【GG】Asuka×Chaos
月の無い寒空の下。卑猥な水音と、乾いた音が同時に響き渡る。
荒れ果てた大地に二人きり。身動きの取れない飛鳥の上に、彼女は跨がって腰を揺らしていた。
「ああほら、分かるかい? 君の先っぽが、僕の奥深いところまで届いてる」
熱を孕んだ甘ったるい声が耳元で聞こえる。拒絶したいのに体が思うように動かず、軽く身じろぎするだけに止まってしまう。
飛鳥の熱芯は彼女の奥深くに到達し、肉厚な入口を先端で何度も叩いていた。その度に彼女の内壁は蠢き、飛鳥自身を強く締め付けた。
「ここで射精すれば、僕は君の子を孕んでしまうかもしれないよ?」
恐ろしく、悍ましい言葉だった。そんな事、あってはならない。あってなるものか。
嫌です。やめて下さい。放して下さい。必死になって懇願するも、己の意思に反して下半身は明確な反応を示していた。
やがて膨張した熱芯はずくりと脈打ち、彼女の子宮内(なか)に欲望に塗れた白濁を吐き出した。
「ーーーー」
絶頂の瞬間、彼女は恍惚とした表情で飛鳥を見下ろしていた。
***
「……ーーっ!」
声にならない悲鳴を上げ、飛鳥は覚醒した。
どうやら作業用の机でうたた寝をしていたらしく、目の前には開いたままの本とノート、羽ペンが無造作に転がっている。
「……また、か」
状況を把握し、飛鳥は片手で顔を覆いながら深い溜息を吐く。
最悪な目覚めだった。あの日ーーケイオスに襲われ、無理矢理セックスをさせられた日から、飛鳥は何度もその時の夢を見た。女性の体になったケイオスが飛鳥に跨がり、淫らに腰を揺らす。嫌だと言っても退いてくれず、精を搾り取るように飛鳥を絶頂へ導く。
行為だけならまだ耐えられたが、その時に囁かれた言葉が飛鳥の脳裏にこびり付いて離れない。孕んでしまうかもしれない。ケイオスが、飛鳥の子を。嫌悪を感じずにはいられない言葉だった。
「…………」
想像するだけでも目眩がし、吐き気がこみ上げてくる。慈悲なき啓示によって狂い、豹変してしまった、尊敬していた師のなれの果て。最早ヒトではない、異形の存在となった師と己の遺伝子が交わり、融合して、新たな生命となる。どう考えても、世界の理に反していた。決して許される事ではない。
自らのバックアップであるR#には以前倫理観が破綻していると言われたが、どうやらまだ完全に破綻しているわけでは無さそうだ。普段の飛鳥であれば、人知を超えた存在との間に子孫は残せるのか、興味を持つだろう。自らを被検体にすることも厭わず、検証を始めようとする筈だ。そうならないのは、飛鳥の中で無意識の内にブレーキが働いているからか。あるいは飛鳥の行動を諫め、咎めてくれるR#の存在があるからか。
「……、ラジオの時間か」
壁に掛けられている時計の針が示す時刻に気付き、先ほどのものより幾らか浅い溜息を零す。気分は優れないが、日課のラジオを中止するわけには行かない。世界平和の実現のためにも、透明な数字は必ず発信しなければならない。
ひとまず、思考を切り替えようと。飛鳥は両手で自らの頬を軽く叩き、椅子から立ち上がった。
***
「飛鳥、大丈夫かい? 最近顔色が良くないようだけれど」
その日のラジオ放送を終え、就寝の準備をしていた時だった。
飛鳥は地上の調査から帰還したR#に声を掛けられた。
「ああ、少し寝不足でね。眠りが浅いと言うか……睡眠の質が良くないみたいだ」
心配そうに訊ねてくるR#に対し、飛鳥は困ったような笑みを浮かべながら返した。嘘は言っていない。ただ、ありのままの事実を伝えるのは気が引けた。
「その原因に心当たりは?」
「うーん……無いと言えば嘘になるけど、上手く言葉に出来ないな」
睡眠の質が悪いという事は、何かしらの要因がある。R#はそう思ったのだろう。真っ先に浮かぶのはストレスだ。しかし地上を離れ、月でR#と二人きりで暮らしている飛鳥がどうすればストレスを感じるのか。少なくとも、月での生活はそれなりに快適で、困り事も特に無い。R#の存在がストレスと言われてしまえば何も言えないが、今の飛鳥の様子を見る限り、その線は無さそうだ。
数秒の間に思考を巡らせ、やがてR#は一つの可能性に行き着き、飛鳥に訊ねた。
「……師匠絡みかい?」
R#の言葉に飛鳥は思わず固まった。一瞬、心を見透かされたのかと思った。ずくり、と。心臓が嫌な音を立て、咄嗟に片手で拳を作り、胸を押さえた。
それを見たR#が僅かに眉を顰める。動揺を悟られてしまったようだ。飛鳥はしまった、と思ったが後の祭りだ。もう誤魔化すことは出来ない。
「……はは、君は僕と違って察しが良いね。その通りだよ」
R#の指摘に苦笑し、飛鳥は降参だとばかりに両手を軽く掲げて見せる。それに対しR#は何も言わず、苦い表情のまま彼を見詰めた。
「最近、師匠が夢に出て来るんだ」
「夢に?」
「うん。直接干渉されているわけじゃなさそうなんだけど……」
飛鳥はR#に事情を簡潔に説明した。具体的な夢の内容は流石に伏せたが、ここ数週間、頻繁に師であるケイオスが夢に出て来ることを伝えた。
飛鳥の話を黙って聞いていたR#は、飛鳥が話し終えると眉間に深い皺を刻んで見せた。
「本当に、厄介な人だね。やっぱりストレンジレットで消滅させておけば良かったか……」
万能の力を有しているが、決して完璧な存在では無い。彼をこの世界から抹消する術はいくつか存在し、飛鳥もR#もそれを知っている。今はまだ大人しいが、いつか再び、彼が世界の脅威となる日が来た時のために。二人で対策を考え、実行できるレベルにまで整えた。
「何かあったら言ってくれ。すぐに飛んで行くから」
「ありがとう。そうならない事を祈りたいけどね」
R#の気遣いは有り難いが、同時に心苦しくもあった。彼はケイオスのことを嫌っている。飛鳥がケイオスのことで悩んでいるのに対し、どう思っているか。人間関係において察しの悪さに定評のある飛鳥であっても、想像するのは容易い。
下手をすればケイオスの所へ殴り込みに行きかねない。飛鳥のバックアップであるR#の強さは語るまでもない。彼とケイオスが本気でぶつかれば、良くて大陸が一つ。最悪星が一つ。この宇宙から消えることになるだろう。また、互いに無傷で済むとは思えない。
どうか、そのような事態にはなりませんように。飛鳥は内心で祈りつつ、R#との会話を切り上げ、部屋を後にした。
***
その日の夜。
飛鳥の夢の中に、またしてもケイオスは現れた。
「ねえねえ飛鳥くん聞いて、『出来ちゃった』」
動けない飛鳥の上に跨がり、見下ろして来る。いつも何か企んでいるような胡散臭い笑みを浮かべているが、今回はどこか嬉しそうに笑っていた。
「何がです?」
「君との子が」
「……は?」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。否、無意識の内に理解するのを拒絶した。
「いやあ、驚いたね。まさか本当に君の子を孕んじゃうなんて」
心当たりはある。まさか、あの時の行為で受胎したと言うのか。
ぞわり、と。全身が総毛立つ。師匠の中に射精(だ)したのは一度だけだ。だが、確率は高くなくとも、あり得ない事ではない。
ただ、最早ヒトではない、神に等しき存在となっているケイオスが妊娠するとは。それも、己との行為によって。
自らの下腹部を撫でながら言うケイオスに対し、返す言葉が見つからない。何と言えば良いのか分からなかった。世間一般ではこの場合おめでとう御座います、と言うべきなのだろう。だが、今のこの状況では違う気がする。大体、原因となった性行為はケイオスによって無理矢理させられたものだ。飛鳥が望んだものではない。お悔やみ申し上げますと言った方が合うような気さえする。
ーー……本当に?
混乱する思考を何とか纏めようとして、頭の中に声が響いた。本当に飛鳥はケイオスと繋がることを望まなかったのか。子供が欲しいと思わなかったのか。そもそもケイオスのことを恋愛対象として見ていたのか、どうなのか。
ーー心の奥底では、欲しいと思ったのではないか?
声の主は一体誰なのか。飛鳥には分からない。
ただ頭の中に響く声は酷く耳障りで、物理的に塞いでも無意味であると分かっていても耳を塞ぎたくなった。違う。望んでなどいない。欲していない。
世界を破滅寸前にまで追い込んだ、許されざる存在。偉大なる魔法使いのなれの果て。日頃から倫理観が破綻していると言われている飛鳥でも分かる。飛鳥も、ケイオスも、咎を背負いし者だ。愛し合い、結ばれ、まぐわって、子孫を残す。本来ならば人間が享受して当たり前な権利を、幸福を。有してはいけないのだ。
ーーでは何故、あの時に拒絶しなかった?
違う。
しなかったのではない。出来なかったのだ。あの時飛鳥は負傷し、動けなかった。それを良い事に、ケイオスは無理矢理飛鳥の上に跨がって精を搾り取った。
「…………違う、んだ……あれは、違う……」
不可抗力だ。心の中で叫んでも、声はもう聞こえなくなっていた。
目の前にいたケイオスの姿もまた、何処かへ消え去っていた。
「間違いだ……きっと、何かの……まちがい……」
残された飛鳥は一人、掠れた声で何度も否定の言葉を紡ぎ続けた。
***
それからケイオスは毎晩飛鳥の夢に出てくるようになった。
「見て、少しずつ大きくなって来てる」
寝そべった体勢の飛鳥の上にケイオスが跨がり、見下ろしている。
その腹部が以前見たときよりも膨らんでいるのが分かった。咄嗟に払いのけようとしたが、体が金縛りにあったように動かない。
「出産ってさ、生き物の……ヒトの神秘だと思わないかい? 二人が愛し合うことで、新しい命を生み出すんだ。どちらか片方だけでは決して出来ない。陳腐な言葉を使えば愛の共同作業って事になるね」
「……貴方を、愛したつもりは」
「嘘。それなら何であの時ココが反応したんだい?」
つ、と。ケイオスの手が飛鳥の股間に伸び、衣服の上からその中心を撫で上げる。夢の中なのに体は現実と同じようにびくりと震え、飛鳥は思わず息を呑んだ。
「ふふ。君と僕の子なら、きっと聡明な子になるんだろうなあ。見た目は君に似た方が良いね。色白で、綺麗な金色の目で……ああでも、性格は僕に似た方が良いかもしれないね? 人とのコミュニケーションは良好な方が良い」
聞きたくなかった。耳を塞ぎたかった。恍惚とした表情で訊ねて来るケイオスを、今すぐ視界から消したかった。夢であると、分かっているはずなのに心臓が恐ろしいほどの早鐘を打っている。苦しくて息が詰まりそうだ。
「ああ、楽しみだね。君と僕の子が誕生する瞬間、見届けて欲しいなあ」
飛鳥の心の叫びが届いたのか、否か。ケイオスは上機嫌な様子でそれだけ言うと、やがて霧の様にその場からかき消えた。
***
ケイオスが夢に現れるのを恐れた飛鳥は、あらゆる手段を試した。
深い眠りに就けば夢を見ないかもしれない。薬を飲めば良いかもしれない。脳に直接干渉されている可能性を考え、寝る際は結界の中にすれば良いかもしれない。
睡眠の質が悪いのがいけないのか、それならばと寝具も一新した。あてになるかは分からないが風水に倣い、部屋の場所や方角にも配慮した。とにかく、あのケイオスとの関わりを絶ちたかった。
現実世界で手を尽くした。やれることはやった。エビデンスのあるものから、眉唾ものな民間療法まで。
ーーそれでも、ケイオスは夢の中に現れた。
それは何度目の夢だったか。
「あはっ、飛鳥くん見て見て。大分大きくなったでしょ? そろそろ生まれるんじゃないかなあ……ねえ、触ってみてよ」
飛鳥の前に現れたケイオスの腹部は、今までにない程大きく膨らんでいた。普通の妊婦で言うならば、臨月を迎えた辺りか。
答えを待たずにケイオスは飛鳥の手を取り、自らの腹部に押し当てる。掌を通して、ケイオスの中で「何か」が蠢いた気がした。
その感覚に思わず手を引きたくなったが、ケイオスの手の力が強く、振りほどくことができない。夢の中なのに、脈打つ感覚と肌のぬくもりがいやにリアルに感じた。
「ほら、今動いたの分かる? 男の子か女の子か、調べようと思えば簡単に出来るんだけどさ。せっかくだから生まれるまで待ってみようと思って」
「…………」
「飛鳥くん、ちゃんと子育て出来るかなあ。まあ、昔の僕もそういうのと縁が無かったから、どうすれば良いか分かってないんだけどさ。でもそういうのをお互い模索しながら育てて行くのも悪くないと思うよ」
「……ーーっ!」
耐えられなかった。
ケイオスが愛おしそうにもう片方の手で自らの腹部を撫で摩る姿を見ているだけで、気がおかしくなりそうだった。
どうして、どうして。師匠は己にそんな姿を見せて来るのだろうか。
この夢にケイオス本人が本当に干渉しているかは分からない。けれど、今の飛鳥にはもうどうでも良かった。
俯き、長い溜息を吐く。震える手を強く握り、唇を噛みしめた。
「……飛鳥くん?」
飛鳥の異変に気付いたケイオスが声を掛けてくる。
気付けば、飛鳥の手には『本』と一体化した杖が握られていた。何を、と。ケイオスが口を開き掛けるが、その先の言葉が紡がれる事は無かった。
飛鳥が声にならない、悲鳴とも叫びとも取れぬ声を上げた次の瞬間、二人の目の前に閃光が弾けた。
***
気付けば、周囲に赤い世界が広がっていた。
呼吸が上手く出来ず、息苦しい。噎せ返るような血の臭いが僅かな呼吸から体内に入り込み、飛鳥は思わず口元を片手で覆った。
足下を見れば、血だまりのなかに仰向けで倒れるケイオスが居た。彼女は意識を失っているのか、ぴくりとも動かない。不死身の体であるため、死んではいない筈だが、どれほどの『ダメージ』を受けているのか分からない。
杖を握った飛鳥は、目の前のケイオスに向けて様々な魔法を放った。とにかく目の前から、視界から存在を抹消したかった。手加減などする余裕もなく、あらゆる属性の魔法がケイオスに襲いかかった。
ケイオスがそれに対し、どれほど抵抗したかは分からない。覚えていない。ただただ、飛鳥は必死だった。
「……師匠」
杖を手放し、ケイオスの前に座り込む。顔は乱れた髪で隠れて良く見えない。全身に飛鳥の魔法によって受けた火傷や凍傷、裂傷があり、無事である箇所を見つけるのが困難な状態だった。特に腹部には風の刃が当たったのだろう。端から端まで深く切り裂かれて、夥しい量の血が溢れ、今も地面に広がっていた。
「…………」
裂けている腹部に、迷いなく自らの手を突っ込む。大きく開いた傷口は難なく飛鳥の手を受け入れ、奥にある『それ』に容易に触れることが出来た。
まだ温かな体内の熱が、手袋越しに伝わってくる。どうしてそんなことをしているのか、飛鳥には分からなかった。
ただ、その中にあるモノを見れば、胸の内にある蟠りが解消されるような気がして。飛鳥はケイオスの体内で触れた物体を掴むと、一度深呼吸をし、ゆっくりと外へ引きずり出した。
「……ーーッ!?」
そこから出てきたのは、飛鳥が想像していたモノではなかった。
腹部の膨らみから、その中には己とケイオスの間に出来た赤子が居るものだと思っていた。 しかし、ケイオスの胎内に赤子は居なかった。
否、そもそもヒトの形をしていなかった。
ケイオスの中から引きずり出されたそれは赤黒い物体だった。血と、良く分からない体液に塗れた肉の塊。最早生き物なのか、生き物だったのかも分からぬグロテスクな形状だった。
「う、ぁ……」
ーーこれは何だ?
肉塊を視認した瞬間、飛鳥は混乱した。生物学に関しては人並み以上の知識があるつもりだが、こんなものがヒトの胎内に出来るなんて聞いたことが無い。
ケイオスが受胎し、その腹の中で問題なく成長していたならば、このような肉塊にはならないはずだ。
そもそも、ケイオスにヒトと同じ生殖機能があったのか。混乱する頭で必死に考えを巡らせてみるも、答えは見つからない。ただ言えるのは、飛鳥の手中にある物体は間違いなく生き物ではないという事だった。
脈打っている様に見えるのは気のせいだろうか。とにかく、生き物ではないこれを何と表現すれば良いのか、飛鳥には分からなかった。まるで己の内に宿る、どす黒い欲望や感情のようなーー
「……、え?」
そこまで考えて、飛鳥は思わず声を上げた。
これはーー自分の欲望の塊か。
師匠の中に宿した、浅ましい慾。
無意識の内に隠し、蓋をし、秘めていた筈のもの。遠い昔、まだケイオスが第一の男と呼ばれていた頃より、飛鳥は彼のことを想い、慕っていた。
愛おしいと、思ったつもりは無い。あくまでも師匠に向けていたのは尊敬や親愛だ。そも、当時の飛鳥には恋愛がどういうものなのか分からなかった。
そう、師匠を『そういう目』で見たことは一度としてない。無いはずなのだ。
「あ、あぁ……」
ぎょろり、と。肉塊に無いはずの目玉が飛鳥を見詰めてきたような気がした。
その見えない視線を感じた瞬間、飛鳥の中にそれまで見て見ぬふりをして来た感情が怒濤の勢いで流れ込んで来る。
「あぁあああああああああああああ゛ああぁああァッ!」
欲しかった。確かに自分はあの時師匠が欲しかった。
第一の男、救世主、現人神、人々の希望の星ーーそう呼ばれ、崇められていた師匠は憧れの存在であり、同時に飛鳥の心をかき乱す存在だった。
自分のモノにしたいと思った。人類を救う師を、自分だけのモノにしたいと思った。
でもそれは、叶わない事だった。許されない事だった。分かっていても、内から湧き上がる欲は留まることを知らなかった。
だから、自ら感情に蓋をして、心の奥底に封印した。
その封印を解いたのは、ケイオスなのか、師に翻弄された己自身なのか。飛鳥には分からなかった。
「ーーーーっ!」
そうして、声にならない悲鳴と共に。飛鳥の世界は闇に呑まれた。
***
「……か、飛鳥ッ!」
「……ーーっ!?」
自らの名を呼ぶ声で意識が戻った。
顔を上げると、心配そうに覗き込んでくるR#がいた。彼の手が、飛鳥の肩を掴んでいる。強く揺さぶっていたのだろう。その手には未だ力が込められていた。
「大丈夫かい? 大分魘されていたようだけれど……」
気付けば肩で息をしていた。呼吸が苦しくなるような姿勢で寝ていたわけではないのに、肺が酸素を求めている。
「また、師匠の夢を?」
「…………」
答えられるはずがなく、沈黙する。代わりに片手で顔面を覆い、深い溜息を漏らした。
それを見たR#は僅かに顔を歪め、とりあえず体温や脈を確認しようと彼の身に触れる。これはもう誤魔化しが利かない。返す言葉に悩み沈黙するも、その沈黙が答えとなってR#に伝わった。
「呼吸と……バイタルの乱れが酷いな。どうする? 鎮静剤を持ってこようか?」
「……いや、大丈夫」
R#の気遣いに感謝しつつ、飛鳥は緩く頭を振った。正直全く大丈夫ではないのだが、夢の内容をR#に話すことは出来なかった。
「変な姿勢で寝ていたせいかな……ちょっと夢見が悪かったみたいだ」
「……本当にちょっとで済むような夢見だったのかい?」
「はっきりそうだとは言えないけれど……大丈夫だよ、ありがとう」
現実の世界に引き戻してくれたR#には感謝しかなかった。あのまま夢を見続けていたらどうなっていたか。想像するだけでもぞっとする。
R#は不服そうな面持ちで飛鳥を見詰めているが、これは自分と師匠の問題だ。たとえバックアップであるR#であっても、干渉されたくない。知られたくない。
飛鳥はぎこちない笑みを浮かべつつ、無理やり話を切り上げた。取り敢えず、夢のことは忘れよう。次に眠るのがいつになるのかは分からないが、あれだけ酷い夢を見てしまえば、これ以上恐れるものはもう何も無いような気がする。こういうのは、開き直ってしまった方が勝ちなのだ。
半ば強引に自らを納得させ、それまで座っていた椅子から立ち上がろうとした、その時だった。
「飛鳥くーん、久しぶり。元気してた?」
「……ッ!?」
聞き慣れた声が耳に届く。今この場で、最も聞きたくない声。会いたくない存在。
ぞっとした。嫌な汗が全身の穴という穴から溢れ出し、悪寒が走った。
まさか、まさか、まさかーー
「……し、しょう……?」
声のした方を恐る恐る振り向くと、いつか飛鳥を襲った時と同じーー女性の姿となったケイオスが笑顔で手を振りながら立っていた。
荒れ果てた大地に二人きり。身動きの取れない飛鳥の上に、彼女は跨がって腰を揺らしていた。
「ああほら、分かるかい? 君の先っぽが、僕の奥深いところまで届いてる」
熱を孕んだ甘ったるい声が耳元で聞こえる。拒絶したいのに体が思うように動かず、軽く身じろぎするだけに止まってしまう。
飛鳥の熱芯は彼女の奥深くに到達し、肉厚な入口を先端で何度も叩いていた。その度に彼女の内壁は蠢き、飛鳥自身を強く締め付けた。
「ここで射精すれば、僕は君の子を孕んでしまうかもしれないよ?」
恐ろしく、悍ましい言葉だった。そんな事、あってはならない。あってなるものか。
嫌です。やめて下さい。放して下さい。必死になって懇願するも、己の意思に反して下半身は明確な反応を示していた。
やがて膨張した熱芯はずくりと脈打ち、彼女の子宮内(なか)に欲望に塗れた白濁を吐き出した。
「ーーーー」
絶頂の瞬間、彼女は恍惚とした表情で飛鳥を見下ろしていた。
***
「……ーーっ!」
声にならない悲鳴を上げ、飛鳥は覚醒した。
どうやら作業用の机でうたた寝をしていたらしく、目の前には開いたままの本とノート、羽ペンが無造作に転がっている。
「……また、か」
状況を把握し、飛鳥は片手で顔を覆いながら深い溜息を吐く。
最悪な目覚めだった。あの日ーーケイオスに襲われ、無理矢理セックスをさせられた日から、飛鳥は何度もその時の夢を見た。女性の体になったケイオスが飛鳥に跨がり、淫らに腰を揺らす。嫌だと言っても退いてくれず、精を搾り取るように飛鳥を絶頂へ導く。
行為だけならまだ耐えられたが、その時に囁かれた言葉が飛鳥の脳裏にこびり付いて離れない。孕んでしまうかもしれない。ケイオスが、飛鳥の子を。嫌悪を感じずにはいられない言葉だった。
「…………」
想像するだけでも目眩がし、吐き気がこみ上げてくる。慈悲なき啓示によって狂い、豹変してしまった、尊敬していた師のなれの果て。最早ヒトではない、異形の存在となった師と己の遺伝子が交わり、融合して、新たな生命となる。どう考えても、世界の理に反していた。決して許される事ではない。
自らのバックアップであるR#には以前倫理観が破綻していると言われたが、どうやらまだ完全に破綻しているわけでは無さそうだ。普段の飛鳥であれば、人知を超えた存在との間に子孫は残せるのか、興味を持つだろう。自らを被検体にすることも厭わず、検証を始めようとする筈だ。そうならないのは、飛鳥の中で無意識の内にブレーキが働いているからか。あるいは飛鳥の行動を諫め、咎めてくれるR#の存在があるからか。
「……、ラジオの時間か」
壁に掛けられている時計の針が示す時刻に気付き、先ほどのものより幾らか浅い溜息を零す。気分は優れないが、日課のラジオを中止するわけには行かない。世界平和の実現のためにも、透明な数字は必ず発信しなければならない。
ひとまず、思考を切り替えようと。飛鳥は両手で自らの頬を軽く叩き、椅子から立ち上がった。
***
「飛鳥、大丈夫かい? 最近顔色が良くないようだけれど」
その日のラジオ放送を終え、就寝の準備をしていた時だった。
飛鳥は地上の調査から帰還したR#に声を掛けられた。
「ああ、少し寝不足でね。眠りが浅いと言うか……睡眠の質が良くないみたいだ」
心配そうに訊ねてくるR#に対し、飛鳥は困ったような笑みを浮かべながら返した。嘘は言っていない。ただ、ありのままの事実を伝えるのは気が引けた。
「その原因に心当たりは?」
「うーん……無いと言えば嘘になるけど、上手く言葉に出来ないな」
睡眠の質が悪いという事は、何かしらの要因がある。R#はそう思ったのだろう。真っ先に浮かぶのはストレスだ。しかし地上を離れ、月でR#と二人きりで暮らしている飛鳥がどうすればストレスを感じるのか。少なくとも、月での生活はそれなりに快適で、困り事も特に無い。R#の存在がストレスと言われてしまえば何も言えないが、今の飛鳥の様子を見る限り、その線は無さそうだ。
数秒の間に思考を巡らせ、やがてR#は一つの可能性に行き着き、飛鳥に訊ねた。
「……師匠絡みかい?」
R#の言葉に飛鳥は思わず固まった。一瞬、心を見透かされたのかと思った。ずくり、と。心臓が嫌な音を立て、咄嗟に片手で拳を作り、胸を押さえた。
それを見たR#が僅かに眉を顰める。動揺を悟られてしまったようだ。飛鳥はしまった、と思ったが後の祭りだ。もう誤魔化すことは出来ない。
「……はは、君は僕と違って察しが良いね。その通りだよ」
R#の指摘に苦笑し、飛鳥は降参だとばかりに両手を軽く掲げて見せる。それに対しR#は何も言わず、苦い表情のまま彼を見詰めた。
「最近、師匠が夢に出て来るんだ」
「夢に?」
「うん。直接干渉されているわけじゃなさそうなんだけど……」
飛鳥はR#に事情を簡潔に説明した。具体的な夢の内容は流石に伏せたが、ここ数週間、頻繁に師であるケイオスが夢に出て来ることを伝えた。
飛鳥の話を黙って聞いていたR#は、飛鳥が話し終えると眉間に深い皺を刻んで見せた。
「本当に、厄介な人だね。やっぱりストレンジレットで消滅させておけば良かったか……」
万能の力を有しているが、決して完璧な存在では無い。彼をこの世界から抹消する術はいくつか存在し、飛鳥もR#もそれを知っている。今はまだ大人しいが、いつか再び、彼が世界の脅威となる日が来た時のために。二人で対策を考え、実行できるレベルにまで整えた。
「何かあったら言ってくれ。すぐに飛んで行くから」
「ありがとう。そうならない事を祈りたいけどね」
R#の気遣いは有り難いが、同時に心苦しくもあった。彼はケイオスのことを嫌っている。飛鳥がケイオスのことで悩んでいるのに対し、どう思っているか。人間関係において察しの悪さに定評のある飛鳥であっても、想像するのは容易い。
下手をすればケイオスの所へ殴り込みに行きかねない。飛鳥のバックアップであるR#の強さは語るまでもない。彼とケイオスが本気でぶつかれば、良くて大陸が一つ。最悪星が一つ。この宇宙から消えることになるだろう。また、互いに無傷で済むとは思えない。
どうか、そのような事態にはなりませんように。飛鳥は内心で祈りつつ、R#との会話を切り上げ、部屋を後にした。
***
その日の夜。
飛鳥の夢の中に、またしてもケイオスは現れた。
「ねえねえ飛鳥くん聞いて、『出来ちゃった』」
動けない飛鳥の上に跨がり、見下ろして来る。いつも何か企んでいるような胡散臭い笑みを浮かべているが、今回はどこか嬉しそうに笑っていた。
「何がです?」
「君との子が」
「……は?」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。否、無意識の内に理解するのを拒絶した。
「いやあ、驚いたね。まさか本当に君の子を孕んじゃうなんて」
心当たりはある。まさか、あの時の行為で受胎したと言うのか。
ぞわり、と。全身が総毛立つ。師匠の中に射精(だ)したのは一度だけだ。だが、確率は高くなくとも、あり得ない事ではない。
ただ、最早ヒトではない、神に等しき存在となっているケイオスが妊娠するとは。それも、己との行為によって。
自らの下腹部を撫でながら言うケイオスに対し、返す言葉が見つからない。何と言えば良いのか分からなかった。世間一般ではこの場合おめでとう御座います、と言うべきなのだろう。だが、今のこの状況では違う気がする。大体、原因となった性行為はケイオスによって無理矢理させられたものだ。飛鳥が望んだものではない。お悔やみ申し上げますと言った方が合うような気さえする。
ーー……本当に?
混乱する思考を何とか纏めようとして、頭の中に声が響いた。本当に飛鳥はケイオスと繋がることを望まなかったのか。子供が欲しいと思わなかったのか。そもそもケイオスのことを恋愛対象として見ていたのか、どうなのか。
ーー心の奥底では、欲しいと思ったのではないか?
声の主は一体誰なのか。飛鳥には分からない。
ただ頭の中に響く声は酷く耳障りで、物理的に塞いでも無意味であると分かっていても耳を塞ぎたくなった。違う。望んでなどいない。欲していない。
世界を破滅寸前にまで追い込んだ、許されざる存在。偉大なる魔法使いのなれの果て。日頃から倫理観が破綻していると言われている飛鳥でも分かる。飛鳥も、ケイオスも、咎を背負いし者だ。愛し合い、結ばれ、まぐわって、子孫を残す。本来ならば人間が享受して当たり前な権利を、幸福を。有してはいけないのだ。
ーーでは何故、あの時に拒絶しなかった?
違う。
しなかったのではない。出来なかったのだ。あの時飛鳥は負傷し、動けなかった。それを良い事に、ケイオスは無理矢理飛鳥の上に跨がって精を搾り取った。
「…………違う、んだ……あれは、違う……」
不可抗力だ。心の中で叫んでも、声はもう聞こえなくなっていた。
目の前にいたケイオスの姿もまた、何処かへ消え去っていた。
「間違いだ……きっと、何かの……まちがい……」
残された飛鳥は一人、掠れた声で何度も否定の言葉を紡ぎ続けた。
***
それからケイオスは毎晩飛鳥の夢に出てくるようになった。
「見て、少しずつ大きくなって来てる」
寝そべった体勢の飛鳥の上にケイオスが跨がり、見下ろしている。
その腹部が以前見たときよりも膨らんでいるのが分かった。咄嗟に払いのけようとしたが、体が金縛りにあったように動かない。
「出産ってさ、生き物の……ヒトの神秘だと思わないかい? 二人が愛し合うことで、新しい命を生み出すんだ。どちらか片方だけでは決して出来ない。陳腐な言葉を使えば愛の共同作業って事になるね」
「……貴方を、愛したつもりは」
「嘘。それなら何であの時ココが反応したんだい?」
つ、と。ケイオスの手が飛鳥の股間に伸び、衣服の上からその中心を撫で上げる。夢の中なのに体は現実と同じようにびくりと震え、飛鳥は思わず息を呑んだ。
「ふふ。君と僕の子なら、きっと聡明な子になるんだろうなあ。見た目は君に似た方が良いね。色白で、綺麗な金色の目で……ああでも、性格は僕に似た方が良いかもしれないね? 人とのコミュニケーションは良好な方が良い」
聞きたくなかった。耳を塞ぎたかった。恍惚とした表情で訊ねて来るケイオスを、今すぐ視界から消したかった。夢であると、分かっているはずなのに心臓が恐ろしいほどの早鐘を打っている。苦しくて息が詰まりそうだ。
「ああ、楽しみだね。君と僕の子が誕生する瞬間、見届けて欲しいなあ」
飛鳥の心の叫びが届いたのか、否か。ケイオスは上機嫌な様子でそれだけ言うと、やがて霧の様にその場からかき消えた。
***
ケイオスが夢に現れるのを恐れた飛鳥は、あらゆる手段を試した。
深い眠りに就けば夢を見ないかもしれない。薬を飲めば良いかもしれない。脳に直接干渉されている可能性を考え、寝る際は結界の中にすれば良いかもしれない。
睡眠の質が悪いのがいけないのか、それならばと寝具も一新した。あてになるかは分からないが風水に倣い、部屋の場所や方角にも配慮した。とにかく、あのケイオスとの関わりを絶ちたかった。
現実世界で手を尽くした。やれることはやった。エビデンスのあるものから、眉唾ものな民間療法まで。
ーーそれでも、ケイオスは夢の中に現れた。
それは何度目の夢だったか。
「あはっ、飛鳥くん見て見て。大分大きくなったでしょ? そろそろ生まれるんじゃないかなあ……ねえ、触ってみてよ」
飛鳥の前に現れたケイオスの腹部は、今までにない程大きく膨らんでいた。普通の妊婦で言うならば、臨月を迎えた辺りか。
答えを待たずにケイオスは飛鳥の手を取り、自らの腹部に押し当てる。掌を通して、ケイオスの中で「何か」が蠢いた気がした。
その感覚に思わず手を引きたくなったが、ケイオスの手の力が強く、振りほどくことができない。夢の中なのに、脈打つ感覚と肌のぬくもりがいやにリアルに感じた。
「ほら、今動いたの分かる? 男の子か女の子か、調べようと思えば簡単に出来るんだけどさ。せっかくだから生まれるまで待ってみようと思って」
「…………」
「飛鳥くん、ちゃんと子育て出来るかなあ。まあ、昔の僕もそういうのと縁が無かったから、どうすれば良いか分かってないんだけどさ。でもそういうのをお互い模索しながら育てて行くのも悪くないと思うよ」
「……ーーっ!」
耐えられなかった。
ケイオスが愛おしそうにもう片方の手で自らの腹部を撫で摩る姿を見ているだけで、気がおかしくなりそうだった。
どうして、どうして。師匠は己にそんな姿を見せて来るのだろうか。
この夢にケイオス本人が本当に干渉しているかは分からない。けれど、今の飛鳥にはもうどうでも良かった。
俯き、長い溜息を吐く。震える手を強く握り、唇を噛みしめた。
「……飛鳥くん?」
飛鳥の異変に気付いたケイオスが声を掛けてくる。
気付けば、飛鳥の手には『本』と一体化した杖が握られていた。何を、と。ケイオスが口を開き掛けるが、その先の言葉が紡がれる事は無かった。
飛鳥が声にならない、悲鳴とも叫びとも取れぬ声を上げた次の瞬間、二人の目の前に閃光が弾けた。
***
気付けば、周囲に赤い世界が広がっていた。
呼吸が上手く出来ず、息苦しい。噎せ返るような血の臭いが僅かな呼吸から体内に入り込み、飛鳥は思わず口元を片手で覆った。
足下を見れば、血だまりのなかに仰向けで倒れるケイオスが居た。彼女は意識を失っているのか、ぴくりとも動かない。不死身の体であるため、死んではいない筈だが、どれほどの『ダメージ』を受けているのか分からない。
杖を握った飛鳥は、目の前のケイオスに向けて様々な魔法を放った。とにかく目の前から、視界から存在を抹消したかった。手加減などする余裕もなく、あらゆる属性の魔法がケイオスに襲いかかった。
ケイオスがそれに対し、どれほど抵抗したかは分からない。覚えていない。ただただ、飛鳥は必死だった。
「……師匠」
杖を手放し、ケイオスの前に座り込む。顔は乱れた髪で隠れて良く見えない。全身に飛鳥の魔法によって受けた火傷や凍傷、裂傷があり、無事である箇所を見つけるのが困難な状態だった。特に腹部には風の刃が当たったのだろう。端から端まで深く切り裂かれて、夥しい量の血が溢れ、今も地面に広がっていた。
「…………」
裂けている腹部に、迷いなく自らの手を突っ込む。大きく開いた傷口は難なく飛鳥の手を受け入れ、奥にある『それ』に容易に触れることが出来た。
まだ温かな体内の熱が、手袋越しに伝わってくる。どうしてそんなことをしているのか、飛鳥には分からなかった。
ただ、その中にあるモノを見れば、胸の内にある蟠りが解消されるような気がして。飛鳥はケイオスの体内で触れた物体を掴むと、一度深呼吸をし、ゆっくりと外へ引きずり出した。
「……ーーッ!?」
そこから出てきたのは、飛鳥が想像していたモノではなかった。
腹部の膨らみから、その中には己とケイオスの間に出来た赤子が居るものだと思っていた。 しかし、ケイオスの胎内に赤子は居なかった。
否、そもそもヒトの形をしていなかった。
ケイオスの中から引きずり出されたそれは赤黒い物体だった。血と、良く分からない体液に塗れた肉の塊。最早生き物なのか、生き物だったのかも分からぬグロテスクな形状だった。
「う、ぁ……」
ーーこれは何だ?
肉塊を視認した瞬間、飛鳥は混乱した。生物学に関しては人並み以上の知識があるつもりだが、こんなものがヒトの胎内に出来るなんて聞いたことが無い。
ケイオスが受胎し、その腹の中で問題なく成長していたならば、このような肉塊にはならないはずだ。
そもそも、ケイオスにヒトと同じ生殖機能があったのか。混乱する頭で必死に考えを巡らせてみるも、答えは見つからない。ただ言えるのは、飛鳥の手中にある物体は間違いなく生き物ではないという事だった。
脈打っている様に見えるのは気のせいだろうか。とにかく、生き物ではないこれを何と表現すれば良いのか、飛鳥には分からなかった。まるで己の内に宿る、どす黒い欲望や感情のようなーー
「……、え?」
そこまで考えて、飛鳥は思わず声を上げた。
これはーー自分の欲望の塊か。
師匠の中に宿した、浅ましい慾。
無意識の内に隠し、蓋をし、秘めていた筈のもの。遠い昔、まだケイオスが第一の男と呼ばれていた頃より、飛鳥は彼のことを想い、慕っていた。
愛おしいと、思ったつもりは無い。あくまでも師匠に向けていたのは尊敬や親愛だ。そも、当時の飛鳥には恋愛がどういうものなのか分からなかった。
そう、師匠を『そういう目』で見たことは一度としてない。無いはずなのだ。
「あ、あぁ……」
ぎょろり、と。肉塊に無いはずの目玉が飛鳥を見詰めてきたような気がした。
その見えない視線を感じた瞬間、飛鳥の中にそれまで見て見ぬふりをして来た感情が怒濤の勢いで流れ込んで来る。
「あぁあああああああああああああ゛ああぁああァッ!」
欲しかった。確かに自分はあの時師匠が欲しかった。
第一の男、救世主、現人神、人々の希望の星ーーそう呼ばれ、崇められていた師匠は憧れの存在であり、同時に飛鳥の心をかき乱す存在だった。
自分のモノにしたいと思った。人類を救う師を、自分だけのモノにしたいと思った。
でもそれは、叶わない事だった。許されない事だった。分かっていても、内から湧き上がる欲は留まることを知らなかった。
だから、自ら感情に蓋をして、心の奥底に封印した。
その封印を解いたのは、ケイオスなのか、師に翻弄された己自身なのか。飛鳥には分からなかった。
「ーーーーっ!」
そうして、声にならない悲鳴と共に。飛鳥の世界は闇に呑まれた。
***
「……か、飛鳥ッ!」
「……ーーっ!?」
自らの名を呼ぶ声で意識が戻った。
顔を上げると、心配そうに覗き込んでくるR#がいた。彼の手が、飛鳥の肩を掴んでいる。強く揺さぶっていたのだろう。その手には未だ力が込められていた。
「大丈夫かい? 大分魘されていたようだけれど……」
気付けば肩で息をしていた。呼吸が苦しくなるような姿勢で寝ていたわけではないのに、肺が酸素を求めている。
「また、師匠の夢を?」
「…………」
答えられるはずがなく、沈黙する。代わりに片手で顔面を覆い、深い溜息を漏らした。
それを見たR#は僅かに顔を歪め、とりあえず体温や脈を確認しようと彼の身に触れる。これはもう誤魔化しが利かない。返す言葉に悩み沈黙するも、その沈黙が答えとなってR#に伝わった。
「呼吸と……バイタルの乱れが酷いな。どうする? 鎮静剤を持ってこようか?」
「……いや、大丈夫」
R#の気遣いに感謝しつつ、飛鳥は緩く頭を振った。正直全く大丈夫ではないのだが、夢の内容をR#に話すことは出来なかった。
「変な姿勢で寝ていたせいかな……ちょっと夢見が悪かったみたいだ」
「……本当にちょっとで済むような夢見だったのかい?」
「はっきりそうだとは言えないけれど……大丈夫だよ、ありがとう」
現実の世界に引き戻してくれたR#には感謝しかなかった。あのまま夢を見続けていたらどうなっていたか。想像するだけでもぞっとする。
R#は不服そうな面持ちで飛鳥を見詰めているが、これは自分と師匠の問題だ。たとえバックアップであるR#であっても、干渉されたくない。知られたくない。
飛鳥はぎこちない笑みを浮かべつつ、無理やり話を切り上げた。取り敢えず、夢のことは忘れよう。次に眠るのがいつになるのかは分からないが、あれだけ酷い夢を見てしまえば、これ以上恐れるものはもう何も無いような気がする。こういうのは、開き直ってしまった方が勝ちなのだ。
半ば強引に自らを納得させ、それまで座っていた椅子から立ち上がろうとした、その時だった。
「飛鳥くーん、久しぶり。元気してた?」
「……ッ!?」
聞き慣れた声が耳に届く。今この場で、最も聞きたくない声。会いたくない存在。
ぞっとした。嫌な汗が全身の穴という穴から溢れ出し、悪寒が走った。
まさか、まさか、まさかーー
「……し、しょう……?」
声のした方を恐る恐る振り向くと、いつか飛鳥を襲った時と同じーー女性の姿となったケイオスが笑顔で手を振りながら立っていた。
