2025~

「あの星はね、さそりの心臓なんだよ」
 連れられて行った、山奥のコテージ。満天の星を見上げた夏目ちゃんは得意げにそう言って、赤い星を指さした。
 夏目ちゃんが指し示した赤い星は、驚くほど綺麗で、強い光で輝いていて。暗闇を照らす希望のようだと思った。だから俺は「夏目ちゃんみたいな星ですね」なんて呟いてしまって。彼女を怒らせたのだ。
「夏目をさそりに例えないでよ!」
 なんてプリプリ怒る彼女を宥めるのは骨が折れた。ちっとも嫌な役割なんかじゃなくて、むしろ嬉しいとさえ思っていて、俺はそんな自分の感情がよく分からなかったのだ。
 ただ、その日見た星空の中で輝く赤い星。鮮烈な光はずっと記憶の中で輝いていて。
 その星の名前がアンタレスだということを知ったのは、彼女が引っ越してしまったあとの事だった。

「……銀河鉄道の夜」
 押し入れの奥底に眠っていた本を取り上げる。つむぎは古ぼけた表紙を指先でなぞると、タイトルをぽつりと呟いた。
 大掃除の途中のことだ。必要なものと要らないものの仕分けをしていると、押し入れの奥深くに眠る中古で買った本の山を見つけた。中身を見ていくと一冊だけ丁寧に保存されているものがあって。その本は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』だった。
「……ああ、なるほど」
 どうしてこれが丁寧に保管されていたのか。中身をペラペラとめくればさそり座について書かれている箇所で開き癖がついていて、つむぎはようやく思い出した。
 |お姫様《夏目ちゃん》を失う前の、自分の記憶を。

 それは夏の夜だった。夏目ちゃんに、「つむぎにいさんも夏目とお泊まり会しない?」と誘われ、着いて行った先のコテージで夜空を二人きりで見上げた日のこと。
「……わあ」
「すごいでしょう!都会じゃこんなにきれいな星は見えないもん」
 二人でお茶を持って、コテージの屋根裏部屋で天窓を見上げた。差し込む月光と、チカチカと瞬いているたくさんの星たち。紺青の夜空はまるでキャンバスだった。
 見蕩れるように夜空を見上げるその隣には嬉しそうに笑う大切な子がいて、きゅ、と放り出していたつむぎの手のひらを捕まえたのだ。
「ねえ、つむぎにいさん。あの赤い星が見える?」
「……あれですか?」
「そう!あの星はね、さそり座の心臓なの。燃え盛るさそりの火なんだよ〜」
「さそりの火?」
「お兄ちゃんぶるくせにそんなことも知らないの?」
 夏目ちゃんの解説は、よく分からなかったけど、ただ静かな天体を見上げて彼女のひそめられた声に耳を澄ませる。そんな穏やかな時間は永遠のようで。決して忘れないために、彼女が言っていた『銀河鉄道の夜』という言葉を必死になって覚えたんだ。
 日常に戻ってきて、夏目ちゃんが居なくなって。俺は母から気まぐれに与えられた少しのお小遣いを持って宮沢賢治の本を必死になって古本屋で探したんだ。

「……随分と懐かしいものが出てきましたね」
 さそり座のページを見返すと、あの頃の甘くて苦くてもどかしい感覚が蘇る。美しい幼少期の夢のような時間。
 ──どうか神さま。私の心をごらん下さい。
 それまで数多の命を刈ってきた蠍の独白。
 ──こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。
 最大多数の最大幸福のため、自らの体さえ差し出した哀れな蠍(化け物)。彼は『神さま』に願いを叶えてもらって、夜空を照らす灯りとなった。
 蠍の心臓は寂しく厳しい夜を照らすため、煌々と燃え盛っている。
(まるで、俺みたいですね)
 みんながしあわせになるため、命を屠った身体を使って夜空を照らす光になる。それはまるで、昔の自分のようだと……抗争時代と呼ばれるあの頃の、苦くも美しい青春のようだと。なんとなく感傷に浸ってしまう。
「センパイ?手が止まってるように見えるけド、掃除は終わったのかナ?」
「わわっ、夏目くん!?」
「……サボってたでショ。あのネェ、センパイが同棲したイ〜、って駄々をこねるからやってるのニ、当の本人は堂々とサボタージュするノ?どうかと思うヨ」
 ひょっこりと顔を覗かせたのは、夢ノ咲を卒業してどうしてだかつむぎの恋人になってくれた愛おしい子だ。夏目の姿を見るだけでなんだか幸せになれる。
 にへらっと笑って彼の方へ寄れば、夏目は呆れたとため息を吐いて困ったように微笑んだ。
「何を見てたノ」
「銀河鉄道の夜です。夏目ちゃんが教えてくれた、『さそりの心臓』ですよ」
「……何の話?」
 訝しげに眉を寄せた彼に、ああ、やっぱり覚えていないかと少し落胆する。
 きっと自分は、いつまでも過去の|一等星《かのじょ》を忘れることは出来ないのだろう。簡単に過去のものだと割り切るには、思い入れが強すぎる。
「昔にね、俺に星を見上げる楽しさを教えてくれて、星になるって夢をくれた子がいたんです」
「ヘェ。それはたいそうご立派なことデ。他人に夢を与えるなんて偽善的な匂いがするネ」
「ふふっ……君ならそういうだろうと思いました。でもね、あの子が指し示してくれた『星になる』っていう夢は俺の心臓になったんですよ」
 哀れな蠍。生きるために命を踏み荒らすことしかできなかった怪物。
「燃え盛る心臓は、『うつくしい火になって燃えてよるのやみを照らし』て、ずっと『いまでも燃えてる』んでショ。センパイの心臓にしては有能すぎるよネ」
「あはは……多分、俺の元々の心臓じゃないんだと思います」
 座り込めば隣に夏目が当たり前のように肩を並べる。その体を抱き寄せ、肩口に顔を埋めれば甘い香水の匂いが肺を満たす。
「センパイの夢なのにセンパイのものじゃないノ?」
 怪訝そうな声。おかしくなって、くすりと笑ってしまった。夏目の細いからだをもっと近くに感じたくて力を込める。
「俺に生きる意味と、夢を……『心臓』を、与えてくれたのは、君なんですよ」
 どうかこのまま、ひとつになってしまえたらいいのに。
 静かな祈りは君という星に捧げよう。俺の全てを形作る要因をくれた、大切な星に。夏目くんという|さそり《俺》の心臓に。
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