【GG】Other
そのパン屋は、街で密かな人気となっていた。
大通りから一本入った商店街に数ヶ月前に出来た、小さなベーカリー。切り盛りしているのは褐色肌の男性店主、一人だけ。そしてその側には、言葉を話す謎のロボットーーの、頭がいた。
「それじゃあヴェノムさん、明日もよろしくね」
「はい、ありがとう御座いました」
時間的に最後の客となる婦人を一礼と共に笑顔で見送る。彼女はオープン当初から定期的に買いに来てくれる馴染みの客だ。いつもたくさんのパンを購入してくれるし、この店のパンが美味しいと周囲に評判を広め、新規の客を呼び寄せてくれる。個人経営の小さなパン屋としては、非常に有り難い存在だ。
「順調ダナ」
婦人が去って行ったのを確認し、カウンターの上に置かれているロボカイがヴェノムに声を掛ける。
「ああ、今日の売上も上々だ」
今日店に出したパンの多くは売り切れ。最近始めた焼き菓子も好評で、皆パンを買うついでで購入してくれる。オープン当初は赤字だった売上も、評判が広がっていくにつれて徐々に利益を伸ばし、最近は完全に黒字となった。商店街とはいえ、決して人通りが多いとは言えない立地での、素人のパン屋経営。それでも何とかやって行けているのは、ヴェノム自身の経営能力と、彼の作るパンの味が良いからか。
「コノ調子デ行ケバワシノぼでぃノ修復モソウ遠クナイナ」
ロボカイが上機嫌に言い、フスーッと鼻息の様に内部の熱を放出する。ベッドマンとの死闘の末、大破してしまった彼のボディは、ヴェノムが責任を持って修復すると約束した。ただ、その修復費はヴェノムが思っていたよりも遥かに掛かり、裏通りで経営する便利屋の稼ぎでは一生掛かっても直せそうになかった。そんな時に、かつての恩師からこの地で使える店の経営権を得た。最初はどうすれば良いか分からなかったが、組織に居た頃、ぼんやりと夢見ていたパン屋を始めてみようと思い、こうして街の一角に店を設ける事が出来た。恩師ーーザトーには、感謝してもしきれない。
「それで、あと幾らくらい稼げば直せるんだ?」
まだ閉店時間ではないが、流石にもう客は来ないだろう。そう思い、ヴェノムはレジの締め作業に取り掛かる。そこでふと、ロボカイのボディ修復の目標金額までの現時点での額を確認していなかった事を思い出し、彼に訊ねた。
「アー、ソウダナア。平日ノ売上ガ今日グライデ、土日ノ売上ガ大体ソノ倍ダカラ……」
チンチンチン、と。ロボカイが人間で言う脳内で金額を計算している音が聞こえる。改めて、彼の内部構造はどうなっているのだろうかとヴェノムが疑問に思っていると、店のドアベルがからんからんと音を立てた。
「いらっしゃいまーー」
まさかこの時間に客が来るとは思っておらず、ヴェノムは軽く目を見開く。しかし、閉店時間になっている訳ではない為、客は客。いつもの様に笑顔で対応しようとしてーー凍りついた。入ってきたのは長身の麗人。長い黒髪に、白い肌、真紅の眼差し。どこか人離れした雰囲気を持つその人物に、ヴェノムは覚えがあった。まさか、こんな所で再会することになるとは。
「ン? ドウシタ?」
来店した人物に対し、ヴェノムは明らかに動揺している。やって来たのは新規の客だ。男だか女だが判断し辛いが、一般人のなかではかなりの長身である。それだけでも人目を引くだろうに、見た目が整っており、どこか浮世離れした美しさがある。さて、この客がどうかしたのだろうかとロボカイは首を傾げようとしたが、パーツ不足で上手く行かない。不便な状態に少々苛立ちつつ、ロボカイはヴェノムを『透視』した。
「ナンダナンダ、オ前心拍数爆上ガリジャナイカ。知リ合イカ? 元かのトカカ?」
「そんな可愛いものではない。 ……それに『彼女』ではなく、『彼』だ」
冷静沈着なこの男にしては、珍しい。茶化す様に訊ねると、強張った声で否定の言葉が返って来た。多分、きっと、恐らく、と。ヴェノムは麗人の性別については自信なさげに付け足した。そして客人はと言うと、一度店内をきょろきょろと見渡し、やがてトレイとトングを手に取り、残り少ないパン達を見て回り始めた。
「オイ、大丈夫カ? 顔ガ青イゾ」
どんどん青褪めて行くヴェノムの様子に、普段軽口を叩くロボカイも流石に心配する。何が彼をそこまで動揺させているのか。ロボカイが興味本位で客を透視しようとしたところで、ヴェノムが口を開いた。
「……すまない、もしかしたらこのパン屋、廃業になるかもしれん」
「ナヌ!?」
突然の廃業発言に、ロボカイは驚き、思わずその場で跳ねた。せっかく軌道に乗って来たと言うのに、ここで廃業してしまうなんて。ヴェノムはまだ断言していないが、ロボカイには廃業の二文字が余りにも強烈過ぎて前の言葉が入ってきていない。
「ドウイウコトダ、説明シロ」
「……私がまだ組織に居た時だ。任務で少女を拐おうとした時に、彼と遭遇した」
それはもう何年も前の話だ。悪魔の棲む森にほど近い、小さな村。そこで、ある闇医者を組織に招き入れるための人質として、目が不自由だった少女を狙った。明らかな弱者を狙った行為は我ながら卑劣だと思ったが、当時はエディに乗っ取られたザトーを助けるために必死だった。
「人間離れした力を持っていた。あの時は他にいざこざがあってそのまま終わったが……」
だが、そこに居合わせたのが今目の前でパンを物色している人物だった。少女を助けようと、彼はヴェノムと対峙した際、素人とは思えない手練れの技を見せて来た。その動きに、ヴェノムは苦戦したのを覚えている。その後、色々あって暴走してしまったハーフギアの少女を止めたのも彼だった。予想外の騒動のお陰で有耶無耶になっていたが、当時の事をもし彼が覚えていたら、非常にまずい。
「アー、ツマリ、オ前ダッテばれタラどんぱち不可避?」
「…………」
沈黙が答えだった。そんな因縁があるとは初耳だったが。確かにこのままヴェノムの素性がばれ、誘拐犯ーー未遂だがーーだと周囲に吹聴されたら完全に詰みだ。だが口封じをしようにも勝てる見込みが無い。そも、この狭い店内で戦闘など以ての外だ。
「ダ、大丈夫ダ。前髪ナクナッタラ誰ニモ気付カレナカッタダロ? 多分あいつモーー」
「会計、良いだろうか?」
「ピエ!?」
二人での会話に夢中になり、レジ前に来ていた彼の存在に気付かなかった。頭上から降ってきた声にロボカイは思わず声を上げ、先程よりも高く跳ねて見せる。
「あ、ああ。すみません」
ヴェノムはと言うと、ロボカイの言う通り前髪を上げた状態ならばれないだろうと願いつつ、彼が持ってきたトレイを預かる。そこには、店内に残っていたパンのほとんどが乗っていた。これが馴染みの客であったなら、パンが残り少なくてすみませんと謝る所だが、実際はそれどころではない。いかにこの場をやり過ごすか。それしか頭に無かった。
「お会計、合わせて32W$になります」
「では、こちらで」
彼が持ってきたパン達は、一人で食べるには余りにも多い量だ。フランスパンにクロワッサン、チーズパン、クリームパン、エッグタルト、最近挑戦し始めたあんパン等々。残ったパンは明日に持ち越せない為、売り切れてくれる分には有り難いが、彼が何を考えているのか全く読めない。会計の金額を告げると、彼は長財布から紙幣と硬貨を取り出し、丁度ぴったりの額をコイントレーの上に乗せた。
「随分タクサン買ッタナ。オ前一人デ食ベルノカ?」
会計が終わり、ヴェノムがトレイの上のパンを紙袋に入れている間、ロボカイは不思議そうに彼に訊ねた。
「いや、自分で食べるのもあるけれど……知り合いに以前ここのパンを貰ってね。とても美味しかったから、自分で買いに来たんだ。もう少し早く来れば良かったかな。噂通り、評判のパン屋さんだったみたいだ」
「……ありがとう御座います」
紙袋は、この店で使っている一番大きいサイズ2つ分となった。小柄な女性だと抱えきれないかも知れないが、大柄な彼ならば何とか両手で持って行くことが出来るだろう。それを手渡した所で、自身のパン屋を褒められ、ヴェノムは僅かに安堵する。良かった、ばれずに済みそうだと。
だが、その安堵は彼が次に紡ぎ出した言葉によって一瞬で砕かれた。
「まあ、こんな形で貴方とまた会うとは思わなかったけれどね」
「…………ッ!」
やっぱり、覚えていた。あの時の事を。彼の台詞に、ヴェノムの緩みかかった表情は再び硬くなる。パンを大量に購入したのは、此方の油断を誘うためだったのか。
「ああ、そんな構えなくて良い。私は貴方と争いをしたい訳じゃないんだ」
「……オォ? 喧嘩ヲ売リニ来タンジャ無イノカ」
「勿論。パンを買いに来ただけだよ」
ロボカイの言葉と、ヴェノムの表情の変化を見て、彼は困った様に笑う。確かに過去に因縁はあったが、今は関係ないとばかりに頭を振り、両手に持った紙袋を抱え直した。
「貴方も、陽の当たるところに出られたんだね」
「……貴方、も?」
『あの時』のヴェノムは確かに日陰者だった。もっと言うなら、このパン屋を開業する前までそうだった。陽の当たる所に出ることが出来たのは確かだが、彼の言い方が引っかかる。どういう事なのか。訊き返すよりも先に、彼は踵を返し、店の出口に向かって歩いて行く。
「パン、また買いに来るよ。今度は、もっと早い時間にね」
また。つまり、今後も彼はこの店にパンを買いに来る。閉店間際に来たせいで、並んでいるパンが少ないのを残念に思った様だ。開店直後ならそれなりの種類を揃えているし、時間帯によっては焼き立てのパンが新たに並ぶ。彼は、それを楽しみにしていると、紙袋を抱える手の肘で器用に扉を明け、最後にヴェノムとロボカイに笑かけ、去っていった。
「オイ、生キテルカ?」
彼が出ていき、再びドアベルがからんからんと音を立てる。その音が完全に鳴り止んだ所で、ロボカイは隣に立つヴェノムに声を掛けた。
「…………心臓が止まるかと思った」
初めて正体がばれた。このパン屋を開業して数ヶ月。名義も変えず、前髪を上げただけの変装とは言えないなりで今までやって来た。思えば、それだけでばれなかったのは奇跡だったのかも知れない。やはり、分かる人には分かるのか。ザトーは完璧だと言っていたが、そんな事はなかった。もっとも、彼もヴェノムと同じで普通の人間というわけでは無さそうだったが。
「良かったじゃないか、あの客また来てくれるぞ」
「あ、ああ」
事情を未だ把握しきれていないロボカイは新規の客獲得を喜んでいる様だが、ヴェノムは素直に喜べなかった。正直、心臓に悪い。彼は上機嫌に去っていったが、もし気が変わってヴェノムの過去の悪行を周囲に言いふらす様な事になれば。パン屋経営どころではない。
「オ前ハ気ニシ過ギナンダヨ。あいつ、ソンナ悪イ奴ジャナイゾ。多分」
そうであってくれれば良いが。しばらくは、彼が店に来る度に緊張する羽目になりそうだ。
ヴェノムは深い溜息を漏らし、今度こそ締めの作業をするべくレジのボタンに手を掛けた。
大通りから一本入った商店街に数ヶ月前に出来た、小さなベーカリー。切り盛りしているのは褐色肌の男性店主、一人だけ。そしてその側には、言葉を話す謎のロボットーーの、頭がいた。
「それじゃあヴェノムさん、明日もよろしくね」
「はい、ありがとう御座いました」
時間的に最後の客となる婦人を一礼と共に笑顔で見送る。彼女はオープン当初から定期的に買いに来てくれる馴染みの客だ。いつもたくさんのパンを購入してくれるし、この店のパンが美味しいと周囲に評判を広め、新規の客を呼び寄せてくれる。個人経営の小さなパン屋としては、非常に有り難い存在だ。
「順調ダナ」
婦人が去って行ったのを確認し、カウンターの上に置かれているロボカイがヴェノムに声を掛ける。
「ああ、今日の売上も上々だ」
今日店に出したパンの多くは売り切れ。最近始めた焼き菓子も好評で、皆パンを買うついでで購入してくれる。オープン当初は赤字だった売上も、評判が広がっていくにつれて徐々に利益を伸ばし、最近は完全に黒字となった。商店街とはいえ、決して人通りが多いとは言えない立地での、素人のパン屋経営。それでも何とかやって行けているのは、ヴェノム自身の経営能力と、彼の作るパンの味が良いからか。
「コノ調子デ行ケバワシノぼでぃノ修復モソウ遠クナイナ」
ロボカイが上機嫌に言い、フスーッと鼻息の様に内部の熱を放出する。ベッドマンとの死闘の末、大破してしまった彼のボディは、ヴェノムが責任を持って修復すると約束した。ただ、その修復費はヴェノムが思っていたよりも遥かに掛かり、裏通りで経営する便利屋の稼ぎでは一生掛かっても直せそうになかった。そんな時に、かつての恩師からこの地で使える店の経営権を得た。最初はどうすれば良いか分からなかったが、組織に居た頃、ぼんやりと夢見ていたパン屋を始めてみようと思い、こうして街の一角に店を設ける事が出来た。恩師ーーザトーには、感謝してもしきれない。
「それで、あと幾らくらい稼げば直せるんだ?」
まだ閉店時間ではないが、流石にもう客は来ないだろう。そう思い、ヴェノムはレジの締め作業に取り掛かる。そこでふと、ロボカイのボディ修復の目標金額までの現時点での額を確認していなかった事を思い出し、彼に訊ねた。
「アー、ソウダナア。平日ノ売上ガ今日グライデ、土日ノ売上ガ大体ソノ倍ダカラ……」
チンチンチン、と。ロボカイが人間で言う脳内で金額を計算している音が聞こえる。改めて、彼の内部構造はどうなっているのだろうかとヴェノムが疑問に思っていると、店のドアベルがからんからんと音を立てた。
「いらっしゃいまーー」
まさかこの時間に客が来るとは思っておらず、ヴェノムは軽く目を見開く。しかし、閉店時間になっている訳ではない為、客は客。いつもの様に笑顔で対応しようとしてーー凍りついた。入ってきたのは長身の麗人。長い黒髪に、白い肌、真紅の眼差し。どこか人離れした雰囲気を持つその人物に、ヴェノムは覚えがあった。まさか、こんな所で再会することになるとは。
「ン? ドウシタ?」
来店した人物に対し、ヴェノムは明らかに動揺している。やって来たのは新規の客だ。男だか女だが判断し辛いが、一般人のなかではかなりの長身である。それだけでも人目を引くだろうに、見た目が整っており、どこか浮世離れした美しさがある。さて、この客がどうかしたのだろうかとロボカイは首を傾げようとしたが、パーツ不足で上手く行かない。不便な状態に少々苛立ちつつ、ロボカイはヴェノムを『透視』した。
「ナンダナンダ、オ前心拍数爆上ガリジャナイカ。知リ合イカ? 元かのトカカ?」
「そんな可愛いものではない。 ……それに『彼女』ではなく、『彼』だ」
冷静沈着なこの男にしては、珍しい。茶化す様に訊ねると、強張った声で否定の言葉が返って来た。多分、きっと、恐らく、と。ヴェノムは麗人の性別については自信なさげに付け足した。そして客人はと言うと、一度店内をきょろきょろと見渡し、やがてトレイとトングを手に取り、残り少ないパン達を見て回り始めた。
「オイ、大丈夫カ? 顔ガ青イゾ」
どんどん青褪めて行くヴェノムの様子に、普段軽口を叩くロボカイも流石に心配する。何が彼をそこまで動揺させているのか。ロボカイが興味本位で客を透視しようとしたところで、ヴェノムが口を開いた。
「……すまない、もしかしたらこのパン屋、廃業になるかもしれん」
「ナヌ!?」
突然の廃業発言に、ロボカイは驚き、思わずその場で跳ねた。せっかく軌道に乗って来たと言うのに、ここで廃業してしまうなんて。ヴェノムはまだ断言していないが、ロボカイには廃業の二文字が余りにも強烈過ぎて前の言葉が入ってきていない。
「ドウイウコトダ、説明シロ」
「……私がまだ組織に居た時だ。任務で少女を拐おうとした時に、彼と遭遇した」
それはもう何年も前の話だ。悪魔の棲む森にほど近い、小さな村。そこで、ある闇医者を組織に招き入れるための人質として、目が不自由だった少女を狙った。明らかな弱者を狙った行為は我ながら卑劣だと思ったが、当時はエディに乗っ取られたザトーを助けるために必死だった。
「人間離れした力を持っていた。あの時は他にいざこざがあってそのまま終わったが……」
だが、そこに居合わせたのが今目の前でパンを物色している人物だった。少女を助けようと、彼はヴェノムと対峙した際、素人とは思えない手練れの技を見せて来た。その動きに、ヴェノムは苦戦したのを覚えている。その後、色々あって暴走してしまったハーフギアの少女を止めたのも彼だった。予想外の騒動のお陰で有耶無耶になっていたが、当時の事をもし彼が覚えていたら、非常にまずい。
「アー、ツマリ、オ前ダッテばれタラどんぱち不可避?」
「…………」
沈黙が答えだった。そんな因縁があるとは初耳だったが。確かにこのままヴェノムの素性がばれ、誘拐犯ーー未遂だがーーだと周囲に吹聴されたら完全に詰みだ。だが口封じをしようにも勝てる見込みが無い。そも、この狭い店内で戦闘など以ての外だ。
「ダ、大丈夫ダ。前髪ナクナッタラ誰ニモ気付カレナカッタダロ? 多分あいつモーー」
「会計、良いだろうか?」
「ピエ!?」
二人での会話に夢中になり、レジ前に来ていた彼の存在に気付かなかった。頭上から降ってきた声にロボカイは思わず声を上げ、先程よりも高く跳ねて見せる。
「あ、ああ。すみません」
ヴェノムはと言うと、ロボカイの言う通り前髪を上げた状態ならばれないだろうと願いつつ、彼が持ってきたトレイを預かる。そこには、店内に残っていたパンのほとんどが乗っていた。これが馴染みの客であったなら、パンが残り少なくてすみませんと謝る所だが、実際はそれどころではない。いかにこの場をやり過ごすか。それしか頭に無かった。
「お会計、合わせて32W$になります」
「では、こちらで」
彼が持ってきたパン達は、一人で食べるには余りにも多い量だ。フランスパンにクロワッサン、チーズパン、クリームパン、エッグタルト、最近挑戦し始めたあんパン等々。残ったパンは明日に持ち越せない為、売り切れてくれる分には有り難いが、彼が何を考えているのか全く読めない。会計の金額を告げると、彼は長財布から紙幣と硬貨を取り出し、丁度ぴったりの額をコイントレーの上に乗せた。
「随分タクサン買ッタナ。オ前一人デ食ベルノカ?」
会計が終わり、ヴェノムがトレイの上のパンを紙袋に入れている間、ロボカイは不思議そうに彼に訊ねた。
「いや、自分で食べるのもあるけれど……知り合いに以前ここのパンを貰ってね。とても美味しかったから、自分で買いに来たんだ。もう少し早く来れば良かったかな。噂通り、評判のパン屋さんだったみたいだ」
「……ありがとう御座います」
紙袋は、この店で使っている一番大きいサイズ2つ分となった。小柄な女性だと抱えきれないかも知れないが、大柄な彼ならば何とか両手で持って行くことが出来るだろう。それを手渡した所で、自身のパン屋を褒められ、ヴェノムは僅かに安堵する。良かった、ばれずに済みそうだと。
だが、その安堵は彼が次に紡ぎ出した言葉によって一瞬で砕かれた。
「まあ、こんな形で貴方とまた会うとは思わなかったけれどね」
「…………ッ!」
やっぱり、覚えていた。あの時の事を。彼の台詞に、ヴェノムの緩みかかった表情は再び硬くなる。パンを大量に購入したのは、此方の油断を誘うためだったのか。
「ああ、そんな構えなくて良い。私は貴方と争いをしたい訳じゃないんだ」
「……オォ? 喧嘩ヲ売リニ来タンジャ無イノカ」
「勿論。パンを買いに来ただけだよ」
ロボカイの言葉と、ヴェノムの表情の変化を見て、彼は困った様に笑う。確かに過去に因縁はあったが、今は関係ないとばかりに頭を振り、両手に持った紙袋を抱え直した。
「貴方も、陽の当たるところに出られたんだね」
「……貴方、も?」
『あの時』のヴェノムは確かに日陰者だった。もっと言うなら、このパン屋を開業する前までそうだった。陽の当たる所に出ることが出来たのは確かだが、彼の言い方が引っかかる。どういう事なのか。訊き返すよりも先に、彼は踵を返し、店の出口に向かって歩いて行く。
「パン、また買いに来るよ。今度は、もっと早い時間にね」
また。つまり、今後も彼はこの店にパンを買いに来る。閉店間際に来たせいで、並んでいるパンが少ないのを残念に思った様だ。開店直後ならそれなりの種類を揃えているし、時間帯によっては焼き立てのパンが新たに並ぶ。彼は、それを楽しみにしていると、紙袋を抱える手の肘で器用に扉を明け、最後にヴェノムとロボカイに笑かけ、去っていった。
「オイ、生キテルカ?」
彼が出ていき、再びドアベルがからんからんと音を立てる。その音が完全に鳴り止んだ所で、ロボカイは隣に立つヴェノムに声を掛けた。
「…………心臓が止まるかと思った」
初めて正体がばれた。このパン屋を開業して数ヶ月。名義も変えず、前髪を上げただけの変装とは言えないなりで今までやって来た。思えば、それだけでばれなかったのは奇跡だったのかも知れない。やはり、分かる人には分かるのか。ザトーは完璧だと言っていたが、そんな事はなかった。もっとも、彼もヴェノムと同じで普通の人間というわけでは無さそうだったが。
「良かったじゃないか、あの客また来てくれるぞ」
「あ、ああ」
事情を未だ把握しきれていないロボカイは新規の客獲得を喜んでいる様だが、ヴェノムは素直に喜べなかった。正直、心臓に悪い。彼は上機嫌に去っていったが、もし気が変わってヴェノムの過去の悪行を周囲に言いふらす様な事になれば。パン屋経営どころではない。
「オ前ハ気ニシ過ギナンダヨ。あいつ、ソンナ悪イ奴ジャナイゾ。多分」
そうであってくれれば良いが。しばらくは、彼が店に来る度に緊張する羽目になりそうだ。
ヴェノムは深い溜息を漏らし、今度こそ締めの作業をするべくレジのボタンに手を掛けた。
