2025~
──君へのこの想いは何なのだろう。
ぱちんと電気を消す。するとすぐに部屋の中は真っ暗だ。いや、真っ暗と言うより薄暗い。カーテンが安物でぺらぺらの、薄い布切れだから外からの光は遮断しきれない。
布団にもぐりこむ。あたたかいとはお世辞にも言えないこれまた薄い布団だった。寒さもだんだんと和らいでいるから眠ることが苦痛ではなくなってきた。寒さに震えて目を覚ますことも少なくなっていて、睡眠時間は増えてきていた。
(今日も楽しかったなあ)
目を閉じて、浮かび上がるのはたった一人のころころと変わっていく表情だ。変わっていくといってもその大部分は怒りや呆れ、蔑みといった顔や卑屈そうな目なのだが。
(夏目くんと明日も会えるんだ。……うれしいなあ、俺、彼の隣にいていいなんて)
長く厳しい冬は終わる。抗争は終わったのだ。跡地は焼け野原でも、これからはきっと緑が芽吹いて花が咲く。だってそのためにつむぎたちは……英智は、傷を負っても進んできたのだから。これからの未来にはきっといいことがある。たとえそのいいことのなかに自分が含まれずとも、きっと夏目もまた立ち上がれる。だって未来は、よくなっていくと信じられる唯一のものだから。
眠りにつく前、こうして過去のことを思い出すことが増えた。夏目と再出発をすると決めたあの日からだ。どうしてだろう。過去なんて思い返しても時間の無駄なのに。どうしたって意味なんて生まれてこないのに。だって過去に戻れるわけじゃない。戻りたいとも思わない。
でも。どうしてか。夏目のことばかり思い返すのだ。夏目くんの言葉を、表情を。俺に向けられた負の感情も、他人に向けられている好意も、その他大勢に向ける失望や憎悪も。そのすべてを。すべてをつむぎは毎日思い起こす。夏目を確かめるみたいに。
(どうしてこんなに君のことばかり)
うとうとと思考が蕩けていく。融けて広がって眠りの世界へ消えていく。眠りは安寧だ。何も考えなくて済む。
「おはようございます、夏目くん!」
「……うるさイ。朝から大きな声を出さないでくれル?それにセンパイの声なんて一日の始まりから聞きたくなんてなイ」
「挨拶は大切ですよ~?きちんと挨拶を返さないと信頼さえされなくなっちゃいます」
朝。夏目がいるだろうと踏んで、登校してすぐに秘密の部屋へと足を運んだ。正解だった。そこには白衣の姿で実験をしている彼がいた。朝の清廉な空気の中、少し淀んだ地下の匂いに薬品たちの独特の香り。怪しげな煙の立っている中で彼は高揚したように目を輝かせていて、思わず声をかけるのを躊躇った。
つむぎが声をかけてしまえば、その瞳の中の輝きは濁ってしまうから。ああ、やっぱり。つむぎが挨拶をした途端に嫌そうに眉間に皺が寄って睨むように視線が尖る。綺麗だとさえ感じた彼の顔は、一気に嫌悪に歪んでしまう。ちくり、と。胸に何か刺さった気がした。一瞬のことだ。すぐに消え去った感覚は、なぜだろうと考える前に彼の言葉で忘れてしまった。
「センパイ?朝から何の用事なノ」
「ああ、いえ~、君に会いたかったので来ちゃいました…♪」
「……ボクは会いたくなんてないって言わないとわからなイ?」
夏目が呆れたというように深くため息を吐く。翳った表情。悲しいのだろうか、可哀相に。
「夏目くん?ご飯はきちんと食べましたか?苦しそうですけど、きちんと栄養は取らないと倒れちゃいますよ~?ああほら顔色も悪い」
顔色を確かめるために手を伸ばして頬に触れようとするがその前に彼がつむぎの手を振り払った。
「触るナ。センパイに気遣われるほど自己管理ができてないわけじゃないヨ」
「ええ~?そんなこといって不摂生ばかりじゃないですか」
「うるさいってバ。ほラ、もう予鈴が鳴るんじゃなイ?さっさと教室に戻ったらどウ」
「えっ、わわっ!もうそんな時間!」
どたばたと彼にまた放課後、と言いおいてつむぎは部屋を出ていく。扉を閉じる前にちらりと彼を見る。視線は合わなかった。
──夏目くんへのこの感情は、想いは、いったい何なのだろう。
お昼ご飯を食べながら考えるのは夏目のことだ。最近どうにもおかしい。寝ても覚めても彼のことばかりで、彼の姿が見えると目で追ってしまう。なんだか生活のすべてが彼のことばかりだった。今だってそう、夏目くんは何を食べているのかな、とか、そもそもきちんとご飯は食べているのかな、とか。俺がご飯を作ってあげたらどんな顔をするだろう。いらないって言われるかな、でも案外人からの好意に対しては真面目な彼のことだし文句を言いながらも食べてくれるかなとか。そうして彼の好きなおかずを知れたら、作ってあげられたら、笑ってくれるかな、俺に笑顔を見せてくれるかな。
かつんと箸が底に当たる。少ない量しか入っていないお弁当箱だ。到底物足りないけれど我慢するしかない。だって食費は切り詰めないと。
どうしたら夏目くんは喜んでくれるだろう。どうしたら俺に笑いかけてくれるだろう。昔みたいに、なつめちゃんとつむぎにいさんだったあの頃みたいに、どうしたら。
ぼんやりと窓の外を見上げる。抜けるような青空だ。鳥が一羽飛んでいて、ああ、俺にも翼があれば。そうしたら彼を連れて空を飛んで、喜ばせてあげられるのに、なんて。考えを振り切るように頭を振って読みかけの小説に手を伸ばした。
湧き上がる感情はまるでエラーやバグのようにその理由と意味が不明瞭だった。
あれから少し経ってもまだ夏目のことばかり考えている。つむぎの思考を占める大部分が夏目のことだった。そうはいっても生活を営まないといけない。だから他のこともきちんと考えている。いるのだが、どうしたって夏目くんは今、とそんなことを考えて気にしてしまう。まるで病気だ。
図書室に足を運ぶ。がらりと引き戸を開ければ本の香りがふわりと身体を包んだ。心地好い、良く慣れ親しんだもの。ほうと息をついて中へ足を踏み入れる。入ってすぐのところに展示されている今のおすすめ図書の紹介コーナー。目に飛び込んできたのは聞いたことのあるタイトルと、そのポップとして『映画化決定』の文字。へえ、この作品映画化するんだ。そういえば読んだことがなかったなと手に取った。意外と厚いページ数に驚きつつも、他に借りる小説を選ぶ。ファンタジー小説の新刊に、シリーズ物のミステリー。好きな作家の作品もいれて貸し出し手続きをして。
夏目くんはどんな本を好むんだろう。俺と趣味は合うのかな。合わなくても彼の好きな話を読んでみたい。彼の好む言葉と世界を知りたい。どうしてまた夏目くんのことを考えているんだろう。ああ、わからないな。
帰路について、Switchの方針を考えて。そうしてすぐにそういえばそろそろ一年が自己主張を始めるなと思って、それならSwitchも誰か他に人を増やしてもいいかもしれない。そんなことを自室でぼんやりと思う。鞄に手を伸ばして、パートの仕事に行っている母の代わりに家事をする前に少しだけと思いながら本を取り出す。開いた本は映画化されるというそれだ。どうやら恋愛小説──しかも大長編、らしい。これは骨が折れるかな、なんて苦笑して読み始める。
──『これは、人生のすべてをかけてもいいほどの初恋だった。』
え、と声が漏れた。びしゃんというまるで落雷に打たれたような衝撃。息が止まって、どうして、と、混乱する。この衝撃は何だ?何がそんなに驚くものだった?特に変哲のない、小説の最初の書き出し。それは読者を引き込むために特徴的な一文だったりするけど、これについてはそんなにおかしな点はない。ただの恋愛小説の域を出ない言葉だった。
驚きつつも読み進める。幼馴染だった少年少女。彼らは離れ離れになるが、その未来で再会を果たす。そうして恋をして、多角関係にそれぞれの抱える問題。そうして読んでいって、主人公の少年が気づく。
──『僕が君に抱いていた、昔の君に想っていたこの感情はきっと、初恋って呼ばれるものだったんだね』
ああ、そうか。
気付いたら本を閉じていた。瞼を閉じれば簡単に思い出せる、何度も浮かべてきた光景。なつめちゃんの笑った顔に、俺のお小言で拗ねる顔。にいさんの馬鹿、って怒った声。ダンスをきれいに完璧に踊るそのきれいな姿。くるりと振り返った時に揺れた赤い髪。オレンジがかって綺麗な金色の真ん丸な瞳。
そうか。そうだったんだ。
目で追いかけてしまっていたのは。かわいいと思っていたのは。出会った時の、椅子から転げ落ちるほどの衝撃は。胸を貫いた落雷は。
「俺、君に……」
──恋を、していたんだ。
ああ、どうしよう。家事をしながら心の中で恋という文字が踊る。きっとこれは、この衝撃は。なつめちゃんを初めて見たときこみ上げた感情は。一目惚れとか言われているものなのだろう。ああ、どうしよう、どうしたらいい?
勝手に手が動いているのに思考はずっと上の空で夏目くんのことだけを考えている。初めての恋だった。君に再会したときに言った『初恋でも一目惚れでもない』という否定は、それは嘘だったみたいだ。一目惚れだし、初恋だと思っていた恋より先に君に恋をしていた。どうしよう、俺の恋心は君には知られていない。あの時否定していてよかった。だって君に告白するのがあんな地下書庫で薬品の匂いに塗れているなんて嫌だから。
君に告白するならきっと、星空や海や、綺麗な夜景のもとがいい。記憶に残るものにしたい。俺の初恋。はじめてのひと。ねえ、好きです、夏目くん。そう言ったら君は──
「……あ、そっか」
脳裡に浮かんだ彼の表情は、嫌悪に満ち溢れていて。『恨み言を囁いてあげル。これはそういう復讐だヨ』という言葉が、彼の傷ついたような翳った目が、曲げられた口角が、全身で俺を警戒して憎悪に燃えていた姿が。よみがえった。
……俺、彼に嫌われていたんだった。
くるしいなあ、どうしてだろう。むねが痛い。呼吸がはやくなって、たまらず手を強く握りしめる。くるしい、いやだ、どうして。どうしていま、彼に恋をしていると気づいてしまったんだろう。気づかなければ。でも。君への想いに気付かないまま知らない誰かと結婚するのは嫌だ。
ねえ夏目くん。君の復讐は成功したみたいですよ。俺の傍に居てくれることで俺を苦しめてあげるって言っていたけど、本当ですね、君がそばにいてくれるっていうのに、こんなにつらいんですから。
俺の恋は叶わない。初恋は叶わないって言うけど本当だったみたいだ。
だって彼の大切な人たちを俺は斃した。恋をした相手になんてことをしたのだろう。彼を傷つけた。傷つけたなんて言葉じゃ足りないほど。
でも、せめて、俺は君を愛したい。君に俺をあげたい。これは献身だ。身を捧げて彼のために生きていくことが贖罪だ。
俺は君にすべてを捧げて尽くします。俺はどうなってもいいから、君の人生のための礎になります。それが君への償いです。君へ恋を捧げた俺のせめてもの贖罪です。俺は君を好きだ。君が大切だ。夏目くんしかいらない。でもきみはきっと俺なんて必要ない。だから、せめて。俺を使ってください。俺を使って大空へ羽ばたいてください。俺の翼は削ぎ落されたけど、でも飛び方くらいは教えてあげられるから。
ぐるぐるとお玉を回す。味噌汁は濁っていて、まるで俺の心みたいだって思って自嘲する。感傷に浸るなんてそんな資格もないだろうに。
ねえ夏目くん。
君が好きですよ。
初めての恋で一目惚れだったんです。
だからね、これはそんな愚かな俺のせめてものお手伝い。
俺は、君にすべてをあげます。
味見をした味噌汁はいつもより薄味で、ああこれじゃお母さんに文句を言われるな、なんて思ってしまった。
