2022年に書いたもの

「うワ、さむイ……」

 声が聞こえた。後ろから。誰もいないと思っていたけれど、彼が来たようだった。

「おはようございます、夏目くん」
「早すぎるんだヨ」
 ふわりと視界の端に映る赤。さわと吹いた風に髪をなびかせて、逆先夏目が座っていたつむぎの背後から声をかけた。
 海に向けていた視線を、夏目へ移すと彼の顔がくしゃっと縮こまって眠い、と文句を吐く。嫌そうな顔は、つむぎの前でしかしないようなもので。少しだけ心が心地好さにざわめいた。
 夏も終わりかけというけれどまだ湿度は高いままで不快感が滲んでしまう。視線を水平線へ向ける。海は黒くて、まだ恐ろしさだけがあるような気がした。
「いきなりどうしたっていうのサ、センパイ」
「海が見たくなりまして……」
 かすかに海は動いている。さざ波の音が聞こえて、ぼうっと打ち寄せる波を見ていた。すると不満げにため息をついて、夏目がつむぎの隣に立った。同じく海を視界に入れたのだろう、暗すぎだロ、と声がした。
「こんな時間に海がみたくなるって何?わけわからないんだけド」
 たしかに、今の時刻は日も昇っていない早朝。たまたま目が覚めてしまったから、泊まっていた宿の近くの海に来ていたのだけれど。どうやら眠っていたと思っていた隣の彼を起こしてしまったらしい。

──目が覚めテ、どこにもセンパイがいなかったかラ、と呟いた声。

 となりに視線だけを向けると夏目は静かに海を見ていた。つむぎの隣に座り込んで、ただ遠くを見つめている。その横顔に、一瞬見惚れた。
「何を考えてるかは知らないけド。話くらいなら聞けるし手伝えることならするかラ。そのために学んでるんだしサァ」
「……」
「?ほんとうにどうしたって言うノ?今日のセンパイはおかしいヨ」
「……たまに、考えるんです」
迷ってから口を開く。

「──君といれば、俺は幸せになれます」

 ひりつく喉からこぼれおちた言葉は思っていたより暗くなって。声が少し掠れていた。

「時折、君が俺といて幸せになれているか、わからなくなるんです。もちろん、幸せにしてあげるつもりですよ?約束は違えたくないので……
でも、本当は、他の誰かがいるんじゃないかって思う夜があって……今更君を手放せるほどこの感情は簡単ではない。俺には、君が必要なのに、君は俺の事を本当に欲してくれているのか、って」
「……」
 かえってくる声はない。夏目の方が見れなかった。矢継ぎ早に続けて、すみませんと笑う。
「あはは、こんな話をされても困りますよね」
 あのサァ、こっちを見ろ、と苛立ったような声がした。視線を移して、夏目を見る。アンバーはつむぎだけを映していた。

「あなたごと幸せにさせるために、ボクはあなたの隣を選んだっていい加減わかってほしいんだけど」

「っ、え?」
「別に、隣を選んだからと言ってその相手に何かを与えられなきゃいけないなんて話じゃないでショ。そういうところセンパイは頭が固いナァ……
そもそもだけド、〝 幸せにする 〟じゃなくて〝 一緒に幸せになろう 〟だロ。ソラももちろんその中に入ってるかラ、センパイだけだなんていう勘違いはしないでよネ」
 うっすらと朝日に照らされる、まだ大人になりきれていない幼げな横顔。赤くて細い糸のような髪の毛はさらりと風に揺れて、朝日の色を溶かしこんでいる。
 くすりと笑みがこぼれた。何、と不機嫌そうな声と共に鋭い視線が飛ぶ。なんでもありませんと返すと、さらにキツくにらまれてしまった。
「……そろそろ帰らなイ?」
「そうですね……日が登りきったら、朝ごはんになるでしょうし」
 けれどまだ。まだ、もう少しだけ。
 2人きりの海岸沿い。陽の光に赤く染まる海と、街を見てつむぎは地面についていた夏目の指先にふれる。震えていた手は、簡単に握り返されて。沈黙が落ちた。
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