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朝菊短編集


ああ、まただ。

彼の国らしいしとしとと雨が降りしきる薄暗い夜明け。ベッドに確かにあったはずの温もりが消えている。

また、彼は。

私の手からこぼれ落ちるものは、いつの時代でもあまりに大きすぎた。


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日本がイギリスと奇妙な関係になったのは五年前。世界会議が終わり、馴染みのバーへ元枢軸国と連合国の面々で乱痴気騒ぎをしていた時だった。バーカウンターで一人喧騒を眺めながらカクテルをちびりちびりと呑んでいた日本の隣にイギリスが座ったのだ。壁際のイスだったため日本の退路が絶たれており、彼の魔手から逃れることが出来なかった。否、逃れることなど最初から考えていなかった。そうして日本とイギリスは会議で顔を合わせる度に非生産的な国の化身の身で人間の真似事をする「セフレ」となったのだ。
この関係には暗黙のルールがある。一つは、痕跡を残さないこと。キスマークはもちろんのこと、体臭なども移らないようにシャワーを念入りにしたり、服は同じ場所に重ねたりしないなど細心の注意を払うこと。もう一つは、夜明け前に必ず二人でいないこと。朝が来る前にイギリスは必ず部屋から出ていく。それは同じ部屋から出ることを見られたらいけないから。そのことが寂しくないわけでは無い。心のうちで秘している恋心が彼と長くともに居たいと叫ぶのだ。そう、日本はイギリスに片想いをしている。
その想いは随分と昔に実らせたものだ。初めて会った時、綺麗な人だと思った。そうして、次に会った時、聞いていたよりも幼い印象が残った。そして、同盟を組もうと言われた時、その真っ直ぐで先を見据えた強者の瞳に、恋をしたのだ。と、まあ聞こえは良いがただの老いぼれの熟れすぎて腐り始めた感情。それを相手に求めるなどと身勝手なことはしない、そう決めたのだ。
日本は人気のなくなって寒々しい部屋を見てため息をついた。会議の支度をしなければ。どんなに感傷的になっても、どんなに恋焦がれても、どんなに共にいたいと願っても、朝は来るのだ。気まぐれな逢瀬は長期的な会議をどこか楽しみにもさせてくれる。イギリスと肌を重ねるためだけに踊り狂ってまとまらない会議に出ているかのようだと浅はかな自分に嫌気がさす。さて、これから3日間の会議で彼を目で追わないように、彼の声に反応してしまわぬように気を引き締めなければ。そうして日本はスーツの袖に手を通した。


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セックスフレンド。セックスをするだけの関係は果たしてフレンドなのか。滅多に私的な会話をしない遠く離れた同じ島国の無表情な顔を見てぼんやり考える。日本のことはイギリスは少なからず好意的に思っている。しかしそこにあるのは肉欲のみ。恋心なんて生易しいものはない。イギリスは手元に目を落とした。今回の会議も踊って終わるだろうなと思い隣からちょっかいをかけてくるフランスの顔にパンチを繰り出しながら。そこにアメリカやらロシアやらが入ってきて喧嘩騒ぎに発展する。いつものことだ。そしてドイツが止めに入る。いつものことだ。ただ一つ、目の端に写った日本の顔が翳っていた。
どうしたのだろう。何がお前をそんなに悲しそうにさせているのか。なぁ日本。俺にはお前になにがあったか聞ける立場じゃないんだ。

会議は終わった。その途端イタリアが日本に抱きつきに行く。それを後から来たドイツがやれやれといったように引きはがす。イギリスはその会話に聞き耳を立てていた。
「日本、どうしたの?なにかあった?」
「…どうしてですか?」
「だって日本なんか、悲しそう」
「なんでもありませんよ」
「あ、もしかして女の子にふられたとか!」
「イタリアじゃないんだからそのはずないだろう」
「ひどいよドイツ!」
曖昧に日本は笑っていた。イタリアとドイツは日本をつれて食事をとりに行ってしまった。そこでなにがあったか聞き出して日本の傷を癒すのだろう。イギリスは、その傷がわからないままなのに。
あのふたりやアメリカを羨んだことがない訳では無い。日本の隣に立ち、背中を預けて腹を割って話せる間柄に戻りたいと、なんども思った。昔のように、なんでも話せていたあの頃のように、戻りたい。俺の涙を拭って、優しく笑いかけていた日本。あまりの綺麗さに俺は柄にもなくお前は天使なんじゃないかと思った。戦争を経て、お前に酷いことを散々してきた俺を赦してくれた日本。セックスすることを許してくれたあの夜、俺とお前は両思いなんじゃないかと浮かれた。でも、俺達の関係はセックスフレンドから抜け出せないままで。痛い、哀しい、愛おしい。思考はお前のこととなると簡単にごちゃごちゃになるんだ。なあ、日本。この愛を、愛とも呼べないような汚い感情を、お前にぶつけられたらどんなに楽だろうか。このままを望む俺はとんだ臆病者だ。
イギリスは1人会議をあとにした。


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その夜。イギリスは日本の泊まっている部屋に訪れた。
本当ならイギリスと日本の逢瀬は連日行われるものではない。それはお互いの行動を制限せず、周りに怪しまれず、体をいたわるための理由だった。でも、イギリスは日本のことを考えるといてもたってもいられなかったのだ。だから来てしまった。子供みたいな行動力だなと自嘲する。日本の部屋のドアは簡単に開いた。
「…イギリスさん」
「なんだ、俺が来ることわかってたのか?」
「…貴方のことです。そうだろうな、と」
「ダーリンにはなんでもお見通しだな」
「そういうリップサービスは私なんかより女性に言った方がよろしいのでは」
ぐ、と言葉に詰まる。言わなきゃ良かった。お前以外の誰かに甘言を囁くことなんてしたくない。考えただけで吐き気がする。イギリスは不機嫌さを振り払って日本に話しかける。
「なあ…」
「すみません、今日は遠慮させていただきたい」
「な…」
「あなたの言いたいことはわかります。というか、それ以外で貴方が私の部屋に来るなどありえないですからね。でも、今日は腰が痛いのです、すみませんイギリスさん。また今度」
やはり言葉は出なかった。あっけにとられた。お前の俺への認識はそんなに酷薄な男なのか。ふつふつと場違いな怒りがわいてくる。
「ああ、そうか、そうだよな。悪かったな」
イギリスはそう言うと日本の顔も見ずに部屋から出ていった。


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廊下に出たイギリスはため息をついて壁に寄りかかった。ああ、最悪だ。あんな、あんな態度。日本の前では紳士的な男でいたかったのに。目を閉じて息苦しさを紛らわすためネクタイを緩める。そんなことしてもこの胸の痛みは消えないのに。馬鹿みたいだ。日本が悲しそうだった理由を聞くどころか、最低の男として彼に認識されたまま会話を終わらせてしまった。
なぁ、日本。
終わりにしよう、こんな関係。
そう告げたら彼はどうするのだろうか。悲しそうな彼の涙を拭えない腐りきった関係。
もし友人に戻れたら。
もう友人にはもう戻れない。
この少しづつ死んでいく心を、愛を望んだのは、自分じゃないか。
今日もまた、過ぎた過去を振り返る。彼の隣に並び立つ、そんな残酷で暖かかった過去を。
馬鹿馬鹿しい。
結局俺は、俺の大事な人を、その不器用さで失ってしまうのか。
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