【GG】Asuka×Chaos

 最近は会えばずっとそうしていた。互いの全力を出し合い、負けたほうが相手の実験体になる。かつて知識を求めた研究者としての性。そこには何の情も無かった。
 
 「不死身とはどこまで厳密に不死身か、検証しますね」

 今回の勝者は飛鳥だった。正攻法での敗北が続いていたため、どうすれば師に勝てるのか考えた末の、苦し紛れの戦法が功を奏した。お互い、理論から外れた想定外の事象に遭遇すると思考力が鈍化する。トリッキーと言えば聞こえは良いが、ズルをしたようなものだ。それでも、飛鳥は師であるケイオスに勝ちたかった。

「なに、拷問でもするつもり? 師匠をいたぶる趣味があるとは思わなかったなあ」

 敗北を喫したケイオスは這いつくばった態勢で飛鳥を見上げ、軽口を叩く。イノの半身であり、万能の力を持つケイオスでも、飛鳥との戦闘で受けたダメージは大きく、すぐには立ち上がれなかった。
 飛鳥はそんなケイオスを冷ややかに見下し、『本』と一体化した杖を彼の方へと向ける。杖の先端から淡い光が生まれ、やがてそれはケイオスの身を包み込んだかと思うと、突然ケイオスは瞳を見開き、苦しみ出した。

「……ーーッ! がっ……は、ァ……!?」
「一時的に人間と同じ『痛覚』を与えました。今の師匠だと、人間でどれ位のダメージが体に入っているのか分かりませんので。如何ですか? 痛いですか? 苦しいですか?」
「ちょっと……いつからそんなに性格悪くなった、んだい……っ!?」
「僕は元々こういう性格です。それは貴方が一番理解しているのではないですか?」

 確かにナチュラルボーンクレイジーだとは言ったけれど。まさか痛覚を与えられるとは思わず、ケイオスは引きつった笑みを浮かべ、即座に損傷箇所の修復を始めた。たった今生じた痛みの場所から、特に酷いのは右側の肩と脇腹。それと左大腿部か。骨までやられたのだろう。脇腹に至っては折れた肋骨が肺に刺さっている。確か、外傷性気胸と言ったか。修復にさほど時間は掛からなかったが、とうの昔に忘れてしまっていた痛みがこんなにも辛いものだったとは。

「ああ、安心して下さい。右手の甲には何もしません。本当に消滅してしまう可能性がありますからね」

 イノと同じく、右手の甲はケイオスの唯一の急所だった。ただ刺される程度なら問題ないが、飛鳥の全力を一点集中で叩き込まれれば流石にどうなるか分からない。基本不死身の吸血鬼が心臓に杭を打たれるようなものだ。

「は、はははっ……! ……良いよ、負けたのは……僕、だから。今回は、大人しくしててあげる」
「はい。そうしてくれると助かります」

 これからどんな『苦痛』が待ち受けているのか。ケイオスは久しぶりに見る弟子の無自覚な狂気に愉悦を覚え、笑いながら相手の行為を受け入れる意志を示して見せた。



 
 
「君さ、結構本気で僕を殺そうとしてなかった?」

 ひび割れた大地の上に仰向けの状態で転がり、ケイオスは未だ鮮血が溢れ出る腹部を抑えながら傍らに佇む飛鳥に声をかけた。
 戦う前は頭上にあったはずの太陽が、気付けば西の空に沈もうとしていた。 思いのほか、飛鳥がケイオスに対し行った「検証」は時間を要したらしい。結局、一時的に与えたという痛覚が完全に抜けるまで、ケイオスは飛鳥から拷問染みた攻撃を受け続けた。

「気のせいですよ。今回はこれで終わりにしますが、正直まだデータを取り切れていない。また次もよろしくお願いします」

 飛鳥はケイオスの方を見ず、手にした本に先程まで行っていた検証の結果を入力しながら淡々と言葉を返す。元々好かれているとは思っていないが、仮にも師匠である人物にここまで塩対応をする弟子が、過去にいただろうか。少なくとも、元老院で活動していた弟子たちはまだケイオスを多少なりとも敬っていたーーような気がする。
 
「本当に僕のこと嫌いなんだね」
「どうしてそう思うんですか?」
「分からない? これもう嫌がらせの域超えてるよ。君なら人体の何処にどれだけの損傷を与えれば死に至るかくらい知っているだろう? なのに君は過程をわざと長くして……そう、回りくどいやり方で、僕ができるだけ苦しむ方法を選んで検証を行った。悪趣味にも程がある」
「…………」

 最初は頭部を破壊した。その次は心臓を破壊し、どちらも難なく再生、蘇生して見せるケイオスを見て、飛鳥の行為は徐々に過激になって行った。四肢を切り落とし、高電圧を与え、窒息させ、そして燃やした。ありとあらゆる責め苦を与え、それでも死なないケイオスを眉一つ動かさずに見つめ、結果を記録していった。
 不死身の検証。それ自体は大いに結構。ただやり方が余りにも非効率的で、悪質で、陰湿。仮にも師匠である人物に対しそこまでする、その理由は私怨以外に何があるだろうか。普段から他人の感情、心境を汲み取る事をしないケイオスでも、流石に分かった。飛鳥は、自分の事を嫌っている。憎んでいると。
 
「ねえ、どうしてそんなに僕のことが嫌いなの?」

 心当たりが無いわけではない。寧ろいくらでもある。それでも、ケイオスは直接飛鳥の口から聞いてみたくなった。
 
「…………貴方が、皆を不幸にした」
「それはちょっと無理があるなあ。ナチュラルボーンクレイジーな君が、そんな理由で僕を嫌いになるのかい? もっとちゃんとした理由があるだろう?」

 確かにケイオスは慈悲なき啓示の創造主で、人類と敵対し、歴史を陰から操ってきた。全ての発端である第一の男は、諸悪の根源と言っても良い。だが、その弟子である飛鳥が過去にやらかした案件もなかなかだ。親友二人の幸せのために良かれと思ってやった事が、ことごとく裏目に出た。倫理観が破綻しているが故に、責任感や罪悪感があってもそれによって心が痛むことはない。そんな彼が、人類の感情を忖度し、ケイオスを嫌悪するとは考え難い。

「…………」

 ケイオスの指摘に対し、飛鳥は返答に困ったのか黙り込んでしまった。僅かだが眉間に皺が寄り、返す言葉を探そうと必死に思考を巡らせているのが分かる。舌戦は苦手ではない。寧ろ得意な方だと思ったが、何をそこまで悩む必要があるのか。ケイオスは腹部の傷の修復を試みながら、飛鳥の答えを待った。
 
「……貴方は」

 長い、長い沈黙の末。飛鳥は深呼吸をした後に、覚悟を決めた様に言葉を絞り出した。
 
「僕たちを置いて行ってしまった」

 二十世紀末。ケイオスがまだ「第一の男」として法力の研究をしていた時代。多くの信徒が彼の元で研究を進め、再起の日によって混乱していた世界の復興活動に尽力していた。
 バックヤードの発見に、魔法の理論化とそれに伴う科学文明から魔法文明への転換、そしてインフラ整備。自らの危険を顧みず、常に人類の為に世界の最前線に在り続けた、誰もが認める天才にして、救世主。飛鳥もまた、魔法の研究をしながらその偉大な背中を追っていた。
 
「どうして一人で解決しようとしたんですか」

 彼が消息を絶つまでは。
 自らが生み出したロボットーー慈悲なき啓示の暴走を止める為に、彼は飛鳥に二つの種を託し、姿を消した。突然のことで、飛鳥を含む信徒たちは驚き、戸惑った。導(しるべ)としていた師は何処へ行ってしまったのか。あらゆる手を尽くし、世界中を探したが、見つけることは叶わなかった。

「どうして僕たちを頼ってくれなかったんですか」
 
 咎めるような飛鳥の言葉に、ケイオスはサングラスの下の瞳を僅かに細めた。確かにあの時、第一の男は一人で慈悲なき啓示と対峙した。しかしその暴走を止めることは出来ず、逆に取り込まれ、世界と敵対する存在となってしまった。飛鳥の言う通り、信徒たちと共に立ち向かっていれば、歴史は変わっていたかもしれない。けれど第一の男はそれを良しとしなかった。既に自らの法力の研究で、多くの弟子たちが犠牲となっていた。これ以上、誰かを巻き込みたくなかった。自分が蒔いた種は、自分で刈り取らなければ。当時の自分はそう思っていたのだ。何と優しい気遣いをしていたのか。しかし自分の事の筈なのに、他人事のように感じられる。それも、イノの半身と融合させられ、全人類の希望を宿したことで「自分」が分からなくなってしまったからか。
 
「僕は貴方を尊敬していた」

 第一の男に師事していた頃の飛鳥は、好奇心の塊のような男だった。気になる事があれば直ぐに師に質問をし、納得するまで黙らない。真面目で勤勉、と言えば聞こえは良いものの、一つの事に集中すると周りが見えなくなり、一人で暴走してしまう事が多々あった。その度に、広い視野で物事を捉えろと師であるケイオスは彼を諫め、説いていた。何でも知りたがる飛鳥に師として知り得る限りを与え、教えた。失踪するまでは確かに師としての務めを果たしていたつもりだが、尊敬されるほどの存在になっていたとは。心底意外だとばかりにケイオスは目を丸くし、修復を終えた腹部を擦りながら続きを待った。 
 
「もっと貴方と、一緒にいたかった」

 飛鳥が膝をついてケイオスの顔を覗き込む。普段、表情筋が死んでいるのではないかと思うほどのポーカーフェイスである飛鳥の顔は、悲痛に歪んでいるように見えた。
 ホワイトハウスで言葉を交わした際、飛鳥はこんな形で再会したくなかったと言っていた。その時は飛鳥が持つ「本」を奪う為の攻防戦の真っ最中だった為、さして気にはしなかった。だが、その言葉も彼なりに思うことがあって放ったのだと、今になって気付く。
 
「分からないなあ。僕はそんなに執着される程の存在だった?」

 慈悲なき啓示を生み出す前の飛鳥との関係は、お世辞にも良好であったとは言い難い。師として教えるからには厳しい言葉も時には投げかけた。飛鳥の意見を真っ向から否定する事もあった。議論、口論は日常茶飯事で、徹底的に理詰めして黙らせたのも一度や二度ではない。酷い時には互いに覚えたての法力をぶつけ合い、研究所を大破させたりもした。他の信徒たちからすれば良い迷惑だっただろう。

「……確かに貴方は捻くれてて意地悪で、欲しい答えを素直に教えてくれない事もありました。教えてくれるかと思えば、意味があるのか分からない話を延々と続け、結局教えてくれなかった事もありました。私生活はずぼらで僕たちが居なければ研究に没頭してまともに食事はしないし睡眠も取らない。一週間風呂に入らないなんて事もざらでした。魔法について教えてもらっているのに、介護実習をしている学生のような気分になりましたよ。まあ貴方の見た目は実際初老に片足踏み込んでいるような状態でしたので強ち間違いではなかったかもしれませんが。本を読みながら廊下を歩かないで下さいという僕たちの忠告も聞かずふらふら歩いてる姿を見た時は階段から落ちて骨盤骨折でもして痛い目を見れば良いのにと思ったものです」
「ちょっと待って、尊敬してる師匠に対してそこまで言う?」
「それ以上に直してほしい箇所が多かっただけです」
 
 最後の方はまあまあ悪口になっているような気がするが突っ込むべきだろうか。それよりも、弟子である彼が議論以外でここまで饒舌になっている事に驚くべきだろうか。何れにせよ、これだけの不満を聞けば飛鳥がかつてのケイオスを尊敬していたという言葉には疑問しか浮かばない。

「それでも、貴方は僕たちの尊敬する師匠だったんです」

 ケイオスの心の内を読んだかのように。飛鳥は更に言葉を続けた。

「貴方は僕の知らない世界をたくさん教えてくれました。それまで無彩色だった僕の世界が、貴方によって極彩色に塗り替えられたんです。 ……それがなければ、僕はきっと何の目的も持たず無為に生き、何かを成すこともなく死んでいたでしょう」

 師に出会う前の記憶はほとんどない。印象に残らないほどつまらない半生だったのだろう。優秀ではあったが、ただそれだけ。人類の幸せを願うなんて高尚な思想を持つわけでもなく、ぼんやりと日々を過ごしていた。きっかけは、たまたま目についた新聞の記事だっただろうか。「電算機期の廃絶」「バックヤード」「法力」。師が提唱した言葉を批判し、こき下ろし、嘲笑する記事であったが、当時の飛鳥には衝撃をもたらす内容だった。荒唐無稽で無茶苦茶。余りにも常識を逸脱したそれに飛鳥は心を動かされ、後に押し掛けるようにして彼の元に弟子入りを果たした。そうして師の影響で知識欲に目覚め、研究者になることを決意した。勉学に励むために大学に進学し、そこで生涯の親友となる二人と出会った。彩を得た世界は美しく、何もかもが新鮮で。生きることがこんなにも素晴らしい事だとは思わなかった。
 
「だから、今の貴方と初めて対峙した時は……シンプルな言葉を選んで伝えるならショックでした。僕たちの手が届かない、遠い存在になってしまったのだと」
「つまりさっきの検証は腹いせ?」
「そう受け取られても仕方ないとは思います」
「自分の理想からかけ離れちゃったからって、あそこまでするかなあ」

 まるで子供の八つ当たりだ。理知的な弟子だと思っていたが、精神的にはまだまだ未熟だったのかもしれない。
 
「結構、甘えん坊だったんだね。君」
「………………」

 もう200年近い時が経っているというのに、師匠の立場から見た飛鳥は何も変わっていなかった。世界最高峰の魔法使いになっても、魔王として人々に畏れられても、平和のために透明な数字を宇宙から発信するようになっても。根底にあるのは、師を慕うかつての弟子のそれだった。
 彼に対するナチュラルボーンクレイジーという評価は、考え直す必要がありそうだと思いつつ。ケイオスは緩慢な動作で片手を持ち上げ、眼の前にある飛鳥の頬に掌で触れながら言葉を発した。
  
「ごめんね」

 とても短い謝罪の言葉。それを聞いた瞬間、飛鳥は左目を瞳を大きく見開いた。

「……ッ、心にもない、謝罪は」
「まあ、そう聞こえるかもね? でもこれは確かに「僕」の言葉だ」

 人類の希望を内に宿しているが故に、自分という存在が分からなくなってしまった。それでも、胸の内を吐露した飛鳥に対し、ケイオスの口からは自然とその言葉が紡ぎ出された。それは間違いなく、第一の男としての、師匠として弟子に向けた謝辞だった。

「……やめて下さい。今更……謝られても」
「じゃあ何でそんな泣きそうな顔をしてるのさ?」
「ちが……、違います。僕は……ッ、泣いて、なん、か……っ」

 たった一言。それだけで、飛鳥の心は大きく揺さぶられた。動揺を隠すことが出来ず、平静を装おうとして声が上ずる。最早ヒトではない、神に等しき存在が。一瞬、かつての師に戻ったような気がして。師として、弟子である飛鳥を見てくれたような気がして。目頭が熱くなり、何年も流していなかった涙が金色の瞳から零れ落ちる。ぱた、ぱたたっと。堪える事の出来ないそれはケイオスの顔と地面を濡らした。

「ししょ、う……っ、どうし、て……」

 意識しないようにしていた。あの頃の師匠はもう居ないのだと。死んでしまったのだと。そう思っていたのに。心の奥底では、その言葉を望んでいた。嬉しい、悲しい、悔しい、そして憎い。それまで抑え込んでいた様々な感情がぐちゃぐちゃになり、涙と共に止め処なく溢れて来る。

「どうしてっ……師匠、ししょ……ゥ……!」
「飛鳥くん…………ーーいや、飛鳥。君はーー」

 子供のように泣きじゃくる飛鳥の姿が。遠い昔の、第一の男に弟子入りして間もない頃の彼の姿に重なったように見えた。その瞬間、ケイオスの混沌とした「中」がクリアになる。無数にあった思考がかき消え、見失ってしまった筈の一つの人格が残り、飛鳥を見据える。第一の男もまた、自らを師として後ろをついて来る存在を気にかけていた。ただ優秀なだけではない。間違いなく、大切な、かけがえのない存在だった。

「飛鳥、駄目だよ。それ以上はいけない」
 
 何か声を掛けなければ。そう思ったものの、何をどう伝えれば良いのか分からない。それでも目の前で泣く飛鳥を気遣おうとしてーー口を開く前に第三者の声がその場に響き渡り、ケイオスの「中」は再び混沌の世界に引き戻された。
 
「落ち着くんだ。君を構築している脳の一部が、オーバーフローしてしまうよ」

 それは飛鳥と全く同じ声だった。だが、飛鳥本人が発した言葉ではない。声のした方へ視線を遣ると、飛鳥の背後にもう一人の「彼」が立っていた。
 
「うわ出た」

 その姿を見た瞬間、ケイオスは思わずそんな声が口をついて出た。彼の事は知っている。飛鳥が慈悲なき啓示が生み出したヴァレンタインシリーズに触発され、自ら製作したバックアップ。ナチュラルボーンクレイジーと呼ばれる所以の一つとも言える、オリジナルに少し手を加えた自らの模造品。ゼロから生命を生み出すことに今更とやかく言うつもりはないが、だからと言って自分と全く見目の変わらぬ存在を作るのはいかがなものか。はっきり言って趣味ーー否、センスがぶっ飛んでいる。そういう意味では、馬鹿と天才は紙一重という言葉がぴったり合う。

「あまり飛鳥を追い詰めないでもらえますか」
「え、僕が悪いの?」
「他に誰が悪いと言うのですか?」
「いやこれ誰も悪くないと思うんだけど」

 寧ろ生命の危機的に追い詰められたのは自分の方なのだがと。もう一人の飛鳥ーーR#に突っ込もうとしてケイオスは口を噤む。自分たちはただ純粋に、百年以上の時を経て本心をぶつけ合ったに過ぎない。傷付けるような事は言っていないし、謝罪の一言でただ飛鳥が勝手に泣いているだけだ。何故咎められなければいけないのかと思ったが、#Rは既にケイオスから視線を外し、傍らで嗚咽を漏らすオリジナルの元へ歩み寄っていた。
  
「飛鳥、今日はもう帰ろう。これ以上師匠と言葉を交わすのは危険だ。君も分かっているだろう?」

 自らが生み出したもう一人の自分に慰められる気分はどんなものなのだろうか。スケープゴートとして戦闘中に分身を生み出すことはあるが、彼らはあくまでも攻撃をしのぐ為の盾、人形でしかない。今度意思を与えてみるのも良いかもしれない。ただ、目の前の弟子が生み出した存在のように限りなく完璧に近いクオリティを出せる自信はないが。

 「……ッ、ああ……うん、かえろう……」
 
 ケイオスがぼんやりと思考を巡らせていると、飛鳥が掠れた声と共にR#に向けて頷き、緩慢な動作で立ち上がった。しかしまだ完全に落ち着いたわけではない様で、左目を覆う飛鳥の手の下には透明な雫が滴っていた。
 飛鳥くん、と。ケイオスが声を掛ける前に。飛鳥とR#は法力を展開し、空間転移の術を発動させ、何処かへ去って行った。


 
   
「……あーあ。弟子があんなに拗らせてるとは思わなかったよ。「僕」もまだまだだね」

 残されたケイオスは仰向けの体勢のまま、恐らく彼らが帰っていったであろう空を見詰め、誰に言うでもなく一人でぼやいた。
 日は完全に沈み、暗くなった空には無数の星が煌めいていた。都市から遠く離れたこの荒野には人口の明かりは一つとしてなく、星空の本来在るべき姿をじっくりと眺めることができた。天体観測を行うには最適の地だろう。
 ぼんやりとその綺羅星たちを見つめた先、北の空の中心には北極星が煌々と輝いていた。こぐま座のポラリス。まだ方位磁石や電子機器など、自分たちの居る場所を知るすべがほとんど無かった頃。人々はこの星を導しるべとすることで道に迷わずに済んだと言う。

「……僕は君たちの北極星になれてたのかなあ」

 かつて集った信徒たちは皆、己に導かれ、それぞれの道を歩んだ。それらが全て正しい道であったのか。今のケイオスには分からない。ただ唯一、種を託した飛鳥にとっては。確かに自分が道標となっていた。道中迷走していた感は拭えないが、それでも自らを曲げずに未来に向かって突き進んだ。きっと、第一の男からすれば喜ばしいことだっただろう。
 
「ま、いっか。取り敢えず少し寝よう」
 
 いつか、また。あの時のように笑い合えたなら。
 叶うことのない願いを自らの「中」に密かに宿して。ケイオスは日が昇るまで眠ることにし、荒れ果てた大地の上で静かに瞳を閉じた。
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