2025~
俺、青葉つむぎと、彼……逆先夏目、くんの関係を表すのなら、それは『友人』だ。
ヴヴヴ……とスマホが振動し、通知音を響かせる。次の仕事までの休憩中に、スマホを見ていた時だった。通知はトークアプリ。差出人は『夏目くん』だ。
つむぎがその通知をタップし、画面を開くとそこには簡素に「今日センパイの家に行っていイ?」とだけ。
また何かあったのかな、なんて思いながら、つむぎは二つ返事に「もちろんです」と打ち込んだ。
──つむぎと夏目はただの友人だ。
その関係の逸脱を恐れ、丁寧な距離を守ってきた臆病者の安全圏なのだ。
一人暮らしのマンションに帰宅して。夏目が来るのであればと買ってきた惣菜や、度数の低いアルコール缶。どうせならとコーヒーやお茶なんかも買ってきてしまって、これじゃあはしゃぎすぎているなと自覚するほどの大荷物だった。
ドサッと荷物を置いて、適当に机に並べてスマホを確認する。夏目から連絡は一件。『あと10分で着くヨ』……二分前のメッセージだ。
夏目を出迎えるためには足りない時間だが、まあ、一応は部屋の中も見るに堪えないほどでは無いはず。ここ数週間、仕事が立て込んでいて少しサボりがちだった掃除も彼ならゆるしてくれる。そのぐらいの甘えは、二人の間ではもう当たり前だった。
「Goodevening♪センパイ」
「こんばんは。ようこそ、夏目くん」
部屋の中へと彼を招き入れる。夏目は黒いスプリングコートを脱ぐと、ふうと息を吐いていた。その目元にはうっすらとやつれた気配が見える。これは相当お疲れのようだ。
「どうしたんですか?いきなり家に来たい、だなんて」
「何?来ちゃダメだっタ?」
「意地悪言わないでくださいよ〜。君ならいつでも大歓迎です」
「ハハッ……センパイ、本当にボクのこと好きだよネ」
軽口はいつも通り。夏目が一息置いて、飲み物を口にする。
その動作を横目で見ながらつむぎは深呼吸をこっそり行った。
「そうですね……俺は夏目くんのことは好きですから」
返すつむぎの返事も、いつも通り。
夏目と卓を囲んで食事をとる。会話は仕事の話からプライベートまで一緒くただ。話の合間に、夏目が細く息を吐いた。視線を向ける。黄金色の瞳は伏せられていた。
「……」
「夏目くん?」
彼が箸を置く音がやけに大きく聞こえた。つむぎも手を止め、箸を置く。夏目の方をひた、と見据えると、彼は少し逡巡するように視線を彷徨わせ、そしてつむぎの方をちらりと見た。
「……センパイ」
声が硬い。どうしたのだろう。
「あの、ネ……」
言いづらそうに口ごもる。夏目に続きを促すためにつむぎは黙り込んだ。
もう一度、コップに口をつけて。そして少し、躊躇うような動きを見せ。
「──そろそろ結婚したらどう、っテ……親に言われたんダ」
夏目は静寂に、とてつもなく大きな波紋を広げたのだ。
「そ、れは……どうして俺に?」
「こういうことはユニットメンバーには伝えておかないとでショ」
「……結婚するつもりなんですか?誰と?」
頭がじんじんと痛む。自分が何を言ってるのか、正常に言葉を発せているのか、おかしなことを言っていないか。判断がつけられない。つむぎは心が急速に乾燥していくのを感じて、机の下で手をぎゅっと握りしめた。
「お見合いするかもしれないんダ」
「……夏目くんは、嫌ではない?」
お見合い。誰と。どんな女の人と。俺じゃダメなんですか。その言葉をなんとか|已《すんで》の所で飲み込んで、つむぎは彼を見詰める。
夏目は少し苦しそうだった。
卓の上の彼の手が、きゅっと握りこまれて震えた。
「……センパイは、ボクが結婚しても、──いいの?」
久しぶりに聞いた、彼の本音の声。頭は先程からずっと痛むし耳鳴りのせいでろくに何も考えられないでいた。
だってそうだ。いいわけない。夏目はつむぎのものなのに。
夏目のことを、つむぎは愛していた。
それは時に、友愛、慈愛、親愛、家族愛。……そして、恋愛的に。
彼を見て、初めて感じたのは一目惚れに似た、憧れのような感情だった。
そして、再び出会った時には、彼には家族愛のようなものを抱いていて。時を経るごとに、その感情が『恋愛』でもあると、つむぎは気づいていた。
しかし、つむぎとしてはこの友人という関係性を壊すつもりは毛頭なくて。夏目と新しいなにかにならずとも、きっとふたりは、いつまでも一緒にあれると思っていた。
思い込みだった。つむぎと夏目は友人だ。『ただの』友人だ。……彼の恋人や結婚について、口を出す権利など何処にもない。
「……俺が、良くない、って……言えるはず、ないでしょう。俺たちは、そんな関係じゃないはずです」
「……」
空気がやけに重たかった。沈黙が耳鳴りを起こして空気を澱ませていく。
口の中はカラカラで。夏目の一挙手一投足にひどく敏感になっていた。
「……そレ、つまリ、『良くない』って思ってル?」
「……」
「センパイ」
夏目の声が鋭く変わる。怒らせた、とは少し違う気がして。夏目の方をひたと見る。彼は苦しそうにちょっと眉をゆがめて、こちらだけを見据えていた。
「……センパイ」
今度は少し、和らいだ声。夏目が動く。つむぎの隣に来ると、ぽす、と。肩に頭を預けてくる。夏目の手が伸びてきて、つむぎの手のひらを捕まえる。
きゅ、と、細い指がつむぎの指と絡んだ。これ以上はいけない。その一線は飛び越えるべきではない。警鐘が鳴り響く頭は、早く逃げろと言っていた。
「夏目くん」
「……ネェ」
金色の瞳が、くるりと瞬いて。つむぎを見上げる。初めて見る夏目の甘えたような瞳の色。
「……、……ボクを、攫える?つむぎにいさん」
沈黙の中で、つむぎは、『──ああ、越えてしまった』と、そう思った。
最初に、その線を引いたのは夏目のほうだった。
つむぎの想いが、性愛を含む恋愛感情だと、彼はきっとつむぎより先に気づいていたのだろう。つむぎが髪を切る前に、夏目はこう言ったのだ。『ボクは恋人を作るつもりはないヨ。一生ネ』と。
それを馬鹿正直に信じたつむぎは、アイドルだからなのかな、と思っていて。そうして、数年越しに彼への恋心に気づいた時、彼から掛けられていた細い括り糸の禁則に絶望を感じたのだ。
夏目は誰のものにもならない。自分の隣を選ぶこともない。彼に性愛を込めた恋の手で触れることさえ許されない。ならば、と。
ならば、つむぎは『友人』として、彼の隣で一生を終えよう。
そう誓ったのだ。
もう、八年も前のことになる。
そうして。つむぎが夏目の恋人となることを諦め、『友人』として生きるようになって。『友人』を、逸脱しないよう、変わらないよう、変えてしまわないよう、細心の注意を払ってここまで来た。
お互いの一人暮らしの部屋に通うこともあれば、数週間話をしないこともある。そんな適切な距離感でもって、やってきたというのに、どうして。
つむぎが驚きの目で彼を見る。夏目は困ったように微笑んでいた。『趣味の悪い冗談ですね』そう笑い飛ばせばいい。わかっていた。逸脱しないためにはそれが一番だと。
でも、なぜか。口から出ていったのは全く違う言葉で。
「……夏目くんが、望むのであれば。どこへでも」
目を見開いた彼は、ちょっと傷付いたように目を伏せる。そして、くっ、と喉奥で笑った。
「センパイはサ、情けない人だネ」
「えっ?なんで俺、罵倒されたんですか?」
「分からないなんて言わせないヨ」
ああ、だめだ。それ以上は。夏目くん、君が決めた線引きでしょう。それを越えるというのか。他でもない、君が。
つむぎはおどけて空気を変えようとした。なのに夏目は許さなかった。それがきっと答えで。
どうして、なんで今更。聞きたいことは多くある。なのに、つむぎにできたことは、彼の手を握り返すことだけで。
「……ボクもヘタレたけどサ、センパイはそれ以上だヨ」
くすくすと笑いだした彼は、とろりと蕩けた甘い声を出した。にいさん、と。
「お見合いはウソ。でモ、結婚を急かされたのは本当」
「えっ」
「『早くあなたのつむぎにいさんとは結婚しないの?ああ、パートナーシップ制度を使いたくないのであれば、アメリカでもどこへでも行って結婚してきなさい』ってネ……マミィに言われたんだヨ。『あんまりにも息子がグズグズ躊躇ってるから、ヤキモキしたんだ』っテ」
あまりの情報量に、つむぎの頭は混乱していた。何の話、待ってください、誰と誰が?結婚?海外?
「フフ……分かってないとは言わせないヨ。ボクのこと、好きでしょう。ボクもあなたのことが好きだよ」
夏目がぐいっと身を乗り出した。
彼の甘い匂いが強くなる。混乱したつむぎの手を、夏目の手が強く握りしめる。
そこで初めて、彼の手のひらがかすかに震えていることに気がついた。
「夏目く──」
「ねぇ」
強い金色の瞳だ。
つむぎを捉えて離さない。
逃がしてくれない強い光。
これ以上は、友人じゃいられなくなる。
「ボクを奪って」
甘い声が、匂いが、体温が。
つむぎを侵して呑み込んでいく。
その線を越えてはいけない。
そう思うのに逃げられない。
「ボクを好きだと言って」
夏目の指先が、つむぎの頬を撫でた。至近距離。吐息が肌に触れる。
「あなた、しか。にいさんしか、いないんだよ……、──」
ああ。もう。
友人じゃいられなく、なる。
