも、キキョウはサワコがハマト運送に何か懸念を抱いていることを感じ取っていた。
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