働く青い亀さん
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約2週間後。
何事もなく、毎日が過ぎていった。
毎日、電話をとり、見積もりへと出向き、荷物を、運ぶ。
ーただ、その毎日の中には、彼女がいないってだけ、だ
ある夜。
明日の新規依頼客宅へのルートを確認している手を止めて、レオナルドは額に手を当てて目を瞑った。
ー会いたい、ヤエコさん
「どうすればいいんだ……」
呟いたささやかな言葉が、誰もいない社内に吸い込まれていく。
その時。
すでに電源を切っている入り口の自動ドアを開錠し、手で開ける音がした。
不思議に思い、レオナルドがそちらを振り向けば。
「ドニー……?」
「あれ、レオ。今日も1人で残業?」
脱いだ作業服を小脇に抱えて、にっこりと笑うドナテロの姿があった。
「ったく、お前って本当に遊びを知らないよねえ……今日は金曜だよ?」
ふう、と息を吐きながらドナテロは作業着を自分のデスクチェアの背にかけると、そのまま腰掛けた。
「余計なお世話だ……。お前こそ、帰ったんじゃなかったのか?」
「そうなんだよー!せっかくさ、こないだのほら、高級住宅街の奥様!銀行員の旦那さんのいるさ!あの方からお電話いただいたからお相手して差し上げなきゃっていうのに、月曜までに仕上げなきゃいけない書類の資料会社に忘れちゃってたの思い出してさあ!」
「……」
相変わらずな弟の行動に小言のひとつでも、と考えたレオナルドは、それでも仕事のことを忘れていない様子のドナテロに一安心し、言いかけた言葉をすんでのところで飲み込んだ。
しかし。
「お、あったあったー。良かった、これで奥様とのお食事には間に合うなあ。あとはロッカーで替えのスーツに着替えてー」
「なっ??!お前、行くのか?!ひ、人妻との……しょ、食事に?!」
「何でそんなに驚くのさ?今更じゃない?」
仕事の書類を撮 取りに来た、だからてっきりそのままドナテロが帰宅すると思っていたレオナルドは、大きなため息をついた。
「あのなあ、ドニー……」
「レーオ。大丈夫だってば。僕はマイキーとは違って、クレームが来るようなヘマはしないから」
「いや、そういう問題じゃなくてだな……」
ニコニコと微笑みながら返すドナテロに、レオナルドは持っていたペンを離して両手で顔を覆ってしまった。
再び、はあ、と大きく息をつく。
そして両手から顔の上半分を出すと、横目でちらり、とドナテロを見やった。
「なあドニー、俺、気になってたんだが……」
レオナルドが口を開きかける。
が、言い終わらないうちにドナテロがにやり、と笑って見せた。
「大丈夫だよ。……僕だってね、いろいろ考えてるんだから。いつまでもお前に迷惑かけるだけの弟じゃいないから。……安心していいよ」
予想もしていなかったドナテロの言葉にレオナルドは口元を覆っていた手を外し、思わず彼を凝視した。
「なーに?そんなに僕のこと見つめちゃって。ん?」
相変わらず軽口を叩き続けるドナテロに、レオナルドは耐えきれずに吹き出してしまった。
「っふ、はは……」
「ったく、ちょっとは兄弟を信じてほしいなあ」
「普段のあの行いで信じろっていう方が、無理だろう」
「あはは、かもね」
朗らかに笑っていたドナテロが、ふと真顔になった。
「ねえ、レオ」
「ん?」
彼の真剣な眼差しに、レオナルドも思わず姿勢を正す。
「ヤエコちゃんとは?どうなってんの?」
「っお、お前……!」
思わずデスクチェアから立ち上がりかけたレオナルドを、ドナテロが穏やかに諭して再び座らせる。
「まあまあ座ってよ。誰から聞いたって言いたいんだろうけど、みーんな知ってるよ。ラフも、マイキーも、社長も、ね」
「なっ!?」
まるで寝耳に水なその情報に、レオナルドは半ばパニックになっていた。
なかでも、彼が父としても会社のトップとしても尊敬しているスプリンターにまで知られていた、ということが大きかった。
「あのねー」
レオナルドの慌てようとは対照的に落ち着き払ったドナテロが、頭を掻きながら話し始める。
「お前がヤエコちゃんに惚れた……ってか、一目惚れしたらしいっていうのはラフでもわかったみたいだし、それを聞いてなくたって、彼女の引越しの日のお前の様子見てたら誰でもわかるよ」
「引越しの、日……」
「そう。彼女から目、離せなかったでしょ?」
ヤエコの引越し当日。
到着早々彼女と見つめ合ってしまってから、正直、レオナルドの頭の中は新居までのルートのことでも引越し後の説明のことでもなく、彼女のことでいっぱいになっていた。
そんな思いが、動作に表れていたのかもしれない、と今更ながら反省する。
「てかさあ、彼女の方だって……」
「?」
「いや、それはまあいいか。とにかく」
何かを言いかけたドナテロだったが、改めてレオナルドに向き直ると人差し指で彼を指しつつ、言い放った。
「お前がヤエコちゃんに惚れてることは、知ってる。だから、協力したいんだよ」
「きょ、きょうりょ、く……?」
目を白黒させているレオナルドに、腕を組んだドナテロは不敵に笑って見せた。
「こないだ、デートしたでしょ?」
「なんでっ!?何で知ってるんだそのこと!!」
「やっぱりねー。レオ、お前ってわかり易過ぎ。営業として、弟は心配だよ?」
「……っ!」
自分がカマをかけられたのだとレオナルドがようやく気づいた時には、ドナテロは既に違うことに思考がいっている様子で、何やら考え込むそぶりを見せている。
「それでさ、レオ」
「なんだよ!」
弟に顧客との秘密のデータが露見していたことへの羞恥心を消すことができず、思わず怒鳴り返したレオナルドに、ドナテロが冷静に問いかけた。
「お前は、どうしたいの?」
「……」
「協力したいって、言ったろ?」
「ドニー、お前」
「正直さ、僕は嬉しいんだよねえ」
ドナテロがデスクの上に転がっていたボールペンを手で弄びながら独り言のように呟く。
「お前って仕事一筋じゃない?ラフみたいにバイクで気分転換とかしないし、僕みたいに機械いじりが趣味ってわけでもない。マイキーみたいに享楽的でもない」
「……」
「まあ、マイキーはあれはあれでなかなか考えてるけど。いや、話戻そう。……いつだったっけ、気分転換は何だって聞いたら、お前“新しい近道探すための裏道の散歩”とか答えたでしょ」
「そ、それの何がいけないんだ」
幾分恥ずかしそうに呟いたレオナルドに苦笑しながら、ドナテロは続ける。
「別にいけないって言ってるわけじゃないよ。ただ、もうちょっと、自分のための何かを持ってもいいんじゃない?って言いたいわけ」
「自分のため……?」
「そ。会社のためでも、誰のためでもなく、レオナルド、お前のための何か」
「……」
「僕はずっとそう思ってたんだよ。だから、そんなお前がさ、ははっ……好きな子できた、とか。もう、お赤飯でも炊きたいくらいなんだよねー」
ニヤニヤと笑うドナテロを尻目に、レオナルドの頬にどんどん熱が集まっていく。
「からかうだけなら、俺は帰るぞ!」
そう叫ぶように言い、再び立ち上がったレオナルドにドナテロが言葉をかける。
「ちーがうって。お前はどうしていつもそうなんだか……」
「何が違うんだよ……!」
「好きなんでしょー?ヤエコちゃんが。一緒にいると、嬉しいんでしょ?」
デスクチェアに泰然と座り、腕を組んだドナテロが、上目遣いでレオナルドを見やる。
その視線から逃れるように横を向くと、レオナルドは息を吐いてから彼にしてはやや乱暴な所作で座り直した。
「……でも、どうしたらいいのか」
ぽつり、と
「わからないんだ……」
そう呟くと、レオナルドは膝に肘をつき組んだ両手に額を当てたまま、黙り込んでしまった。
「……デートしてから、連絡は?」
「ヤエコさんからは特に何も、ない……」
「じゃあ、お前からすればいいんじゃない?」
「できるわけないだろ!連絡先、聞いてないんだ、から……」
ドナテロの言葉にレオナルドが勢いよく顔を上げた、が、話すごとにその勢いはどんどん萎んでしまう。
「あー、そっか。改めて聞いてないから、連絡できないわけか。……仕事で得た情報をプライベートでは絶対使わない、とか……そう考えずにさ、仕事にかこつけて連絡すればいいのに。……やっぱり頭固いよねえ、レオ」
「お前に言われたくは、ない。いいか、俺は、お前らみたいにはできないし、好んでお前らみたいにしたいとは、思わない」
床に視線を落としたまま、しかし力強く呟いたレオナルドに、ドナテロは思わず吹き出した。
「っくく……まあ、レオ」
「……」
レオナルドに睨まれたドナテロは笑いを必死で噛み殺し、いや噛み殺そうとして結局できずに更にレオナルドに射るような視線を向けられながら、口を開く。
「まあ、お前はお前のやり方しかできないしね。そうだよレオ、お前が逆立ちしたって僕たちみたいなやり方できるとは到底思えないし?」
「だから俺はしたくはないって……!」
「ははっ。いや、うんわかってるよ。馬鹿にしてるわけじゃない。……それ、お前のいいとこだよ」
「そう、か……?」
ふいに穏やかな表情で呟いたドナテロに、虚を突かれたように呟くレオナルド。
「そうそう。自信持って」
「うーん……」
“自信を持つ”
仕事に関してならばともかく、果たして自分に女性関係で自信を持つことなどできるのだろうかーー
そんな不安な思いをレオナルドが抱いていると。
「レオ、そういう時は」
聞こえてきたドナテロの声に、顔を上げる。
「back to the basics.」
「基本へ立ち返れ、だよ」
「……」
「お前はお前の基本に戻って、彼女に接すればいいんじゃないの?ってこと。無理に僕たちみたいにする必要はないし、したくもないんだろ?」
うっすら微笑んだドナテロが、キィとデスクチェアを回してデスク正面に向き直った。
「基本へ立ち返れ……」
なぜ、自分は弟たちのように軽やかに動けないのか。
ーそんな必要はないのだ、自分は自分がいいと思ったように動くしかないし、動けばいい
そんな自分の心の葛藤をこの聡い弟に見透かされ、ヒントを与えられた気がして。
「……ありがとう、ドナテロ」
「どーいたしまして」
精一杯の照れ隠しに包んで、レオナルドはそう呟いたのだった。
++++++++++
「ふああああ……」
「あれ、ラフ、いたの」
レオナルドが一足先に自宅へ帰った数分後。
ラファエロが欠伸を噛み殺しつつ奥の仮眠室から出てきた。
「仮眠とったまんま、寝ちまってたんだよ」
「ふーん」
にやにやと笑みをたたえたまま、ラファエロを見つめるドナテロ。
「……んだよ」
「もしかして、レオのこと心配で待ってたんだったりして」
「あ?何言ってんだ」
「ラフ、お前って本当に家族想いだよねえ」
「……何言ってんだかさっぱりわかんねぇ」
うんうんと1人悦に入っているドナテロを一瞥すると、ラファエロは大きく伸びをした。
「あはは。まあいいや。そういうことにしとくよ」
「そういうことってどういうことだよ、このインテリ」
「ほらいいから、もう帰ろう!マイキーがご飯作って待ちくたびれてるだろうからさ。あーあ、この時間じゃあ、高級住宅に住む人妻さんとの逢瀬は、お預けかー」
「……なんだって……?」
「なんでもないよー。ほらラフ、バイク乗っけてくれよ、その方が早いんだから」
そう言いながら立ち上がったドナテロはラファエロの肩に腕を回し、笑みを浮かべた。
++++++++++
レオナルドと食事をしてから、3週間余りが経とうとしていた。
その間、何度名刺を片手に携帯とにらめっこしただろうか。
引越し後に問題が出た、いっそそう嘘をついて彼を呼ぼうか、とまで考えた。
しかし、
ーそうやって呼んでも、別に支障も何もないんだもの……
その後、気まずい沈黙が2人を包むことになるのは分かりきっている。
そんなリスクを冒す勇気を、ヤエコは持ち得ていなかった。
夏の夕陽は、いまだ強い日差しで、はためく洗濯物を照らしている。
ーすっかり乾いてるみたいだし、夕立が来る前に取り込もうかな
今朝の天気予報を思い出して、ため息混じりに立ち上がる。
と、彼女を一瞬の立ちくらみが襲った。
「っ」
ちかちかする視界の中、大きくはためく洗濯物が見える。
その洗濯物は、ゆらり、と人影に変わる。
脳裏に、いつか見た映像が思い起こされる。
心臓が破裂しそうなほど、どくり、と脈打った。
窓から差し込む夕陽を背に立つ、もういないはずの男の影。
一歩、一歩。
その影は、自分に近づいてくる。
「……っ!!」
湧き上がりそうになる悲鳴を飲み込み、そのままヤエコは部屋を飛び出した。
エレベーターを待つのももどかしく、急いで階段を駆け降りる。
どこへ行けばいいのか、など、考えられなかった。
ーあの男から、逃げたい
ー誰か、助けて
階段を降りきり、恐怖に目を瞑ったままとにかく駆け出そうとしたとき、強い衝撃を身体に感じた。
「きゃあああっ!!」
「うわっ!!」
その衝撃に恐怖が一気に膨らんだヤエコは、悲鳴をあげてその場にしゃがみ込んでしまった。
しかし、その耳に聞こえてきたのは
「ヤエコ、さん……?」
ヤエコが今1番会いたいと願っていた、レオナルドの声だった。
++++++++++
「少し、落ち着きましたか……?」
駅前から少し離れた、個人経営の喫茶店。
少し古臭い雰囲気すらするその店の一角のテーブル席に、ヤエコとレオナルドは座っていた。
ヤエコが階段を駆け降りたその時、ヤエコの自宅へ様子聞き(と称した、彼女に会うための口実)に来訪したレオナルドとぶつかってしまった。
レオナルドはヤエコを自宅へと送ろうとしたが、自宅へは行きたくないと強く拒否する彼女に根負けし、結局この店へと辿り着いたのだった。
「……」
レオナルドの遠慮がちな問いかけにも答えず、先ほどからヤエコはずっと俯いていた。その顔には、いつか見たような笑顔の片鱗すら見られない。
「あ……」
ー彼女に、笑ってほしい
そうは思うのだが、彼女が話し出さないことにはとても無理に聞き出せるような雰囲気ではない。
レオナルドは仕方なくすっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけた。
「……あ、美味しいなこれ」
「……?」
「す、すみません、俺コーヒーが好きなので……」
その美味に思わず声をあげてしまったレオナルドに、俯いていたヤエコの顔がゆっくりとあがった。そして、いつものように思わず謝罪をするレオナルドの声に、まるで今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべた。
「ヤエコさん……?!」
「……っ、ごめんなさい、なんか、ほっとしちゃって……」
そう呟き、そっと瞳を閉じるヤエコ。
ややあって再びその瞳を開けた彼女は、ゆっくりゆっくりと語り始めた。
ある男について。
前の職場で、上司であったある男に好意を持たれたこと。
当時自分にはそれに応えられる気持ちがなかったので、丁重にお断りをしたこと。
そこから始まった、さまざまなパワーハラスメント。
そして、ついにある日。
「ある日の休日、夕方……庭先に、彼がいたん、です」
「なっ……?!」
当時集合住宅の1階に住んでいたヤエコが買い物から帰宅すると、その男が庭先に佇んでいたという。
夕陽を背にこちらを無表情で見つめる彼は、一歩、一歩、近づいてきて。
「……」
「その時、は……本当にたまたま、兄と一緒、で……」
遅れて入室してきた彼女の兄が彼を取り押さえ、その男はそのまま警察に引き渡されたという。
「……っ」
事の顛末に、レオナルドは心のうちで大きく安堵のため息をついた。
彼女には危害はなかったのだ、大丈夫だったのだ、と。
けれどすぐに別の懸念に襲われた。
そんな目にあった彼女の心は……?と。
「それから、仕事を辞めて、携帯も買い換えて……引越しも、して」
ーそれで、“やっと引越し”だったのか……
「心機一転、頑張ろう、頑張れるって、思ったんです。……大丈夫、だったから」
「大丈夫、だったから……?」
レオナルドの鸚鵡返しに、ヤエコの瞳がレオナルドのそれを見つめた。
「あの日、引越しのとき……夕方、レオナルドさんと一緒にいても、怖くなかったんです」
「あ」
レオナルドの脳裏に、夕陽に染まる彼女の美しい横顔が思い起こされた。
「男の人と夕方に一緒にいても、大丈夫だったんです……。なの、に」
ヤエコのその言葉に、言いようのない誇らしさがレオナルドの心に広がった。
しかし、そんな場合ではない、とすぐさまその思いを打ち消す。
「何か……あったんですか?」
先ほどのヤエコの様子を思い出し、レオナルドが優しく問う。
その声に、ヤエコの瞳が心なしか潤み始めた。
「違うんです、何も、ないんです」
「……?」
「終わったこと、なのに。もう、大丈夫なのに」
「ヤエコさ……」
「何もないのに、怖いん、です。今でも、あ、あいつが、どこかにいるんじゃないか、って」
涙を堪えようと声を震わせているヤエコを目の前に、レオナルドはこれまでのヤエコの挙動を思い出していた。
やっと引越しできる、そう語った彼女。
食事の帰り道で、心ここに在らずといった風にぼんやりしていた彼女。
あの時、彼女はこれに怯えていたのかと思えば思うほどに、その男への憎しみが募る。
思わず眉根を寄せそうになったレオナルドは、聞こえてきたか細い声に、はっとした。
「すみません、レオナルドさんに、こんな……。こんな個人的なこと言われても、困っちゃいますよ、ね」
「すみませ……」
そう言って力無く泣き笑う、ヤエコ。
ーああ、もう、だめだ
湧き上がる想いに、レオナルドは思わずぎゅっと瞳を閉じた。
何も考えられず、ただただ、
「ヤエコさん」
「は、い……?」
ー俺が、守りたい
その一心で、言葉を紡ぐ。
「俺に、あなたを」
「守らせて、くださいませんか」
「……」
「……」
涙に濡れたヤエコの瞳が、ぱっちりと見開かれた。
「……それ、は」
「あなたを、守りたいんです」
レオナルドのはっきりとした言葉に、ヤエコの頬が赤く染まった。
「……突然すみません、こんなこと。必要なかったら、そう仰ってください。けれど、俺」
そこでレオナルドは息を吐き出すと、再びヤエコの瞳を見つめた。
「……あなたを、好きに、なってしまったから」
「……」
心臓が、うるさいくらい跳ねまわっている。
喉が、痛いくらいカラカラに乾いている。
でもそんなことよりも、ただただ、彼女を、守りたい。
ー彼女がそれを、許してくれるのなら
どれくらいの時間、祈るような想いでヤエコを見つめていただろうか。
その間ヤエコは、レオナルドから少しも目を逸らさないまま、頬を染めていた。
そしてーー
「だめ、ですよ……」
小さく小さく、ヤエコが呟いた。
レオナルドの心臓が、一瞬にして冷水を浴びせられたかのように冷える。
ーやっぱり、俺なんかじゃ……
そう、自分を責めようとしたとき。
ヤエコのふっくらとした唇が、小さく震えた。
「これ、は。私が自分で解決しなきゃいけないん、です。レオナルドさんに、甘えてはいけないん、です……」
ふるふると小さな子供のように肩を震わせながらも、必死に自分の足で立とうとしているヤエコのその姿に、折れかけていたレオナルドの心が愛おしさで満たされる。
「ヤエコさん」
無言で首を横に振るヤエコをじっと見つめ、レオナルドは続ける。
「俺は、自分で乗り越えようとするあなたを、守りたいんです」
「……」
ヤエコが潤んだ瞳でレオナルドを見つめ返す。
「決してあなたを甘やかしたいんじゃない。自分で立ちあがろうとするあなたを、支えたい。自分で頑張ろうとする、そんなあなたの傍にいるのは……その……他の誰でもなく、俺でいたい、と思うから」
「……俺の勝手な考え、ですけど……」
「……」
真一文字に引き結ばれていたヤエコの唇が震え、口角が下がり始める。
ぐっと瞑った瞳から、押さえ続けていた涙がぽろり、と零れ落ちた。
「……か、勝手なんかじゃ、ないです」
「……だって、わ、私も」
「好き……なんです」
「……!」
「レオナルドさんが……好きなんです」
ヤエコのその言葉に、今度はレオナルドの表情が泣き笑いへと変わる。
そのまま、何度目かの沈黙が2人を覆った。
けれどそれは、今までのどんな沈黙よりも暖かで、穏やかで。
涙を零し続けるヤエコがその瞳を開いて、2人がもう一度瞳を重ねるのはきっと、すぐーー。
終
何事もなく、毎日が過ぎていった。
毎日、電話をとり、見積もりへと出向き、荷物を、運ぶ。
ーただ、その毎日の中には、彼女がいないってだけ、だ
ある夜。
明日の新規依頼客宅へのルートを確認している手を止めて、レオナルドは額に手を当てて目を瞑った。
ー会いたい、ヤエコさん
「どうすればいいんだ……」
呟いたささやかな言葉が、誰もいない社内に吸い込まれていく。
その時。
すでに電源を切っている入り口の自動ドアを開錠し、手で開ける音がした。
不思議に思い、レオナルドがそちらを振り向けば。
「ドニー……?」
「あれ、レオ。今日も1人で残業?」
脱いだ作業服を小脇に抱えて、にっこりと笑うドナテロの姿があった。
「ったく、お前って本当に遊びを知らないよねえ……今日は金曜だよ?」
ふう、と息を吐きながらドナテロは作業着を自分のデスクチェアの背にかけると、そのまま腰掛けた。
「余計なお世話だ……。お前こそ、帰ったんじゃなかったのか?」
「そうなんだよー!せっかくさ、こないだのほら、高級住宅街の奥様!銀行員の旦那さんのいるさ!あの方からお電話いただいたからお相手して差し上げなきゃっていうのに、月曜までに仕上げなきゃいけない書類の資料会社に忘れちゃってたの思い出してさあ!」
「……」
相変わらずな弟の行動に小言のひとつでも、と考えたレオナルドは、それでも仕事のことを忘れていない様子のドナテロに一安心し、言いかけた言葉をすんでのところで飲み込んだ。
しかし。
「お、あったあったー。良かった、これで奥様とのお食事には間に合うなあ。あとはロッカーで替えのスーツに着替えてー」
「なっ??!お前、行くのか?!ひ、人妻との……しょ、食事に?!」
「何でそんなに驚くのさ?今更じゃない?」
仕事の書類を撮 取りに来た、だからてっきりそのままドナテロが帰宅すると思っていたレオナルドは、大きなため息をついた。
「あのなあ、ドニー……」
「レーオ。大丈夫だってば。僕はマイキーとは違って、クレームが来るようなヘマはしないから」
「いや、そういう問題じゃなくてだな……」
ニコニコと微笑みながら返すドナテロに、レオナルドは持っていたペンを離して両手で顔を覆ってしまった。
再び、はあ、と大きく息をつく。
そして両手から顔の上半分を出すと、横目でちらり、とドナテロを見やった。
「なあドニー、俺、気になってたんだが……」
レオナルドが口を開きかける。
が、言い終わらないうちにドナテロがにやり、と笑って見せた。
「大丈夫だよ。……僕だってね、いろいろ考えてるんだから。いつまでもお前に迷惑かけるだけの弟じゃいないから。……安心していいよ」
予想もしていなかったドナテロの言葉にレオナルドは口元を覆っていた手を外し、思わず彼を凝視した。
「なーに?そんなに僕のこと見つめちゃって。ん?」
相変わらず軽口を叩き続けるドナテロに、レオナルドは耐えきれずに吹き出してしまった。
「っふ、はは……」
「ったく、ちょっとは兄弟を信じてほしいなあ」
「普段のあの行いで信じろっていう方が、無理だろう」
「あはは、かもね」
朗らかに笑っていたドナテロが、ふと真顔になった。
「ねえ、レオ」
「ん?」
彼の真剣な眼差しに、レオナルドも思わず姿勢を正す。
「ヤエコちゃんとは?どうなってんの?」
「っお、お前……!」
思わずデスクチェアから立ち上がりかけたレオナルドを、ドナテロが穏やかに諭して再び座らせる。
「まあまあ座ってよ。誰から聞いたって言いたいんだろうけど、みーんな知ってるよ。ラフも、マイキーも、社長も、ね」
「なっ!?」
まるで寝耳に水なその情報に、レオナルドは半ばパニックになっていた。
なかでも、彼が父としても会社のトップとしても尊敬しているスプリンターにまで知られていた、ということが大きかった。
「あのねー」
レオナルドの慌てようとは対照的に落ち着き払ったドナテロが、頭を掻きながら話し始める。
「お前がヤエコちゃんに惚れた……ってか、一目惚れしたらしいっていうのはラフでもわかったみたいだし、それを聞いてなくたって、彼女の引越しの日のお前の様子見てたら誰でもわかるよ」
「引越しの、日……」
「そう。彼女から目、離せなかったでしょ?」
ヤエコの引越し当日。
到着早々彼女と見つめ合ってしまってから、正直、レオナルドの頭の中は新居までのルートのことでも引越し後の説明のことでもなく、彼女のことでいっぱいになっていた。
そんな思いが、動作に表れていたのかもしれない、と今更ながら反省する。
「てかさあ、彼女の方だって……」
「?」
「いや、それはまあいいか。とにかく」
何かを言いかけたドナテロだったが、改めてレオナルドに向き直ると人差し指で彼を指しつつ、言い放った。
「お前がヤエコちゃんに惚れてることは、知ってる。だから、協力したいんだよ」
「きょ、きょうりょ、く……?」
目を白黒させているレオナルドに、腕を組んだドナテロは不敵に笑って見せた。
「こないだ、デートしたでしょ?」
「なんでっ!?何で知ってるんだそのこと!!」
「やっぱりねー。レオ、お前ってわかり易過ぎ。営業として、弟は心配だよ?」
「……っ!」
自分がカマをかけられたのだとレオナルドがようやく気づいた時には、ドナテロは既に違うことに思考がいっている様子で、何やら考え込むそぶりを見せている。
「それでさ、レオ」
「なんだよ!」
弟に顧客との秘密のデータが露見していたことへの羞恥心を消すことができず、思わず怒鳴り返したレオナルドに、ドナテロが冷静に問いかけた。
「お前は、どうしたいの?」
「……」
「協力したいって、言ったろ?」
「ドニー、お前」
「正直さ、僕は嬉しいんだよねえ」
ドナテロがデスクの上に転がっていたボールペンを手で弄びながら独り言のように呟く。
「お前って仕事一筋じゃない?ラフみたいにバイクで気分転換とかしないし、僕みたいに機械いじりが趣味ってわけでもない。マイキーみたいに享楽的でもない」
「……」
「まあ、マイキーはあれはあれでなかなか考えてるけど。いや、話戻そう。……いつだったっけ、気分転換は何だって聞いたら、お前“新しい近道探すための裏道の散歩”とか答えたでしょ」
「そ、それの何がいけないんだ」
幾分恥ずかしそうに呟いたレオナルドに苦笑しながら、ドナテロは続ける。
「別にいけないって言ってるわけじゃないよ。ただ、もうちょっと、自分のための何かを持ってもいいんじゃない?って言いたいわけ」
「自分のため……?」
「そ。会社のためでも、誰のためでもなく、レオナルド、お前のための何か」
「……」
「僕はずっとそう思ってたんだよ。だから、そんなお前がさ、ははっ……好きな子できた、とか。もう、お赤飯でも炊きたいくらいなんだよねー」
ニヤニヤと笑うドナテロを尻目に、レオナルドの頬にどんどん熱が集まっていく。
「からかうだけなら、俺は帰るぞ!」
そう叫ぶように言い、再び立ち上がったレオナルドにドナテロが言葉をかける。
「ちーがうって。お前はどうしていつもそうなんだか……」
「何が違うんだよ……!」
「好きなんでしょー?ヤエコちゃんが。一緒にいると、嬉しいんでしょ?」
デスクチェアに泰然と座り、腕を組んだドナテロが、上目遣いでレオナルドを見やる。
その視線から逃れるように横を向くと、レオナルドは息を吐いてから彼にしてはやや乱暴な所作で座り直した。
「……でも、どうしたらいいのか」
ぽつり、と
「わからないんだ……」
そう呟くと、レオナルドは膝に肘をつき組んだ両手に額を当てたまま、黙り込んでしまった。
「……デートしてから、連絡は?」
「ヤエコさんからは特に何も、ない……」
「じゃあ、お前からすればいいんじゃない?」
「できるわけないだろ!連絡先、聞いてないんだ、から……」
ドナテロの言葉にレオナルドが勢いよく顔を上げた、が、話すごとにその勢いはどんどん萎んでしまう。
「あー、そっか。改めて聞いてないから、連絡できないわけか。……仕事で得た情報をプライベートでは絶対使わない、とか……そう考えずにさ、仕事にかこつけて連絡すればいいのに。……やっぱり頭固いよねえ、レオ」
「お前に言われたくは、ない。いいか、俺は、お前らみたいにはできないし、好んでお前らみたいにしたいとは、思わない」
床に視線を落としたまま、しかし力強く呟いたレオナルドに、ドナテロは思わず吹き出した。
「っくく……まあ、レオ」
「……」
レオナルドに睨まれたドナテロは笑いを必死で噛み殺し、いや噛み殺そうとして結局できずに更にレオナルドに射るような視線を向けられながら、口を開く。
「まあ、お前はお前のやり方しかできないしね。そうだよレオ、お前が逆立ちしたって僕たちみたいなやり方できるとは到底思えないし?」
「だから俺はしたくはないって……!」
「ははっ。いや、うんわかってるよ。馬鹿にしてるわけじゃない。……それ、お前のいいとこだよ」
「そう、か……?」
ふいに穏やかな表情で呟いたドナテロに、虚を突かれたように呟くレオナルド。
「そうそう。自信持って」
「うーん……」
“自信を持つ”
仕事に関してならばともかく、果たして自分に女性関係で自信を持つことなどできるのだろうかーー
そんな不安な思いをレオナルドが抱いていると。
「レオ、そういう時は」
聞こえてきたドナテロの声に、顔を上げる。
「back to the basics.」
「基本へ立ち返れ、だよ」
「……」
「お前はお前の基本に戻って、彼女に接すればいいんじゃないの?ってこと。無理に僕たちみたいにする必要はないし、したくもないんだろ?」
うっすら微笑んだドナテロが、キィとデスクチェアを回してデスク正面に向き直った。
「基本へ立ち返れ……」
なぜ、自分は弟たちのように軽やかに動けないのか。
ーそんな必要はないのだ、自分は自分がいいと思ったように動くしかないし、動けばいい
そんな自分の心の葛藤をこの聡い弟に見透かされ、ヒントを与えられた気がして。
「……ありがとう、ドナテロ」
「どーいたしまして」
精一杯の照れ隠しに包んで、レオナルドはそう呟いたのだった。
++++++++++
「ふああああ……」
「あれ、ラフ、いたの」
レオナルドが一足先に自宅へ帰った数分後。
ラファエロが欠伸を噛み殺しつつ奥の仮眠室から出てきた。
「仮眠とったまんま、寝ちまってたんだよ」
「ふーん」
にやにやと笑みをたたえたまま、ラファエロを見つめるドナテロ。
「……んだよ」
「もしかして、レオのこと心配で待ってたんだったりして」
「あ?何言ってんだ」
「ラフ、お前って本当に家族想いだよねえ」
「……何言ってんだかさっぱりわかんねぇ」
うんうんと1人悦に入っているドナテロを一瞥すると、ラファエロは大きく伸びをした。
「あはは。まあいいや。そういうことにしとくよ」
「そういうことってどういうことだよ、このインテリ」
「ほらいいから、もう帰ろう!マイキーがご飯作って待ちくたびれてるだろうからさ。あーあ、この時間じゃあ、高級住宅に住む人妻さんとの逢瀬は、お預けかー」
「……なんだって……?」
「なんでもないよー。ほらラフ、バイク乗っけてくれよ、その方が早いんだから」
そう言いながら立ち上がったドナテロはラファエロの肩に腕を回し、笑みを浮かべた。
++++++++++
レオナルドと食事をしてから、3週間余りが経とうとしていた。
その間、何度名刺を片手に携帯とにらめっこしただろうか。
引越し後に問題が出た、いっそそう嘘をついて彼を呼ぼうか、とまで考えた。
しかし、
ーそうやって呼んでも、別に支障も何もないんだもの……
その後、気まずい沈黙が2人を包むことになるのは分かりきっている。
そんなリスクを冒す勇気を、ヤエコは持ち得ていなかった。
夏の夕陽は、いまだ強い日差しで、はためく洗濯物を照らしている。
ーすっかり乾いてるみたいだし、夕立が来る前に取り込もうかな
今朝の天気予報を思い出して、ため息混じりに立ち上がる。
と、彼女を一瞬の立ちくらみが襲った。
「っ」
ちかちかする視界の中、大きくはためく洗濯物が見える。
その洗濯物は、ゆらり、と人影に変わる。
脳裏に、いつか見た映像が思い起こされる。
心臓が破裂しそうなほど、どくり、と脈打った。
窓から差し込む夕陽を背に立つ、もういないはずの男の影。
一歩、一歩。
その影は、自分に近づいてくる。
「……っ!!」
湧き上がりそうになる悲鳴を飲み込み、そのままヤエコは部屋を飛び出した。
エレベーターを待つのももどかしく、急いで階段を駆け降りる。
どこへ行けばいいのか、など、考えられなかった。
ーあの男から、逃げたい
ー誰か、助けて
階段を降りきり、恐怖に目を瞑ったままとにかく駆け出そうとしたとき、強い衝撃を身体に感じた。
「きゃあああっ!!」
「うわっ!!」
その衝撃に恐怖が一気に膨らんだヤエコは、悲鳴をあげてその場にしゃがみ込んでしまった。
しかし、その耳に聞こえてきたのは
「ヤエコ、さん……?」
ヤエコが今1番会いたいと願っていた、レオナルドの声だった。
++++++++++
「少し、落ち着きましたか……?」
駅前から少し離れた、個人経営の喫茶店。
少し古臭い雰囲気すらするその店の一角のテーブル席に、ヤエコとレオナルドは座っていた。
ヤエコが階段を駆け降りたその時、ヤエコの自宅へ様子聞き(と称した、彼女に会うための口実)に来訪したレオナルドとぶつかってしまった。
レオナルドはヤエコを自宅へと送ろうとしたが、自宅へは行きたくないと強く拒否する彼女に根負けし、結局この店へと辿り着いたのだった。
「……」
レオナルドの遠慮がちな問いかけにも答えず、先ほどからヤエコはずっと俯いていた。その顔には、いつか見たような笑顔の片鱗すら見られない。
「あ……」
ー彼女に、笑ってほしい
そうは思うのだが、彼女が話し出さないことにはとても無理に聞き出せるような雰囲気ではない。
レオナルドは仕方なくすっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけた。
「……あ、美味しいなこれ」
「……?」
「す、すみません、俺コーヒーが好きなので……」
その美味に思わず声をあげてしまったレオナルドに、俯いていたヤエコの顔がゆっくりとあがった。そして、いつものように思わず謝罪をするレオナルドの声に、まるで今にも泣き出しそうな笑顔を浮かべた。
「ヤエコさん……?!」
「……っ、ごめんなさい、なんか、ほっとしちゃって……」
そう呟き、そっと瞳を閉じるヤエコ。
ややあって再びその瞳を開けた彼女は、ゆっくりゆっくりと語り始めた。
ある男について。
前の職場で、上司であったある男に好意を持たれたこと。
当時自分にはそれに応えられる気持ちがなかったので、丁重にお断りをしたこと。
そこから始まった、さまざまなパワーハラスメント。
そして、ついにある日。
「ある日の休日、夕方……庭先に、彼がいたん、です」
「なっ……?!」
当時集合住宅の1階に住んでいたヤエコが買い物から帰宅すると、その男が庭先に佇んでいたという。
夕陽を背にこちらを無表情で見つめる彼は、一歩、一歩、近づいてきて。
「……」
「その時、は……本当にたまたま、兄と一緒、で……」
遅れて入室してきた彼女の兄が彼を取り押さえ、その男はそのまま警察に引き渡されたという。
「……っ」
事の顛末に、レオナルドは心のうちで大きく安堵のため息をついた。
彼女には危害はなかったのだ、大丈夫だったのだ、と。
けれどすぐに別の懸念に襲われた。
そんな目にあった彼女の心は……?と。
「それから、仕事を辞めて、携帯も買い換えて……引越しも、して」
ーそれで、“やっと引越し”だったのか……
「心機一転、頑張ろう、頑張れるって、思ったんです。……大丈夫、だったから」
「大丈夫、だったから……?」
レオナルドの鸚鵡返しに、ヤエコの瞳がレオナルドのそれを見つめた。
「あの日、引越しのとき……夕方、レオナルドさんと一緒にいても、怖くなかったんです」
「あ」
レオナルドの脳裏に、夕陽に染まる彼女の美しい横顔が思い起こされた。
「男の人と夕方に一緒にいても、大丈夫だったんです……。なの、に」
ヤエコのその言葉に、言いようのない誇らしさがレオナルドの心に広がった。
しかし、そんな場合ではない、とすぐさまその思いを打ち消す。
「何か……あったんですか?」
先ほどのヤエコの様子を思い出し、レオナルドが優しく問う。
その声に、ヤエコの瞳が心なしか潤み始めた。
「違うんです、何も、ないんです」
「……?」
「終わったこと、なのに。もう、大丈夫なのに」
「ヤエコさ……」
「何もないのに、怖いん、です。今でも、あ、あいつが、どこかにいるんじゃないか、って」
涙を堪えようと声を震わせているヤエコを目の前に、レオナルドはこれまでのヤエコの挙動を思い出していた。
やっと引越しできる、そう語った彼女。
食事の帰り道で、心ここに在らずといった風にぼんやりしていた彼女。
あの時、彼女はこれに怯えていたのかと思えば思うほどに、その男への憎しみが募る。
思わず眉根を寄せそうになったレオナルドは、聞こえてきたか細い声に、はっとした。
「すみません、レオナルドさんに、こんな……。こんな個人的なこと言われても、困っちゃいますよ、ね」
「すみませ……」
そう言って力無く泣き笑う、ヤエコ。
ーああ、もう、だめだ
湧き上がる想いに、レオナルドは思わずぎゅっと瞳を閉じた。
何も考えられず、ただただ、
「ヤエコさん」
「は、い……?」
ー俺が、守りたい
その一心で、言葉を紡ぐ。
「俺に、あなたを」
「守らせて、くださいませんか」
「……」
「……」
涙に濡れたヤエコの瞳が、ぱっちりと見開かれた。
「……それ、は」
「あなたを、守りたいんです」
レオナルドのはっきりとした言葉に、ヤエコの頬が赤く染まった。
「……突然すみません、こんなこと。必要なかったら、そう仰ってください。けれど、俺」
そこでレオナルドは息を吐き出すと、再びヤエコの瞳を見つめた。
「……あなたを、好きに、なってしまったから」
「……」
心臓が、うるさいくらい跳ねまわっている。
喉が、痛いくらいカラカラに乾いている。
でもそんなことよりも、ただただ、彼女を、守りたい。
ー彼女がそれを、許してくれるのなら
どれくらいの時間、祈るような想いでヤエコを見つめていただろうか。
その間ヤエコは、レオナルドから少しも目を逸らさないまま、頬を染めていた。
そしてーー
「だめ、ですよ……」
小さく小さく、ヤエコが呟いた。
レオナルドの心臓が、一瞬にして冷水を浴びせられたかのように冷える。
ーやっぱり、俺なんかじゃ……
そう、自分を責めようとしたとき。
ヤエコのふっくらとした唇が、小さく震えた。
「これ、は。私が自分で解決しなきゃいけないん、です。レオナルドさんに、甘えてはいけないん、です……」
ふるふると小さな子供のように肩を震わせながらも、必死に自分の足で立とうとしているヤエコのその姿に、折れかけていたレオナルドの心が愛おしさで満たされる。
「ヤエコさん」
無言で首を横に振るヤエコをじっと見つめ、レオナルドは続ける。
「俺は、自分で乗り越えようとするあなたを、守りたいんです」
「……」
ヤエコが潤んだ瞳でレオナルドを見つめ返す。
「決してあなたを甘やかしたいんじゃない。自分で立ちあがろうとするあなたを、支えたい。自分で頑張ろうとする、そんなあなたの傍にいるのは……その……他の誰でもなく、俺でいたい、と思うから」
「……俺の勝手な考え、ですけど……」
「……」
真一文字に引き結ばれていたヤエコの唇が震え、口角が下がり始める。
ぐっと瞑った瞳から、押さえ続けていた涙がぽろり、と零れ落ちた。
「……か、勝手なんかじゃ、ないです」
「……だって、わ、私も」
「好き……なんです」
「……!」
「レオナルドさんが……好きなんです」
ヤエコのその言葉に、今度はレオナルドの表情が泣き笑いへと変わる。
そのまま、何度目かの沈黙が2人を覆った。
けれどそれは、今までのどんな沈黙よりも暖かで、穏やかで。
涙を零し続けるヤエコがその瞳を開いて、2人がもう一度瞳を重ねるのはきっと、すぐーー。
終
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