働く青い亀さん
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
さんさんと太陽の光が降り注ぐ、ある晴れた夏の日。
今日は、ヤエコの自宅へと引越し業者が見積もりにやってくる予定だった。
ーいろいろあって、仕事を辞めて。そんな私を心配した兄が『とにかく近くに越してこい』と言ってくれ、その言葉に甘えることにしたけれど。
数ヶ月前にヤエコを襲ったある出来事をひどく心配していた兄は『同居しよう』とまで言ってくれたが、妻を持つ兄にそこまで甘えられないと丁重に断っていた。
ー近くにお兄ちゃんがいてくれるだけで安心できるし……きっと、大丈夫
そろそろ引越し業者が来る時間だ。
今回ヤエコが依頼をしたのは友人に勧められ初めて使う業者、「ハマト運送」。
友人によれば、そこの社長がとにかく心ある人で、無理強いはしない、対応は丁寧、アフターケアもばっちり、ということらしい。
件の出来事ですっかり心が弱ってしまっているヤエコは、その紹介にのることにした。
ー本当は、今日も誰かにいて欲しかったけど……仕方ないよね。平日だし。とにかく早く引越ししたいし……
湧き上がる緊張感を逃すために、何度もため息をつく。
けれどなんにせよ、自宅に知人以外を招き入れるというのはとにかく緊張するものだ。
ーいい人だと、いいなあ……
そんな淡い思いを抱いていると、インターフォンが来客を告げた。
受話器を上げ、やや震える声を出す。
「は、はい……?」
「あっ、あの、お電話いただいて伺ったハマト運送です……!!」
「荷物のお見積もりに参りました」
「あ、ちょっとお待ちくださいね」
++++++++++
プツッと通話が切れたのを確認し、レオナルドは大きなため息をついた。
ーふう、なかなか慣れないな、接客……荷物の積み下ろしだけだったらいいのに
そんなレオナルドの胸中を察しているのかいないのか、ラファエロがレオナルドの胸をトンと小突く。
「オメーいつになったらその緊張癖なおんだよ、いい加減割り切れよ!」
「そ、そんなこと言ったって……。俺はお前たちみたいにはできないんだよ」
「へっ、そーですかい」
「……っ!」
レオナルドがいつもと全く変わらない様子のラファエロにイラつきを感じつつも、彼の言うことももっともだと怒りの矛先を鎮めようとしたとき、目の前のドアが開いた。
++++++++++
聞こえてきた男性の声に緊張感が高まってくるのを感じつつ、スコープを覗き込み、作業服に“亀マークにカタカナのハ”という事前に説明を受けていた通りの印があるのを確認したヤエコは、おそるおそるドアを開いた。
そこには強張った顔つきをしている男性と、無表情を浮かべた男性、2人が立っている。
2人とも、それぞれ青色と赤色の鉢巻を巻いていた。
ーハマト運送の制服、なのかな。鉢巻が制服って、珍しいな……
ぼんやりとそんなことが頭に浮かぶ。
と。
「こ、この度はご依頼ありがとうございます。ハマト運送のレオナルド、です」
「ラファエロです」
かっちりとネクタイを締めたシャツの上にこれまたきっちりと作業着を着込んだ青い鉢巻の青年ーレオナルドが、上擦った声でそう挨拶した。
同行した赤い鉢巻ーこちらはTシャツに作業着だがーラファエロはそんなレオナルドとは対照的に至って冷静である。
そんな2人の挙動を見て、ヤエコは己の緊張が少しだけ緩むのを感じる。
ー少なくとも、高圧的だったり威圧的だったりすることはなさそう、かな……?
ほっと緩んだ気持ちが顔に出たのだろう、意図せず顔に穏やかな笑みを浮かべて、ヤエコは2人を室内へと促した。
「今日はよろしくお願いしますね、ハマト運送さん。どうぞ、こちらです」
++++++++++
ーっ!
その穏やかな笑みを目にした瞬間、レオナルドの動きが止まった。
ーな、なんだこの胸の高鳴りは……??
「?おい、レオ」
部屋の奥へと消えていったヤエコの方を見つめたまま呆けたように突っ立っているレオナルドを、再びラファエロが小突いた。
「何ぼやっとしてんだよ。……おい、顔赤くなってんぞ」
「あっ、え、なんだ、ラフ」
「なんだはこっちのセリフだよ。……言っとくけど客にはコナかけらんねえからな?マイキーじゃあるめえしよ」
「!お前、何言ってるん……」
「へえへえ。ほら、さっさと行くぞ。お客サマが待ってる」
ラファエロはそれだけ言い置き、ヤエコの後を追ってさっさと部屋の奥へと進んでしまった。
「何言ってるんだ、アイツは……」
そう呟きラファエロの後を追うレオナルドのうなじは、うっすらと赤く染まっていた。
ヤエコの後をついて室内を回りつつ、運搬する荷物をひとつひとつ確認していくラファエロの背を視界に捉えながら、レオナルドはいまだぼんやりとしていた。
「リビング、寝室、キッチン、その他……これで全部、ですかね?」
「はい、そうですね……」
ラファエロとともに書類を覗き込みながら何やら話しているヤエコの横顔が、視界に映った。
ふと思い出す、つい今し方感じたあの感覚。
ーなんだったんだ、さっきの。心臓が……
ー“言っとくけど客にはコナかけらんねえかんな?マイキーじゃあるめえしよ”
先ほどのラファエロの言葉を頭で反芻する。
ーそんなことは言われなくてもわかってるさ
そう、つい最近も末弟が顧客の娘と関係を持ち、そのことに激怒した親とひと悶着会ったばかりだった。
ーあの時はまあ、相手の娘さんがマイキーに心底惚れていて、真剣な付き合いということでお許しいただいたけれど……
しかし実際のところは。
ーえ?オイラあの子と付き合ってなんかないけど?
本当に真剣な付き合いなのか、と問い詰めた時のミケランジェロのあまりに純粋な笑顔を思い出すと、途端に頭が痛み始めた気がした。
ーっと。とにかく今は、仕事だ……!
気を取り直し、いつの間にか床に落としていた視線を上げればラファエロがちょうど引越し内容を確認し終わったところだった。
振り向くラファエロと視線が交わる。
「レオ、じゃあ俺はこれで失礼するからな。あと頼んだぜ?」
「は……?」
思わず零れ出た疑問符を聞くなり、ラファエロが鬼の形相をしてレオナルドに近づいてきた。
「……お前なあ!?俺今日はマイキーと別件の荷物積み下ろしがあるから同行は室内確認までだって朝言っただろ!!」
「あ、」
ラファエロの言葉で、ようやく今朝の車内でのやり取りが思い起こされた。
わかった、そうレオナルドの口は紡ごうとしたのだが、
「……お前、いいかげんにしろよ?」
息遣いまで伝わってきそうなほどさらに顔を寄せたラファエロの勢いに思わず言葉を飲み込んでしまう。
「ああ、悪い……」
ようやっと出せたセリフは、長兄としてはあまりに情けないもので。
ー俺、どうしたっていうんだ?一体……
心に広がる己への落胆を、ため息と共に吐き出す。
そうこうするうちに、ラファエロがヤエコへの挨拶を済ませ玄関から退出した。
ドアから姿を消す寸前、レオナルドへ最後のひと睨みをしっかりと行ってから。
「……」
「……っあ」
途端に訪れた沈黙の中、おずおずと見つめてくるヤエコの視線に気づき、レオナルドは慌ててラファエロから受け取った書類に視線を落とした。
「あ、ではお見積もり金額やその他注意事項などの、ご、ご説明をさせていただきますので……」
うまく回らない口を必死に操り言葉を出せば出すほど、頬に熱が集まるのを感じる。
そんなレオナルドをきょとんとした表情で見つめていたヤエコだったが、ややあって
「じゃあ、あちらのソファにどうぞ。……暑いですか?冷たいお茶でもお持ちしましょうか……?」
「いやそんな、結構ですから……!あの、どうぞお気遣いなく!!」
「……そう、ですか?」
その拒否の勢いにやや圧倒されつつも、ヤエコはトコトコとソファへ進みレオナルドの横に腰掛けた。
「じゃ、お願いします」
「は、はい。では早速この書類をご覧ください……」
ー彼女の一挙一動から目が離せない
ー彼女が言葉を発するたび、全神経がそちらを向いてしまう
ーだから、なんなんだこれは。俺はどうしてしまったんだ……?!
己を襲う初めての感覚に戸惑いを隠せず、いつも以上の緊張が全身を包む。
とくん、とくん、と強く鼓動し続ける心臓を叱咤し、必死に説明を続ける。
「それでですね、ご注意いただく点が……」
レオナルドが説明のため身体ごと書類をヤエコのほうへと押し出したとき。
「えっ、どこですか?」
レオナルドの手元の書類をよく見ようと、ヤエコも身体を乗り出した。
「……っ!!」
「あっ」
「……やだ、ごめんなさい。頭ぶつかっちゃうところでしたね」
ふふっ、と顔をほころばせるヤエコとは対照的に、レオナルドはその顔を真っ赤に染め、言葉を失っていた。
「いえ……こちらこそ、その、申し訳ありません……」
消え入りそうな声で、なんとか謝罪を口にする。
ー今、すごく近くに彼女の目があった
ー綺麗で
ー吸い込まれ、そうな……
「ハマト運送さん……?」
ヤエコの問いかけが、再び思考の海に沈みそうになったレオナルドを引きずりあげる。
「し、失礼しました……」
ーもっと、彼女といたい、話したい
「!?」
「どうかされました……?」
「い、いえ……」
突如心に浮かび上がってきた思考に自分で驚愕しながら、レオナルドは必死に説明を続けた。
「では、これで失礼します。またお引越し当日に作業員と共にお伺いいたしますので。よ、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね」
そう会釈するヤエコを隠すかのように急いで閉じたドアを見つめながら、レオナルドは深い深いため息をついたのだった。
会社に戻るまでの間でどうやってこの火照る頬を冷まそうか、と彼が思案していた頃。
「今日の引越屋さん、逞しかったな……腕……」
レオナルドから渡された書類をぼんやり見つめながら、ヤエコは暮れゆく部屋の中で1人呟いていた。
++++++++++
会社に戻ったレオナルドは、その足で父でもあり社長でもあるスプリンターのもとへと向かった。
「ただいま戻りました」
「レオナルドか、ご苦労だったの」
デスクに座り書類に向かってペンを走らせていたスプリンターが顔を上げ、柔和な笑みを浮かべた。
しかしすぐにその表情が怪訝そうなそれへと変化する。
「……何かあったのか?」
「え?」
「いやなに、普段と様子が違うものだから」
「俺が、ですか?」
どうにもこの父は、普段物腰柔らかなくせに変なところで妙に鋭い部分がある。
焦る気持ちを抑えつつレオナルドが素知らぬふりで返事をすると、スプリンターがかけていた眼鏡を外しこくりと頷いた。
「ふむ。何か問題ある顧客だったのか?」
「いえ!とんでもない。引越し内容もしっかり決まってましたし、すごく丁寧な方で、説明もよく聞いてくださいましたし……」
「……」
「なに、か」
「いや、何でもない。……ドナテロは社内にいたな。ではラファエロとミケランジェロが帰ってきたら、4人でシフトを決めるように」
「は、はい、わかりました。……では、失礼します」
「……」
ぎくしゃくと社長室を出ていくレオナルドの背を、スプリンターがじっと見つめていた。
++++++++++
その日の夜半。
ひと足先に自宅へ戻ったスプリンターのいない社内で、兄弟4人がシフト相談を行なっていた。
「よし、じゃあ来週の月曜だけれど……」
「その日に、今日見積もりしたとこが入るんだよな?」
「あ、ああ」
ラファエロの言葉に、レオナルドが一瞬言葉に詰まる。
ーコイツまた思い出してやがんのか?……昼間の注意で足りないなら、ここでまた言ってやろうか……
そのまま黙り込んでしまったレオナルドを前にして、心に浮かんだ考えを実行に移そうかとラファエロが思案していると、シフト話そっちのけで会話に興じる声が耳に入ってきた。
「一回関係持っちゃうとさ、なかなか切ってくれなくなるんだよねぇみんな」
「あーオイラもそれある!一回だけの関係でいいのにさ、ずーっと携帯鳴りっぱなしになるよねー」
互いにデスクチェアの背をキイキイと鳴らしながら、ドナテロとミケランジェロが朗らかに笑い合っている。
ー……レオのプライドのためにも、コイツらの前ではやめといてやるか……
ラファエロは心の中でため息をつき、いまだきゃっきゃと会話に花を咲かせている弟たちに向き直る。
「おいおまえら、いい加減にしろよ?!こないだだって親父とレオがどんだけ頭下げたか……女の尻ばっか追っかけまわしてんじゃねえよ!」
「心外だなあ……。僕は何にも言ってないよ?相手が連絡先渡してくるんだもん。連絡してあげなきゃ失礼でしょ。お客様、なんだからさ?」
デスクチェアに深く座って足を組み替えながら、ドナテロがしれっと口にする。
「そうそう!そゆことー」
隣のミケランジェロも、チェアの背もたれを抱き込むように反対側から座り、にやり、と笑っている。
「こんのタラシ野郎どもが……。わかった、ドナテロ、ミケランジェロ、てめえらまとめてブッ飛ばしてやるからここに座れ」
相変わらずな弟2人にラファエロが業を煮やし、腕まくりしながら彼らに近づいた時。
それまでぼんやりと沈黙していたレオナルドがハッとしたように顔を上げた。
「ラフ!ちょっと落ち着け」
「んだよレオ、止めんのかよ!」
「いや……ちょっと、マイキーに聞きたいことがだな……」
何故か頬を染めながら呟くレオナルドに、3人の視線が集まる。
「あの……連絡先ってさ、その、どう聞いたら……」
レオナルドの言葉に、3人は口を開けたままぽかんとしている。
一番最初に我に返ったのはラファエロで。
「レオてめえ……人が黙っていてやろうと思えば!!」
そしてドナテロとミケランジェロが、興味津々といったようにデスクチェアから身を乗り出した。
「なになにー?レオ、連絡先聞きたいお客さんがいたわけ?ねえどんな子?可愛いの?」
「へぇ、レオが惹かれる女性ねえ……。ふーん。すごく興味あるね」
「あっ、いや……その」
「お前なあ……!!!」
ラファエロの怒りをよそに、レオナルドははにかみながら続ける。
「……荷物積み下ろしが終わったら米1キロ渡すだろ?ご依頼のお礼として。だからその米にでも書いておけばわかりやすいかと……」
「あーレオ、それダメ!いろんな人が見るかも知れないし、やっぱりメモが一番いいよー!」
「そ、そうか……!」
「まあ、それが一番無難だろうねー」
「……おい!!!」
一人会話から取り残されていたラファエロの大声に、今度はレオナルド、ドナテロ、ミケランジェロの3人の視線が彼に集まる。
「さっきから聞いてりゃあ、お前ら何を話してんだよ!?連絡先だあ?レオ、お前何考えてんだ!!」
「……な、何って……!」
ラファエロの剣幕に、レオナルドが一瞬息を呑む。
しかし、すぐさま気を取り直したかのように、
「そ、そうだよ!ほら、引越し後の連絡先!いつもお客様に言ってるだろう?“後日何か問題あれば、こちらにご連絡ください”って、俺たちの仕事用の携帯番号を。……米に書いた方がわかりやすいかと思ったからさ、お前たちに意見を聞こうと思って……」
「なあんだレオ、そういう意味ー??連絡先聞き出したいんじゃなくてえー?」
「ふーん……」
すわレオナルドに恋の予感か、と盛り上がったミケランジェロだったが、当てが外れたとしきりに口を尖らしている。対してドナテロは何やらにやにやと笑みを浮かべるばかり。
「い、言い間違えたんだよ。聞きたいんじゃなくて、どう渡すのが警戒心を持たれずにお渡しできるかって。ほ、ほかにどういう意味があるって……いうんだよ……」
「……」
いまだ頬をうっすらと染めているレオナルドを、ラファエロの訝しげな瞳が刺すように見つめていた。
++++++++++
月曜日。
ヤエコの引越し当日。
ハマト運送が来訪するのは、午後15時の予定だった、はずなのだが。
到着予定時刻の30分ほど前、ヤエコの携帯電話が着信を知らせた。
ディスプレイには“ハマト運送”の文字。
「はい、もしもし……?」
「あっ、お、お世話になっております、ハマト運送のレオナルドです」
声を聞いた途端、ヤエコの脳裏にはあのやけに緊張した様子で丁寧に説明をしてくれた青い鉢巻の彼が思い起こされた。
電話口を通して伝わってくるそのいかにも実直な様に、ヤエコの口角は自然と上がっていた。
「ああ、今日はお世話になり……」
「あの、実は……!」
大層焦っているのか、ヤエコの言葉を待たずしてレオナルドが話し始めた。
「その……大変申し訳ないのですが、実は前の現場の作業が非常におしてしまってまして……!そちらにお伺いするのが遅くなってしまいそうなんです!」
ーそれは、困る
瞬間、ヤエコの脳内で声が上がった。
もともとは今日の午前中のうちに運び出しをお願いしたかったのだが、先約が立て込んでいるとの返答をもらい、仕方なく午後に依頼をしたという経緯があった。
けれど、ヤエコが本当に気になっていたのは、
ー引越し、日が暮れるまでに終わるかな……
日の暮れた中で他人とーー男性と、一緒にいる羽目になってしまわないか、ということだった。
暗くなっていく空を想像するだけで、いまだ、あの事を思い出して身震いが走ってしまう。
「ん……」
レオナルドに返答しようとするが、うまく声が出てくれない。
遅くなってしまうのは、困る。
けれど、今日を逃したらまた時期がずれ込んでしまうかもしれない。
一瞬のうちにそう考え直し、腹に力を入れて返事をする。
「え、ええ。遅れる旨、了解しました。……あ、あの、できたらだいたい何時頃になりそうか教えていただけると……」
「あっ、そうですよね!ええと……」
相変わらずぎくしゃくと説明をする青い鉢巻の彼の声を聞きながら、ヤエコはざわつく胸を落ち着かせようと今日の予定を頭の中で再シミュレーションするのだった。
当初の予定から1時間以上経った時、ようやくハマト運送のトラックがヤエコのアパート前へと到着した。
前回も来た赤い鉢巻の作業員が初めて見る2人の作業員を連れて入室し、テキパキと指示を出している。
「おっ世話になりまーす!うっわぁ、君綺麗だねー!そっか、だからレオも……」
「どうもー、お邪魔しまーすハマト運送でーす。……ふうん、なるほどこういうタイプねえ……。君さぁ、よく清楚って言われるで……」
「マイキー!!ドニー!!」
入室するなり怒涛の勢いでヤエコに話しかけたミケランジェロとドナテロがラファエロに怒鳴りつけられ、そのまま奥の部屋へと連行されていった。
3人の勢いに呆気に取られていたヤエコだったが、遅れて玄関から聞こえてきた足音に振り返る。
そこには、
「遅くなって本当に申し訳ありません……!前の現場が立て込んでしまいまして!作業員全員で対応して、すぐに運びますので……!!」
トラックを停めてから来たのか、1人遅れてあの青い鉢巻の営業マンが立っていた。
「あ、はい、よろしくお願いします……」
ーなんだかこの人見てると、ほっとするんだよなー……
慌てて頭を下げる様子をヤエコがぼんやり眺めていると、おもむろにレオナルドがワイシャツの上に着ていた作業着を脱ぎ始めた。
厚い作業着の下から現れた彼の体躯はシャツの上からでもわかるほど、思いがけずがっしりとしていて。
ー……営業専門なんだとばっかり思ってたけど、この人の筋肉も、すごいなあ……
「……」
そのままじっとレオナルドの一挙一動を見つめるヤエコの瞳と、作業着を軽く畳み終わったレオナルドの瞳が、かち合った。
「あ……」
「あ……」
お互い、しばしの間見つめ合う。
まるでそうしているのが自然であるかのように、どちらも視線を外すことができない。
とーー
「おいレオ!こっち来てくれ!!」
ラファエロの声が飛んできたのを合図に、魔法から解けたかのようにお互いぱっと視線を外す。
「あ、では……俺も作業に加わりますので……」
「あっ、は、はい……」
そそくさとラファエロの元へと向かうレオナルド。
1人頬を染めてその背を見送ったヤエコは、我にかえると慌てて作業の邪魔にならないよう部屋の隅へと移動するのだった。
++++++++++
「これで……最後ですね」
「あ……はい。ありがとうございました」
段ボールが積み重ねられた新居のリビングで、ヤエコはレオナルドに対峙していた。
ラファエロをはじめとする他の作業員たちは、すでに次の現場へと移動してしまっている。
すっかり日の暮れた室内には、かりかりとヤエコがサインする音だけが響いていた。
「はい、書類関係はこれで結構です。費用についてもお振り込みということで確認させていただきましたので……本日の作業はこれまでとなります。……本日は遅くなってしまって、本当に申し訳ありませんでした!!」
ローテーブルに散乱した書類をまとめると、ソファでヤエコの隣に座るレオナルドが深く頭を垂れた。
「いえ、こうして無事に終わりましたし……」
ゆるゆると首を横に張るヤエコの胸に、ある思いが去来する。
ー日の暮れた中で、男の人と一緒にいても、大丈夫、だった……。それがわかっただけでも、よかったな、な
ー私、なんとか、立ち直れるかもしれない
夕暮れのリビング。
夕陽を背に立ちはだかる男の影。
その影は、一歩、一歩、自分に迫ってきてーー
脳裏によみがえりそうになった忌まわしい記憶を頭を振って取り払うと、いまだ頭を下げ続けるレオナルドへ向き直る。
「ほら、私気楽な1人暮らしですから。時間は問題ないんです。だから本当にそんなに謝らないでください」
意識して笑顔を作り、無意識のままに気楽な言葉を紡いだつもりだった。
しかし、
「異性に対して、1人暮らしとか……女性がそういうことを気安く言うのは……っ!」
突然のレオナルドの大声に、ヤエコの身体があからさまにびくりと震えた。
「っあ、いえ!申し訳ありません、俺、なんて失礼を……!」
自分が口にした言葉に己で驚愕し、再び頭を下げ続けるレオナルド。
彼の声に思わず跳ねた心臓をおさえながらも、ヤエコは湧き上がる暖かな何かを感じていた。
ーまただ
営業という立場でありながらも裏表などを微塵も感じさせない彼の言動。
単なる引越し業者のはずなのに、なぜか昔からの馴染みの相手のような心地よさを感じる。
ヤエコは、そんな彼の言動に出会うたび、心に穏やかな想いが広がっていく気がした。
どこまでも優しくて、暖かな、何かが。
「いえ、そんなに謝らないでください。……おっしゃる通りですもんね」
「いや、お客様に対して本当になんて失礼を……。お詫びを、何か……あ、そうです。これ皆さんにお渡ししているお米……」
ハッとしたように、足元に置いた鞄の中から米袋を取り出そうとするレオナルドを見ながら、ヤエコの口が自然と開いた。
「あ、お詫びしていただきたいというわけではないんですが……。もしよかったら一緒にお夕飯を食べていただけませんか?……1人で食べるのは、味気なくて」
ーもっとこの人と居たい。話したい
そんな心のままに、口をついて出た言葉、だった。
++++++++++
「っえ!?」
突然のヤエコの言葉に、レオナルドの頭は一瞬にして真っ白になる。
ーしょ、食事!?彼女と?いやダメだろ、彼女はお客様なんだから……!!
ーでも、“1人は味気なくて”って言ってるってことは、この誘いを受けても悪いことではないっていうことなのか……?
ーいやいや!いやいやいやいや!2回しか会ってないんだぞ!そんな女性と2人きりで食事、なんて……
意識する間もなく、レオナルドの頭の中を様々な考えが巡り始める。
自らも憎からずーーいや、正直に言えばむしろ好意的に感じている女性から(他意はないとしても)食事に誘われて断れる男がいるだろうか。
いや、いない。
ー断るなんて、無理、だ……
「あっ……!」
そこまで考えたところで大事なことを思い出す。
そう、弟たちはすでに次の現場に向かっている、ということを。
「あ、あの!申し訳ありません、俺、次の現場に行かなくてはいけなくて……」
ークソッ、なんでよりによって今日は夜まで案件が詰まってるんだ!!
己の運の悪さを心のうちでひっそりと嘆いていると、はっとしたようにヤエコが口を開いた。
「そ、そうですよね!みなさん急いで次の現場に向かってましたもんね。やだ、変なお願いしてしまって……その、本当にごめんなさい……!!」
「いえ、変なお願いなんてそんな……そのっ、今日じゃなければ俺はいつでも!」
「え?」
「大丈夫で……あっ」
ソファにて、少しの距離を置いて隣に座る2人の視線が再び交わった。
ヤエコもレオナルドも頬が赤く染まっているが、すっかり暮れてしまった室内では互いに判別することはできない。
「いや、あの……!」
頭よりも気持ちが口を動かしてしまった。そんな慣れない状況にレオナルドは戸惑いを隠せないでいた。
ー俺、一体なにを言って……
「……じゃ、じゃあ」
自分を責め立てるレオナルドの耳に、ふと消え入りそうな声が聞こえてきた。
「あの……いつならば……ご都合、よろしいでしょうか……?」
遠慮がちにそう聞いてくる彼女の表情が、何故かとてもいじらしく思えて。
心臓が激しく鼓動するのを止められないまま、レオナルドはやっとで口にする。
「あ……と、その、明後日ならばこの時間には仕事からあがっています、ので」
「じゃあ……?」
「……えっと。明後日、このお時間で、よ、よろしいですか……?」
そう声を絞り出し、いつの間にか下げてしまっていた視線を彼女へ戻したとき。
その時見た彼女の表情を、レオナルドは一生忘れない、と感じた。
はにかみつつ、緩やかに口角をあげた彼女。
窓から差し込む街灯の灯りが反射して、彼女の澄んだ瞳を一層輝かせている。
ー綺麗、だ
「……はい、喜んで」
「……」
彼女の返答も耳を抜けて行ってしまうほど、レオナルドはただただ彼女の瞳に見惚れていた。
ーヤエコ、さん……
「あの……?」
「……あっ、すみません、ぼうっとして……!」
「ふふっ。あ、ごめんなさい。でも、ハマト運送さん、なんだか謝ってばかりだなあって」
「いや本当にすみませ、あっ」
謝罪を繰り返すことをさらに謝罪しようとするレオナルドの様子に、ヤエコがふんわりと笑ってみせた。
「いえ、大丈夫ですから。じゃあ……明後日……。えっと、お待ちしてますね」
「あ、は、はい……っと、そうだ!」
首を傾げるヤエコに、レオナルドが鞄から取り出した名刺に何かを書き加えてから手渡す。
「あの……俺の、仕事用携帯の番号です。後日、今日のお引越しで何か問題が出てきたらいつでもご連絡ください。すぐに対応させていただきますので。あと……その……」
「……この、手書きの方の番号は?」
ヤエコの指摘に、レオナルドの頬の赤みがぐっと増す。
「それは……俺の携帯番号です」
「あ、予備の、ということですね」
合点がいったとばかりに爽やかに微笑むヤエコを見て、レオナルドが焦ったように声を上擦らせた。
「い、いえ!予備ではないです!あの…っ」
予備ではないならなんなのだ、そんな疑問符を顔に張り付けているヤエコを見つめながら、レオナルドが精一杯掠れた声を出した。
「だから……その、俺の携帯番号なんです。個人、の」
「あ……」
レオナルドの返答に、ヤエコの頬も赤みを増す。
沈黙が支配しそうになったリビングに、ヤエコのか細い声が響く。
「……じゃあ、明後日のお約束の件で何かあったときは、こちらにご連絡させていただきますね。えっと……手書きの、番号に」
「は、はい……!そうしていただければ、と……」
そして再び、リビングを沈黙が支配する。
しかしそこに流れる空気は、穏やかな暖かさを含んでいた。
「では、本日はどうもありがとうございました」
「こちらこそ。ご丁寧な対応してくださって、本当に助かりました」
「そんな、遅くなってしまったことを本当にお詫び申し上げます。それでは……あ」
玄関口。
会釈するヤエコに丁寧なお辞儀を返しドアノブを握ったレオナルドが動きを止め、くるりと振り向いた。
「あの……戸締り等気をつけてくださいね」
レオナルドの言葉に、ヤエコの目が見開かれる。
「あっ、すみません!こんなこと言われなくたって心得てらっしゃいますよね!俺、また余計なことを……!」
「……いえ、私がさっき迂闊なこと言ったから心配してくださったんですよね。……ありがたいです」
普段、兄弟たちから日常的に頭が固いだの真面目すぎるだの言われ続けるほど実直なレオナルドにとって、ストレートな感謝の言葉は心に響きすぎてしまうもので。
「あっ、いえ、とんでもないです……。ではその……また、明後日。駅で」
「……はい、お待ちしてます、ね」
落ち着いてきたはずの頬の熱がぶり返す前にと、そそくさと退出した。
閉じられたドアにもたれかかり、レオナルドははあっと大きく息をついた。
ー参ったな、俺……想像以上に、彼女に惹かれてるみたいだ……
そのドア一枚隔てた室内ではー
「ハマト運送さん……」
玄関口に佇んだままのヤエコが、先ほどレオナルドから渡された名刺にそっと指を滑らせていた。
++++++++++
引越しから2日後。
ヤエコはワンピースに身を包み、レオナルドとの待ち合わせ場所である自宅近くの駅に向かっていた。
“あの”一件以来、ほぼずっとパンツスタイルに身を包んできたヤエコにとって、スカートというのは本当に久しぶりなことで。
ー誰かに対して女らしい格好をしたいと思うなんて、久しぶり……
ごく自然に、無意識に。
そう思えた自分に驚きを感じた。
けれど、そんな自分が、またそう思えるようになれた自分が愛おしくて。
ヤエコは、その口元に優しい笑みを浮かべた。
ーレオナルド、さん……
心でその名を呟けば、またあの穏やかな暖かさに包まれる気がした。
引越し後特に支障もなく過ごせていたため、あの時以来レオナルドには会っていないし、声も聞いていない。
ー食事、楽しみだな……
これからの時間に思いを馳せて視線を前方に向ければ、待ち合わせ場所である駅前の大きな時計の前に、あの青い鉢巻が見えた。
++++++++++
ヤエコが思わず駆け出そうとした時、レオナルドもヤエコに気付き、小走りに彼女の元へ近づいた。
「あ……ど、どうも」
「こんばんは」
はにかむレオナルドに満面の笑みを返すヤエコ。
「あ」
ふと、何かに気付いたようにヤエコが呟いた。
「何か……?」
忘れ物でもしたんだろうか、そんなことをレオナルドが考えたとき。
「……今日は、“レオナルドさん”ですね」
「ハマト運送さん、ではなくて」
そう、彼女が口にした。
弾けるような笑顔と共に。
「よろしくお願いしますね」
「っ」
途端にレオナルドの思考は停止してしまう。
少し恥ずかしげに、でも、とびきり嬉しそうに自分の名を紡いでくれた彼女が、愛おしくてたまらない。
ー愛おしい?!って、俺……
心に浮かんだ想いに、言葉が出ない。
「……レオナルド、さん?」
彼女が心なしか心配げにこちらをうかがっているのがわかる。
それはそうだろう、名を呼んでからレオナルドが一切何も答えていないのだから。
「いえ、なんでもないです……」
「……ヤエコ、と言います」
「へっ?」
思いもかけない彼女の言葉に、間抜けな声が出てしまった。
「レオナルドさん、引越しの時に名前を教えてくださったので……。私の名前も、と思って。ご存知でしょうけれど……。もし差し支えなければ、どうかヤエコ、と呼んでください」
「……」
「……あ、じゃあ、えっと……お店、どうしましょうか?」
「っ、ええ、そうですね……」
彼女の愛らしさに緩みそうになる頬を必死に引き締めて、レオナルドはヤエコに向き直った。
「兄弟に勧められた店があるんです。よかったらそこへ行ってみませんか?……ヤエコ、さん」
「……!」
抑えきれない喜びが、ヤエコの表情から溢れでる。
そんなヤエコを見て、レオナルドの心からも言いようのない想いが溢れそうになった。
2人は同じように笑顔を向け合い、並んで駅前の通りを歩き始めた。
++++++++++
「もう、すっかりごちそうになってしまって……!私がお誘いしたのに!」
「いえ、それはもう気にしないでください。それよりも、料理が口にあって良かった」
ミケランジェロお勧めの店で食事を終えた2人は、店を出て駅への通りを歩いていた。
「ところで、ヤエコさん」
「はい?」
「新居には、もう慣れましたか?」
「……」
「って言っても、まだ2日ですもんね。すみませ……」
照れたように頭を掻いたレオナルドは、そこでやっとヤエコの様子が何か違っているのに気付いた。
「ヤエコさん……?」
「あ、いえ、すみません……。ぼうっとしてまして」
「引越しに際して、何か不都合がありましたか?」
ヤエコの表情の変化を引越し時の不具合と勘違いしたレオナルドは、とっさに営業担当の顔つきになりヤエコに向き直った。
「何か支障がありましたら、何でもおっしゃっていただければ……」
「いえ、違うんです。大丈夫です……。作業は丁寧にやっていただけましたから、何も問題ありません。ただその……荷解きがなんとも、大変で」
そう、屈託なく笑うヤエコ。
笑顔のはずのヤエコが、なぜだかとても弱々しく見えた。
「ゆっくり、やっていきます。やっと、引っ越せたんですし」
ーやっと、引っ越せた?
また、ひっかかりを覚えた。
なんてことはないのだ、ヤエコは引越しを心待ちにしていて、諸々の都合がついてやっと引越しできた、それだけではないのか?
そうは思うのだが、腑に落ちない何かがヤエコの表情にはあるーーレオナルドはそのひっかかりを、うまく言葉に表すことができないでいた。
「レオナルドさん?」
自分より数歩進んで振り向いた彼女の声に視線をあげれば、その肩越しについ数時間前に待ち合わせた駅の時計が見えた。
あと数分、並んで歩いたら、彼女との時間は終わる。
その事実が、レオナルドを焦らせた。
けれど、ミケランジェロのように饒舌でもなくドナテロのように会話の先手先手をとれるわけでもないレオナルドにとって、彼女を引き留めるすべなど到底思いつくものでもなく。
焦りを引きずったまま、どうすることもできずに駅前にたどり着いてしまった。
「あの、今日は、どうもありがとうございました」
ヤエコが小さな頭を下げて、ぺこりとお辞儀をする。
「引っ越したばかりでこの辺りに知り合いもほとんどいないですし、誰かと一緒に食事をとれるなんて、すごく、楽しかったです」
「……楽しかったんです」
ヤエコが俯いたまま、ぽつりと繰り返した。
「いえ、こちらこそ……楽しかった、です」
何故もっと気の利いたことを言えないのか、このままでは彼女との時間が終わってしまうのに。
そうは思うのだが、頭は真っ白なまま、時間だけが過ぎていく。
「……」
「……」
お互い、沈黙のまま。
周りの喧騒ばかりが耳につく。
「じゃあ……」
最初に口を開いたのは、ヤエコだった。
「帰り、ますね」
「あ……」
「レオナルドさん、どうぞお気をつけて……」
「ヤエコさん!!」
別れの言葉を口にしようとしたヤエコを遮り、レオナルドは覚悟を決めて一歩踏み出した。
「……えっと、もう遅いですから。良かったらご自宅までお送りさせてください」
++++++++++
駅からの道を歩く2人は、先ほどとはうってかわって口数少なになっていた。
等間隔で並ぶ街灯を無意識に数えながら、ヤエコは隣を歩くレオナルドをそっと見上げる。
ー今、何を考えてるのかな
ー……私のこと、少しでも考えていてくれたら嬉しいな……
頭に浮かんだ言葉に恥ずかしさを覚え、慌てて自分のつま先を見つめた。
そのまま、ひたすらに足を動かす。
大通りから一本奥へと入った住宅街であるため周囲はひっそりとしており、ヤエコとレオナルドの靴音以外は、何も聞こえてこない。
ふいに、ふわり、と夏の夜の生ぬるい風が頬を撫でた。
その瞬間、
ーああ、私。この人と居る時間が、すき
ヤエコの心に、はっきりとした感覚が浮かんだ。
ーすき。レオナルドさんが。すき
意識した途端、レオナルドが歩いている側の身体が、かあっと熱くなるような気がした。
脳裏に、これまで見てきたレオナルドの表情が思い浮かぶ。
焦った顔、優しげに笑った瞳や口元、驚いた表情……
そのすべてが、ただただ素直に、まっすぐ心に染み込んでゆく。
ーレオナルドさんと一緒にいたら、何も怖くない気が、する……
そんなことを考え、しかしすぐに否定する。
ーダメだ、そんなこと。私の不安に、彼を巻き込んじゃいけない
ー私の不安は、私が自分で解決するものなんだから
「ヤエコさん?」
突然聞こえてきたレオナルドの声に、ヤエコははっとして足を止めた。
「ご自宅、着きました……よ?」
明らかにぼんやりしているヤエコを、レオナルドが心配そうな瞳で覗き込む。
身長差があるために、レオナルドの瞳を見つめようとするヤエコは、自然と上を向く形になった。
「大丈夫ですか?気分でも……?」
「……」
ーレオナルドさんの瞳、だ
ー綺麗
ーまるで、吸い込まれそうな……
じっと自分の瞳を見つめたままぼんやりとしているヤエコの視線に耐えきれなくなったと言わんばかりに、レオナルドがふいと視線をずらした。
「あ……お疲れですかね、お引越しからそう時間も経ってないし……」
あからさまに目を逸らしたレオナルドの動作に、ヤエコは我に返る。
「あ!は、はい。ごめんなさい私、なんだかぼうっと……」
「いえ、大丈夫ですから。食事、日を改めた方が良かったかもしれませんね。すみません」
そう申し訳なさそうに優しく微笑むレオナルドに、ヤエコの胸は甘く締め付けられる。
「いえ、そんな……」
そしてまた、沈黙が場を支配する。
耐えきれずそれを破ったのは、またしてもヤエコで。
「……じゃあ、私、行きますね」
「あっ……はい。お気をつけて」
「おやすみなさい、レオナルドさん」
うっすらと寂しげに微笑むと、ヤエコは振り返ってしまわないようにと一気にアパートの階段を登りレオナルドの視界から消えた。
++++++++++
「ヤエコ、さん……」
ー連絡先は知っている、けれど
ー仕事を通して知り得た情報を、俺の個人的感情に利用することは
「許されない、よな……」
ー君との縁をこれきりにしないために、俺は、どうしたらいい……?
大きく息を吐くと、通りに1人佇んだままレオナルドは天を仰いだ。
++++++++++
今日は、ヤエコの自宅へと引越し業者が見積もりにやってくる予定だった。
ーいろいろあって、仕事を辞めて。そんな私を心配した兄が『とにかく近くに越してこい』と言ってくれ、その言葉に甘えることにしたけれど。
数ヶ月前にヤエコを襲ったある出来事をひどく心配していた兄は『同居しよう』とまで言ってくれたが、妻を持つ兄にそこまで甘えられないと丁重に断っていた。
ー近くにお兄ちゃんがいてくれるだけで安心できるし……きっと、大丈夫
そろそろ引越し業者が来る時間だ。
今回ヤエコが依頼をしたのは友人に勧められ初めて使う業者、「ハマト運送」。
友人によれば、そこの社長がとにかく心ある人で、無理強いはしない、対応は丁寧、アフターケアもばっちり、ということらしい。
件の出来事ですっかり心が弱ってしまっているヤエコは、その紹介にのることにした。
ー本当は、今日も誰かにいて欲しかったけど……仕方ないよね。平日だし。とにかく早く引越ししたいし……
湧き上がる緊張感を逃すために、何度もため息をつく。
けれどなんにせよ、自宅に知人以外を招き入れるというのはとにかく緊張するものだ。
ーいい人だと、いいなあ……
そんな淡い思いを抱いていると、インターフォンが来客を告げた。
受話器を上げ、やや震える声を出す。
「は、はい……?」
「あっ、あの、お電話いただいて伺ったハマト運送です……!!」
「荷物のお見積もりに参りました」
「あ、ちょっとお待ちくださいね」
++++++++++
プツッと通話が切れたのを確認し、レオナルドは大きなため息をついた。
ーふう、なかなか慣れないな、接客……荷物の積み下ろしだけだったらいいのに
そんなレオナルドの胸中を察しているのかいないのか、ラファエロがレオナルドの胸をトンと小突く。
「オメーいつになったらその緊張癖なおんだよ、いい加減割り切れよ!」
「そ、そんなこと言ったって……。俺はお前たちみたいにはできないんだよ」
「へっ、そーですかい」
「……っ!」
レオナルドがいつもと全く変わらない様子のラファエロにイラつきを感じつつも、彼の言うことももっともだと怒りの矛先を鎮めようとしたとき、目の前のドアが開いた。
++++++++++
聞こえてきた男性の声に緊張感が高まってくるのを感じつつ、スコープを覗き込み、作業服に“亀マークにカタカナのハ”という事前に説明を受けていた通りの印があるのを確認したヤエコは、おそるおそるドアを開いた。
そこには強張った顔つきをしている男性と、無表情を浮かべた男性、2人が立っている。
2人とも、それぞれ青色と赤色の鉢巻を巻いていた。
ーハマト運送の制服、なのかな。鉢巻が制服って、珍しいな……
ぼんやりとそんなことが頭に浮かぶ。
と。
「こ、この度はご依頼ありがとうございます。ハマト運送のレオナルド、です」
「ラファエロです」
かっちりとネクタイを締めたシャツの上にこれまたきっちりと作業着を着込んだ青い鉢巻の青年ーレオナルドが、上擦った声でそう挨拶した。
同行した赤い鉢巻ーこちらはTシャツに作業着だがーラファエロはそんなレオナルドとは対照的に至って冷静である。
そんな2人の挙動を見て、ヤエコは己の緊張が少しだけ緩むのを感じる。
ー少なくとも、高圧的だったり威圧的だったりすることはなさそう、かな……?
ほっと緩んだ気持ちが顔に出たのだろう、意図せず顔に穏やかな笑みを浮かべて、ヤエコは2人を室内へと促した。
「今日はよろしくお願いしますね、ハマト運送さん。どうぞ、こちらです」
++++++++++
ーっ!
その穏やかな笑みを目にした瞬間、レオナルドの動きが止まった。
ーな、なんだこの胸の高鳴りは……??
「?おい、レオ」
部屋の奥へと消えていったヤエコの方を見つめたまま呆けたように突っ立っているレオナルドを、再びラファエロが小突いた。
「何ぼやっとしてんだよ。……おい、顔赤くなってんぞ」
「あっ、え、なんだ、ラフ」
「なんだはこっちのセリフだよ。……言っとくけど客にはコナかけらんねえからな?マイキーじゃあるめえしよ」
「!お前、何言ってるん……」
「へえへえ。ほら、さっさと行くぞ。お客サマが待ってる」
ラファエロはそれだけ言い置き、ヤエコの後を追ってさっさと部屋の奥へと進んでしまった。
「何言ってるんだ、アイツは……」
そう呟きラファエロの後を追うレオナルドのうなじは、うっすらと赤く染まっていた。
ヤエコの後をついて室内を回りつつ、運搬する荷物をひとつひとつ確認していくラファエロの背を視界に捉えながら、レオナルドはいまだぼんやりとしていた。
「リビング、寝室、キッチン、その他……これで全部、ですかね?」
「はい、そうですね……」
ラファエロとともに書類を覗き込みながら何やら話しているヤエコの横顔が、視界に映った。
ふと思い出す、つい今し方感じたあの感覚。
ーなんだったんだ、さっきの。心臓が……
ー“言っとくけど客にはコナかけらんねえかんな?マイキーじゃあるめえしよ”
先ほどのラファエロの言葉を頭で反芻する。
ーそんなことは言われなくてもわかってるさ
そう、つい最近も末弟が顧客の娘と関係を持ち、そのことに激怒した親とひと悶着会ったばかりだった。
ーあの時はまあ、相手の娘さんがマイキーに心底惚れていて、真剣な付き合いということでお許しいただいたけれど……
しかし実際のところは。
ーえ?オイラあの子と付き合ってなんかないけど?
本当に真剣な付き合いなのか、と問い詰めた時のミケランジェロのあまりに純粋な笑顔を思い出すと、途端に頭が痛み始めた気がした。
ーっと。とにかく今は、仕事だ……!
気を取り直し、いつの間にか床に落としていた視線を上げればラファエロがちょうど引越し内容を確認し終わったところだった。
振り向くラファエロと視線が交わる。
「レオ、じゃあ俺はこれで失礼するからな。あと頼んだぜ?」
「は……?」
思わず零れ出た疑問符を聞くなり、ラファエロが鬼の形相をしてレオナルドに近づいてきた。
「……お前なあ!?俺今日はマイキーと別件の荷物積み下ろしがあるから同行は室内確認までだって朝言っただろ!!」
「あ、」
ラファエロの言葉で、ようやく今朝の車内でのやり取りが思い起こされた。
わかった、そうレオナルドの口は紡ごうとしたのだが、
「……お前、いいかげんにしろよ?」
息遣いまで伝わってきそうなほどさらに顔を寄せたラファエロの勢いに思わず言葉を飲み込んでしまう。
「ああ、悪い……」
ようやっと出せたセリフは、長兄としてはあまりに情けないもので。
ー俺、どうしたっていうんだ?一体……
心に広がる己への落胆を、ため息と共に吐き出す。
そうこうするうちに、ラファエロがヤエコへの挨拶を済ませ玄関から退出した。
ドアから姿を消す寸前、レオナルドへ最後のひと睨みをしっかりと行ってから。
「……」
「……っあ」
途端に訪れた沈黙の中、おずおずと見つめてくるヤエコの視線に気づき、レオナルドは慌ててラファエロから受け取った書類に視線を落とした。
「あ、ではお見積もり金額やその他注意事項などの、ご、ご説明をさせていただきますので……」
うまく回らない口を必死に操り言葉を出せば出すほど、頬に熱が集まるのを感じる。
そんなレオナルドをきょとんとした表情で見つめていたヤエコだったが、ややあって
「じゃあ、あちらのソファにどうぞ。……暑いですか?冷たいお茶でもお持ちしましょうか……?」
「いやそんな、結構ですから……!あの、どうぞお気遣いなく!!」
「……そう、ですか?」
その拒否の勢いにやや圧倒されつつも、ヤエコはトコトコとソファへ進みレオナルドの横に腰掛けた。
「じゃ、お願いします」
「は、はい。では早速この書類をご覧ください……」
ー彼女の一挙一動から目が離せない
ー彼女が言葉を発するたび、全神経がそちらを向いてしまう
ーだから、なんなんだこれは。俺はどうしてしまったんだ……?!
己を襲う初めての感覚に戸惑いを隠せず、いつも以上の緊張が全身を包む。
とくん、とくん、と強く鼓動し続ける心臓を叱咤し、必死に説明を続ける。
「それでですね、ご注意いただく点が……」
レオナルドが説明のため身体ごと書類をヤエコのほうへと押し出したとき。
「えっ、どこですか?」
レオナルドの手元の書類をよく見ようと、ヤエコも身体を乗り出した。
「……っ!!」
「あっ」
「……やだ、ごめんなさい。頭ぶつかっちゃうところでしたね」
ふふっ、と顔をほころばせるヤエコとは対照的に、レオナルドはその顔を真っ赤に染め、言葉を失っていた。
「いえ……こちらこそ、その、申し訳ありません……」
消え入りそうな声で、なんとか謝罪を口にする。
ー今、すごく近くに彼女の目があった
ー綺麗で
ー吸い込まれ、そうな……
「ハマト運送さん……?」
ヤエコの問いかけが、再び思考の海に沈みそうになったレオナルドを引きずりあげる。
「し、失礼しました……」
ーもっと、彼女といたい、話したい
「!?」
「どうかされました……?」
「い、いえ……」
突如心に浮かび上がってきた思考に自分で驚愕しながら、レオナルドは必死に説明を続けた。
「では、これで失礼します。またお引越し当日に作業員と共にお伺いいたしますので。よ、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね」
そう会釈するヤエコを隠すかのように急いで閉じたドアを見つめながら、レオナルドは深い深いため息をついたのだった。
会社に戻るまでの間でどうやってこの火照る頬を冷まそうか、と彼が思案していた頃。
「今日の引越屋さん、逞しかったな……腕……」
レオナルドから渡された書類をぼんやり見つめながら、ヤエコは暮れゆく部屋の中で1人呟いていた。
++++++++++
会社に戻ったレオナルドは、その足で父でもあり社長でもあるスプリンターのもとへと向かった。
「ただいま戻りました」
「レオナルドか、ご苦労だったの」
デスクに座り書類に向かってペンを走らせていたスプリンターが顔を上げ、柔和な笑みを浮かべた。
しかしすぐにその表情が怪訝そうなそれへと変化する。
「……何かあったのか?」
「え?」
「いやなに、普段と様子が違うものだから」
「俺が、ですか?」
どうにもこの父は、普段物腰柔らかなくせに変なところで妙に鋭い部分がある。
焦る気持ちを抑えつつレオナルドが素知らぬふりで返事をすると、スプリンターがかけていた眼鏡を外しこくりと頷いた。
「ふむ。何か問題ある顧客だったのか?」
「いえ!とんでもない。引越し内容もしっかり決まってましたし、すごく丁寧な方で、説明もよく聞いてくださいましたし……」
「……」
「なに、か」
「いや、何でもない。……ドナテロは社内にいたな。ではラファエロとミケランジェロが帰ってきたら、4人でシフトを決めるように」
「は、はい、わかりました。……では、失礼します」
「……」
ぎくしゃくと社長室を出ていくレオナルドの背を、スプリンターがじっと見つめていた。
++++++++++
その日の夜半。
ひと足先に自宅へ戻ったスプリンターのいない社内で、兄弟4人がシフト相談を行なっていた。
「よし、じゃあ来週の月曜だけれど……」
「その日に、今日見積もりしたとこが入るんだよな?」
「あ、ああ」
ラファエロの言葉に、レオナルドが一瞬言葉に詰まる。
ーコイツまた思い出してやがんのか?……昼間の注意で足りないなら、ここでまた言ってやろうか……
そのまま黙り込んでしまったレオナルドを前にして、心に浮かんだ考えを実行に移そうかとラファエロが思案していると、シフト話そっちのけで会話に興じる声が耳に入ってきた。
「一回関係持っちゃうとさ、なかなか切ってくれなくなるんだよねぇみんな」
「あーオイラもそれある!一回だけの関係でいいのにさ、ずーっと携帯鳴りっぱなしになるよねー」
互いにデスクチェアの背をキイキイと鳴らしながら、ドナテロとミケランジェロが朗らかに笑い合っている。
ー……レオのプライドのためにも、コイツらの前ではやめといてやるか……
ラファエロは心の中でため息をつき、いまだきゃっきゃと会話に花を咲かせている弟たちに向き直る。
「おいおまえら、いい加減にしろよ?!こないだだって親父とレオがどんだけ頭下げたか……女の尻ばっか追っかけまわしてんじゃねえよ!」
「心外だなあ……。僕は何にも言ってないよ?相手が連絡先渡してくるんだもん。連絡してあげなきゃ失礼でしょ。お客様、なんだからさ?」
デスクチェアに深く座って足を組み替えながら、ドナテロがしれっと口にする。
「そうそう!そゆことー」
隣のミケランジェロも、チェアの背もたれを抱き込むように反対側から座り、にやり、と笑っている。
「こんのタラシ野郎どもが……。わかった、ドナテロ、ミケランジェロ、てめえらまとめてブッ飛ばしてやるからここに座れ」
相変わらずな弟2人にラファエロが業を煮やし、腕まくりしながら彼らに近づいた時。
それまでぼんやりと沈黙していたレオナルドがハッとしたように顔を上げた。
「ラフ!ちょっと落ち着け」
「んだよレオ、止めんのかよ!」
「いや……ちょっと、マイキーに聞きたいことがだな……」
何故か頬を染めながら呟くレオナルドに、3人の視線が集まる。
「あの……連絡先ってさ、その、どう聞いたら……」
レオナルドの言葉に、3人は口を開けたままぽかんとしている。
一番最初に我に返ったのはラファエロで。
「レオてめえ……人が黙っていてやろうと思えば!!」
そしてドナテロとミケランジェロが、興味津々といったようにデスクチェアから身を乗り出した。
「なになにー?レオ、連絡先聞きたいお客さんがいたわけ?ねえどんな子?可愛いの?」
「へぇ、レオが惹かれる女性ねえ……。ふーん。すごく興味あるね」
「あっ、いや……その」
「お前なあ……!!!」
ラファエロの怒りをよそに、レオナルドははにかみながら続ける。
「……荷物積み下ろしが終わったら米1キロ渡すだろ?ご依頼のお礼として。だからその米にでも書いておけばわかりやすいかと……」
「あーレオ、それダメ!いろんな人が見るかも知れないし、やっぱりメモが一番いいよー!」
「そ、そうか……!」
「まあ、それが一番無難だろうねー」
「……おい!!!」
一人会話から取り残されていたラファエロの大声に、今度はレオナルド、ドナテロ、ミケランジェロの3人の視線が彼に集まる。
「さっきから聞いてりゃあ、お前ら何を話してんだよ!?連絡先だあ?レオ、お前何考えてんだ!!」
「……な、何って……!」
ラファエロの剣幕に、レオナルドが一瞬息を呑む。
しかし、すぐさま気を取り直したかのように、
「そ、そうだよ!ほら、引越し後の連絡先!いつもお客様に言ってるだろう?“後日何か問題あれば、こちらにご連絡ください”って、俺たちの仕事用の携帯番号を。……米に書いた方がわかりやすいかと思ったからさ、お前たちに意見を聞こうと思って……」
「なあんだレオ、そういう意味ー??連絡先聞き出したいんじゃなくてえー?」
「ふーん……」
すわレオナルドに恋の予感か、と盛り上がったミケランジェロだったが、当てが外れたとしきりに口を尖らしている。対してドナテロは何やらにやにやと笑みを浮かべるばかり。
「い、言い間違えたんだよ。聞きたいんじゃなくて、どう渡すのが警戒心を持たれずにお渡しできるかって。ほ、ほかにどういう意味があるって……いうんだよ……」
「……」
いまだ頬をうっすらと染めているレオナルドを、ラファエロの訝しげな瞳が刺すように見つめていた。
++++++++++
月曜日。
ヤエコの引越し当日。
ハマト運送が来訪するのは、午後15時の予定だった、はずなのだが。
到着予定時刻の30分ほど前、ヤエコの携帯電話が着信を知らせた。
ディスプレイには“ハマト運送”の文字。
「はい、もしもし……?」
「あっ、お、お世話になっております、ハマト運送のレオナルドです」
声を聞いた途端、ヤエコの脳裏にはあのやけに緊張した様子で丁寧に説明をしてくれた青い鉢巻の彼が思い起こされた。
電話口を通して伝わってくるそのいかにも実直な様に、ヤエコの口角は自然と上がっていた。
「ああ、今日はお世話になり……」
「あの、実は……!」
大層焦っているのか、ヤエコの言葉を待たずしてレオナルドが話し始めた。
「その……大変申し訳ないのですが、実は前の現場の作業が非常におしてしまってまして……!そちらにお伺いするのが遅くなってしまいそうなんです!」
ーそれは、困る
瞬間、ヤエコの脳内で声が上がった。
もともとは今日の午前中のうちに運び出しをお願いしたかったのだが、先約が立て込んでいるとの返答をもらい、仕方なく午後に依頼をしたという経緯があった。
けれど、ヤエコが本当に気になっていたのは、
ー引越し、日が暮れるまでに終わるかな……
日の暮れた中で他人とーー男性と、一緒にいる羽目になってしまわないか、ということだった。
暗くなっていく空を想像するだけで、いまだ、あの事を思い出して身震いが走ってしまう。
「ん……」
レオナルドに返答しようとするが、うまく声が出てくれない。
遅くなってしまうのは、困る。
けれど、今日を逃したらまた時期がずれ込んでしまうかもしれない。
一瞬のうちにそう考え直し、腹に力を入れて返事をする。
「え、ええ。遅れる旨、了解しました。……あ、あの、できたらだいたい何時頃になりそうか教えていただけると……」
「あっ、そうですよね!ええと……」
相変わらずぎくしゃくと説明をする青い鉢巻の彼の声を聞きながら、ヤエコはざわつく胸を落ち着かせようと今日の予定を頭の中で再シミュレーションするのだった。
当初の予定から1時間以上経った時、ようやくハマト運送のトラックがヤエコのアパート前へと到着した。
前回も来た赤い鉢巻の作業員が初めて見る2人の作業員を連れて入室し、テキパキと指示を出している。
「おっ世話になりまーす!うっわぁ、君綺麗だねー!そっか、だからレオも……」
「どうもー、お邪魔しまーすハマト運送でーす。……ふうん、なるほどこういうタイプねえ……。君さぁ、よく清楚って言われるで……」
「マイキー!!ドニー!!」
入室するなり怒涛の勢いでヤエコに話しかけたミケランジェロとドナテロがラファエロに怒鳴りつけられ、そのまま奥の部屋へと連行されていった。
3人の勢いに呆気に取られていたヤエコだったが、遅れて玄関から聞こえてきた足音に振り返る。
そこには、
「遅くなって本当に申し訳ありません……!前の現場が立て込んでしまいまして!作業員全員で対応して、すぐに運びますので……!!」
トラックを停めてから来たのか、1人遅れてあの青い鉢巻の営業マンが立っていた。
「あ、はい、よろしくお願いします……」
ーなんだかこの人見てると、ほっとするんだよなー……
慌てて頭を下げる様子をヤエコがぼんやり眺めていると、おもむろにレオナルドがワイシャツの上に着ていた作業着を脱ぎ始めた。
厚い作業着の下から現れた彼の体躯はシャツの上からでもわかるほど、思いがけずがっしりとしていて。
ー……営業専門なんだとばっかり思ってたけど、この人の筋肉も、すごいなあ……
「……」
そのままじっとレオナルドの一挙一動を見つめるヤエコの瞳と、作業着を軽く畳み終わったレオナルドの瞳が、かち合った。
「あ……」
「あ……」
お互い、しばしの間見つめ合う。
まるでそうしているのが自然であるかのように、どちらも視線を外すことができない。
とーー
「おいレオ!こっち来てくれ!!」
ラファエロの声が飛んできたのを合図に、魔法から解けたかのようにお互いぱっと視線を外す。
「あ、では……俺も作業に加わりますので……」
「あっ、は、はい……」
そそくさとラファエロの元へと向かうレオナルド。
1人頬を染めてその背を見送ったヤエコは、我にかえると慌てて作業の邪魔にならないよう部屋の隅へと移動するのだった。
++++++++++
「これで……最後ですね」
「あ……はい。ありがとうございました」
段ボールが積み重ねられた新居のリビングで、ヤエコはレオナルドに対峙していた。
ラファエロをはじめとする他の作業員たちは、すでに次の現場へと移動してしまっている。
すっかり日の暮れた室内には、かりかりとヤエコがサインする音だけが響いていた。
「はい、書類関係はこれで結構です。費用についてもお振り込みということで確認させていただきましたので……本日の作業はこれまでとなります。……本日は遅くなってしまって、本当に申し訳ありませんでした!!」
ローテーブルに散乱した書類をまとめると、ソファでヤエコの隣に座るレオナルドが深く頭を垂れた。
「いえ、こうして無事に終わりましたし……」
ゆるゆると首を横に張るヤエコの胸に、ある思いが去来する。
ー日の暮れた中で、男の人と一緒にいても、大丈夫、だった……。それがわかっただけでも、よかったな、な
ー私、なんとか、立ち直れるかもしれない
夕暮れのリビング。
夕陽を背に立ちはだかる男の影。
その影は、一歩、一歩、自分に迫ってきてーー
脳裏によみがえりそうになった忌まわしい記憶を頭を振って取り払うと、いまだ頭を下げ続けるレオナルドへ向き直る。
「ほら、私気楽な1人暮らしですから。時間は問題ないんです。だから本当にそんなに謝らないでください」
意識して笑顔を作り、無意識のままに気楽な言葉を紡いだつもりだった。
しかし、
「異性に対して、1人暮らしとか……女性がそういうことを気安く言うのは……っ!」
突然のレオナルドの大声に、ヤエコの身体があからさまにびくりと震えた。
「っあ、いえ!申し訳ありません、俺、なんて失礼を……!」
自分が口にした言葉に己で驚愕し、再び頭を下げ続けるレオナルド。
彼の声に思わず跳ねた心臓をおさえながらも、ヤエコは湧き上がる暖かな何かを感じていた。
ーまただ
営業という立場でありながらも裏表などを微塵も感じさせない彼の言動。
単なる引越し業者のはずなのに、なぜか昔からの馴染みの相手のような心地よさを感じる。
ヤエコは、そんな彼の言動に出会うたび、心に穏やかな想いが広がっていく気がした。
どこまでも優しくて、暖かな、何かが。
「いえ、そんなに謝らないでください。……おっしゃる通りですもんね」
「いや、お客様に対して本当になんて失礼を……。お詫びを、何か……あ、そうです。これ皆さんにお渡ししているお米……」
ハッとしたように、足元に置いた鞄の中から米袋を取り出そうとするレオナルドを見ながら、ヤエコの口が自然と開いた。
「あ、お詫びしていただきたいというわけではないんですが……。もしよかったら一緒にお夕飯を食べていただけませんか?……1人で食べるのは、味気なくて」
ーもっとこの人と居たい。話したい
そんな心のままに、口をついて出た言葉、だった。
++++++++++
「っえ!?」
突然のヤエコの言葉に、レオナルドの頭は一瞬にして真っ白になる。
ーしょ、食事!?彼女と?いやダメだろ、彼女はお客様なんだから……!!
ーでも、“1人は味気なくて”って言ってるってことは、この誘いを受けても悪いことではないっていうことなのか……?
ーいやいや!いやいやいやいや!2回しか会ってないんだぞ!そんな女性と2人きりで食事、なんて……
意識する間もなく、レオナルドの頭の中を様々な考えが巡り始める。
自らも憎からずーーいや、正直に言えばむしろ好意的に感じている女性から(他意はないとしても)食事に誘われて断れる男がいるだろうか。
いや、いない。
ー断るなんて、無理、だ……
「あっ……!」
そこまで考えたところで大事なことを思い出す。
そう、弟たちはすでに次の現場に向かっている、ということを。
「あ、あの!申し訳ありません、俺、次の現場に行かなくてはいけなくて……」
ークソッ、なんでよりによって今日は夜まで案件が詰まってるんだ!!
己の運の悪さを心のうちでひっそりと嘆いていると、はっとしたようにヤエコが口を開いた。
「そ、そうですよね!みなさん急いで次の現場に向かってましたもんね。やだ、変なお願いしてしまって……その、本当にごめんなさい……!!」
「いえ、変なお願いなんてそんな……そのっ、今日じゃなければ俺はいつでも!」
「え?」
「大丈夫で……あっ」
ソファにて、少しの距離を置いて隣に座る2人の視線が再び交わった。
ヤエコもレオナルドも頬が赤く染まっているが、すっかり暮れてしまった室内では互いに判別することはできない。
「いや、あの……!」
頭よりも気持ちが口を動かしてしまった。そんな慣れない状況にレオナルドは戸惑いを隠せないでいた。
ー俺、一体なにを言って……
「……じゃ、じゃあ」
自分を責め立てるレオナルドの耳に、ふと消え入りそうな声が聞こえてきた。
「あの……いつならば……ご都合、よろしいでしょうか……?」
遠慮がちにそう聞いてくる彼女の表情が、何故かとてもいじらしく思えて。
心臓が激しく鼓動するのを止められないまま、レオナルドはやっとで口にする。
「あ……と、その、明後日ならばこの時間には仕事からあがっています、ので」
「じゃあ……?」
「……えっと。明後日、このお時間で、よ、よろしいですか……?」
そう声を絞り出し、いつの間にか下げてしまっていた視線を彼女へ戻したとき。
その時見た彼女の表情を、レオナルドは一生忘れない、と感じた。
はにかみつつ、緩やかに口角をあげた彼女。
窓から差し込む街灯の灯りが反射して、彼女の澄んだ瞳を一層輝かせている。
ー綺麗、だ
「……はい、喜んで」
「……」
彼女の返答も耳を抜けて行ってしまうほど、レオナルドはただただ彼女の瞳に見惚れていた。
ーヤエコ、さん……
「あの……?」
「……あっ、すみません、ぼうっとして……!」
「ふふっ。あ、ごめんなさい。でも、ハマト運送さん、なんだか謝ってばかりだなあって」
「いや本当にすみませ、あっ」
謝罪を繰り返すことをさらに謝罪しようとするレオナルドの様子に、ヤエコがふんわりと笑ってみせた。
「いえ、大丈夫ですから。じゃあ……明後日……。えっと、お待ちしてますね」
「あ、は、はい……っと、そうだ!」
首を傾げるヤエコに、レオナルドが鞄から取り出した名刺に何かを書き加えてから手渡す。
「あの……俺の、仕事用携帯の番号です。後日、今日のお引越しで何か問題が出てきたらいつでもご連絡ください。すぐに対応させていただきますので。あと……その……」
「……この、手書きの方の番号は?」
ヤエコの指摘に、レオナルドの頬の赤みがぐっと増す。
「それは……俺の携帯番号です」
「あ、予備の、ということですね」
合点がいったとばかりに爽やかに微笑むヤエコを見て、レオナルドが焦ったように声を上擦らせた。
「い、いえ!予備ではないです!あの…っ」
予備ではないならなんなのだ、そんな疑問符を顔に張り付けているヤエコを見つめながら、レオナルドが精一杯掠れた声を出した。
「だから……その、俺の携帯番号なんです。個人、の」
「あ……」
レオナルドの返答に、ヤエコの頬も赤みを増す。
沈黙が支配しそうになったリビングに、ヤエコのか細い声が響く。
「……じゃあ、明後日のお約束の件で何かあったときは、こちらにご連絡させていただきますね。えっと……手書きの、番号に」
「は、はい……!そうしていただければ、と……」
そして再び、リビングを沈黙が支配する。
しかしそこに流れる空気は、穏やかな暖かさを含んでいた。
「では、本日はどうもありがとうございました」
「こちらこそ。ご丁寧な対応してくださって、本当に助かりました」
「そんな、遅くなってしまったことを本当にお詫び申し上げます。それでは……あ」
玄関口。
会釈するヤエコに丁寧なお辞儀を返しドアノブを握ったレオナルドが動きを止め、くるりと振り向いた。
「あの……戸締り等気をつけてくださいね」
レオナルドの言葉に、ヤエコの目が見開かれる。
「あっ、すみません!こんなこと言われなくたって心得てらっしゃいますよね!俺、また余計なことを……!」
「……いえ、私がさっき迂闊なこと言ったから心配してくださったんですよね。……ありがたいです」
普段、兄弟たちから日常的に頭が固いだの真面目すぎるだの言われ続けるほど実直なレオナルドにとって、ストレートな感謝の言葉は心に響きすぎてしまうもので。
「あっ、いえ、とんでもないです……。ではその……また、明後日。駅で」
「……はい、お待ちしてます、ね」
落ち着いてきたはずの頬の熱がぶり返す前にと、そそくさと退出した。
閉じられたドアにもたれかかり、レオナルドははあっと大きく息をついた。
ー参ったな、俺……想像以上に、彼女に惹かれてるみたいだ……
そのドア一枚隔てた室内ではー
「ハマト運送さん……」
玄関口に佇んだままのヤエコが、先ほどレオナルドから渡された名刺にそっと指を滑らせていた。
++++++++++
引越しから2日後。
ヤエコはワンピースに身を包み、レオナルドとの待ち合わせ場所である自宅近くの駅に向かっていた。
“あの”一件以来、ほぼずっとパンツスタイルに身を包んできたヤエコにとって、スカートというのは本当に久しぶりなことで。
ー誰かに対して女らしい格好をしたいと思うなんて、久しぶり……
ごく自然に、無意識に。
そう思えた自分に驚きを感じた。
けれど、そんな自分が、またそう思えるようになれた自分が愛おしくて。
ヤエコは、その口元に優しい笑みを浮かべた。
ーレオナルド、さん……
心でその名を呟けば、またあの穏やかな暖かさに包まれる気がした。
引越し後特に支障もなく過ごせていたため、あの時以来レオナルドには会っていないし、声も聞いていない。
ー食事、楽しみだな……
これからの時間に思いを馳せて視線を前方に向ければ、待ち合わせ場所である駅前の大きな時計の前に、あの青い鉢巻が見えた。
++++++++++
ヤエコが思わず駆け出そうとした時、レオナルドもヤエコに気付き、小走りに彼女の元へ近づいた。
「あ……ど、どうも」
「こんばんは」
はにかむレオナルドに満面の笑みを返すヤエコ。
「あ」
ふと、何かに気付いたようにヤエコが呟いた。
「何か……?」
忘れ物でもしたんだろうか、そんなことをレオナルドが考えたとき。
「……今日は、“レオナルドさん”ですね」
「ハマト運送さん、ではなくて」
そう、彼女が口にした。
弾けるような笑顔と共に。
「よろしくお願いしますね」
「っ」
途端にレオナルドの思考は停止してしまう。
少し恥ずかしげに、でも、とびきり嬉しそうに自分の名を紡いでくれた彼女が、愛おしくてたまらない。
ー愛おしい?!って、俺……
心に浮かんだ想いに、言葉が出ない。
「……レオナルド、さん?」
彼女が心なしか心配げにこちらをうかがっているのがわかる。
それはそうだろう、名を呼んでからレオナルドが一切何も答えていないのだから。
「いえ、なんでもないです……」
「……ヤエコ、と言います」
「へっ?」
思いもかけない彼女の言葉に、間抜けな声が出てしまった。
「レオナルドさん、引越しの時に名前を教えてくださったので……。私の名前も、と思って。ご存知でしょうけれど……。もし差し支えなければ、どうかヤエコ、と呼んでください」
「……」
「……あ、じゃあ、えっと……お店、どうしましょうか?」
「っ、ええ、そうですね……」
彼女の愛らしさに緩みそうになる頬を必死に引き締めて、レオナルドはヤエコに向き直った。
「兄弟に勧められた店があるんです。よかったらそこへ行ってみませんか?……ヤエコ、さん」
「……!」
抑えきれない喜びが、ヤエコの表情から溢れでる。
そんなヤエコを見て、レオナルドの心からも言いようのない想いが溢れそうになった。
2人は同じように笑顔を向け合い、並んで駅前の通りを歩き始めた。
++++++++++
「もう、すっかりごちそうになってしまって……!私がお誘いしたのに!」
「いえ、それはもう気にしないでください。それよりも、料理が口にあって良かった」
ミケランジェロお勧めの店で食事を終えた2人は、店を出て駅への通りを歩いていた。
「ところで、ヤエコさん」
「はい?」
「新居には、もう慣れましたか?」
「……」
「って言っても、まだ2日ですもんね。すみませ……」
照れたように頭を掻いたレオナルドは、そこでやっとヤエコの様子が何か違っているのに気付いた。
「ヤエコさん……?」
「あ、いえ、すみません……。ぼうっとしてまして」
「引越しに際して、何か不都合がありましたか?」
ヤエコの表情の変化を引越し時の不具合と勘違いしたレオナルドは、とっさに営業担当の顔つきになりヤエコに向き直った。
「何か支障がありましたら、何でもおっしゃっていただければ……」
「いえ、違うんです。大丈夫です……。作業は丁寧にやっていただけましたから、何も問題ありません。ただその……荷解きがなんとも、大変で」
そう、屈託なく笑うヤエコ。
笑顔のはずのヤエコが、なぜだかとても弱々しく見えた。
「ゆっくり、やっていきます。やっと、引っ越せたんですし」
ーやっと、引っ越せた?
また、ひっかかりを覚えた。
なんてことはないのだ、ヤエコは引越しを心待ちにしていて、諸々の都合がついてやっと引越しできた、それだけではないのか?
そうは思うのだが、腑に落ちない何かがヤエコの表情にはあるーーレオナルドはそのひっかかりを、うまく言葉に表すことができないでいた。
「レオナルドさん?」
自分より数歩進んで振り向いた彼女の声に視線をあげれば、その肩越しについ数時間前に待ち合わせた駅の時計が見えた。
あと数分、並んで歩いたら、彼女との時間は終わる。
その事実が、レオナルドを焦らせた。
けれど、ミケランジェロのように饒舌でもなくドナテロのように会話の先手先手をとれるわけでもないレオナルドにとって、彼女を引き留めるすべなど到底思いつくものでもなく。
焦りを引きずったまま、どうすることもできずに駅前にたどり着いてしまった。
「あの、今日は、どうもありがとうございました」
ヤエコが小さな頭を下げて、ぺこりとお辞儀をする。
「引っ越したばかりでこの辺りに知り合いもほとんどいないですし、誰かと一緒に食事をとれるなんて、すごく、楽しかったです」
「……楽しかったんです」
ヤエコが俯いたまま、ぽつりと繰り返した。
「いえ、こちらこそ……楽しかった、です」
何故もっと気の利いたことを言えないのか、このままでは彼女との時間が終わってしまうのに。
そうは思うのだが、頭は真っ白なまま、時間だけが過ぎていく。
「……」
「……」
お互い、沈黙のまま。
周りの喧騒ばかりが耳につく。
「じゃあ……」
最初に口を開いたのは、ヤエコだった。
「帰り、ますね」
「あ……」
「レオナルドさん、どうぞお気をつけて……」
「ヤエコさん!!」
別れの言葉を口にしようとしたヤエコを遮り、レオナルドは覚悟を決めて一歩踏み出した。
「……えっと、もう遅いですから。良かったらご自宅までお送りさせてください」
++++++++++
駅からの道を歩く2人は、先ほどとはうってかわって口数少なになっていた。
等間隔で並ぶ街灯を無意識に数えながら、ヤエコは隣を歩くレオナルドをそっと見上げる。
ー今、何を考えてるのかな
ー……私のこと、少しでも考えていてくれたら嬉しいな……
頭に浮かんだ言葉に恥ずかしさを覚え、慌てて自分のつま先を見つめた。
そのまま、ひたすらに足を動かす。
大通りから一本奥へと入った住宅街であるため周囲はひっそりとしており、ヤエコとレオナルドの靴音以外は、何も聞こえてこない。
ふいに、ふわり、と夏の夜の生ぬるい風が頬を撫でた。
その瞬間、
ーああ、私。この人と居る時間が、すき
ヤエコの心に、はっきりとした感覚が浮かんだ。
ーすき。レオナルドさんが。すき
意識した途端、レオナルドが歩いている側の身体が、かあっと熱くなるような気がした。
脳裏に、これまで見てきたレオナルドの表情が思い浮かぶ。
焦った顔、優しげに笑った瞳や口元、驚いた表情……
そのすべてが、ただただ素直に、まっすぐ心に染み込んでゆく。
ーレオナルドさんと一緒にいたら、何も怖くない気が、する……
そんなことを考え、しかしすぐに否定する。
ーダメだ、そんなこと。私の不安に、彼を巻き込んじゃいけない
ー私の不安は、私が自分で解決するものなんだから
「ヤエコさん?」
突然聞こえてきたレオナルドの声に、ヤエコははっとして足を止めた。
「ご自宅、着きました……よ?」
明らかにぼんやりしているヤエコを、レオナルドが心配そうな瞳で覗き込む。
身長差があるために、レオナルドの瞳を見つめようとするヤエコは、自然と上を向く形になった。
「大丈夫ですか?気分でも……?」
「……」
ーレオナルドさんの瞳、だ
ー綺麗
ーまるで、吸い込まれそうな……
じっと自分の瞳を見つめたままぼんやりとしているヤエコの視線に耐えきれなくなったと言わんばかりに、レオナルドがふいと視線をずらした。
「あ……お疲れですかね、お引越しからそう時間も経ってないし……」
あからさまに目を逸らしたレオナルドの動作に、ヤエコは我に返る。
「あ!は、はい。ごめんなさい私、なんだかぼうっと……」
「いえ、大丈夫ですから。食事、日を改めた方が良かったかもしれませんね。すみません」
そう申し訳なさそうに優しく微笑むレオナルドに、ヤエコの胸は甘く締め付けられる。
「いえ、そんな……」
そしてまた、沈黙が場を支配する。
耐えきれずそれを破ったのは、またしてもヤエコで。
「……じゃあ、私、行きますね」
「あっ……はい。お気をつけて」
「おやすみなさい、レオナルドさん」
うっすらと寂しげに微笑むと、ヤエコは振り返ってしまわないようにと一気にアパートの階段を登りレオナルドの視界から消えた。
++++++++++
「ヤエコ、さん……」
ー連絡先は知っている、けれど
ー仕事を通して知り得た情報を、俺の個人的感情に利用することは
「許されない、よな……」
ー君との縁をこれきりにしないために、俺は、どうしたらいい……?
大きく息を吐くと、通りに1人佇んだままレオナルドは天を仰いだ。
++++++++++
1/2ページ