2025~

 遠い昔のように感じてしまう。あの夢のような日々が。がむしゃらに傷つけあって許し合って、ただひたすらに恒星のように輝くことだけを見つめて駆け抜けていた、青春の日々。

「夏目くん。ただいま」
「ン? アァ、帰ってきてたんダ。おかえりなさイ」
 ダイニングキッチンで食事の用意をしていると後ろから声を掛けられた。夏目が振り返ると、そこにいたのは仕事帰りのつむぎだった。
「収録の様子はどウ?大変でショ、いつものイメージとは真反対の悪役だなんテ」
「ふふっ、そうですけど、それだけじゃありませんよ」
 料理の手を止め、彼のためにハーブティーを取りだし淹れる。テーブルの上に置いて、ついでにお茶うけにと作った疲労回復効果のある小鉢を出す。つむぎはふにゃりと顔をほころばせ、「ありがとうございます」と言いおいてから真っ先にハーブティーに手を出した。
 夏目の調理をしている賑やかな音が空間を満たす。
 昔から、二人きりの時はそんなに会話が多い方じゃなかった。誰にでもそうだけど、誰かに心を許すことがヘタクソな二人だったから会話なんてストレスにしかならなかった。
 だからこそ、二人の時間は自由に過ごす。そう予め決めていた。
 ……自分を飾って、大きく見せないといけないと思っていた昔は、まるで他人がすべて敵のように見えていた。
 大切な愛しい弟子と、このパートナーと一緒にいるうちに世界は敵じゃなくて、ただの隣人なのだと思えるようになって。
「……」
 ふ、と笑みをこぼす。
 なんだか今日のボクは懐古趣味だ。
「ご機嫌そうですね?どうしたんですか?いいことでもありました?ふふっ、かわいいですね〜」
「その一言のせいで不機嫌になったけどネ」
「ええっ?!どうして!?素直に感想を述べただけでしょう?夏目くんはいつでも可愛いんですから」
 最後に塩コショウをかけて、味を調えて。そうして出来上がった夕食をテーブルに置いて、夏目はエプロンを外して席に着いた。
「わあ~!夏目くんの手料理って本当に味も匂いもいいですよね?愛情が入ってるからこんなにおいしいんですか?」
「普通に隠し味にスパイスとかいれてるからネ。美味しくて当たり前だヨ」
 手を合わせて、ふたりでとりとめのない会話をぽつりぽつりと交わしながら静かな食卓を囲む。
 手の甲に浮いた血管だとか、目じりの皺だとか、かさついた肌だとか。昔にはなかったものが増えた。肉体的にも精神的にも、いろんなものを背負って、捨てて、拾ってきた。その先でたどり着けた生活が今だというのなら十分だと思った。
 つむぎがどう思っているかは知らないけど。ただぼんやりと、行き着く先がこの生活ならそれはきっと、悪いものじゃないはずだと思ったのだ。

 遠くからシャワーが壁や床を叩く音がかすかにしている。
 ぼうっと夏目は寝室でペンを持って考えていた。
 日記をつけるようになったのはいつからだろう。人間、いつ死ぬかわからないと思った時から、つむぎにせめて何かを残してやりたかった。
 だったら『逆先夏目が青葉つむぎと幸せな人生を歩んだ証』をあげられたら良いなと思って。書き溜めている日記はもう片手で数えられる数を超えた。
 いつか、そう遠くない未来。夏目がもう少し素直になれたら、すべてを見せてあげようと。そう思っていた。
 ──今日は何を書こう。
 ペンを持って紙に向き合って。
 つむぎとの会話をすべて思い出して、その体温だとか、匂いだとか、感触だとか、声のトーンだとか。そのすべてを残しておきたくて。
 夏目から見えているつむぎがどれだけ愛おしいのか、彼に教えるためにつまびらかにしたくて。
 ──×月●日。晴れのち雨。今日は、仕事が早く終わったとかで想定外に早く帰ってきた……
 紙面にペン先を滑らせる音と、つむぎが生活している音が混ざり合う。二人分の息遣いの音が重なって、まるで最初からふたりで生きていたみたいに同一化する。
 ボクはこの生活に、満足してるよ。あなたはどう?にいさん。
「夏目く~ん。お風呂出ましたよ~?」
「ン?アァ、わかっタ。今行くネ」
 残念。中断だ。つむぎに見られるのはまだ少し照れ臭いから、日記帳を仕舞いこんで夏目は立ち上がる。寝室にやってきたつむぎを手招きして。
「どうしたんですか?」
「ん~ン、ネェ、ちょっと屈んデ」
 不思議そうな顔をして言ったとおりに屈みこんだ彼の襟首を捕まえる。引き寄せて口付ければヘーゼルの瞳が真ん丸になった。間抜け面。
「なっ、なっ」
「フフッ……いたずら成功?」
「んもうっ!いきなりキスしないでくださいよ~!?驚いて心臓止まりますって~!!」
 騒ぎ出した、愛おしい人に笑ってしまう。今までもキスなんて数え切れないぐらいしてきたのに。この人はいつまで経ってもどこか初心(うぶ)だ。
「じゃア、お風呂入ってくるネ」
「……大丈夫ですか?手伝いましょうか」
「何。お風呂で盛るほどボクらはもう若くないんだヨ。それとも覗き見たいノ?お若いネェ」
「からかわないでくださいよ~!!心配してるのに!」
 くすくすと笑って、夏目はゆっくりと立ち上がる。脚の古傷がずきずきと痛む。
 顔をちょっとしかめて、そこに負担を掛けないように歩き出す。つむぎとの日常は、変わったことも変わらないことも、失くしたものも、決して失くすことのないものも、ぜんぶを内包して進んでいく。

▷▷

 それは星の見えないほど輝く月が浮かんだ夜だった。
 脚を壊して。もう二度とステージ上でパフォーマンスすることはできないと医者に言われて。アイドルという生き方すべてを否定された気になって、めちゃくちゃになって、苦しくて。生きてるのか死んでるのかわからなくなって。自分が今何をどう感じているのかさえわからないほどにボロボロになって。そうしてすべてをシャットアウトするように実家の部屋に引きこもっていた。
 苦しくて仕方ない。息ができてるのかわからなくて、さみしいのに誰にも自分を見られたくなくて。でも、誰かに話を聞いてほしかった。
 真っ暗な部屋の中で布団をかぶってボロボロ泣きじゃくって。マミィにも心配されてるのに、誰にもこころのうちを吐き出せなかった。
 そうして。生きることをやめる選択肢は選ばないけど、生きている意味がわからなくなった頃。
 空っぽになった自分の心の中で浮かび上がったのはただひとつ。
 ──『センパイの声が聴きたい』という願いだけだった。

 ここで彼に連絡しないともうきっと、二度と声も聞けなくなる気がして。だから夏目は時間なんて気にする余裕もなく、つむぎに深夜の二時半に電話を掛けた。きっと起きていないはずだとわかってても、止められなかった。
「ア……もしもし、センパイ」
 数コールの後、すぐに電話は繋がった。まさか起きてるなんて思わなかったから驚いて声が揺れる。つむぎの声は心配そうで、いたましそうな色が滲んでいた。
「夏目くん、ご飯は食べられてますか?眠れてますか?……寒かったり、暑かったりしていませんか?」
「センパイはボクのマミィなノ?そんなに心配しなくてもきちんと元気だヨ」
「……言ったでしょう。夏目くん」
 身を切るような声だった。
「俺には嘘つかなくていい、って。俺、君の言うことならなんだって肯定したいと思ってます。俺には君が希望ですから。でもね、君の嘘だけは……そういう、ひどい嘘だけは、どうしても許せないんです」
 まるで心の傷を、優しい手つきで撫でられてるみたいで。嗚咽が盛れた。泣きたくない。弱いところなんて見せたくない。
 でも息がゆれる。とめられない。くるしくて。嬉しくて。わけがわからなくて。ああ、なんで。なんでこんなに弱いとこばっか、センパイに。あなたには見せちゃうんだろ。なさけないな。
「ッ……センパイ、センパイ……」
「はい。夏目くん。俺は君のそばにいますよ」
「ボク……ッ、ボク、もう……アイドル、できないの……?どうして……」
 無言の沈黙だ。でも、なぜだか、優しくて、温かくて。泣きじゃくるのが止められない。
 嗚咽を漏らして喉を震わせて、夏目は慟哭するように大声で泣いた。つむぎはただ静かに寄り添うように、名前を呼んでくれて。
 そうして何分か経って。長くもあって短くもあった弱さの吐露に付き合ってくれたつむぎは、ぽつりと言葉をこぼした。
「……ねえ、夏目くん。……俺たち、結婚しませんか」
 えっ。驚いた反応は声になっていたんだろうか。
「ふふっ……男同士じゃ精々パートナー制度しか使えませんけど……でも、事実婚ぐらいはできるんじゃないですか?前から思っていたんです。ね、夏目くん。俺たち、結婚しましょう?これは思いつきじゃありませんよ……ねえ、お願いです。どうか、俺に君を……君のことを、支える権利をください」
 まるで、用意していたセリフみたいにすらすら口に出す彼は、何を考えてるのか分からなかった。でも、きっと、それは純度100パーセントの愛情からくるものだって信じられたから。夏目は応えていた。
「……ボクも、センパイのこと、好き、だかラ──」
 寂しくて、苦しくて、一人ぼっちだと泣いていた夏目をすくいあげてくれるのは、いつだってつむぎにいさんだった。
 
「なにを考えているんですか?上の空ですね?」
 ベッドの中。二人で隣合って微睡んでいると、不意につむぎの声が聞こえてきた。
「ンン……昔のことだヨ。なんだか思い出しちゃっテ」
「昔?なにかありましたっけ?」
「ボクの宝物の記憶たちのこト。……それよリ、何か話したいんだっケ?」
 横を向けばつむぎがこちらを見ていた。穏やかな視線は愛情が剥き出しで、分かりやすくて心地よくて笑ってしまう。そんな夏目の頭を撫でて彼は話し出す。
「ブルージャスミンって知ってますか?」
「どうしたノ?急な話だネ」
「いえね。お茶を貰ってきたんですよ。さっき渡したでしょう?」
「ウン。美味しそうだったよネ」
「あれ、ブルージャスミンのお茶っていうんですよ」
 眠る前のとろとろと溶けた声が鼓膜を揺らす。気だるい雰囲気と相まって、なんだか思考もゆったりと進む。
「ブルージャスミン?聞いたことないけどナァ……」
「夏目くんでも知らないことがあるんですね?」
「当たり前でショ……ボクをなんだと思ってるノ」
「夏目くんでも知らない花のお茶なんですね……飲むのが楽しみです」
 つむぎの手つきは昔から変わらない、夏目はそう思った。少し怖々しながら夏目を壊れ物を扱うみたいに触れてくる。優しい人だ。
「……昔話なんですけどね」
「何。2人してセンチメンタルする気かヨ」
「あはは……許してくださいね」
 苦笑するつむぎは目をすがめて遠くを見るような顔をした。撫でる手つきに誘われて、目をすっと閉じる。
「ありえないものでも、きちんと存在してるって許してくれる、認めてくれる。人間ってすごいですよね」
「……何の話をしてるノ」
 突拍子もない言葉に、さすがに閉じていた視界を開いた。息を呑む。
 真剣な、でも柔らかな視線が夏目を捉えていた。どきっとして、夏目は彼の手にすり寄る。ぐっと腰を抱き寄せられた。
「俺にはね……存在してなくても。誰かに見つけてもらえていなくても。そんな、空想上の……誰にも見えないものでも、『きちんと存在していい』って。……そう信じさせてくれた人が、いるんです」
 つむぎのくちびるが額に押し付けられる。くすぐったくて笑ってしまった。
「それは随分ロマンチストな人だネ」
「そうかもしれませんね。その子は、俺より夢を見るのが上手な子ですから……夏目くん。俺はね。このお茶を買ってまっさきに、君のことを思い出したんですよ」
 つむぎの手のひらを捕まえる。きゅっと握り締めれば、大きな手のひらは夏目の手を包み込んだ。夏目の左手の薬指を、太い指先が撫でる。その付け根にあるシルバーリングを慈しむように。指を絡め合う。
「ねえ、夏目くん……俺には、君がいてくれたらそれだけでいいんですよ」
 とろりとろりと、声の芯がとけていく。もう眠いんだろう。つむぎは目を閉じて、囁くように言葉を続ける。
「……あり得ないって思ってた、君との生活だってこうして叶えてくれた。俺にずっと幸せの魔法をかけ続けてくれる君がいてよかった……だから、どうか。俺の傍に居てください。……ね、おねがい、ですよ……あいしてます。愛してるんです……俺だけの、なつめちゃん……」
 一筋、涙を頬へ流していて、その表情にギョッとした。夏目が何かを言う前に、すう、と息を吸い込むとつむぎは眠りの底へ落ちてしまった。
 穏やかな寝息をたてて、胸を上下させて、瞳を閉じてまつ毛がかすかに震えている。
 ねえ、昔のボク。絶望を何度も経験した、あの頃の傷つきやすかった、柔らかな子供のボク。
 君はこんな未来を信じられた?
 こんなに、優しくて柔らかくて穏やかで、温かくてまあるい未来があるなんて、想像したことがあった?
 ──脚を怪我して、日常生活にも少し支障がある。そんなボクは、きっともうステージの上では生きられない。
 センパイのことを支えていく、そんな願いもこの脚じゃ叶えられない。日常生活さえ、満足に過ごせないんだから。まるで生きる目的を喪ったみたいな、そんな果てのない絶望と喪失感。付き纏って消えない闇だ。
 ふとした時に、どうしてボクはセンパイの隣で歌い続けられてないんだろう。そう思う時がある。
 ボクを責める声が、こころのうちから聞こえてくる。苦しくないと言えばきっと、それは嘘になる。
 それでもまだ、ボクは生きて、この人の隣にいられてる。
 ソラだって、にいさんたちだって、きちんとボクを見ていてくれる。ファンの子達だって、たまにコメンテーターとして番組に出れば声をくれるし、占い師だって続けていられてる。
 これ以上の、幸せなんてきっと、どこにもないんだ。そう言い聞かせていれば、本当になるはずだから。
 繋いだ手は温かい。そこだけがまるで、幸せの象徴で。体はゾッとするほどに冷えていたけど寒くなんてなかった。
 ねえ、つむぎにいさん。
 次はどこへ向かおうか。
 きっと僕らならどこまででも行けるよ。
 あなたとならどこまでも、いつまでも生きていけると思ったから。
 明日、起きたら朝一番に買ってきてくれたお茶を淹れてあげよう。そうしたらこの人は一体どんな顔をするかな。
『ボクを見ていてくれてありがとう。愛情を、いつまでも向けていてくれて嬉しいんだよ』
 なんて。柄にもないことを言ってしまおうかな。そうしたらあなたは、驚くのかな。笑うのかな。泣いてしまうのかな。
「……おやすみ。つむぎさん……ボクもあなたを愛してるよ」
 つむぎの手を握りしめる。
 失ったものは多く、取りこぼしたものも数え切れない。最初に見ていたたった一つの大きな夢は志半ばで折れてしまった。
 でも、この当たり前で、変わらない、特別な日常をいつまでも二人で歩んでいきたい。そう思う心だけはずっと消えることはなかった。
 睡魔に逆らわず、夏目は瞳をそっと伏せる。静かな夜のことだった。

 ──夢を見た。朝の光が差し込むリビングで、彼に青く透き通るお茶を淹れる夢だ。
 湯気の向こうにいる自分は、泣きそうな顔をして、つむぎに笑いかけていた。
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