濡れたカノジョ ラファエロの場合
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その話を聞いたのは、突然だった。
それまでキキョウからは何も聞いちゃいなかった。
だから、最後までなんて聞かず耳にした途端聞き返してやったんだ。
「おいレオ、それどういうことだ?」
って。
「えっ……どういうことも、何も……」
レオと並んでソファに座ったドニーの言葉が決定的だった。
「ラフ、キキョウから何も聞いてないの?」
「おい、ラフどこ行くんだ!?」
レオの制止の声も聞かず、俺は下水道を飛び出した。
後ろから焦ったようなレオの声が聞こえたが、構ってる暇なんかない。
ー聞いてねえ、俺は何も聞いてねえぞ
ーニューヨークから離れるかもしれないって、どういうことだよ、キキョウ!!
++++++++++
通い慣れたアパートの一室。
そこに、俺はいた。
目の前では、キキョウがカップに紅茶を注いでいる。
「突然訪ねてくれるなんて珍しいね?ふふ、今日出掛けてなくてよかった」
機嫌良さそうに笑うキキョウ。
ーそういやキキョウだけど、あの話
ーあー、なんだっけ、引き抜きの話?支社から声がかかったとか言ってたよね?
ーそう、その話だ。支社が他州だから、ひょっとしたらニューヨークを離れるかもって……
さっき聞いたばかりのレオとドニーの会話が蘇る。
ークソッ!なんでだよ、なんでなんだよ!!
ーあの2人は知ってた、ってことはキキョウから聞いたのか……?
ー俺は、何にも聞いてねえ。聞いてねえぞ
その事実を実感するたびに、胸や腹がぐうっと重くなる。
気持ちわりぃその感覚を感じれば感じるほど、キキョウへの怒りが膨れ上がる。
「ラフ?」
部屋へ来てから一言も話さない俺を不自然に思ったんだろう。
キキョウが不思議そうな声を出した。
「ラフ?ねえどうしたの?何か……」
そう言いながら伸びてきたキキョウの手を、俺は、振り払った。
「っ!」
キキョウが、驚きに目を丸くして俺を見る。
ーこんな顔見んの、初めてかもしれねえな
「ラフ……?」
「触んな」
俺のセリフに表情が止まっちまったキキョウを見ると、さすがに罪悪感みたいなもんが沸き起こってくる。
けど、俺の中で膨らみ続けた怒りは、もう限界だった。
ーなんで、言ってくれねえんだ?
ー気持ちが通じてるって思ってたのは、俺だけだったのか……!?
「え、どうし……」
「どうしたって?ハッ!そりゃこっちのセリフだろ!!?」
心に浮かんだ考えがあまりに恐ろしくて、そんなもん考えたくなくて、俺は声をかぎりに叫んだ。
キキョウの肩が大袈裟なくらい、びくりと震える。
その、まるで俺に怯えるようなキキョウが、許せない。
ーなんでだよ、なんでなんだよ
「なんで俺に言わなかった!?ドニーも、レオも知ってた!なのに!!なんで俺だけ知らねえんだよ!?」
「待ってラフ、一体なんのことだか……」
キキョウの言葉に、俺の中の何かが弾けた。
ー俺には言いたくないのか?キキョウ
ー……そうなのか?
「お前にとって俺は、所詮そんなもんだったってことなのかよっ!!!」
認めたくねえ、認めたくなんてねえ。
そんな恐怖にも似た思いが、俺の腕を動かす。
叫びと共に、ローテーブルの上を右腕が薙ぎ払った。
ー初めてペアのカップなんて買っちゃったよー!
いつだったか。
キキョウがそう恥ずかしそうに見せてくれたそのカップが、宙を舞って、そのままフローリングの上に叩きつけられる。
耳につく、陶器の割れる音。
けど、そこから零れた紅茶の幾らかがキキョウの腹や膝に降りかかるとは思わなかったんだ。
「熱っ!」
「!!」
声を上げたキキョウが、ぎゅっと目を瞑った。
ーおい大丈夫か!?火傷とかしてねえだろうな!?
腹ん中ではいくらでも声が出るのに、口が動かねえ。
「大丈夫、少しかかっただけだから……」
聞こえないはずの俺の心の声に答えるように、キキョウが小さく呟く。
ークソッ!俺、何やって……!!!
「タオルで拭けば、大丈夫だか……」
ふいに、キキョウの声が途切れた。
その顔は俯いちまって、よく見えなかったん、だが。
次第に、その細い肩が細かく震え出した。
「お、おい。キキョウ……?」
「っく……」
ー泣いてん、のか……?
抑えたキキョウの嗚咽が、静まり返った部屋に響く。
その声を聞きながら、俺の中にとてつもない後悔と罪悪感が広がった。
ーなんてことしちまったんだ……
どんどん大きくなる思いにいてもたってもいられなくて、キキョウの傍へ行きその肩に手を伸ばした、が。
「やだあっ!」
「っ、」
キキョウはこぶしを握った両手を振り回して俺の手を拒否する。
その腕を掴んで、後悔と共に滲んでくる恐怖ーーキキョウに、嫌われちまうんじゃねえかってことーーごと、力任せに抱きしめてやった。
「悪かった、キキョウ……」
「ラフのばか!ばかぁ……っ!!」
俺の胸を殴ろうとしてるんだろう、押さえつけられた両手を動かそうと懸命にもがくキキョウ。
その眼からは、涙が止まることなく流れている。
「俺、馬鹿だった。お前を傷つけちまって……」
「っく、……こ、怖かっ……っ」
「だよな……。怒鳴ったりして、悪かった」
「怖かった、んだからぁ……!」
「許してくれ……」
そっとキキョウの頭に手をやれば、振り回していた両腕から力が抜けた。
そのままくたりと、俺の身体に身を寄せてくる。
すっぽりと包めちまうくらい小さなその身体を更に抱きしめれば、ややあってキキョウが鼻を啜る音が小さく聞こえてきた。
しばらくそうしてると、キキョウの両腕がおずおずと俺の背中にまわされた。
キキョウの腕が、俺を抱きしめた。
そのことに、心から安堵した。
「……ラフ、」
「ああ。悪かった、ごめんな……」
そう囁くと、小さくキキョウの頭が動いた気がしたーーまるで、頷くみてぇに。
どのくらいそうしてたか。
ふと、胸元にキキョウの息がかかる。
「……ね、ラフ」
「ん……?」
抱きしめたまま、意識して優しく声を出す。
ーもう、泣かれんのは勘弁だからな
「……私、何かしちゃったかな?」
「いや……」
思わず言葉を濁せば、キキョウが顔を上げた。
「言って?ラフを傷つけちゃったんなら、私、謝りたいの……」
涙を溜めて見上げてくるその瞳を見つめながら柔らかい前髪をかき上げてやれば、反射的に瞑った瞳から綺麗に一滴が零れ落ちた。
その滴を指で拭ってやってから、俺は話し出した。
家を出る前に兄弟達から聞いた、一部始終を。
「レオとドニーが、話してたんだよ」
「何を?」
「お前が……ニューヨークから離れちまうかもしれねえ、って……」
思い切って口にしたその言葉に、キキョウが息を飲んだのがわかった。
ー勘弁してくれ
ーお前の口から、聞きたくない
浮かんだそんな情けねえ思いをぐっと堪えていると。
ふ、と胸の中のキキョウが
ー笑った、のか、今…?
「キキョウ……?」
身体を離してキキョウの顔を覗き込めば、コイツは笑ってやがって。
「おい、なんでそんな……嬉しそうなんだよ」
キキョウの笑顔をどう受け取っていいものか。
正直、戸惑った。
「あっ、ごめん!違うの、違うのよ!」
そんな俺の気持ちは知らずに笑顔で首を振ったキキョウは
「えっとね、その話はもう、終わったことなの」
そう、確かに言ったんだ。
「終わった、こと……?」
「うん。確かに引き抜きの話はあったんだけれど、すぐ断ったの」
「断った……」
「うん」
ーなん、だよ……驚かせんな……
キキョウは、ニューヨークから離れない。
その事実に、身体から一気に力が抜ける。
思わず、額に手ぇ当ててため息ついちまった。
「けど、なんでだ?」
ふと浮かんだ、疑問。
ーいや、キキョウがどこにも行かねえならそれでいいんだが……
でも。
コイツがどれだけ仕事を頑張ってきたか。
今まで散々見てきた身としてはなんで断ったのか納得がいかねえってのも事実だ。
「だってね、私のやりたいことは今の部署でなきゃできないことだし。それにーー」
そこで一旦言葉を区切って、キキョウは俺の眼を見つめた。
「まずは自分が幸せにならなきゃ、良いものなんて生み出せない、でしょ?私の幸せは、ここにしかないから。だから、断ることに迷いはなかったの」
「でもよ……」
ー納得できるようなできないような……
けど、キキョウが俺の言葉を遮って、怒ったような声を出した。
「もう、ちゃんと聞いてた?」
「お、おう」
「嘘ばっかり」
なんだその‘嘘ばっかり’ってのは。
思わずむっとして、口を開きかけたんだがーー
「あのねえ。……ラフがいるのはニューヨーク、でしょ。だから、私の幸せはニューヨークにしかない、って言ってるのよ……?」
「ねえ、意味、分かってる……?」
キキョウは幾分言いにくそうにしながら、俺を見つめたまんまだ。
そんなキキョウを見返しながら、今言われた言葉を頭ン中で繰り返してーー
その言葉の持つ意味に行き当たったときには、顔が、やけに……熱くなってやがって。
「……おまっ!!」
思わず身体をキキョウから引き剥がす。
ーコ、コイツ、何を言い出すかと思えば…!
「いきなり何言うんだよっ!」
「何……って、ラフが……、き、聞きたいっていうから、言っただけでしょう!?」
見れば、キキョウの顔も真っ赤になってた。
な、なんだよ!そんな顔になるなら言わなきゃいいじゃねえか!!
「チッ……」
「あ、何その舌打ち!聞きたいって言うから言っただけ、なのに!」
「あぁ?何怒ってんだよ!」
「ラフこそ、なんで怒ってんのよ!」
そのまましばらく睨み合ってたんだが。
ふと、思い出した。
「おい、そういやなんであの2人は知ってたんだ?引き抜きの話のこと」
「あ……それはたぶんね、その時に2人がいたから、よ」
「?」
「引き抜きの話が電話にかかってきたときね、すぐ近くにレオとドニーがいたの。だから、言葉の端々から聞き取って想像したんじゃないかしら……」
「じゃあ……」
「私はレオにもドニーにも、敢えて話したりはしてないってことよ。誰かさんの早とちりですー」
そう言って、キキョウがにやりと笑いやがった。
クソッ。
「……そうかよ」
「ほっとした?」
「……」
「ラーフー」
「……」
正直に答えるのはさすがにできずに、だんまりを決め込んでいるとーー
「ごめんね」
突然、固い声でキキョウが呟き、そのまま再び俺の胸に頭を預けてきた。
「……いや、俺こそ……悪かった」
「ううん。ちゃんと言わなかった私が悪いの」
キキョウの後頭部に手を添えれば、その手に促されるように頬がすり寄せられる。
「ごめんねラフ」
「……愛してるよ」
「っ」
再びの謝罪に続いて聞こえてきたセリフに、一瞬呼吸が止まる。
今まで好きだのなんだのとは聞いたことがあったが、この言葉を言われたのは、初めてだったからーー
俺の身体は、自分でも驚くくらい固まっちまったんだ。
「ラフ……愛してるからね」
「ラフ、」
キキョウは俺の名を繰り返し口にして、ふとその顔を上げた。
その眼は潤んで、なんだか熱っぽいっつーか……
……じっと見てたら、妙な気持ちになってきたまいそうな、そんな何かを孕んでいる眼で。
そのまま見つめ続けてれば、しばらく黙った後にコイツはいいやがったんだ。
「……ラフは、言ってくれないの?」
「っ、お前なあ…っ」
「ね、ラ……」
「俺は言わねえぞ」
間髪入れずに返事をする。
……だってよ、ンな甘いこと、こんないきなり……言えるわけねえだろ……
そうだ、言えるわけねえ。
だからこれでいい、そう思ったんだが。
「……ねえ。それって、ほとんど言ってるようなものよね?」
返ってきたセリフに、俺は、なんも言えなかった。
「う、うるせえ!」
思わず顔を背ければ、キキョウは再度俺の胸に頬を擦り付けた。
胸にあったけえもんを感じるーーどうやら、コイツは笑ったらしい。
「……んだよ」
「ううん。いいもん、って思って。……だって、私の心にはちゃーんと聞こえたから」
キキョウに視線を向ければ、やけにきらきらしてる黒い眼が、きゅっと細められてた。
すっげー優しく、な。
「……」
顔を近づけて、得意げに俺の顔を覗き込むキキョウ。
……その背に手を回して、一瞬で覆い被さってやる。
「っ、きゃ!?」
「……気が変わった」
「えっ?」
「……」
そっとキキョウの耳元に口を寄せて、囁いてやれば。
彼女の口元が緩むとともに、さっきまで濡れていたその頬が、淡く赤く染まった。
++++++++++
「ラフ……っ」
「ん?聞きたかったんだろ?」
「そ、そうだけど……ひゃっ!!」
キキョウの顔を見てたら、その、どうにも我慢できなくなって、な。
花びらみてえな色してる唇を、吸ってやった。
そのままついばむようにしてやれば、キキョウの腕が首に回るのを感じる。
「ん、ん……」
角度を変えて、何度も。
なんでだろうな。
何回しても、足りねえんだ。
「は、ぁ……」
唇を吸い上げてそっと離せば、コイツ……すっげぇ顔してた。
……この表情を見るのは、俺だけだ。
俺だけで、いい。
「カップ、悪かったな。あとで片付ける」
「ん……」
言いながら首筋に更に口付ける。
もう、キキョウは何か言うのも億劫らしい。
だな。
俺も、限界だ。
「……ひゃっ」
覆い被さっていた身体を離して、キキョウの身体を抱き上げてそのまま見つめれば。
蕩けるような笑顔が返ってくる。
笑顔を返し、その額に軽く唇で触れて。
俺はキキョウとともに、寝室へ向かった。
それまでキキョウからは何も聞いちゃいなかった。
だから、最後までなんて聞かず耳にした途端聞き返してやったんだ。
「おいレオ、それどういうことだ?」
って。
「えっ……どういうことも、何も……」
レオと並んでソファに座ったドニーの言葉が決定的だった。
「ラフ、キキョウから何も聞いてないの?」
「おい、ラフどこ行くんだ!?」
レオの制止の声も聞かず、俺は下水道を飛び出した。
後ろから焦ったようなレオの声が聞こえたが、構ってる暇なんかない。
ー聞いてねえ、俺は何も聞いてねえぞ
ーニューヨークから離れるかもしれないって、どういうことだよ、キキョウ!!
++++++++++
通い慣れたアパートの一室。
そこに、俺はいた。
目の前では、キキョウがカップに紅茶を注いでいる。
「突然訪ねてくれるなんて珍しいね?ふふ、今日出掛けてなくてよかった」
機嫌良さそうに笑うキキョウ。
ーそういやキキョウだけど、あの話
ーあー、なんだっけ、引き抜きの話?支社から声がかかったとか言ってたよね?
ーそう、その話だ。支社が他州だから、ひょっとしたらニューヨークを離れるかもって……
さっき聞いたばかりのレオとドニーの会話が蘇る。
ークソッ!なんでだよ、なんでなんだよ!!
ーあの2人は知ってた、ってことはキキョウから聞いたのか……?
ー俺は、何にも聞いてねえ。聞いてねえぞ
その事実を実感するたびに、胸や腹がぐうっと重くなる。
気持ちわりぃその感覚を感じれば感じるほど、キキョウへの怒りが膨れ上がる。
「ラフ?」
部屋へ来てから一言も話さない俺を不自然に思ったんだろう。
キキョウが不思議そうな声を出した。
「ラフ?ねえどうしたの?何か……」
そう言いながら伸びてきたキキョウの手を、俺は、振り払った。
「っ!」
キキョウが、驚きに目を丸くして俺を見る。
ーこんな顔見んの、初めてかもしれねえな
「ラフ……?」
「触んな」
俺のセリフに表情が止まっちまったキキョウを見ると、さすがに罪悪感みたいなもんが沸き起こってくる。
けど、俺の中で膨らみ続けた怒りは、もう限界だった。
ーなんで、言ってくれねえんだ?
ー気持ちが通じてるって思ってたのは、俺だけだったのか……!?
「え、どうし……」
「どうしたって?ハッ!そりゃこっちのセリフだろ!!?」
心に浮かんだ考えがあまりに恐ろしくて、そんなもん考えたくなくて、俺は声をかぎりに叫んだ。
キキョウの肩が大袈裟なくらい、びくりと震える。
その、まるで俺に怯えるようなキキョウが、許せない。
ーなんでだよ、なんでなんだよ
「なんで俺に言わなかった!?ドニーも、レオも知ってた!なのに!!なんで俺だけ知らねえんだよ!?」
「待ってラフ、一体なんのことだか……」
キキョウの言葉に、俺の中の何かが弾けた。
ー俺には言いたくないのか?キキョウ
ー……そうなのか?
「お前にとって俺は、所詮そんなもんだったってことなのかよっ!!!」
認めたくねえ、認めたくなんてねえ。
そんな恐怖にも似た思いが、俺の腕を動かす。
叫びと共に、ローテーブルの上を右腕が薙ぎ払った。
ー初めてペアのカップなんて買っちゃったよー!
いつだったか。
キキョウがそう恥ずかしそうに見せてくれたそのカップが、宙を舞って、そのままフローリングの上に叩きつけられる。
耳につく、陶器の割れる音。
けど、そこから零れた紅茶の幾らかがキキョウの腹や膝に降りかかるとは思わなかったんだ。
「熱っ!」
「!!」
声を上げたキキョウが、ぎゅっと目を瞑った。
ーおい大丈夫か!?火傷とかしてねえだろうな!?
腹ん中ではいくらでも声が出るのに、口が動かねえ。
「大丈夫、少しかかっただけだから……」
聞こえないはずの俺の心の声に答えるように、キキョウが小さく呟く。
ークソッ!俺、何やって……!!!
「タオルで拭けば、大丈夫だか……」
ふいに、キキョウの声が途切れた。
その顔は俯いちまって、よく見えなかったん、だが。
次第に、その細い肩が細かく震え出した。
「お、おい。キキョウ……?」
「っく……」
ー泣いてん、のか……?
抑えたキキョウの嗚咽が、静まり返った部屋に響く。
その声を聞きながら、俺の中にとてつもない後悔と罪悪感が広がった。
ーなんてことしちまったんだ……
どんどん大きくなる思いにいてもたってもいられなくて、キキョウの傍へ行きその肩に手を伸ばした、が。
「やだあっ!」
「っ、」
キキョウはこぶしを握った両手を振り回して俺の手を拒否する。
その腕を掴んで、後悔と共に滲んでくる恐怖ーーキキョウに、嫌われちまうんじゃねえかってことーーごと、力任せに抱きしめてやった。
「悪かった、キキョウ……」
「ラフのばか!ばかぁ……っ!!」
俺の胸を殴ろうとしてるんだろう、押さえつけられた両手を動かそうと懸命にもがくキキョウ。
その眼からは、涙が止まることなく流れている。
「俺、馬鹿だった。お前を傷つけちまって……」
「っく、……こ、怖かっ……っ」
「だよな……。怒鳴ったりして、悪かった」
「怖かった、んだからぁ……!」
「許してくれ……」
そっとキキョウの頭に手をやれば、振り回していた両腕から力が抜けた。
そのままくたりと、俺の身体に身を寄せてくる。
すっぽりと包めちまうくらい小さなその身体を更に抱きしめれば、ややあってキキョウが鼻を啜る音が小さく聞こえてきた。
しばらくそうしてると、キキョウの両腕がおずおずと俺の背中にまわされた。
キキョウの腕が、俺を抱きしめた。
そのことに、心から安堵した。
「……ラフ、」
「ああ。悪かった、ごめんな……」
そう囁くと、小さくキキョウの頭が動いた気がしたーーまるで、頷くみてぇに。
どのくらいそうしてたか。
ふと、胸元にキキョウの息がかかる。
「……ね、ラフ」
「ん……?」
抱きしめたまま、意識して優しく声を出す。
ーもう、泣かれんのは勘弁だからな
「……私、何かしちゃったかな?」
「いや……」
思わず言葉を濁せば、キキョウが顔を上げた。
「言って?ラフを傷つけちゃったんなら、私、謝りたいの……」
涙を溜めて見上げてくるその瞳を見つめながら柔らかい前髪をかき上げてやれば、反射的に瞑った瞳から綺麗に一滴が零れ落ちた。
その滴を指で拭ってやってから、俺は話し出した。
家を出る前に兄弟達から聞いた、一部始終を。
「レオとドニーが、話してたんだよ」
「何を?」
「お前が……ニューヨークから離れちまうかもしれねえ、って……」
思い切って口にしたその言葉に、キキョウが息を飲んだのがわかった。
ー勘弁してくれ
ーお前の口から、聞きたくない
浮かんだそんな情けねえ思いをぐっと堪えていると。
ふ、と胸の中のキキョウが
ー笑った、のか、今…?
「キキョウ……?」
身体を離してキキョウの顔を覗き込めば、コイツは笑ってやがって。
「おい、なんでそんな……嬉しそうなんだよ」
キキョウの笑顔をどう受け取っていいものか。
正直、戸惑った。
「あっ、ごめん!違うの、違うのよ!」
そんな俺の気持ちは知らずに笑顔で首を振ったキキョウは
「えっとね、その話はもう、終わったことなの」
そう、確かに言ったんだ。
「終わった、こと……?」
「うん。確かに引き抜きの話はあったんだけれど、すぐ断ったの」
「断った……」
「うん」
ーなん、だよ……驚かせんな……
キキョウは、ニューヨークから離れない。
その事実に、身体から一気に力が抜ける。
思わず、額に手ぇ当ててため息ついちまった。
「けど、なんでだ?」
ふと浮かんだ、疑問。
ーいや、キキョウがどこにも行かねえならそれでいいんだが……
でも。
コイツがどれだけ仕事を頑張ってきたか。
今まで散々見てきた身としてはなんで断ったのか納得がいかねえってのも事実だ。
「だってね、私のやりたいことは今の部署でなきゃできないことだし。それにーー」
そこで一旦言葉を区切って、キキョウは俺の眼を見つめた。
「まずは自分が幸せにならなきゃ、良いものなんて生み出せない、でしょ?私の幸せは、ここにしかないから。だから、断ることに迷いはなかったの」
「でもよ……」
ー納得できるようなできないような……
けど、キキョウが俺の言葉を遮って、怒ったような声を出した。
「もう、ちゃんと聞いてた?」
「お、おう」
「嘘ばっかり」
なんだその‘嘘ばっかり’ってのは。
思わずむっとして、口を開きかけたんだがーー
「あのねえ。……ラフがいるのはニューヨーク、でしょ。だから、私の幸せはニューヨークにしかない、って言ってるのよ……?」
「ねえ、意味、分かってる……?」
キキョウは幾分言いにくそうにしながら、俺を見つめたまんまだ。
そんなキキョウを見返しながら、今言われた言葉を頭ン中で繰り返してーー
その言葉の持つ意味に行き当たったときには、顔が、やけに……熱くなってやがって。
「……おまっ!!」
思わず身体をキキョウから引き剥がす。
ーコ、コイツ、何を言い出すかと思えば…!
「いきなり何言うんだよっ!」
「何……って、ラフが……、き、聞きたいっていうから、言っただけでしょう!?」
見れば、キキョウの顔も真っ赤になってた。
な、なんだよ!そんな顔になるなら言わなきゃいいじゃねえか!!
「チッ……」
「あ、何その舌打ち!聞きたいって言うから言っただけ、なのに!」
「あぁ?何怒ってんだよ!」
「ラフこそ、なんで怒ってんのよ!」
そのまましばらく睨み合ってたんだが。
ふと、思い出した。
「おい、そういやなんであの2人は知ってたんだ?引き抜きの話のこと」
「あ……それはたぶんね、その時に2人がいたから、よ」
「?」
「引き抜きの話が電話にかかってきたときね、すぐ近くにレオとドニーがいたの。だから、言葉の端々から聞き取って想像したんじゃないかしら……」
「じゃあ……」
「私はレオにもドニーにも、敢えて話したりはしてないってことよ。誰かさんの早とちりですー」
そう言って、キキョウがにやりと笑いやがった。
クソッ。
「……そうかよ」
「ほっとした?」
「……」
「ラーフー」
「……」
正直に答えるのはさすがにできずに、だんまりを決め込んでいるとーー
「ごめんね」
突然、固い声でキキョウが呟き、そのまま再び俺の胸に頭を預けてきた。
「……いや、俺こそ……悪かった」
「ううん。ちゃんと言わなかった私が悪いの」
キキョウの後頭部に手を添えれば、その手に促されるように頬がすり寄せられる。
「ごめんねラフ」
「……愛してるよ」
「っ」
再びの謝罪に続いて聞こえてきたセリフに、一瞬呼吸が止まる。
今まで好きだのなんだのとは聞いたことがあったが、この言葉を言われたのは、初めてだったからーー
俺の身体は、自分でも驚くくらい固まっちまったんだ。
「ラフ……愛してるからね」
「ラフ、」
キキョウは俺の名を繰り返し口にして、ふとその顔を上げた。
その眼は潤んで、なんだか熱っぽいっつーか……
……じっと見てたら、妙な気持ちになってきたまいそうな、そんな何かを孕んでいる眼で。
そのまま見つめ続けてれば、しばらく黙った後にコイツはいいやがったんだ。
「……ラフは、言ってくれないの?」
「っ、お前なあ…っ」
「ね、ラ……」
「俺は言わねえぞ」
間髪入れずに返事をする。
……だってよ、ンな甘いこと、こんないきなり……言えるわけねえだろ……
そうだ、言えるわけねえ。
だからこれでいい、そう思ったんだが。
「……ねえ。それって、ほとんど言ってるようなものよね?」
返ってきたセリフに、俺は、なんも言えなかった。
「う、うるせえ!」
思わず顔を背ければ、キキョウは再度俺の胸に頬を擦り付けた。
胸にあったけえもんを感じるーーどうやら、コイツは笑ったらしい。
「……んだよ」
「ううん。いいもん、って思って。……だって、私の心にはちゃーんと聞こえたから」
キキョウに視線を向ければ、やけにきらきらしてる黒い眼が、きゅっと細められてた。
すっげー優しく、な。
「……」
顔を近づけて、得意げに俺の顔を覗き込むキキョウ。
……その背に手を回して、一瞬で覆い被さってやる。
「っ、きゃ!?」
「……気が変わった」
「えっ?」
「……」
そっとキキョウの耳元に口を寄せて、囁いてやれば。
彼女の口元が緩むとともに、さっきまで濡れていたその頬が、淡く赤く染まった。
++++++++++
「ラフ……っ」
「ん?聞きたかったんだろ?」
「そ、そうだけど……ひゃっ!!」
キキョウの顔を見てたら、その、どうにも我慢できなくなって、な。
花びらみてえな色してる唇を、吸ってやった。
そのままついばむようにしてやれば、キキョウの腕が首に回るのを感じる。
「ん、ん……」
角度を変えて、何度も。
なんでだろうな。
何回しても、足りねえんだ。
「は、ぁ……」
唇を吸い上げてそっと離せば、コイツ……すっげぇ顔してた。
……この表情を見るのは、俺だけだ。
俺だけで、いい。
「カップ、悪かったな。あとで片付ける」
「ん……」
言いながら首筋に更に口付ける。
もう、キキョウは何か言うのも億劫らしい。
だな。
俺も、限界だ。
「……ひゃっ」
覆い被さっていた身体を離して、キキョウの身体を抱き上げてそのまま見つめれば。
蕩けるような笑顔が返ってくる。
笑顔を返し、その額に軽く唇で触れて。
俺はキキョウとともに、寝室へ向かった。
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