梅雨の笑顔
「七海くん」
「はい」
「話を、聞いてくれますか」
「……はい」
トキヤの住むマンションの部屋に戻った二人はまずシャワーを浴びた。春歌に最初にバスルームを使えと言ったところ案の定彼女は申し訳なさそうに拒んだ。ならば一緒に入りますか、と脅し半分で言うと大人しく入ったのだが。
春歌がシャワーを浴びている間に服を用意し、温かいココアをマグカップに注ぐ。空調を調節して冷えた体が温まるようにする。程なくしてトキヤの持つ一番小さなサイズの服を着た春歌がリビングへ来た。一番小さいサイズといっても男女の体格差のせいでダボダボでいわゆる「彼シャツ」状態なのだが彼女はわかっていないだろう。
ソファーへ腰掛けた春歌の前のテーブルにココア入りのマグカップを置き、トキヤは自分もシャワーを浴びに行った。
トキヤが戻ってくると春歌はリラックスした様子で安堵する。トキヤも春歌の座る横に座り、話を切り出した。
「私の歌には足りないものがあるらしいのです」
「……え?」
「この前言われました。お前の歌には決定的に足りないものがある、このまま技術だけで生きていけると思うなよ、と」
「一ノ瀬さんの歌は素晴らしいですよ」
「ありがとうございます。でも、ダメらしい。…足りないもの、わかりますか?」
春歌に問いかける。彼女はフルフルと首を横に振った。トキヤは目を閉じて、息を吐き、声を絞り出す。
「私に足りないもの、それは、あなたです」
「…どういう、ことですか」
「そのままの意味ですよ。私の歌に足りないものは「愛」。そして、それは1人では手に入らない。愛する者がいて初めて表現できます…ここまで言えばわかるでしょう?」
「一ノ瀬さんは、私のことが好きなんですか?」
「言わせないでください」
「…言ってくれないとわかりません」
「……好きです、あなたのことが。春歌、愛しています」
「一ノ瀬さん…」
「応えは?」
「わ、私もその…好き、です」
「良いでしょう」
そうは言ったもののトキヤの心臓は早鐘を打っていて、大きく息を吐き出す。置いていた手に春歌の手が重なった。
「一ノ瀬さん、ありがとうございます」
「……随分と嬉しそうですね」
トキヤが手を出してしまいそうになる己を必死に律しているとは知らず春歌はふにゃりと笑って握る手の力を強くした。
「だって、長年の片想いが叶ったから」
「え……?」
「へ?…あ!えっと、その、あの…い、今のなしで!」
「なしにはさせませんよ。それに、名前」
「え?」
「一ノ瀬さん、ではなくトキヤ、と呼んでください」
トキヤがそう告げると春歌は顔を赤くした。恥ずかしそうにトキヤを見るがトキヤは春歌が名前で呼ぶまで話を続けさせないというふうで春歌はしばらくどもった後、小さな消え入りそうな声でトキヤくん、と名前を呼んだ。
「よくできました」
トキヤは御褒美とばかりに春歌の頬にキスを落とす。
「っ!!そっ、それより!」
「はい?」
「足りないもの、どうやって愛だとわかったんですか?」
「ああ…それですか。少し恥ずかしいのですが、そうですね」
トキヤは春歌に問うた。1ヶ月前、トキヤがドラマの打ち上げで女優と話していたことを覚えているか、と。それに頷いた春歌にトキヤが苦々しい表情をしてその時ですよ、と目を伏せて言った。
「……えと、つまり?」
「あの女優と話してる時、ずっとあなたの顔が浮かんでいた。あなたが私たちを見て逃げ出した時、わかったんです。私の心はあなたを求めていると。そして、私の歌を完璧にするにはあなたがいなければならないと」
「……なんで言ってくれなかったんですか」
「言えるような状況では無いし、そもそも言ったところで周りには反対されるでしょう」
確かにそうだ。アイドルに恋人がいる、というのは欠陥品の烙印を押されても仕方ない事態だ。しかもその相手は芸能人ですらないのだから。矛先が「アイドルであるトキヤの恋人」に向かうであろうことは考えなくてもわかることだ。それを危惧してトキヤは春歌に想いを告げなかったのか。どこまでこの人は、優しくて残酷なのだろうと春歌は思った。
「私なら、大丈夫です」
「…しかし」
「あなたに何年恋をしてたと思ってるんですか?隠したいなら私は完璧に隠し通しますし、矢面に立つ覚悟もあります」
「ほんとうに、あなたという人は…」
トキヤが顔を手で覆いはあ、とため息を吐いた。何かおかしなことを言ってしまっただろうかと今更不安になる春歌にトキヤは泣きそうな笑顔を見せた。
「ありがとうございます。…あなたに何度救われたことか。私にはあなたがいなければダメみたいですね」
声のトーンはそれでも、とても嬉しそうで、春歌ははいっ!と返事をした。トキヤには苦笑されてしまったが。
トキヤが春歌を抱きしめる。こんなに簡単にも長年募った想いがハッピーエンドという形で終幕するとは。
窓の外から雲間から差し込む陽光が室内を照らす。厚い雲に覆われた空は明るく雲も薄くなり、ザアザア降っていた雨はいつの間にか上がっていた。
▷▷
「最近のトキヤの歌変わったよね」
「あー、ね。なんか声が甘くなったっていうか」
「わかる!めっちゃ優しくなってるよね。何かあったのかなぁ」
信号待ちをしていると制服を纏った少女たちの会話を小耳に挟んだ。トキヤのファンだろう彼女たちはキャッキャと最近変わったと世間で散々言われているトキヤの歌声について騒いでいた。春歌はそれを聞き、恥ずかしさと少しの優越感に笑みがこぼれた。
愛を知った彼のために、もっと彼の魅力を引き出せる曲を作ろうとトキヤを独り占めしている申し訳なさに背中を押され彼女たちに誓った。
信号が青に変わる。歩き出した春歌はトキヤに彼女でも出来たんじゃない?有り得ないでしょ、と笑い合う少女たちの側から離れる。この先に待つ、春歌の想い人に言ってみようか。「さっきトキヤくんの歌声が甘くなって彼女でも出来たんじゃない?って言ってた子達がいたよ」なんて。そうしたら彼はどんな顔をするだろうか。自然と足が軽くなりくすりと笑う。そのまま春歌は街の喧騒の中に消えていく。街頭のビルに貼ってある大きなテレビスクリーンの中では、ニュースキャスターが梅雨明けを宣言していた。
「はい」
「話を、聞いてくれますか」
「……はい」
トキヤの住むマンションの部屋に戻った二人はまずシャワーを浴びた。春歌に最初にバスルームを使えと言ったところ案の定彼女は申し訳なさそうに拒んだ。ならば一緒に入りますか、と脅し半分で言うと大人しく入ったのだが。
春歌がシャワーを浴びている間に服を用意し、温かいココアをマグカップに注ぐ。空調を調節して冷えた体が温まるようにする。程なくしてトキヤの持つ一番小さなサイズの服を着た春歌がリビングへ来た。一番小さいサイズといっても男女の体格差のせいでダボダボでいわゆる「彼シャツ」状態なのだが彼女はわかっていないだろう。
ソファーへ腰掛けた春歌の前のテーブルにココア入りのマグカップを置き、トキヤは自分もシャワーを浴びに行った。
トキヤが戻ってくると春歌はリラックスした様子で安堵する。トキヤも春歌の座る横に座り、話を切り出した。
「私の歌には足りないものがあるらしいのです」
「……え?」
「この前言われました。お前の歌には決定的に足りないものがある、このまま技術だけで生きていけると思うなよ、と」
「一ノ瀬さんの歌は素晴らしいですよ」
「ありがとうございます。でも、ダメらしい。…足りないもの、わかりますか?」
春歌に問いかける。彼女はフルフルと首を横に振った。トキヤは目を閉じて、息を吐き、声を絞り出す。
「私に足りないもの、それは、あなたです」
「…どういう、ことですか」
「そのままの意味ですよ。私の歌に足りないものは「愛」。そして、それは1人では手に入らない。愛する者がいて初めて表現できます…ここまで言えばわかるでしょう?」
「一ノ瀬さんは、私のことが好きなんですか?」
「言わせないでください」
「…言ってくれないとわかりません」
「……好きです、あなたのことが。春歌、愛しています」
「一ノ瀬さん…」
「応えは?」
「わ、私もその…好き、です」
「良いでしょう」
そうは言ったもののトキヤの心臓は早鐘を打っていて、大きく息を吐き出す。置いていた手に春歌の手が重なった。
「一ノ瀬さん、ありがとうございます」
「……随分と嬉しそうですね」
トキヤが手を出してしまいそうになる己を必死に律しているとは知らず春歌はふにゃりと笑って握る手の力を強くした。
「だって、長年の片想いが叶ったから」
「え……?」
「へ?…あ!えっと、その、あの…い、今のなしで!」
「なしにはさせませんよ。それに、名前」
「え?」
「一ノ瀬さん、ではなくトキヤ、と呼んでください」
トキヤがそう告げると春歌は顔を赤くした。恥ずかしそうにトキヤを見るがトキヤは春歌が名前で呼ぶまで話を続けさせないというふうで春歌はしばらくどもった後、小さな消え入りそうな声でトキヤくん、と名前を呼んだ。
「よくできました」
トキヤは御褒美とばかりに春歌の頬にキスを落とす。
「っ!!そっ、それより!」
「はい?」
「足りないもの、どうやって愛だとわかったんですか?」
「ああ…それですか。少し恥ずかしいのですが、そうですね」
トキヤは春歌に問うた。1ヶ月前、トキヤがドラマの打ち上げで女優と話していたことを覚えているか、と。それに頷いた春歌にトキヤが苦々しい表情をしてその時ですよ、と目を伏せて言った。
「……えと、つまり?」
「あの女優と話してる時、ずっとあなたの顔が浮かんでいた。あなたが私たちを見て逃げ出した時、わかったんです。私の心はあなたを求めていると。そして、私の歌を完璧にするにはあなたがいなければならないと」
「……なんで言ってくれなかったんですか」
「言えるような状況では無いし、そもそも言ったところで周りには反対されるでしょう」
確かにそうだ。アイドルに恋人がいる、というのは欠陥品の烙印を押されても仕方ない事態だ。しかもその相手は芸能人ですらないのだから。矛先が「アイドルであるトキヤの恋人」に向かうであろうことは考えなくてもわかることだ。それを危惧してトキヤは春歌に想いを告げなかったのか。どこまでこの人は、優しくて残酷なのだろうと春歌は思った。
「私なら、大丈夫です」
「…しかし」
「あなたに何年恋をしてたと思ってるんですか?隠したいなら私は完璧に隠し通しますし、矢面に立つ覚悟もあります」
「ほんとうに、あなたという人は…」
トキヤが顔を手で覆いはあ、とため息を吐いた。何かおかしなことを言ってしまっただろうかと今更不安になる春歌にトキヤは泣きそうな笑顔を見せた。
「ありがとうございます。…あなたに何度救われたことか。私にはあなたがいなければダメみたいですね」
声のトーンはそれでも、とても嬉しそうで、春歌ははいっ!と返事をした。トキヤには苦笑されてしまったが。
トキヤが春歌を抱きしめる。こんなに簡単にも長年募った想いがハッピーエンドという形で終幕するとは。
窓の外から雲間から差し込む陽光が室内を照らす。厚い雲に覆われた空は明るく雲も薄くなり、ザアザア降っていた雨はいつの間にか上がっていた。
▷▷
「最近のトキヤの歌変わったよね」
「あー、ね。なんか声が甘くなったっていうか」
「わかる!めっちゃ優しくなってるよね。何かあったのかなぁ」
信号待ちをしていると制服を纏った少女たちの会話を小耳に挟んだ。トキヤのファンだろう彼女たちはキャッキャと最近変わったと世間で散々言われているトキヤの歌声について騒いでいた。春歌はそれを聞き、恥ずかしさと少しの優越感に笑みがこぼれた。
愛を知った彼のために、もっと彼の魅力を引き出せる曲を作ろうとトキヤを独り占めしている申し訳なさに背中を押され彼女たちに誓った。
信号が青に変わる。歩き出した春歌はトキヤに彼女でも出来たんじゃない?有り得ないでしょ、と笑い合う少女たちの側から離れる。この先に待つ、春歌の想い人に言ってみようか。「さっきトキヤくんの歌声が甘くなって彼女でも出来たんじゃない?って言ってた子達がいたよ」なんて。そうしたら彼はどんな顔をするだろうか。自然と足が軽くなりくすりと笑う。そのまま春歌は街の喧騒の中に消えていく。街頭のビルに貼ってある大きなテレビスクリーンの中では、ニュースキャスターが梅雨明けを宣言していた。
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