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朝菊短編集

朝菊

アーサー・カークランドは私の人生の唯一の汚点だ。
憎たらしい、忌々しい、消し去りたい、でも消してしまう勇気はない。私には未だ彼への未練しかないのだ。
本田菊。日本の俳優であり、世界でも活躍する稀代の天才。表の彼はにこやかで物腰の柔らかい青年だが、彼の素性や普段の生活などは一切わからない。ただ一つわかるのは、彼は左の薬指にプラチナリングをつけているということ。
妻や彼女の存在が仄めかされているが本人は至って無言を貫く。マスメディアも無駄とわかったのか最近ではそういった類の話は一切ない。
夜の街を歩く。1人で、独りで、独りきりで。隣にあったはずの自分より少し高いぬくもりは、もうどこにもない。
「ただいま」
菊は自宅である一軒家へと帰りついた。出迎えてくれるのは愛犬のぽちくんのみ。短い尻尾をぶんぶん振って愛情を示してくれる姿に思わず微笑むとぽちくんは嬉しそうに一鳴きした。頭を撫でてやると頭を擦り付けて催促するかのような愛らしい彼に本田は癒される。日課だ。
「じゃあご飯にでもしましょうかね」
いつまでも玄関にいるわけにもいかない。屈んでいた足を伸ばしリビングダイニングキッチンへと向かう。
作り置きしておいたおかずをレンジで温めて炊飯器のスイッチを付ける。そうすればもうすぐ遅めの夕ご飯だ。現在時刻25:30。手持ち無沙汰だったのでテレビの電源をつけた。深夜のバラエティーは際どい放送をしているはず、と思ってのことだったが菊は自分の浅はかさにげんなりした。
テレビに映っているのははちみつのようなキラキラとした金の髪を持ち宝石のようなこぼれ落ちんばかりのエメラルドグリーンの瞳を持つ眉が太い青年、誰かとテロップを見なくてもわかる。アーサー・カークランド、イギリス出身生粋の英国紳士。写真家だ。
テレビの中で人好きする笑顔を振りまいている彼。番組は若手のクリエイターを紹介している、彼はその集められた中の一人なのだろう。菊は彼の笑顔を見て顔を顰めた。
本田菊にはかつて恋人の男がいた。それが、アーサー・カークランド。菊が留学したイギリスの大学で知り合い、仲良くなり、そういう関係になったのだ。初めはどちらから誘ったのか覚えていない。気がついたら彼とセックスをして、同じベッドで眠っていた。それから2人は距離を縮めて、相棒、だなんて言われるようになった。菊はそれがとても光栄なことと思えたし、誇っていた。でも、別れはあっけなく訪れたのだ。
朝起きたら二人が住む部屋は、一人分の熱量を失っていた。突然のアーサーの消失。菊は驚き、呆然とした。後から他の友人の情報によりアーサーが大学を辞めたのだと聞いた。それまでは何も教えてくれなかった、唯一の半身。唯一の相棒。信じていた、信頼していたのに。いや、信じていたのは菊だけだったのか?女々しくも思考が悪い方へと転げ落ちる。ああ、嫌だ。彼なんて大っ嫌いだ。
消えたアーサーのことを探さずに菊は日本へと戻り芸能界へ飛び込んだ。そうして数年が経ったころ。仕事でとある写真家とのコラボをしないかと頼まれた。仕事を選んでいられない新人だったので二つ返事で了承したが企画書を見て絶句した。そこに書かれていた、写真家の名前が、「アーサー・カークランド」だったのだ。同名の違う誰かであってくれと祈ったが神とは残酷なもので。仕事で過去の恋人同士は再会した。
仕事は持ち前のポーカーフェイスと人当たりの良さでなんとか終わらせたが帰り際、アーサーがにたりと蛇のような笑顔で連絡先の書いてある名刺を菊に渡した。耳元で囁かれた愛の言葉。思わず寒気がした。その場で彼を殴らなかった自分を褒めてもバチはあたらないだろう。そして数日後、アーサーは菊を呼び出した。「来なければ俺と交際し、肉体関係を持っていたことをばらす」という脅し文句付きで。
日本というこの国で同性愛というのはあまりいい目で見られることがない。ましてやそれが駆け出したばかりの清楚系を売りにした俳優のものとなるとスキャンダルの絶好の餌食だろう。菊はヒヤヒヤしながら顔を隠すマスクとメガネでアーサーと会った。
それが間違いだったのか、それとも最初から間違えていたのか。今となっては過去の話だが、悔やんでしまう。彼と菊はセフレ、となった。それも一方的なもので。弱みを握られた菊がアーサーに服従しているだけのものだ。
アーサー・カークランド。私の最愛の人にして過去最悪の汚点。
温まった白米を茶碗によそい、おかずを器に盛りつける。手を合わせていただきます、と呟いてから箸を動かした。テレビには相変わらずアーサーの笑顔が映っている。彼はそんなふうに笑えるのか、と新鮮だった。菊の前ではいつもチェシャ猫や蛇のようなニンマリとした、それでいてギラギラした顔で笑う。顔のパーツは良いのに表情はゾッとするものばかりだ。
食べ終えて食器を片した後、不意にスマホの着信音が鳴り響く。菊はディスプレイを見て顔を青くした。相手は、アーサー・カークランド。嫌々ながら電話に出るとやけに上機嫌な男の声が応答した。
「よお菊、いい夜だな」
「…貴方のせいで今最悪の夜になりましたけどね」
「はん、なんだよ俺からの電話が嬉しすぎて漏らしたのか?」
「どうやったら貴方は皮肉しか言わない口を閉じることを覚えるんですかね」
「皮肉は英国紳士の嗜みだ。ん?俺が紳士らしい、って?ありがとよ、相棒」
酒でも飲んでいるのか、饒舌でいつもより余計なことばかり言う。菊は舌打ちをして要件を急かす。
「そう怒んなよ、コマドリちゃん」
「その舌ちょんぎってやりましょうか」
「キスする時にか?その案は良くないなぁ、良くないよ。だってお前、俺のキスだけで腰砕けになるんだもんなぁ」
くつくつと笑うアーサーに菊は苛立ちがピークになる。この男、いつか絶対殺す。
「で?ほんとになんですか、用がないなら切りますよ」
「今度の俺の写真展、チケット用意したから。来いよ」
「仕事が忙しいので」
「今から2週間後、お前予定ないだろ?その日にやるんだよ」
「………」
なんなのだこの男。なんでそれを知っているんだ。菊は呆れて、やる気なく了承した。そうして電話は切られた。
ベッドにぼふんと倒れ込む。疲れた。とても疲れた。あいつの相手をするのが苦痛になってしまったのが、少し寂しいことに苛立ちながら。


▷▷


「よお!よく来たなロビン」
「貴方が来いと言ったのでしょうに」
アーサーの個人展には人が多く入っていた。顔が良い、(表だけは)性格が良い、写真の腕も良いの三拍子そろい踏みで世間はアーサーを時の人にした。そのせいか客は女性客がいささか多かった。
部屋に通された先にはアーサーが待っていた。仕事をしている時の彼は真っ直ぐな視線で意思の強そうな顔をして、その姿は見とれるほど美しい。外人特有の肌のしろさや色素の薄さ。そのどれもが彼を完璧に近づける。神に愛された男だ、菊はそう思った。
部屋でアーサーは菊に紅茶をいれて、スコーンやケーキを出した。いつにない待遇に菊は驚く。アーサーはやはりニヤニヤしながら目で食べろ、と言っていた。
「それで、何の用ですか」
「そう急かすなよ」
意外と美味しいケーキと紅茶に舌づつみを打つがそれもまあ一時の時間しのぎにしかならない。アーサーは組んでいた足を組み直して言った。
「俺の被写体になってくれないか」
真剣な眼差しで、言われたそれに菊は最初反応ができなかった。じわじわと意味を理解すると、菊はため息をついた。
「そういうことはマネージャーを通して…」
「そうじゃない」
「…ではなんだと」
菊が顔を上げた、瞬間、アーサーの瞳に吸い込まれる。真っ直ぐで、汚れのないそれは、まるで昔の彼のようで。確かに存在していた愛、なんてものを思い出しそうになる。アーサーは言葉を続けた。
「なあ、菊。俺だけの被写体になってくれないか」
「…は」
「公的な一時的なものじゃなく、俺のもの、俺だけの被写体として永遠に、その姿を撮らせてくれないか」
「何をいまさら」
菊の瞳にちらりと映ったのはアーサーの左手。その薬指、そこには菊と同じ型のシルバーリングが輝いている。そのことに複雑ながらも嬉しくなる。彼は未だ私のことを忘れていない。それは、菊も同じ。お互い忘れられない同士でこうして再会したのは神の導きか、なんて普段無神論者に近い菊はぼんやりと柄にもないことを思う。
「……報酬は?」
「…え」
「貴方の被写体になるということは仕事を受けるということ。つまり、それなりの報酬、メリットは必要になります。これでも私、わざわざ貴方のために開けている時間などないので」
アーサーの瞳孔がじわりと広がる。まさに面食らう、といったふうの彼にしてやったりと内心ほくそ笑む。アーサーの小綺麗な顔が赤く染まるのに菊は懐かしさを覚えた。


▷▷


そうしてアーサーは菊に仕事、という形で写真を撮ることを許された。
指定されたのは菊の数少ない休日の日だった。彼のために休日を潰されるとは顔を顰めてしまう事だったがそれはそれ。仕事と割り切って菊はアーサーの元へ車を走らせた。
だんだんと緑が増えていく道中、人気(ひとけ)は少なくなり慣れたコンビニも自動販売機も見かけることがなくなっていく。なぜ彼はこんな辺鄙なところを指定したのだろう、と訝しむのは仕方がないだろうか。車を止め、ドアを開ける。山小屋のような掘っ建て小屋の中、アーサーは暖炉の前の椅子に座っていた。
「よくきたな」
「…仕事ですから」
言外に仕事の範囲外のことはしない、と含ませるとアーサーは掴めないような笑みを浮かべくつくつと笑う。ああ、嫌な男だ。菊は思いきり顔をしかめる。
「今日はお日柄も良く」
「御託は要りません。早くしてください」
「なんだなんだ、お嬢さんはせっかちなのか?人生損するぜ?」
「……」
横っ面をひっぱたいてやろうか。思わず拳を握りしめた。するとアーサーはそれを見てまたクククッと笑った。遊ばれている。完全に彼の掌の上で踊らされている。昔からこういう男だった、いや、昔よりも性格が最悪になっている。
「で、私は何をすればいいんですか?」
「俺と一緒にあたりを散策してくれ」
「…それだけ?」
「ああ、もちろん俺はカメラを持っていくぞ?自然な表情が欲しいんだ。お前のお得意なポーカーフェイスや愛想笑いじゃなくてな」
ひとこと余計なのは意図してか。露骨に嫌な顔をしてもアーサーは面白がるだけだとわかっていながら感情を剥き出しにしてしまう。菊はそこまで豊かに感情をさらけ出せる相手だとアーサーに言っているようかの態度をしているということに気がつかないままに。
「わかりました、早く終わらせましょう」
「OK darling」


▷▷


アーサー・カークランドに頼まれ、被写体として仕事をした日から数ヶ月。あれ以来彼からは音沙汰無い。全くつくづく自分勝手な男だ。何度目かのため息をついて、それにうんざりする。あの人のことはもう昔の思い出として割り切ったつもりだ。なのに、こうして女々しくも彼から連絡が来ないかとスマホを見てしまうのはやはりまだ私の中でアーサーという男が占める割合が大きいのだろう。
その日は完全にオフだった。テレビの中では相も変わらずアーサーのことを取り上げていて、にこやかなアーサーが映っている。私はテレビの前のソファーから立ち上がり、郵便受けを見に行くため玄関へ歩く。暖房を入れていたリビングとはうってかわって廊下は底冷えする寒さだった。もう1年が終わりを告げようとしている。アーサーと再会した秋が懐かしい。マンションの1階に降り、ポストを覗くと大きな茶封筒が一つ、それにチラシが数枚入っていた。何か頼みましたっけ、と過去に記憶を飛ばすが身に覚えがない。それらを抱えて自分の家へ戻る。
「ただいま」
チラシと分けてテーブルの上に置いた茶封筒を見る。差し出し人などは書かれておらず恐る恐る封を開ける。すると入っていたのは一冊の本と小さな手紙。そこには筆記体でArthur karklandと書かれていた。アーサー・カークランド。A4サイズの本を開くとそこには思った通り、自分が写っていた。この間撮った写真が本になったのだ。手紙には「個人集として出す本だ、お前が載ってるから一番に渡してやる。代金は貸しってことで:P」と書かれていた。何が貸しだ、送り付けてきたのはそっちでしょうが、と思ったがそれには蓋をした。
本はページ数が多く、分厚いものだった。でも、ペラペラとめくっていくうちに違和感を覚える。真ん中あたりまで来たが人が映っている写真が一枚もないのだ。これでは私が被写体になった意味も無いし、彼が私が載っていない本をわざわざ送ってくるのもおかしい。そんな考えはもうしばらくページをめくると霧散した。
「………え」
残り数十ページに渡り、載っているのは本田菊の様々な表情。笑顔やはにかんだ顔、驚いた顔に少しムッとした顔。今まで全く人間を撮(うつ)さなかった彼の本の中で異彩を放つ1人の男。それは生き生きとしていてアーサーの腕の良さと、菊が本当にリラックスして撮られているということがありありとわかった。そして、最後のページには菊の左薬指のシルバーリングが同じ型のものと寄り添う写真でしめられていた。
彼は人物を撮ることはしない主義だったじゃないか。菊は忘れていたことを思い出す。頑なに人を撮らなかった彼がここにきて菊を撮る理由がわからなかった。恋人であった頃ならまだしも。なぜ、なんの関係性もない過去の男のことなんて。菊は思わずアーサーにメールを出した。

菊がアーサーにメールを出したということを忘れてしまうほど時間が開いた頃にメールは戻ってきた。差し出し人はアーサー・カークランド。でも、中身は彼が書いたものでは無かった。


▷▷


アーサー・カークランドは死んだ。
それはアーサーの友であり、菊の友でもあるフランシスからのメールに書かれていた。病魔に蝕まれていたらしい。数ヶ月前、そんな素振りは見せずいつものように笑っていたのに。信じられない、でも、フランシスがこんな嘘つくわけがない。つまり、本当らしい。手が震える。頭が痛い、目がまわる、尋常じゃないほどのつばが出る。ああ、ああ、ああ!アーサーさん、と呟いた声はか細く震えていた。
彼は教えてくれなかった。最後まで、なにもかも。勝手に独りよがりで暴走して悪い結果になろうとも自己満足できればそれで納得するんだ。いつも、いつも。アーサーさん、なんで。知ってたらあんな態度取らなかったのに。笑い合える仲に戻りたいと、素直に言ったのに。なんで。アーサーさん。菊は回らない思考でフランシスに電話をかけた。

葬儀は、2週間後らしい。


▷▷


黒い喪服に身を包んだ人々がさあさあと降りしきる雨の下に立ちすくむ。こんな日まで雨だとはアーサーはよほど雨男らしい。流石イギリス人だな、と菊は頭の片隅で思った。
若手アーティスト、アーサー・カークランドの死は世間を騒がせた。あまりにも若すぎる死。それはマスメディアの絶好の餌となったのだ。アーサーの最後の個人集の内容の関係で仲が良かったと露呈した菊のもとにもマスコミはやってきた。菊だってなんで彼が死ななければならなかったのか、なんで彼は教えてくれなかったのかと問い詰めたいというのに世間はそれを許してくれない。あくまでも菊は舞台上の人間なのだと騒ぎ立てる。さいわい菊とアーサーが昔恋仲だったということはバレていなくてそこも流石だなとどこか場違いな感情をこぼしていた。葬儀が終わり、菊は一人になる。一人きり、独りきりだ。菊は雨に濡れるのもいとわず傘を下ろし、アーサーの遺体が運ばれて行った方をぼんやりと眺める。火葬場に行けるほど菊は彼の死を受け入れられなかった。



アーサー・カークランドは本田菊にとって、人生の唯一の汚点だ。それは変わりない。でも、同時に、彼といられたその日々は輝いている大切なものだ。アーサー・カークランド。私の大切な友人であり、恋人。
さようなら、アーサーさん。貴方と過ごせた夢のような毎日を私は抱えて、あなたの存在を抱きしめて、私は生きる。貴方のために死んでやらない。ねえ、アーサーさん。私を置いていった罰ですよ。私は天寿を全うします。そうして、死んだ後に、あなたの元で、笑い飛ばしてやる。
菊の瞳からこぼれ落ちた涙は雨と混じって消えた。
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