このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

朝菊短編集

愛を手にした男

「お前は愛そのものだ」
手に入らなかったもの。手のひらからこぼれ落ちたもの。手の中で腐らせてしまったもの。そのどれもを拾い集めてゆっくりと咀嚼し、飲み下してくれた。
不味かったもの、美味かったもの。汚いもの、綺麗なもの。退屈なもの、楽しいもの。俺にとって足りないものを一つ一つ全部集めて付け足して俺に世界の色を教えてくれた。
キク、知ってるか?
俺、お前に会う前までは感情の欠落した王子様、なんて呼ばれてたんだ。見目麗しいだけの木偶の坊。なんでも批判する皮肉屋で可愛げのない天邪鬼。そして、とってつけられたようなクズの俺におあつらえ向きの「玉座」。地位とか、名誉とか。そんなものはいらなかった。俺に近寄るのは金と家柄とブランド目当ての自己中心的なハイエナのようなやつらだけだった。汚い掃き溜めの中で泥をかぶりながら醜く這いつくばって生きていたんだ。次第に心も感情も全て削げ落ちた。残されたのは地位という骨と名声という名の皮だけの不気味で不格好な人形。擦り切れていく神経はそれを異質なものとして拒否するどころか受け入れてしまった。だから、辛いとか、怖いとか、心細いとか、胸が痛いとか、思ってもなかった。
生きてるだけの親の操り人形で少しばかりスペックが高い「神から愛された」男。バカバカしいと一蹴するにはあまりにも時間と周囲の環境に囚われてしまっていた。なんでもこなす俺のような完璧人間の代わりが無いから俺はチヤホヤされて温まりのなかに飼われていた。
そんな俺が、穀潰しの俺が、初めて手にしたいと思ったんだ。
時間つぶしとしか見てこなかった音楽で、お前は教えてくれた。
「愛」はあるのだ、と。

まだ自分の役割と周囲からの目が気にならなかった無邪気で罪深い幼少期。アーサーはバイオリンを演奏することが好きだった。大体のことならなんでもそつなくこなすアーサーは、初めてバイオリンを手にした日にもう簡単な曲なら弾けていた。それをばあややメイドたちが喜んで嬉しそうに、楽しそうに聞いてくれた。口うるさい家庭教師との勉強が終わったあとには必ずバイオリンがある部屋に向かい、毎日のように弾いていた。しばらく練習していくと考えられなかったような難しい曲も不格好ながらこなせるようになっていった。それがとても楽しくて、楽器と音楽の前では天才とか才能なんて関係ない、努力が実を結ぶんだと彼は信じきっていた。アーサーは子供だった頃はずっとバイオリンのために生きてきた。
そんなある日、キクを見つけた。
親父に連れていかれた発表会で、堂々と繊細で儚げな音色を奏でるピアニスト(キク、お前だ)に。
それを聞いた日からアーサーはキクとセッションするためにバイオリンももちろんだがピアノにも手を出した。願うはひとつ、キクと同じ舞台で音を奏でるため。それで、音楽は趣味として続けた。それには父親も許してくれた。品行方正で立派な跡継ぎになるのなら、という条件付きでだが。
バイオリンやピアノを操るのは楽しかった。でも、だんだん周りの人間にチヤホヤされる度にそれがチンケなものだと思い始めてきてしまった。音楽に罪はない。だけれども、アーサーは、音楽を憎むようになった。これでは変わらない。なんでも簡単に思えてしまう、退屈でつまらないあの日々に戻ってしまう。それが怖くてひたすら音楽に打ち込んだ。その度に音楽が嫌いになっていった。
高難易度曲を楽譜を見ずに弾けるようになるころにはもう、アーサーの心は死んでいた。心が死んでいる人間に、音楽を語る権利はないと、その時に感情と共に音楽、そしてキクのことは心の奥底に鍵をかけてしまい込んだ。
だから、まさかこんな形でキクに出会えるとは思っていなかったのだ。
父親の命令で通うようになった日本の大学にキクがいた。
面影と、名前でわかった。ホンダキク。彼はあのピアノを演奏していた少年だと。コンタクトを取りに行ったのはどんな奴か気になったのと、あわよくば仲良くなりたいという下心から。初めて声をかけたのは大学内のカフェテリアだった。声をかけるのに躊躇って躊躇ってその末何度目かの挑戦でようやく話しかけることができた。無難に、それでいて怖くないように。何度もイメトレしてきたように声をかけた。声が震えていた、なんてキクは後で聞いたら笑ってたけれど、緊張してたんだから仕方ないだろう。
キクとそうして連絡先を交換して、話をして、アーサーがどうにかしてキクの話題についていこうとマンガやらアニメやらに手を出そうとした時にはキクに全力で止められた。そうしていくうちに二人で過ごす時が多くなっていった。お互いの家に行ったりショッピングしたり。「普通の大学生」みたいなことが出来て、それまで普通じゃなかった、普通がわからなかったアーサーに世間を教えてくれた。嬉しかった。アーサーは俺にはお前しかいない、とこぼした。幸い映画を見た後だったからあの時キクは感化されましたか?なんて笑ってたけれど、嘘じゃないんだ。キクがいない世界に意味なんてないんだから。
そうして仲良くなって、相棒になった時、ふと思い出したようにアーサーはキクにピアノを弾いてくれと頼んだ。あの時も、すごく緊張して喉がカラカラだった。もちろん何度もイメトレはした。そうしたら、キクは少し翳った瞳をして、そのすぐあとにまた微笑んで了承してくれた。あの時なんで悲しそうにしていたのかわからなかった、気にしなかった自分を殴りたいくらいアーサーは全てを聞いて後悔したんだ。キクは子供の頃以来、アーサーが彼の音楽を聞いた日あたりから、音楽を辞めた。理由はそんなことをしても金がかかるだけで食っていけないと貧しい片親の母に言われたからだそうだ。それを聞いて、残念だと思って、悲しくなった。キクの音楽には人を救う力があるのに、それがわからないなんて。アーサーは憤り、キクはそれを仕方ないことですから、なんて窘めた。
キク、俺がリクエストして弾いてくれた曲が発表会の時に弾いていた曲だって、気づいていた?簡単で短い曲でいいんですか?って聞いてくれたキクにそれがいいんだ、って言って困惑させたけど、最初に惚れた音楽を弾いたやつの音楽と共にキザに告白なんてしてみたかっただけだ。
一曲が終わってすぐ。アーサーは、キクに告白した。好きです、付き合ってください、って。日本では付き合う時に申し込むんだろ?俺たちなんかはデートを続けてればそのうち恋人になるってのに、日本は複雑怪奇だなぁ、なんて考えていた。
それで、びっくりしたキクは大きな目をさらに大きくまんまるに見開いた。アーサーは見てられなくって目線をしたにそらした。キクが答えてくれるまでの数十秒間が、とてつもないほど長く感じた。それで、はい、って言うか細い声が聞こえた。アーサーは顔を上げてキクを見た。そしたら、キクは告白した俺より真っ赤になって恥ずかしそうに嬉しそうにはにかんだ。嬉しすぎてアーサーはその時もう死ぬんじゃないかって思ったけど口に出したらそうなりそうでやめたのだった。それで、アーサーとキクは恋人になった。
そこからは大変だった。
感情も一般的な庶民の感覚も何も無いアーサーと暮らすようになってアーサーはキクを何度も困らせた。退屈でしかなかった毎日の中で唯一の色がキクだった。アーサー自身に足りないもの、アーサーに欠落しているもの、持ちえないものをキクは一つ一つ大事に拾ってアーサーに手渡してくれた。おかげで友人も出来たし笑うこともできるようになっていった。子供の頃からのアーサーの心の中の氷河期の氷がじわじわと溶けていく感じがした。止まった時が再び動き始めたようだった。
確執のあった父親とカークランドの家とはキクのお陰で折り合いをつけて話し合えるまでになった。世界がこんなにも優しくて温かくて綺麗だということにようやくアーサーは気づけた。五回目の告白記念日に、99本のバラを渡した時、その後に意味を調べてくれて、真っ赤になってたキクはとても可愛かったとアーサーは思い出す。
全てが変わったのは八年目の春。アーサーが正式にカークランド家の当主になってキクが配偶者になった。イギリスで挙式したよな。タキシードのキクは可愛くてかっこよくて、世界一のダーリンだった。幸せの絶頂期だったのだ。
そう。「だった」。今じゃキクとは口も聞いてもらえないし、見てもくれない。ぶすくれたままキクはいつまでも俺の謝罪を受け入れてくれない。頑固者だと思う。まあ、アーサーも人のこと言えた立場じゃないけれど、少しくらい言葉を聞いてくれたっていいじゃないか、なんて。
なあ?キク。俺の愛、その全て。






アーサーが倒れた。雨の降りしきる午後だった。フランシスにかかってきた電話でそのことが告げられフランシスは病院へと飛び込んだ。そこにいたのは、やせ細って生気のない顔色で点滴に繋がれ眠るアーサーだった。キクが死んでから、彼は昔に戻った…いや、昔より酷い状態になった。誰もいない空間にキク、と愛おしそうに話しかけて、そうかと思えば感情が消え去って。幸い当主としての仕事はしていたため周りも何も言えなかったし、周りが何を言っても聞き入れなかった。手がつけられなくなった。
私生活の方も、さんざんらしくハウスキーパーに倒れているところを発見されて今こうして病院のベッドに繋がれている。話を聞けば、彼は薬を過剰に飲んだらしい。市販の薬では死ぬ事は出来ない。それもアーサーは知っているはずだ。それなのに、意味の無いオーバードーズなんて。死ぬに死にきれない苦痛はいかほどだろう。その環境を作った奴らにも、気づけなかった自分にも、虫唾が走る。フランシスは奥歯を噛み締めて拳を握る。安らかに眠るアーサーは死んでいるかのようで。部屋に響く心音が唯一の音だった。お前の好きな音楽、かけてやるよ、なんて笑いかけてキクが弾いていたピアノの録音されたものを流す。
いつ聞いてもキクのピアノは、心にくる。これに惚れるのもわかるな、とアーサーの髪を梳く。ピクリ、とアーサーが動いた気がした。
もうわかると思うが、キクは死んだ。
過労がたたって、呆気なく。
それによってアーサーは壊れた。
誰も悪くない、いや、悪いのはフランシスたち周りの人間だ。二人に全てを求めすぎたのだ。二人はただ穏やかに過ごせる場所を求めていただけなのに、周りがそれを奪って幸福はこうあるべきだと決めつけて、押し付けて。固形物を無理やり型に押し込んで削ってくっつけて歪にしてしまった。今更謝っても遅いどころか懺悔を聞くべき相手はいない。菊も、アーサーも、振り回されすぎた。その結果がこれだった。過労で菊が死んで、アーサーは壊れて菊の幻を追うようになった。
涙を流すのは、流す権利があるのは、フランシスのような周りの人間じゃない。それがあまりにも不条理でクソッタレ、と誰に言ったでもない行き場のない感情をフランシスは静かな病室に吐いた。


数日後。アーサーがようやく目を覚ました。その連絡が入り、フランシスはアーサーの病室に飛んできた。
「アーサー!」
「……ああ、フランシス、か」
虚ろな目をしていたアーサーに、フランシスは嫌な予感がした。いつもと違って、覇気も、生気もない。あの生命力に満ちた輝く湖底のような美しいグリーンアイは翳りその形を潜めていた。
「……アーサー……?」
「なあ、フランシス。…なんで、キクは死んだんだろうな」
「っ!?」
アーサーの口から出たのはそれまでのアーサーが決して受け入れようとしなかった事実。キクが、死んだという現実。アーサーはあくまで穏やかに、静かに言葉を紡ぐ。その姿にフランシスの背中に嫌な汗が流れた。
「アーサー…お前」
「目が覚めた気分だよ。今までは、何も見えないモヤの中にいたんだ。キクがそばにいて、笑ってくれて、幸せだった。…たとえそれが幻想だったとしても」
アーサーは目を眇めて優しく笑う。まるでキクのことを見るみたいに、キクがアーサーを見ていてくれたあの頃みたいに。
「俺は、カミサマとやらにとことん嫌われるタチみてぇだ」
くつくつと笑うアーサーが、フランシスにはゾッとするほど恐ろしく見えた。まるで、何かに取り憑かれたかのようだ。いや、憑き物が落ちた、と言った方がいいのだろうか。
「なあ、こんな世界で。お前がいない世界で、俺はどうやって生きればいい?道を照らす灯も、そばで癒してくれる温もりも、全部、全部無くなった。奪われて、人々の上に立つ椅子だけ用意されて、それで理想通りに動けなけりゃ勝手に失望した、なんて責め立てられて」
「……死ぬなよ、アーサー」
フランシスが言えたのはそれだけだった。アーサーはああ、と言って笑ってそのまま眠りについた。思えばその時、アーサーは救助信号を出していたのだ。

退院してからアーサーは今まで以上によく働くようになった。フランシスはそれに違和感を覚えていたが、何も知らない周りは感嘆して、流石アーサーだと讃えていた。そいつらが酷く醜く見えてフランシスは周囲の人間に近づかなくなった。
ある日、アーサーはフランシスを呼び出した。雨の降る、休日だった。
「アーサー?」
「フランシス、大事な話があるんだ」
雨音が微かに聞こえる静かな書斎で重厚な椅子に座って穏やかに彼は言った。まるで今までのことが何も無かったかのように。それが恐ろしいと、思ってしまった。
「もう、誰かに迷惑をかけることも、誰かに支えられることも…誰かを、愛することも、やめる」
「…え」
「これまでありがとう、フランシス。もう、俺は大丈夫だ」
ひどく傷ついた顔をして無理に笑ったアーサーの表情は誰をも拒絶しているようで、踏み込めなかった。否、踏み込ませてくれなかった。あれほど微かにしか聞こえなかった雨音がうるさいほどに空間を支配した。
その日以来アーサーはますます仕事に打ち込むようになっていった。過労で倒れない程度に、だが多忙で人に極力プライベートで会わない程度に、彼は仕事を詰め込んだ。そのおかげでカークランドの家は力を増した。当主であるアーサーは怪物とまで言われるほどにその手腕を奮った。しかし、それに比例してアーサーはゆるりと壊れていった。あの雨の日に言われた大丈夫だという言葉は、まるで幻だったようだ。まともな感情でいては彼は生きていけないのだろう。死ぬことも、穏やかに愛おしい人の生きた欠片を拾い集めながら生きることも許されない。その重圧は計り知れないほど重いのだろう。フランシスには、わからない重みだった。それが、もどかしかった。
アーサーは頂点に立つ完璧な人間になった。全てを失った彼が全てを手にしている地位に立つなんてなんの皮肉だとフランシスは感じた。誰に当たっても八つ当たりだけなのだが、それでも何かに当たらなければやっていけなかった。アーサーがインタビューなどで爽やかなキクにしか見せなかった笑顔を向ける度にフランシスの心のわだかまりは溜まっていった。
アーサー。お前はよくやったよ。もう休んでいいだろう?神様だって許してくれるよ、だから、なぁ。お願いだから、それ以上、壊れないでくれよ。なあ、アーサー。
アーサーに言うべき台詞は、誰に聞かれることもなく静かな部屋に吸い込まれていった。

アーサー・カークランドは、全てを失い、全てを手に入れた。ただ、それだけの事だった。
1/44ページ
スキ