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縁(よすが)

その日、俺は我が家に帰るべく帰路を急いでいた。
ふと通り道である病院の屋上に目をやった時、人影が見えた、気がした。


ーフット団じゃないだろうな?


万が一そうであったならーー大事になる前に、片付けた方がいい。
そう考えて、屋上へと足を向けた。

その屋上へ降り立った瞬間、自分の心配は杞憂だったと悟る。
フット団であったなら、こんなに無防備に気配をそのままにしておかないだろう。
ひとまず安心するとともに、なんとなく気になって陰からその気配の主を眺めた。


ー女性、か?


月明かりに照らされているのは、車いすに座った女性だった。
その眼はどこを見つめるでもなく、ぼんやりと空へ向けられている。


ー何をしているんだ?


「何をしているの?」


頭に浮かんだ言葉がそのまま、音となって俺の耳へと届いた。
ばれた、という多少の焦りが浮かぶが、姿を見られたわけではない。
このまま黙って立ち去ればいい。
そう思うのだが、気配を消していたはずなのに勘付かれてしまったことに単純に興味が湧いた。
そんな気持ちからなのかなかなか立ち去れずにいると、


「そんなところにずっといれば、いやでも気がつくわ。ねえ、よかったらこっちで一緒に話さない?」


またしても心を見透かされたかのようなその言葉にますます興味が湧き、俺は彼女の顔が見える位置に移動したーーもちろん視界には映らないよう配慮して。

動いた気配を感じ取ったのか、彼女の顔がゆっくりとこちらの方を向く。
その眼は俺を捉えているようで、どこかピントが合っていない。
そのことに、一つの可能性に思い当たった。


「君……」


「やっぱり、男の人だったわね」


俺の問いかけを遮り、彼女が口を開いた。
決して明るいとはいえない今夜の月明かりの中で目を凝らせば、彼女の瞳は白く濁っていた。


「気配でなんとなくはわかってたけど、声を聞くまでは確信持てないから。目が見えないから。私」


またしても、聞くまでもなく彼女の口から答えが出されてしまった。
彼女の言葉に納得するとともに、どこかほっとしてしまった自分に罪悪感を感じ呟く。


「あ……悪い……」


「出逢っていきなり謝罪?面白い人なのね」


俺の罪悪感なんて微塵も気にした様子もなく、彼女はけらけらと笑った。
とりあえず正体がばれることはなさそうだと判断し、彼女の隣へ進む。


「あ……こんな時間に、何を?」

そう聞けば、


「そういうあなたこそ。しかも、エレベーターも使わずに。非常階段を上がってくる音もしなかったわよ?」


暗に、どうやって来たの?と問われたが答えられるわけもなく。


「……それは言えない」


「どうして?」


「……悲しむ人が、出てしまうかもしれない、から」


さほど考えることもなく、そう自然に口から出た。


「あなたの言ってることって全く理解できないわ」


「……だろうな」


「なんだか馬鹿にされてる気がする」


「そんなつもりはない」


それから、しばしの沈黙。
ふと、まだ彼女が俺の質問に答えていないことに気づく。


「もう一度聞くけど、君はこんな時間に屋上で何をしてたんだ?」


深夜近くの、病院の屋上。
女性が1人時間を過ごすには不釣り合いだ。

彼女はしばらく無言でこちらを見上げると、ぷいと横を向いた。


「私も言わない」


投げやりな彼女の態度に、思わず息をつく。
出逢ってから5分も経っていないのにすべてがああ言えばこう言う状態な彼女に、ほんの少しだけ苛立ちを感じた。
これは、退散した方がいいかもしれない。
そう考えてきびすをかえそうとしたときだった。


「待って」


俺の気配を読み取った彼女の、さっきとは打って変わった固い声に少し驚いて振り向く。


「あなたが誰だか知らないけど、わかった。余計なことは何も聞かない。……だから、今だけでいい、少しだけ……ここにいてくれないかしら?」


突然の言葉に面食らう。
言葉遊びのように人を翻弄したかと思えば、固い声音でこんな台詞を……
暗闇の中読み取れたその表情は、驚くほど真剣だった。

いったい彼女は何者なんだ?

くるくる変わる彼女の表情が、どうしても気になる。


「わかった、俺でよければ……しばらくここにいるよ」


好奇心と興味と……言葉にすれば失礼にもあたるような感情に負けてそう答えれば、彼女はあからさまにほっとした表情を見せた。


「……ありがとう」


それは、出逢ってから初めて聞く、彼女の心からの声に思えた。





++++++++++





それからぽつりぽつりと会話をする中で分かったのは、彼女は今この病院に入院しているということ。
少し調子を崩しただけで、明日の手術で問題なく回復するだろうと言われていること。
彼女は旅行が趣味で、回復したらすぐにでもまた海外に出かけたいと思っていること。


「病院はうんざりね。こんな退屈なところ早く出て行ってやりたい」


うっすら笑みを浮かべて呟く彼女。


「俺は経験がないからよくわからないんだけれど……まあ、そうなんだろうな。けれど、まずは体調を元に戻さないと」


俺の言葉に、なぜか彼女は自嘲するように息をはいた。
その反応に違和感を感じたが、でもそれをうまく言葉にできなくて俺は黙っていた。





最初の約束通り、彼女は俺が口をつぐむことについては深く聞かなかった。
ただ、先生や兄弟の話をやけに聞きたがった。
それも、実にどうでもいい、くだらないことを。
なんとなく、明日の手術が怖いからなのかな、とは思った。
俺には入院経験はもとより病院にかかったことすらないからわからないが、やはり手術というのは怖いものだろう。
それを紛らわしたくて俺を引き留めたんだろう、そんな風に思っていた。
だから、彼女が望むままに話をしてやったんだ。


「あーあ!早く外に出たい!」


ひとしきり俺の話を聞いた彼女が、大きく空を仰いだ。
つられて、俺も夜空を見上げる。
月は見えても、そこには星がない。
はるか下界からの人工の明かりでそんなものはとても見えない。
でも俺にはこれが当たり前だから、深く考えずにそのまま眺めていた。


「昔、まだ目が見えなくなる前にヨーロッパに行ったとき、イギリスの田舎で見た星空はすごかったわ」


「イギリス?」


夜空を見上げたまま話し出した彼女に俺が興味を示せば、途端に饒舌に語り出した。
どこそこの田園風景は素晴らしいとか、古城は実にロマンチックだったとか。


「日本は?行ったことあるかい?」


思わず口に出た言葉に、彼女がニヤリと笑う。


「勿論。大好きよ。博物館で見た刀や鎧のクールなことと言ったら!!」


その台詞に思わず口角が上がる。
気づけば俺も日本にどれだけ憧れているか、どんなに行きたいかを熱く語り始めていた。





それからどのくらいの時間が経っただろうか。
彼女の思い出話は尽きることがなかった。
インドでの瞑想修行体験の話、イタリアで食べた本場のピザがどれほど美味しかったか(これはあとでマイキーにも話してやろうと思った)、ロシアの寒さは実に身体に沁みるものだったこと、シンガポールの夜景があまりに美しく感動したこと……
それらの話は下水道とニューヨークの街しか知らない俺にとって夢物語みたいで、気づけば聞き入ってしまっていた。
思い出を語る彼女は先ほどとは打って変わって弾けるような笑顔さえ浮かべている。
そんな彼女を見ていると、こちらまで心が弾んでくるような気さえした。


「あなたは?どこかへ旅行したことはないの?」


ふと彼女が口にした質問に、浮き立ちかけた心がほんの少しだけ軋む。


「俺は……この街を出たことさえ、数えるほどだよ。海外なんて、行ったことない」


その軋みのせいなのか、意図せず俺の言葉はとげとげしいものになってしまって。
そんな自分に、少し、驚いた。


「そうなの……」


そう呟いた彼女の顔は、神妙な顔つきだ。


「その……それは……」


そのままためらいながら、口を開いた。


「……あなたが、この街をほとんど出たことがないのは……エレベーターも階段も使わずに屋上に来れたことと、何か関係があるの……?」


「!」


彼女の言葉に、思わず身体が固まる。
大丈夫だ、正体が露見したわけじゃない。
けれど、彼女は確実に何かを感じ取っているはずだ。
今の俺の反応だって、聡い彼女へ動揺を伝えるには充分なものだ。

彼女はきっと、俺が普通じゃない、ということが薄々わかっているんだろう。


ーこれは、本当にそろそろ帰った方がいいかもしれない


ー深く関わりすぎてしまう前に……


そんなことを考え始めた矢先、


「……私と、一緒なのね」


下の道路を走る車の音にすらかき消されてしまいそうなほどの、小さな声が聞こえた。


「え……?」


ー彼女と、俺が、一緒?


ー何が一緒だっていうんだ……?


けれど、心の中で呟いたその問いへの答えは返ってこなくて。
彼女はただ、濁った瞳で暗い虚空を眺めていた。





++++++++++





あの沈黙の後、再びぽつぽつと話し出した彼女。
さっき感じた疑問は消えることはなかったけれど、それでも彼女の話は楽しかった。
気づけばいつの間にか月は姿を消し、あたりはうっすらと白み始めていた。


「ああ、もうそろそろ帰らないと。家族が心配するから」


立ち上がる俺の方を彼女が見上げる。
その瞳に一瞬寂しさがよぎったのを俺は見逃さなかった。


「……また明日、来てもいいかな。パリのオペラ座に行った話の続きを聞きたいから」


本心混じりにそう口にすれば、不安そうだった顔がふっとほぐれた。
そう、まるで子供のように。


「……うん、また明日ね、話してあげる」


「楽しみにしてるよ。……手術、頑張って」


「……ねえ」


「ん?」


「握手、してもいいかしら?」

「え」


握手するのにわざわざ確認を取る彼女に、俺の動揺が再びぶり返す。
触れ合ってしまったら、確実に知られてしまうだろう。
俺が、人間ではないと。

そこまで考えて、一つの疑問が生まれた。


ー彼女は俺がまさかミュータントだとは思っていないだろうけど、“普通じゃない”とは感じ取っているはずだ


ーなんで、普通じゃないとわかってる相手に、握手なんて求めるんだ?


ー好奇心、なのか?


ーそれとも、それだけ信用してくれた、ということ、なんだろうか……


彼女を見つめれば、その顔を浮かんでいるのはーー何かに必死に耐えているような表情だった。
その顔に、ますますわからなくなる。
思わず逡巡する俺に、


「お願い……」


そう呟くと、そのまま俯いてしまった。


「え……あ、ああ」


その、今にも何かに潰されてしまいそうな声に、心が動いた。
意識する前に、手が、彼女の指に触れる。

俺の指を感じた彼女が、おずおずとその手を伸ばしーー

ぎゅっと、握りしめた。
まるで俺の手に、縋るかのように。


「……ありがとう」


静かに目を閉じしばらく手を握っていた彼女は静かに微笑むと手を離し、車いすを操作してエレベーターに姿を消した。
一度も、振り返ることなく。





彼女を見たのは、それが最後だった。





++++++++++





翌日、彼女は屋上に来なかった。
次の日も、その次の日も屋上に行ってみたが、彼女は姿を現さなかった。


ー彼女に何かあったんだろうか。いや、きっと元気になって退院しているんだ、きっとそうだ


どんなに押し込めても日に日に募っていく不安に、心が押しつぶされそうになる。
誰も来ない屋上に通い始めて1週間ほど経った頃、いつものように屋上へ行くと年配の看護師と若い看護師2人が柵にもたれて煙草を吸っていた。
思わず物陰に身を潜める。


「それにしてもさ、あの子も可哀想だったわよね……」


このまま今日は帰ろうか、そんなことを考えていた俺の耳に飛び込んできたのは患者の噂話のようだった。


「あれですよね、1週間前の……」


「そうそう」


聞こえてきた日付に、心臓がひとつ強く脈打つ。


「彼女、小さい時からずーっとうちに入院してたのよ。10代の頃からじゃなかったかしら?」


「え?じゃあ学校は?」


「体調が良い時は頑張って通ってたみたいだけど……でも、それも数えるほどで」


「じゃあ、人生のほとんどを病院で……?」


こくりと頷く年配看護師を見て、若い看護師が手で口を覆った。


「彼女、外国に興味を持っててねー……。退院したらここに行って何を食べるんだ、この体験をするんだとか、いつもそんなこと話してたわよ」


慈しむような表情で喋り続ける年配看護師の声が、遠く小さく聞こえる気がした。
喉がひりつく。
唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。


「ああ……私も聞きました。ベッド脇にはいろんな国のガイドブックがいっぱいで……」


「ガイドブックは、彼女と一緒にってご両親が棺に入れてあげたそうよ」


瞬間、鈍器で頭を殴られたような気がした。
立っていられず、そのまま冷たいコンクリートへ崩れ落ちる。
臀部からはコンクリートを通してこれでもかというほどの冷たさが伝わってくるが、俺の頭は一瞬で沸騰してしまったみたいに何も感じてくれなかった。


ー棺?棺ってなんだ?


ー彼女と一緒に?


でも、この話が彼女とは限らない、そんな一縷の望みは、若い看護師の一言でいとも簡単に砕かれた。


「彼女言ってたんですよ。“目が見えなくたって感じられるものはたくさんあるはず。やろうと思えばなんだってできるはず。要は、行動するかしないかなのよ”って。“だから、私は手術を受けてやる。このまま閉じこもってなんていてやらないわ”って笑って……。もう、私の方が勇気をもらってしまって……」


「……あの手術の成功率が、もっと高かったら、ね……もしかしたら……」


ーああ、そうか


ー彼女は、亡くなったんだ


「もっと彼女と、お話ししてみたかったのに……」


若い看護師らしき嗚咽を聞きながら、俺はやっと、理解した。
彼女が語った思い出はすべて、彼女の夢だったということも。
大きな手術を前にして逃げ出したくなるほど恐ろしく怖かっただろう彼女が語った、大切な夢だったんだ。

イギリスの田園風景、ロマンチックな古城。
日本のクールな刀や鎧。
インドでの瞑想修行体験。
イタリアでの本場のピザ。
ロシアでの身体の芯から震えるほどの寒さ。
シンガポールの夜景の美しさ。
パリのオペラ座の荘厳さ。


すべては、彼女の頭の中の……


何も考えられなかった。
頭の中がごちゃごちゃだった。
彼女は空想の絵物語を俺に聞かせてくれたのか?


ー違う


彼女は、いつか感じるはずだった現実を語ったんだ。
そこではたと気づく。
“明日の手術で問題なく回復だろうと言われている”なんて嘘で、彼女は手術の成功率が低いことを……もう命がなくなる可能性が高いことを、わかってたんじゃないか?
あの日、まずは体調を戻さなければと言った自分に吐いた自嘲の吐息。
あの時の彼女の表情、夢を現実として語る彼女の輝くような笑顔、いろんな彼女の表情が頭をめぐる。


『……私と、一緒なのね』


ふと、脳裏に彼女の言葉が蘇った。


人生のほとんどを、病院で過ごさざるを得なかった彼女。

人生のほとんどを、この街で過ごすしかない、俺。


「……」


今の生活を、今の人生を恨んでいるわけじゃない。
この身体でなければ経験できなかったことが、今までいくつもあった。
愛する家族がいる、大切な友人がいる。
それは、何事にも代えられない幸せなことで。


ああ、でも。


きらめくような瞳で空想の思い出を語った、彼女の気持ちに。

今は、寄り添いたい。


ーわかるよ、とただ一言


ー言ってあげたい


縋るように見上げた夜空には、やはり、星は一つも見えなかった。





++++++++++





数日後。

ソファに座りコーヒーを飲んでいると、隣にぼすんっと誰かが腰かけた。
見なくたってわかる。
この座り方はマイキーだろう。


「レオ、チャンネル変えていい?」


「……ああ」


ワンテンポ遅れて返事をすれば、それを待たずにすでにマイカーがリモコンを操作し始めていた。


「うわあ、美味しそう!!ね、レオ見てよ!」


マイキーの声に顔をあげれば、テレビにはイタリアの街並みが映っていた。
そして、焼き立ての本場のピザ。


「うーん、やっぱり本場は一味違うんだろうなあ……オイラ一回でいいから食べてみたいー!!」


ニコニコと顔をほころばせるマイキーを見つめていると、自然と頬が緩む。


「そうだな……いつか、食べられたらいいな」


「でっしょー!?でもさあ、そうすると問題はどうやってイタリアに行くかだよねー。あ、それともお取り寄せとか?……いーや待って!やっぱり本場で出来立てを食べることに意味があるんじゃない?こういうのはさ!!」


そう嬉々として夢を語るマイキーに、


「俺は……いつか日本にも行ってみたいよ」


そう呟いてみせれば、マイキーはこちらを見つめややあってから満面の笑みをたたえた。


「日本かあー!いいね!!でもさあレオ、イタリア経由だとちょっと遠いんじゃなーい??」


その言葉に思わず苦笑が漏れる。


「そりゃいっぺんに行くのは難しいだろうさ」


「んーなんかいい方法ないかなあ。あ、そうだ!ねえ、ドーーーニーーー!!」


イタリアと日本の間を最短で行き来する方法がないかと大声でドニーに話しかけているマイキーの声を聞きながら、ぼんやりと考える。


ーああそうか。どんなに不可能に思える夢だとしても


ーそれを誰かと一緒に笑って話すだけで


ーこんなにも、幸せになるんだな





ー君は、あのとき


ー少しでも、幸せだった?


ー俺は、少しでも君の思いを、分かち合えただろうか?


名前も知らない彼女を心に思い浮かべ、そう問いかけた。





「ちょ、ちょっと待ったマイキー!順を追って説明するから……って、待った!その部品には触らないでよ!?うわっ、マイキーやめろぉ!」


焦るドニーの声に、ソファから腰をあげる。
マイキーをけしかけたのは俺だから、ドニーの大切な部品を守ってやらないとな。





ー今日の昼はいつものように、家族みんなでピザを食べよう





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