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梅雨の笑顔

春歌はその場から逃げ出した。トキヤは彼女を追いかけることが出来なかった。

時は遡り数時間前。
トキヤはとあるドラマの打ち上げに来ていた。トキヤが主演を務め、主題歌も春歌作曲のトキヤが歌っているものだというドラマのクランクインが終わった。長編ドラマのため何ヶ月も前から撮影は始まっていており、その大変さから出演者たちの間には妙な友情と呼べるかわからない感情が芽生えていた。そんなメンバーだから春歌も打ち上げに呼ばれたのだ。作曲家である春歌が呼ばれるなど有り得ないことだが、トキヤのパートナーだったことから春歌も呼ばれたのだった。
「ふああ…すごいです」
「七海くん、大丈夫ですか?」
「はい、一ノ瀬さん。こういう場は初めてなので少し興奮してしまいます」
「あまりはしゃぎすぎないように」
「わかってます」
なんて和気あいあいと2人は用意された食事をとっていたのだが、トキヤは主演ということもあり、中央でどんちゃん騒ぎをしていたグループの輪に連れていかれてしまった。それを春歌は微笑ましく見ていた。そう、途中までは。
ぐでんぐでんに酔っ払った大人たちが悪ノリしない訳もなく。酒をセーブしているトキヤはシラフなのだが周りのディレクターやら監督やらがトキヤを取り囲んで騒ぎ出したのだ。
「一ノ瀬くんさぁ、好きな子とか居ないの?」
「一ノ瀬くんかっこいいからどんな子でもお持ち帰りできるんじゃないの〜?」
「というか選り取りみどりみたいな、ね?そういうことあるでしょ」
「一ノ瀬くんも男だからねぇ〜パクッと」
「やめてください、セクハラですよ」
流石のトキヤでも酔っ払った男の相手は苦手らしく顔を歪めて嫌そうにしている。そんなトキヤを春歌はのほほんと見ていた。
「一ノ瀬くんの好きな子ってだれ?」
「は?」
「一ノ瀬くんさあ、恋してるでしょ。俺わかるんだよね、こうも長年恋愛ごとに関わってくると恋した人間としてない人間が」
急に真面目なトーンで語りだした監督にトキヤが心底面倒くさそうにはあ、とやる気のない返答をした。春歌はトキヤの恋の相手、という話に耳をそばだてる。片想い中の相手が恋をしているというのだ。気にならないはずがない。
「……私は」
「もしかしてあの女優ちゃん?」
「は?」
「あ〜あの子可愛いもんねぇ、一ノ瀬くんも男だったのか」
「あの子一ノ瀬くんのこと好きでしょ?付き合えるんじゃない?」
「は、ちが…」
春歌はそれ以上その話を聞きたくなくて、その場から逃げ出すようにこっそりと出ていった。背後で「七海くん」とトキヤが呼んだような声が聞こえたが、それすらも苦痛になり駆け出して行った。

春歌が外に出ると梅雨にしては珍しく爽やかな風が頬を撫でた。会場は熱気がこもっていて暑い。火照った体を冷やすような風は心地が良かった。そして、体がクールダウンするとともに思考がいつもの春歌のそれに戻ってきてしまった。冷静になって改めてなんていうことをしてしまったのか気づく。あんな逃げるように会場を後にして、トキヤの呼びかけをも無視して自分勝手に衝動で動いてしまった。あれでは最悪春歌がトキヤのことを好きだということが聡い人にはわかるのではないだろうか。顔が青ざめ、血の気が引いた。トップアイドルの専属作曲家は彼に恋をしてしまっている、なんて。バレれば仕事に支障がきたされるだろう。それは嫌だ。トキヤの力を100%引き出せるのは自分だと言いきれる自信がある春歌は自分以外の誰にもトキヤの歌う曲を作ることを許せないでいる。それは作曲家としてのプライドと、パートナーとして付き合ってきた積み重なった時間が確固たるものにしていた。早く会場へ戻らなければ。春歌1人がいなくなったところで泥酔しているスタッフたちには気付かれないだろうが万が一せっかく呼ばれたトキヤのパートナーが不在だとトキヤの顔がたたない。
ため息がこぼれた。
不毛な初恋は思いのほか心にどっしりと居座りその想いの強さをじわじわと時間が経つごとに大きくしていた。秘めるべき感情なのに殺せないで甘んじているのは春歌の甘えなのだろうか。両頬を一回叩いて気合を入れる。「よし」と声に出して会場へ戻る決意をした。

▷▷

戻った春歌が見たものは、決して見たくないものだった。
トキヤが先程噂になっていた女優と親しげに談笑していた。

土砂降りの雨が春歌の体を打つ。親しげに会話をする二人を見てその場から春歌は動けずに立ち尽くす。二人はどこからどう見ても「お似合いのカップル」だ。可愛らしくて華奢で華のある彼女と、背が高くてかっこよくて優しい彼氏。春歌とトキヤでは釣り合わないそれがその2人だとパズルのピースがぴったりとハマるように「釣り合って」いた。そんなこと、わかっていたのだ。春歌とトキヤでは住んでいる世界が違う。例えパートナーであり、春歌の歌の魅力を100%引き出してトキヤの歌声の素晴らしさを100%引き出せるのが春歌だけだとしてもただの一作曲家とトップアイドルでは話が違う。それならば同業者であるその女優との仲を深めた方が世間体も良いし、業界でのコネも作れる。わかっていたのに、それを否定したくなる自分がいることに春歌は胸を締め付けられる。ただ勝手に想うだけで良いとケリをつけたはずだった。この恋心は殺したはずだった。それなのになぜこんなにも心が痛むのか。ふと、視線を自分より小さい女優から上へあげたトキヤと目が合う。
その瞬間、春歌はまた逃げ出してしまった。


その女優に対して思ったのは香水の香りがキツい女だということだけ。彼女はそこそこキャリアのある女優であり、ここで好い顔をしてコネを作っておけば将来的に役に立つだろうと、思って彼女に近づいたのだ。その行動で誰かが傷つくことを考えていなかった。ましてやそれが、トキヤにとって大切な人であることなど、トキヤはわかっていなかった。

彼女と目が合った時、彼女は酷く傷ついた表情で、涙が滲む瞳でその場から逃げるように走り去った。その後ろ姿をトキヤは追いかけることが出来なかった。

春歌が消えた外は真っ暗闇で大粒の雨粒が地面を叩いていた。
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