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朝菊短編集



つかみどころのない男だった。
キク。年齢も本名も不明。わかるのは大人の男だということだけ。花の名を冠した彼は儚げで可憐でそのくせ悪いことなんて知りませんと言った小綺麗な顔をしてセックスもドラッグも酒も楽しんでいた。
男にしては小柄で、烏の濡れ羽色の黒髪に小さな頭。おおぶりな琥珀の瞳は表情を映さないがにやりと孤を描いて妖しげに笑う。細くて薄い体躯を隠すのは体のラインがわかるようなタートルネックにスキニーパンツ。いつものスタイルのそれは魅惑的で女も男も魅了する。日本人にもこんな綺麗な男がいたのか、と驚くほど彼は美しかった。突っ立ってるだけじゃただの小さなジャパニーズだが所作や目の動き、言葉遣いに駆け引き、その全てが彼を美しいと感じさせた。
さて、この話をしたにはわけがある。俺はゲイだ。まあ、だからといって「ノンケでも食っちまう男」では無いし、分別はわきまえている。これでも俺は男にも女にもモテてな。落とせないヤツなんていないんじゃないかと豪語していた。なのに、あいつが現れたんだ。
俺の初恋の人、キク。

それまで俺は恋なんてしないし落ちないし興味なかったんだ。セックスさえ出来ればいいだろ、って思ってた。なのに、あいつは俺の考えを根底から覆した。キクと出会って最初はこんなヤツが魔性の男と噂されるのか?言い過ぎではないのか、と疑っていた。なのに、あいつとつるむうちに俺はいつの間にか泥沼に足を突っ込んでいたんだ。
キクのことを好きになってしまってから、キクは俺のそばに近寄らなくなった。今までは俺を見つけると駆け寄って来てくれたのに、今じゃ目をあからさまに逸らされる始末。悲しいし怒りがわいた。それに比例するかのように俺はセックスにのめり込んでいった。
自業自得だ。
遊んでたヤツに刺された。あいつには奥さんがいて、不倫してたんだ。それは俺もわかってたし目を瞑って行為を楽しんでいた。けど、奥さんはそれが許せなかったらしい。俺をナイフで刺して夫とそのままぷりぷり怒りながらどこかへ行ってしまった。寒い。雨が降りしきる冬の夜に止まらない腹部からの出血で体温が奪われていく。目の前も霞んできた。ああ、こんな路地裏で俺は死ぬのか。最後にキクと会いたかったなあ、最後まで思うのがキクなところにどれだけ惚れ込んでいるんだよ、と笑いがこみ上げる。ケタケタ笑うと口の端から血が流れ出た。ああ、滑稽だな。もう目覚めることのない目の瞼がとろとろと下がる。じゃあな、くそったれ。


▷▷


暖かくて柔らかいものに包まれている。美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。柔らかに意識が浮上していく。ようやく開いた目に飛び込んできたのは真っ白な天井。
「てんごく……?」
「残念ながら天国ではありませんよ」
「っ!?」
「起きましたかアーサーさん。急に動いてはいけませんよ。傷に障ります」
木製のドアから室内へ入ってきたのはキクだった。お盆に小さな鍋とミネラルウォーターのペットボトルを載せて、彼はベッドのサイドテーブルにそれを置いた。俺は驚きすぎてやはりこれは夢か天国ではないのかとキクのことを凝視する。キクは視線に気づき柔らかく笑った。
「私の家の側でのたれ死にそうだったアーサーさんを偶然見つけて、昔のよしみで手当させていただきました」
「あ、ありがとう…」
「はい…何があったかは知りませんし聞きませんが危ないことだけはしない方がいい、と忠告しましたよね?」
「…ハイ」
「全く、私が通りかからなければどうなっていたことか」
「…ゴメンナサイ」
「まあ、いいです。どうせ行くところもないのでしょう?ここに居てはどうですか?」
「えっ、いいのか?」
「…しかたなく、ですよ」
菊は呆れたように俺を見て、俺の頭を撫でて言った。そうだ、こいつはいつもそうだった。大人ぶって、お人好しで、それなのに合理主義で、わけがわからない掴めない男。懐かしさに襲われて涙が出そうになった。俺はまだ、こいつのことを引きずっている。

▷▷


「なあキク」
「はい」
「お前さ、こうなること予想してなかったのか?」
俺の下にはキク。俺はそこそこ回復してきたのでただなんとなく、キクを組み敷いたのだ。そしたら呆気なくこいつはされるがままになった。他の男にもこうして許してきたのかと思うとなぜだか脳にちりちりと不快感が燻る。
「……私を今抱いても辛いのはアーサーさんでしょう?」
「わかったように言うなよ」
「わかりますよ、そのくらい。貴方、辛そうな顔してますし」
なんでも見透かされてる気がして、気に食わない。俺は彼を閉じ込めていた手を離す。キクは良い子、とだけ言って俺の下から抜け出した。
「くそ」
「人生経験が違うんですよ」
「うるせえよ」
「アーティ坊やは駄々っ子ですか?」
くすくすと笑われて何も言えなくなる。俺はふてくされてキクとは反対の方を向いてベッドに横になった。
「ご飯、置いておきますから食べてくださいね」
「……おう」
キクが出ていった後にのろのろと起き上がりテーブルの上のキクの手料理に手をつける。相変わらず美味しくて、少し涙が出た。


▷▷


体調もすっかり回復した。もうここにいる理由はない。もうそろそろ菊に追い出されるだろう。寂しくないといえば嘘になるが、一度この想いは拒否されたのだし、菊の好意にいつまでも甘んじているわけにもいかない。この身一つでふらりと夜の闇に溶ければ菊も察してくれるだろう。菊が用意していてくれた昼食を食べて食器を片付けたら、鍵をポストに入れてそのままどこかへ行こうか。


「で?なんでここに来たんだい」
「行くところがなくて」
「君のその帰る場所を頑なに作らない精神には驚かされるんだぞ。こっちの身にもなってくれないかい?」
「はは」
「この穀潰し」
アーサーは弟であるアルフレッドの家を訪ねていた。アルフレッドは実業家で成功しており、アーサーとは真反対の生活をしている。そんな彼になるべく迷惑はかけたくないのだが有事だしまあ仕方ないだろうと来たらこの言い方だ。お兄ちゃん傷つくぞ!と言ったところでは?と返されるのは目に見えている。アーサーがため息をつくとアルフレッドはぎろりと睨んできたが我関せずとそのままアーサーは空き部屋に向かった。
明日からどうしようか。転がり込める場所をさっさと探してアルフレッドの家からでなければ。気まずいのもあるが、可愛かった弟に冷たい目を向けられるのが怖くて逃げ出したくなるのだ。フカフカのベッドの上で悶々と考えていると睡魔が襲ってくる。気が付かないうちにアーサーは夢の中へといざなわれていた。

幸せな夢を見た。アーサーはきちんと働いていて、アルフレッドと菊がいた。三人で笑いあって暖かかった。いつか、来るかもしれなかった未来。俺がこんなダメ人間じゃなかったら、俺がもっとマシなやつだったら。菊とアルフレッドは俺を見てくれたのだろうか。

目が覚めた。涙が頬を伝う。最悪だ。舌打ちをしてアーサーは起き上がる。時計を確認すれば深夜2時。なんとなく、そこに居たくなくてアーサーはアルフレッドの家をあとにした。
だからといって行く宛もなく。ふらりと馴染みのバーに立ち寄った。久しぶりに店のドアベルを鳴らすと店主はこちらを見て、生きてたのか、と言った。勝手に殺すな、なんて軽口を叩いてバーカウンターに座る。頼むのはいつものエール。ツケといてくれと言えば奢りだと返された。ちびちびとエールを口にする。もう随分酒を飲んでいなかったなと思い返す。そして菊の顔を思い出した。今頃菊はどうしてるだろうか。勝手に出ていった俺のことを心配してくれている?まさか。きっと厄介払い出来たってせいせいしてる。わかりきったことなのに、涙が滲む。菊にとって、どうでもいい存在じゃなくて、「なくてはならない」存在になりたかった。ああ、こんなことになるなら、好きにならなければよかった。そんなことを考え出す自分に嫌気がさした。好きになったことを後悔しない、してはいけない。ならば、菊とまた会える日を想い続けようじゃないか。俺にしては殊勝な考えになり、泣きたくなって笑い出す。マスターはそんな俺を訝しげに見ていたが、気になるもんか。
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