【GG】Asuka×Chaos
「やっほー飛鳥くん、生きてるー?」
その日も、ケイオスは予告無くティル・ナ・ノーグを訪れた。
時計が示す時刻は深夜0時。地上にいる人類の多くが眠りに就く時間帯であるが、ティル・ナ・ノーグの主は未だ眠らず、機械音を相手にモニターの光を浴びていた。
「……死んでいる、と言ったら弔ってくれますか?」
師である存在の、空気を読まないアポ無し訪問は、今回が初めてではない。既に何度も経験している飛鳥はケイオスの来訪に驚きもせず、無数の数字が並ぶモニターから彼の方へと振り返った。
「うーん、20点。ジョークとしてのキレが今ひとつーー……」
昔に比べれば冗談を言えるようになったとはいえ、軽妙なやり取りをするにはほど遠い。もう少し気の利いたネタを考えるべきだと。そう言おうとした所で、ケイオスは飛鳥の顔を見、目を丸くした。
「うわ、すっごい顔。どうしたのそれ」
飛鳥の右頬は赤く腫れ上がっていた。転倒でもしたのか、或いは上から本や小物が落ちてきてぶつかったのか。何れにせよ、彼の白い肌に浮かぶそれはなかなかに痛々しく、ケイオスの好奇心を擽った。
「……彼女を、怒らせてしまって」
「彼女? ……ああ、地上にいる君の親友?」
ケイオスの言葉に、飛鳥は黙って頷く。彼女、と言うのは十中八九ジャック・オーのことだろう。飛鳥の交友関係は非常に狭い。更に言えば、宇宙に滞在するようになってからは人と接触すること自体ほとんど無くなったため、彼と関わりを持つ存在は容易に絞り込むことが出来た。
「今日……少しだけ会うことが出来たんです。その時に……ぶたれました」
飛鳥はぽつぽつと話し始めた。
***
「最近、フレデリックと上手く話せないの」
久しぶりに会ったジャック・オーは浮かない顔をしており、飛鳥がどうしたのかと問う前に自ら話し始めた。
「あ、別に嫌いになったとか、そういう訳じゃないの。 ……でも」
聞けば日常のやり取りの中でちょっとしたすれ違いが発生する頻度が増えたのだと言う。喧嘩する程では無いものの、数日前ジャック・オーの発言にフレデリックが面倒臭そうに溜息を吐いたのが引っかかり、今もモヤモヤしているのだとか。
「それがちょっと、しんどいなって思っちゃって」
そうしたすれ違いは、恋人同士だと良くあることなのか。恋人を持ったことが無い飛鳥には分からない。
分からないが、二人の関係性は付き合いの長い己が一番理解していると。そう思っていた。
「でも、フレデリックは君のことを大切にしている」
「分かってるわ。分かってるけど……苦しいの。ごめんね、上手く言えなくて」
俗に言う、倦怠期なのかも知れない。ホワイトハウスの事件が解決してから、二人は田舎で静かに暮らしている。あらゆる困難を乗り越え、ようやく手に入れた平穏な生活。戦いから離れ、どちらも好きなことをしながら伸び伸びと過ごしているものだと思っていた。
何にしても、自分に相談してきたということは、大分思い悩んでいるのだろう。様々な可能性を考えつつ、飛鳥は自身の見解を述べることにした。
「フレデリックの思考は理系分野に突出している。だから文系思考の君とは元々合わないんだ」
「それは……そうなんだけど」
遙か昔ーーギアプロジェクトの研究チームだった頃を何となく思い出す。あの時もフレデリックとアリアは考え方の違いから良く口論ーー基議論をしていた。今の二人のやり取りも、その延長線上にあるのだろうと飛鳥は推理した。
今に始まった事では無い。そんなに気にする様な事では無いと考えた上での返答だった。だがそれを聞いた瞬間、ジャック・オーの表情が曇った事に、飛鳥は気付けなかった。
「後は、君の心がまだ不完全なのもあると思うな。アリアの魂と融合して随分経つけど、まだ安定しているとは言えない」
「…………」
「ヒトとしてまだ完成していない君と、元々人間だったフレデリックの考えが合わないのはおかしな事じゃない。君はそう……言ってしまえば未熟で、子供みたいなものだからね。もしかしたら君の言うことは我が儘とか、大人気ない癇癪だと思われている……いや、実際そうなのかもね」
そこで止めておけば、まだ良かったのかも知れない。
しかし飛鳥は止められなかった。止めるべきだという考えすら、思い付かなかったのだ。
ジャック・オーが悩んでいる。どうするべきなのかを、アドバイスしなければ。完璧な答えではないかも知れないけれど、今よりは状況が良くなる筈だ。飛鳥はそう思っていた。
ーーそれが、いけなかった。
「君とアリアの魂が完全に融合すれば情緒や思考も安定してーー」
言い終わる直前、右の頬に衝撃が走り、視界が弾けた。
何が起こったのか、理解出来なかった。少しして、頬にじんわりと痛みが生まれ、そこで自身がぶたれたのだと認識した。
何故、自分はぶたれたのか。頬に手を当て、ジャック・オーの方を見ると、彼女の目には涙が滲んでいた。
「飛鳥くんの……あす、かくんのッ……馬鹿!」
震える声で発せられたのはシンプルな罵倒だった。けれどその言葉は、飛鳥の胸に深く深く突き刺さった。
***
「……はっはは、思ったより酷い」
飛鳥の話を聞いたケイオスは、想像の斜め上を行く彼のやらかしに乾いた笑い声を上げた。
「僕も人の感情を汲み取るのが得意とは言えないけどさ……本当、君は昔から人を怒らせることに関しては天才的だよね。そこだけはノーベル賞ものだ。誰にも真似出来ない。いっそ本でも出してみたら? タイトルは『理解したつもりで相手を煽る技術』で。きっとベストセラーになるよ」
「褒めてるつもりで貶してます?」
いくら察しの悪さに定評があるとはいえ、ここまで言われると流石に腹も立つ。わざとらしい拍手をしながら言って来るケイオスに、飛鳥は思わず顔を顰めた。
「事実を言ったまでさ。全く、世界最高峰の魔法使い、ギアメーカー、マスターオブソーサリーとも言われる君がコミュニケーション能力においてエレメンタリースクールの子供以下のポンコツだなんて。いや、もしかしたら幼稚園児にも負けるかも知れないね。我が弟子ながら嘆かわしい」
飛鳥の胸中を知った上で、ケイオスは更に追撃する。彼の言っていることは決して間違いではない。全て正論だ。だからこそ、言葉の一つ一つが飛鳥にグサグサと突き刺さった。
「……貴方から、人の心について教わりませんでしたから」
「え、それ僕が悪いの?」
小さな声で絞り出した、精一杯の反撃。正論で殴ってくるのなら、こちらも正論で返そうと。必死になって考えて出したものだったが、第三者が聞けば自身のやらかしを他人のせいにしているだけの最悪な返しだった。
「確かに貴方は僕たちを導く師でありました。ですが、教えて欲しいことをいつも教えてくれる訳ではなかった」
「そりゃあね、一から百まで全部教えてたら育たないでしょ。口開けてれば親鳥からご飯貰える雛じゃないんだから」
「…………」
ケイオスの容赦の無い言葉の数々に飛鳥は閉口する。最早何を言っても勝てる気がしない。だが、それはそれとして納得もしていない様子だった。
何がいけないのか、どうすれば良かったのか。答えに辿り着けず、同じ思考を延々と繰り返している。
「じゃあ、教えてあげようか?」
口を噤み、俯いて一人で思考を巡らせている飛鳥に向けて、ケイオスは徐に声を掛けた。
「……え?」
予想していなかった提案に飛鳥は驚き、ケイオスを見やる。
「150……いや、170年ぶりになるかな。感謝しなよ? 久しぶりのレッスンだ。二度は言わない。ちゃんとそのカチコチな脳みそに叩き込むんだ」
「何か企んでます?」
「別に? ただの気まぐれさ」
絶対に怪しい。
ケイオスは自身が面白いと思うことしかしない。もし本当に気まぐれであったとしても、何かしらの対価を要求してくる筈だ。見返り無しでレッスンなんて有り得ない。
「ああ、でも」
そんな飛鳥の胸の内を悟ったのか、ケイオスはにんまりと笑いながら言った。
「冷蔵庫に入ってたどら焼き、美味しそうだったなあ」
***
数分後。
飛鳥とケイオスはダイニングスペースとして使用している部屋に移動し、テーブルを挟んで向き合う形で椅子に座っていた。
「本当に教えてくれるんですね?」
「だからそうだって言ってるじゃん。本当に疑り深いなあ、飛鳥くんは」
テーブルの上には二人分の緑茶と皿に盛られたどら焼きが置かれている。どら焼きは先日、地上に出向いたR#が土産として買ってきてくれたものだった。何でも、コロニーでは有名な和菓子屋の商品で、朝から並ばないと買えないほどの人気だとか。
留守にしているR#が帰って来たら二人で楽しむつもりだったが、背に腹は代えられない。ここでチャンスを逃せば、ジャック・オーとの仲直りは永遠に出来そうにない。内心R#に謝罪しつつ、飛鳥はケイオスが話し始めるのを待った。
「それじゃあまず前提の話するけど」
ケイオスは早速どら焼きを手に取り、頬張りながら話し始めた。
「怒られて当然じゃん」
「……当然、とは」
「女性はね、相手に助言じゃなくて共感を求める生物なんだ。まあ、今回君に求めちゃったのがそもそも間違いだったかもしれないけどね」
「僕は間違ったことを言ったつもりはありません」
「あーはいはい。そういう論理的な思考しか持てないから君はいつまで経ってもつまらないんだよなあ」
「…………」
ケイオスの言葉に、飛鳥は明らかにむっとした様子で眉を顰めた。昔からダメ出しをされることには慣れている。けれど自らをつまらないと評されるのだけはどうにも耐え難く、腹が立った。
「君が言うことは大体正論だ。でも正しい言葉って言うのは、時に人を傷付ける」
「では嘘を吐けば良かったと?」
「そうは言ってないでしょ。いきなり結論を出そうとするんじゃあない」
どら焼きの味が気に入ったのか、ケイオスはあっという間に一つ平らげてしまった。その後緑茶を一口啜り、二個目に手を伸ばしながら言葉を続ける。
「君は問題を解きたいんだろうけど、人間は問題文じゃないんだ。分かる?」
「分かりません」
「うーん、ふふ。馬鹿みたいに素直」
半ば投げやりのようにも聞こえるが、本当に分からないのだろう。飛鳥は手に持った湯呑みの縁を指でなぞりながら溜息を吐き、ケイオスに訊ねた。
「結局、どうしろと言うんですか。僕は嘘を吐きたい訳じゃない。仮に吐いても、彼女にはきっとバレてしまう。気の利いた言葉なんて直ぐには出てこない。 ……突っぱねれば良かったんですか? 僕では、その相談に乗れないと」
それはそれで彼女を傷付ける事になってしまうのではないか。どちらにしても詰みになっている様に感じられ、飛鳥は軽く唇を噛んだ。ただ、力になりたいだけなのに。友人二人の仲が上手く行くように、手助けしたいだけなのに。自分には、出来ないのか。黙っていることしか出来ないのか。自身は無力であると言われているような気がして、胃の辺りに引き攣るような感覚が走り、指先に力が籠もった。
「じゃあ聞くけど」
飛鳥の内心を読んだのか、ケイオスはどら焼きを咀嚼しながら言葉を発した。
「彼女は答えを求めていたのかい?」
「答え?」
「彼女が君に助けて欲しいと言ったのかってこと」
「それは……」
ケイオスの問いに、飛鳥は軽く目を見開き、言い淀む。確かに、ジャック・オーは飛鳥に何を求めていたのだろうか。折角自分を頼ってくれたのに。彼女なりに悩んで、困っていた筈なのに。
「君はさ、相手の事をちゃんと見てないんだよ。 ……正確に言うと、相手の言葉しか見ていない」
「……言葉以外に、何を見ろと」
「声質、間、視線、呼吸、動作……人間はいくらでも情報を出している。でも君は、それらを現象としか捉えていない」
「間違いだと言うのですか?」
納得が行かない。そんな事、学ばなくとも人間は生きていく過程で皆気付くものだ。
けれどケイオスはそれだけではないのだと言う。だとしたら過去にヒントの一つでもくれれば良かったのにと。飛鳥は苛立ちを募らせつつ、更にケイオスが語るのを待った。
「現象を否定する訳じゃない。その裏側にある『感情』を理解しなければ、真の答えには辿り着けない。視野を広く持てって、いつも言ってるでしょ?」
「…………」
昔から何度も叩き込まれた言葉だった。
術式の構築、実践での法力展開、魔力の観測。それらの応用だとでも言う様に。今の飛鳥なら、そういった分野の問題を出されても即座に答える事が出来るだろう。けれどその問題を応用して人間関係について解けと言われても、正直さっぱり分からない。
「本当、君はお勉強は出来るんだけどね……人間関係の分野だけは壊滅的に駄目だ。僕より酷いとは思わなかった。流石、ナチュラルボーンクレイジーは違うね」
「説明と一緒に僕を貶さないと死ぬ病気にでも掛かってます?」
ここまでボロクソに言われると流石の飛鳥でも落ち込みそうになる。自分が他の人間とは少しずれている自覚はあったが、ケイオスに言われると本当は自分は人間の形をした別の生き物なのではないかと錯覚してしまう。
「それで、僕は……どうすれば……」
意気消沈に近い状態で、飛鳥は小さな声を絞り出した。はっきり言ってお手上げだ。徹底的にダメ出しされて、それでも解決策が出てこない。言われた事も、理屈で理解しようとしても上手く行かない。
こうなったら、プライドとか意地とか。そういったモノは全て捨てて、なりふり構わず答えを求めようと。飛鳥は二個目のどら焼きを平らげるケイオスを見つつ、彼の言葉を待った。
「取り敢えず謝ったら?」
しかし返ってきたのは単純明快、シンプルイズベストとも言える答えだった。
もっと難しく、高尚な答えが返ってくると思っていたため、飛鳥は面食らった。謝るか謝らないかの選択肢を迫られれば、答えるまでも無い。寧ろ今謝らずして、いつ謝ると言うのか。
「……形だけの謝罪に意味はありません」
「でも悪かったとは思ってる」
「それは、そうですが」
ただ、謝るだけでは火に油を注ぐ事態になってしまうのではないか。
怒らせてしまった、傷付けてしまった理由に言及し、誠意を示す。それで許されるのならば苦労はしない。だが実際はまだ傷付いた彼女の心境を汲み取ることも出来ず、謝ろうとする気持ちだけが先行してしまっている。こんな状態で会いに行って、受け入れてもらえるのか。最悪、彼女からビンタのおかわりと親友の拳が飛んでくるかも知れない。
「それにさ、君は『理解』しようとしている」
「……え?」
想定される最悪の事態を色々思い浮かべている飛鳥を見ていたケイオスは、彼の思考を現実に引き戻そうと言葉を続けた。理解。その単語を聞いた飛鳥は目を瞬かせ、頭の中で反芻し、沈黙する。
「実際に出来るかは別として、君は彼女のことを理解したいと思っている。他人に興味が無かった昔の君を思えば、大きな進歩だよ」
別に他人に興味が無かったわけではない。飛鳥の興味の矛先が、相手の持つ興味とは少しずれていて、それによって距離が出来てしまっていた。それだけの事だ。
「ぶたれたショックで、あんな湿気た顔してたんでしょ?」
「……はい」
「以前の君なら、相手が怒って殴ってきても大して気にしなかった。怒らせてしまった、だけで終わっていた。でも今は違う。何故怒らせてしまったのかを考え、どうすれば仲直りが出来るのか、未来のために、動いている」
昔から人との距離感を掴むのが苦手だった。仲良くする、という感覚が物心ついた時から理解できなかった。子供時代にまともな友達は作れず、大学に入って初めて、友達と呼べる二人に出会った。異端児扱いされていた飛鳥を、彼らは笑顔で受け入れてくれた。本当に、唯一無二の親友たちだ。色々あったが、彼らとはこれからも付き合っていきたいと、そう思っている。
「何でも上手く行くとは限らない。でも、少しずつ歩み寄って行けば良い……そうでしょ? あの時と違って、時間はあるんだから」
「……詭弁にしか聞こえないのですが」
ケイオスの話に、飛鳥は少し困ったような表情を浮かべ、片手を顎の下に添えた。
ケイオスはそれらしく言ってはいるが、結局根本的な解決にはなっていないのではないか。
もっと専門的な知識と高度な技術について説かれると思っていた。しかしケイオスの話はどちらかと言うとカウンセリング、プロファイリングのように感じられ、飛鳥が求めているものとは少々異なっていた。そんな事でジャック・オーとの仲直りが出来るのか。不安は拭えない。
未だ納得できていない様子の飛鳥を見つつ、ケイオスは茶を飲み干すと彼を指さし、言った。
「君に可能性が存在しなかったら、僕もこんな事は言っていないよ」
「……はい?」
「君が昔と変わらず頭カッチカチ絶対自分を曲げないハチャメチャ頑固マンだったら、ここでレッスンなんてしなかったって事。 ……一応ね、期待してるんだよ。君の成長を」
「僕が、成長を……?」
「君自身は気付いていないんだろうけど。多分、あの二人も感じている筈だよ。少しずつ変わっていってるのをね」
飛鳥は目を見開いた。
肉体的な成長については最早言うまでもない。しかし、自身が精神的にも成長しているとは全く思わなかった。何か特別なことをしたのかと聞かれても、分からないとしか返せない。
良いことなのだろう。きっと。それが周囲にどのような影響を与えるかまでは、未知の世界であるが。
「はい、レッスン終わり。少しは学べた?」
「……正直、何とも言えません。ですが」
視界良好とはまだ言い難い。求める答えは掴めたとは言えない。
それでも。
「明日、地上へ行こうと思います」
ジャック・オーに謝りたい。
上手く謝れるかは分からないし、謝ることが出来ても許してくれないかも知れない。もしかしたら、彼女から話を聞いたフレデリックも怒っているかも知れない。
不安は山ほどある。拒絶されたらどうしよう、とか。またぶたれたら、嫌われたら、もう来るなと言われたら。考えれば考えるほど悪い想像しか出てこない。けれどそんな不安も、昔の飛鳥だったら全く気にしなかった。これがケイオスの言う成長なのか。
「んーふふ、ちょっとだけ良い表情になったね」
飛鳥の答えに満足したのか。ケイオスは幾度か頷き、冷めた緑茶を飲み干し、立ち上がった。
「そう。それで良い。君は頭の大事なネジが何本も抜け落ちているけれど、誠実な人間だ。諦めも悪い。君が求めるモノを掴もうと藻掻く姿は……うん、嫌いじゃない」
そう言ってケイオスは一瞬ーー本当に一瞬だが、飛鳥に向けて微笑んだ。
「……あ」
とても穏やかで、柔らかで、優しい微笑み。第一の男ーーかつての師匠が見せた救世主の、それ。全てを愛し、慈しむーー救いの眼差し。
懐かしく、暖かい。見た目から性格まで、何もかも変わり果てたと思っていたが、当時の面影が確かにあったことに、飛鳥は何故か胸が締め付けられる感覚を覚えた。
「……、師匠」
「じゃ、またビンタされないように気を付けてね」
それは励ましか、皮肉か。
ケイオスは飛鳥が何か言う前に空間を歪め、そこへ溶け込むようにして姿を消した。
***
「それで、仲直りは出来たんだ?」
後日。
地上でのデータ収集を終えて帰還したR#は、憑きものが落ちた様な顔をしている飛鳥を見て、そう訊ねた。
「うん、何とかね。許して貰えたよ。フレデリックには結構怒られたけど」
彼らの住処へーー念の為菓子折も持ってーー向かい、出迎えてくれたジャック・オーに飛鳥は真っ先に頭を下げた。思っていたよりも緊張し、用意していた謝罪の言葉はたどたどしいものになってしまった。そんな飛鳥を見たジャック・オーはくすりと笑い、この前の事はもう怒っていないと言ってくれた。安堵はしたが、後から出てきたフレデリックにはきっちり説教をされ、「次やったらファフニール叩き込む」と釘も刺された。
「良かった。あのまま喧嘩別れなんてしたら、君は耐えられないだろうから」
「は、はは……そうだね。僕もそう思う」
覚悟はしているるもりだったが、実際に許さないと言われていたらと思うとぞっとする。二度と来るなと言われた日には、心身共に塵となって消えていたかもしれない。
「……師匠のアドバイスのお陰だ」
あの時の、二人だけの授業。内容はお世辞にも分かりやすいとは言えず、意地の悪さも感じられる内容だった。結論という結論も無かった。
それでも、前を見て、向き合って、話そうと思った。様々なことを考えるきっかけとなった。
「僕は色々理解しているつもりだったけど。そんな事は無かった。それを痛感したんだ。僕には課題点、反省点が多すぎる。全部解決していくのは大変だけれど、少しずつ……いや、一つずつ乗り越えて行って、もっとフレデリックたちの事を理解したいんだ」
「へえ……驚いたな。君の口からそんな言葉が出てくるなんて」
これが成長というものなのか。R#の意外そうな表情を見て、飛鳥はケイオスの言葉を振り返った。成長とは、自分の中に眠る可能性を形にしていくことでもある。そして、人は成長するたびに、未来の選択肢を増やしていく。
「あと、君には反対されるかも知れないけど」
クリアになった思考は留まることを知らず、飛鳥は更に言葉を続けた。
「僕は師匠の事も、『理解』したい」
第一の男を、かつての師を、ハッピーケイオスという存在を。
「僕はあの人の事を、全然知らないんだ。趣味も、好きな食べ物も、苦手な事も、何をしたら喜ぶのかも」
遠い昔の師匠は、厳格な人だった。魔法を究め、人類の幸福の為に尽力し、やがて人知れず消えて行った。
それなりに長い時間を共にしたつもりだったが、今思えば知らないことばかりだった。尊敬はしていた。でも、それだけだった。彼は自らの事を語らなかったし、飛鳥も踏み込むような事はしなかった。しなくても、分かっているつもりだった。
だから、知りたい。知った上で、歩み寄りたい。
「……ああ、うん。僕は賛成しかねる、かな」
飛鳥の言葉を聞いたR#は、露骨に顔を顰めて見せた。
彼はケイオスの事を嫌っている。オリジナルである飛鳥が、そのケイオスを理解したいと言うのだから、当然の反応ではあるが。
「でも、君がフレデリックたち以外の存在に興味を持つ日が来るなんてね。対象が師匠で無ければ手放しに喜んだんだけど……まあ、君がそれを望むって言うなら、僕に止める権限は無いよ」
R#の記憶の中にある飛鳥は、他者に対し無関心であった。フレデリックとアリアという親友が出来たのも、本当に奇跡だった。それを思えば、大きな進歩、確かな成長だ。非常に不本意ではあるが、どうすれば止めろなんて言えるだろうか。
お手上げだとばかりに肩を竦めるR#の言葉を聞き、飛鳥がはにかむように笑った。
「ありがとう、そう言ってくれると何だか……嬉しいな」
「駄目だって言ったら止めるのかい?」
「うーん、ちょっと難しいかも?」
「だろうね。だから、好きにすれば良いと思う」
これで良いのだ。世界から魔王と呼ばれ、恐れられていた飛鳥が変わる。人間離れしていた彼が少し、本当に少しだけ。本来の人間らしさを取り戻した。バックアップとして、これほど喜ばしい事象があるだろうか。
オリジナルである飛鳥の成長の瞬間に立ち会えた事が嬉しく、R#もまた微笑んだ。
「ところで飛鳥、聞きたいことがあるんだけど」
「何だい?」
ただ一つ、R#はどうしても聞いておかなければならない事があった。
飛鳥の傍に立ち、片手を彼の肩にぽんと置きながら。R#は微笑みを崩さずに、言った。
「この間僕が買ってきたどら焼きがいつの間にか無くなっていたんだけど、心当たりはある?」
「……あ」
言われる瞬間まで、すっかり忘れていた。
ケイオスの話を聞くために、飛鳥はR#が買ってきたどら焼きを差し出した。そしてその事を、今日まで本人に説明していなかったのだ。
R#は飛鳥と一緒に食べるためにわざわざ買ってきてくれた。そのどら焼きを、黙って第三者ーーそれも彼が嫌っているケイオスと食べてしまった。R#は既に気付いているのだろう。全身の血がざぁっと引いていく気がした。
「どうしてどら焼きが無くなっていたのか……説明してくれるよね?」
その後飛鳥は正座させられ、R#の長い説教を聞かされる羽目になった。
その日も、ケイオスは予告無くティル・ナ・ノーグを訪れた。
時計が示す時刻は深夜0時。地上にいる人類の多くが眠りに就く時間帯であるが、ティル・ナ・ノーグの主は未だ眠らず、機械音を相手にモニターの光を浴びていた。
「……死んでいる、と言ったら弔ってくれますか?」
師である存在の、空気を読まないアポ無し訪問は、今回が初めてではない。既に何度も経験している飛鳥はケイオスの来訪に驚きもせず、無数の数字が並ぶモニターから彼の方へと振り返った。
「うーん、20点。ジョークとしてのキレが今ひとつーー……」
昔に比べれば冗談を言えるようになったとはいえ、軽妙なやり取りをするにはほど遠い。もう少し気の利いたネタを考えるべきだと。そう言おうとした所で、ケイオスは飛鳥の顔を見、目を丸くした。
「うわ、すっごい顔。どうしたのそれ」
飛鳥の右頬は赤く腫れ上がっていた。転倒でもしたのか、或いは上から本や小物が落ちてきてぶつかったのか。何れにせよ、彼の白い肌に浮かぶそれはなかなかに痛々しく、ケイオスの好奇心を擽った。
「……彼女を、怒らせてしまって」
「彼女? ……ああ、地上にいる君の親友?」
ケイオスの言葉に、飛鳥は黙って頷く。彼女、と言うのは十中八九ジャック・オーのことだろう。飛鳥の交友関係は非常に狭い。更に言えば、宇宙に滞在するようになってからは人と接触すること自体ほとんど無くなったため、彼と関わりを持つ存在は容易に絞り込むことが出来た。
「今日……少しだけ会うことが出来たんです。その時に……ぶたれました」
飛鳥はぽつぽつと話し始めた。
***
「最近、フレデリックと上手く話せないの」
久しぶりに会ったジャック・オーは浮かない顔をしており、飛鳥がどうしたのかと問う前に自ら話し始めた。
「あ、別に嫌いになったとか、そういう訳じゃないの。 ……でも」
聞けば日常のやり取りの中でちょっとしたすれ違いが発生する頻度が増えたのだと言う。喧嘩する程では無いものの、数日前ジャック・オーの発言にフレデリックが面倒臭そうに溜息を吐いたのが引っかかり、今もモヤモヤしているのだとか。
「それがちょっと、しんどいなって思っちゃって」
そうしたすれ違いは、恋人同士だと良くあることなのか。恋人を持ったことが無い飛鳥には分からない。
分からないが、二人の関係性は付き合いの長い己が一番理解していると。そう思っていた。
「でも、フレデリックは君のことを大切にしている」
「分かってるわ。分かってるけど……苦しいの。ごめんね、上手く言えなくて」
俗に言う、倦怠期なのかも知れない。ホワイトハウスの事件が解決してから、二人は田舎で静かに暮らしている。あらゆる困難を乗り越え、ようやく手に入れた平穏な生活。戦いから離れ、どちらも好きなことをしながら伸び伸びと過ごしているものだと思っていた。
何にしても、自分に相談してきたということは、大分思い悩んでいるのだろう。様々な可能性を考えつつ、飛鳥は自身の見解を述べることにした。
「フレデリックの思考は理系分野に突出している。だから文系思考の君とは元々合わないんだ」
「それは……そうなんだけど」
遙か昔ーーギアプロジェクトの研究チームだった頃を何となく思い出す。あの時もフレデリックとアリアは考え方の違いから良く口論ーー基議論をしていた。今の二人のやり取りも、その延長線上にあるのだろうと飛鳥は推理した。
今に始まった事では無い。そんなに気にする様な事では無いと考えた上での返答だった。だがそれを聞いた瞬間、ジャック・オーの表情が曇った事に、飛鳥は気付けなかった。
「後は、君の心がまだ不完全なのもあると思うな。アリアの魂と融合して随分経つけど、まだ安定しているとは言えない」
「…………」
「ヒトとしてまだ完成していない君と、元々人間だったフレデリックの考えが合わないのはおかしな事じゃない。君はそう……言ってしまえば未熟で、子供みたいなものだからね。もしかしたら君の言うことは我が儘とか、大人気ない癇癪だと思われている……いや、実際そうなのかもね」
そこで止めておけば、まだ良かったのかも知れない。
しかし飛鳥は止められなかった。止めるべきだという考えすら、思い付かなかったのだ。
ジャック・オーが悩んでいる。どうするべきなのかを、アドバイスしなければ。完璧な答えではないかも知れないけれど、今よりは状況が良くなる筈だ。飛鳥はそう思っていた。
ーーそれが、いけなかった。
「君とアリアの魂が完全に融合すれば情緒や思考も安定してーー」
言い終わる直前、右の頬に衝撃が走り、視界が弾けた。
何が起こったのか、理解出来なかった。少しして、頬にじんわりと痛みが生まれ、そこで自身がぶたれたのだと認識した。
何故、自分はぶたれたのか。頬に手を当て、ジャック・オーの方を見ると、彼女の目には涙が滲んでいた。
「飛鳥くんの……あす、かくんのッ……馬鹿!」
震える声で発せられたのはシンプルな罵倒だった。けれどその言葉は、飛鳥の胸に深く深く突き刺さった。
***
「……はっはは、思ったより酷い」
飛鳥の話を聞いたケイオスは、想像の斜め上を行く彼のやらかしに乾いた笑い声を上げた。
「僕も人の感情を汲み取るのが得意とは言えないけどさ……本当、君は昔から人を怒らせることに関しては天才的だよね。そこだけはノーベル賞ものだ。誰にも真似出来ない。いっそ本でも出してみたら? タイトルは『理解したつもりで相手を煽る技術』で。きっとベストセラーになるよ」
「褒めてるつもりで貶してます?」
いくら察しの悪さに定評があるとはいえ、ここまで言われると流石に腹も立つ。わざとらしい拍手をしながら言って来るケイオスに、飛鳥は思わず顔を顰めた。
「事実を言ったまでさ。全く、世界最高峰の魔法使い、ギアメーカー、マスターオブソーサリーとも言われる君がコミュニケーション能力においてエレメンタリースクールの子供以下のポンコツだなんて。いや、もしかしたら幼稚園児にも負けるかも知れないね。我が弟子ながら嘆かわしい」
飛鳥の胸中を知った上で、ケイオスは更に追撃する。彼の言っていることは決して間違いではない。全て正論だ。だからこそ、言葉の一つ一つが飛鳥にグサグサと突き刺さった。
「……貴方から、人の心について教わりませんでしたから」
「え、それ僕が悪いの?」
小さな声で絞り出した、精一杯の反撃。正論で殴ってくるのなら、こちらも正論で返そうと。必死になって考えて出したものだったが、第三者が聞けば自身のやらかしを他人のせいにしているだけの最悪な返しだった。
「確かに貴方は僕たちを導く師でありました。ですが、教えて欲しいことをいつも教えてくれる訳ではなかった」
「そりゃあね、一から百まで全部教えてたら育たないでしょ。口開けてれば親鳥からご飯貰える雛じゃないんだから」
「…………」
ケイオスの容赦の無い言葉の数々に飛鳥は閉口する。最早何を言っても勝てる気がしない。だが、それはそれとして納得もしていない様子だった。
何がいけないのか、どうすれば良かったのか。答えに辿り着けず、同じ思考を延々と繰り返している。
「じゃあ、教えてあげようか?」
口を噤み、俯いて一人で思考を巡らせている飛鳥に向けて、ケイオスは徐に声を掛けた。
「……え?」
予想していなかった提案に飛鳥は驚き、ケイオスを見やる。
「150……いや、170年ぶりになるかな。感謝しなよ? 久しぶりのレッスンだ。二度は言わない。ちゃんとそのカチコチな脳みそに叩き込むんだ」
「何か企んでます?」
「別に? ただの気まぐれさ」
絶対に怪しい。
ケイオスは自身が面白いと思うことしかしない。もし本当に気まぐれであったとしても、何かしらの対価を要求してくる筈だ。見返り無しでレッスンなんて有り得ない。
「ああ、でも」
そんな飛鳥の胸の内を悟ったのか、ケイオスはにんまりと笑いながら言った。
「冷蔵庫に入ってたどら焼き、美味しそうだったなあ」
***
数分後。
飛鳥とケイオスはダイニングスペースとして使用している部屋に移動し、テーブルを挟んで向き合う形で椅子に座っていた。
「本当に教えてくれるんですね?」
「だからそうだって言ってるじゃん。本当に疑り深いなあ、飛鳥くんは」
テーブルの上には二人分の緑茶と皿に盛られたどら焼きが置かれている。どら焼きは先日、地上に出向いたR#が土産として買ってきてくれたものだった。何でも、コロニーでは有名な和菓子屋の商品で、朝から並ばないと買えないほどの人気だとか。
留守にしているR#が帰って来たら二人で楽しむつもりだったが、背に腹は代えられない。ここでチャンスを逃せば、ジャック・オーとの仲直りは永遠に出来そうにない。内心R#に謝罪しつつ、飛鳥はケイオスが話し始めるのを待った。
「それじゃあまず前提の話するけど」
ケイオスは早速どら焼きを手に取り、頬張りながら話し始めた。
「怒られて当然じゃん」
「……当然、とは」
「女性はね、相手に助言じゃなくて共感を求める生物なんだ。まあ、今回君に求めちゃったのがそもそも間違いだったかもしれないけどね」
「僕は間違ったことを言ったつもりはありません」
「あーはいはい。そういう論理的な思考しか持てないから君はいつまで経ってもつまらないんだよなあ」
「…………」
ケイオスの言葉に、飛鳥は明らかにむっとした様子で眉を顰めた。昔からダメ出しをされることには慣れている。けれど自らをつまらないと評されるのだけはどうにも耐え難く、腹が立った。
「君が言うことは大体正論だ。でも正しい言葉って言うのは、時に人を傷付ける」
「では嘘を吐けば良かったと?」
「そうは言ってないでしょ。いきなり結論を出そうとするんじゃあない」
どら焼きの味が気に入ったのか、ケイオスはあっという間に一つ平らげてしまった。その後緑茶を一口啜り、二個目に手を伸ばしながら言葉を続ける。
「君は問題を解きたいんだろうけど、人間は問題文じゃないんだ。分かる?」
「分かりません」
「うーん、ふふ。馬鹿みたいに素直」
半ば投げやりのようにも聞こえるが、本当に分からないのだろう。飛鳥は手に持った湯呑みの縁を指でなぞりながら溜息を吐き、ケイオスに訊ねた。
「結局、どうしろと言うんですか。僕は嘘を吐きたい訳じゃない。仮に吐いても、彼女にはきっとバレてしまう。気の利いた言葉なんて直ぐには出てこない。 ……突っぱねれば良かったんですか? 僕では、その相談に乗れないと」
それはそれで彼女を傷付ける事になってしまうのではないか。どちらにしても詰みになっている様に感じられ、飛鳥は軽く唇を噛んだ。ただ、力になりたいだけなのに。友人二人の仲が上手く行くように、手助けしたいだけなのに。自分には、出来ないのか。黙っていることしか出来ないのか。自身は無力であると言われているような気がして、胃の辺りに引き攣るような感覚が走り、指先に力が籠もった。
「じゃあ聞くけど」
飛鳥の内心を読んだのか、ケイオスはどら焼きを咀嚼しながら言葉を発した。
「彼女は答えを求めていたのかい?」
「答え?」
「彼女が君に助けて欲しいと言ったのかってこと」
「それは……」
ケイオスの問いに、飛鳥は軽く目を見開き、言い淀む。確かに、ジャック・オーは飛鳥に何を求めていたのだろうか。折角自分を頼ってくれたのに。彼女なりに悩んで、困っていた筈なのに。
「君はさ、相手の事をちゃんと見てないんだよ。 ……正確に言うと、相手の言葉しか見ていない」
「……言葉以外に、何を見ろと」
「声質、間、視線、呼吸、動作……人間はいくらでも情報を出している。でも君は、それらを現象としか捉えていない」
「間違いだと言うのですか?」
納得が行かない。そんな事、学ばなくとも人間は生きていく過程で皆気付くものだ。
けれどケイオスはそれだけではないのだと言う。だとしたら過去にヒントの一つでもくれれば良かったのにと。飛鳥は苛立ちを募らせつつ、更にケイオスが語るのを待った。
「現象を否定する訳じゃない。その裏側にある『感情』を理解しなければ、真の答えには辿り着けない。視野を広く持てって、いつも言ってるでしょ?」
「…………」
昔から何度も叩き込まれた言葉だった。
術式の構築、実践での法力展開、魔力の観測。それらの応用だとでも言う様に。今の飛鳥なら、そういった分野の問題を出されても即座に答える事が出来るだろう。けれどその問題を応用して人間関係について解けと言われても、正直さっぱり分からない。
「本当、君はお勉強は出来るんだけどね……人間関係の分野だけは壊滅的に駄目だ。僕より酷いとは思わなかった。流石、ナチュラルボーンクレイジーは違うね」
「説明と一緒に僕を貶さないと死ぬ病気にでも掛かってます?」
ここまでボロクソに言われると流石の飛鳥でも落ち込みそうになる。自分が他の人間とは少しずれている自覚はあったが、ケイオスに言われると本当は自分は人間の形をした別の生き物なのではないかと錯覚してしまう。
「それで、僕は……どうすれば……」
意気消沈に近い状態で、飛鳥は小さな声を絞り出した。はっきり言ってお手上げだ。徹底的にダメ出しされて、それでも解決策が出てこない。言われた事も、理屈で理解しようとしても上手く行かない。
こうなったら、プライドとか意地とか。そういったモノは全て捨てて、なりふり構わず答えを求めようと。飛鳥は二個目のどら焼きを平らげるケイオスを見つつ、彼の言葉を待った。
「取り敢えず謝ったら?」
しかし返ってきたのは単純明快、シンプルイズベストとも言える答えだった。
もっと難しく、高尚な答えが返ってくると思っていたため、飛鳥は面食らった。謝るか謝らないかの選択肢を迫られれば、答えるまでも無い。寧ろ今謝らずして、いつ謝ると言うのか。
「……形だけの謝罪に意味はありません」
「でも悪かったとは思ってる」
「それは、そうですが」
ただ、謝るだけでは火に油を注ぐ事態になってしまうのではないか。
怒らせてしまった、傷付けてしまった理由に言及し、誠意を示す。それで許されるのならば苦労はしない。だが実際はまだ傷付いた彼女の心境を汲み取ることも出来ず、謝ろうとする気持ちだけが先行してしまっている。こんな状態で会いに行って、受け入れてもらえるのか。最悪、彼女からビンタのおかわりと親友の拳が飛んでくるかも知れない。
「それにさ、君は『理解』しようとしている」
「……え?」
想定される最悪の事態を色々思い浮かべている飛鳥を見ていたケイオスは、彼の思考を現実に引き戻そうと言葉を続けた。理解。その単語を聞いた飛鳥は目を瞬かせ、頭の中で反芻し、沈黙する。
「実際に出来るかは別として、君は彼女のことを理解したいと思っている。他人に興味が無かった昔の君を思えば、大きな進歩だよ」
別に他人に興味が無かったわけではない。飛鳥の興味の矛先が、相手の持つ興味とは少しずれていて、それによって距離が出来てしまっていた。それだけの事だ。
「ぶたれたショックで、あんな湿気た顔してたんでしょ?」
「……はい」
「以前の君なら、相手が怒って殴ってきても大して気にしなかった。怒らせてしまった、だけで終わっていた。でも今は違う。何故怒らせてしまったのかを考え、どうすれば仲直りが出来るのか、未来のために、動いている」
昔から人との距離感を掴むのが苦手だった。仲良くする、という感覚が物心ついた時から理解できなかった。子供時代にまともな友達は作れず、大学に入って初めて、友達と呼べる二人に出会った。異端児扱いされていた飛鳥を、彼らは笑顔で受け入れてくれた。本当に、唯一無二の親友たちだ。色々あったが、彼らとはこれからも付き合っていきたいと、そう思っている。
「何でも上手く行くとは限らない。でも、少しずつ歩み寄って行けば良い……そうでしょ? あの時と違って、時間はあるんだから」
「……詭弁にしか聞こえないのですが」
ケイオスの話に、飛鳥は少し困ったような表情を浮かべ、片手を顎の下に添えた。
ケイオスはそれらしく言ってはいるが、結局根本的な解決にはなっていないのではないか。
もっと専門的な知識と高度な技術について説かれると思っていた。しかしケイオスの話はどちらかと言うとカウンセリング、プロファイリングのように感じられ、飛鳥が求めているものとは少々異なっていた。そんな事でジャック・オーとの仲直りが出来るのか。不安は拭えない。
未だ納得できていない様子の飛鳥を見つつ、ケイオスは茶を飲み干すと彼を指さし、言った。
「君に可能性が存在しなかったら、僕もこんな事は言っていないよ」
「……はい?」
「君が昔と変わらず頭カッチカチ絶対自分を曲げないハチャメチャ頑固マンだったら、ここでレッスンなんてしなかったって事。 ……一応ね、期待してるんだよ。君の成長を」
「僕が、成長を……?」
「君自身は気付いていないんだろうけど。多分、あの二人も感じている筈だよ。少しずつ変わっていってるのをね」
飛鳥は目を見開いた。
肉体的な成長については最早言うまでもない。しかし、自身が精神的にも成長しているとは全く思わなかった。何か特別なことをしたのかと聞かれても、分からないとしか返せない。
良いことなのだろう。きっと。それが周囲にどのような影響を与えるかまでは、未知の世界であるが。
「はい、レッスン終わり。少しは学べた?」
「……正直、何とも言えません。ですが」
視界良好とはまだ言い難い。求める答えは掴めたとは言えない。
それでも。
「明日、地上へ行こうと思います」
ジャック・オーに謝りたい。
上手く謝れるかは分からないし、謝ることが出来ても許してくれないかも知れない。もしかしたら、彼女から話を聞いたフレデリックも怒っているかも知れない。
不安は山ほどある。拒絶されたらどうしよう、とか。またぶたれたら、嫌われたら、もう来るなと言われたら。考えれば考えるほど悪い想像しか出てこない。けれどそんな不安も、昔の飛鳥だったら全く気にしなかった。これがケイオスの言う成長なのか。
「んーふふ、ちょっとだけ良い表情になったね」
飛鳥の答えに満足したのか。ケイオスは幾度か頷き、冷めた緑茶を飲み干し、立ち上がった。
「そう。それで良い。君は頭の大事なネジが何本も抜け落ちているけれど、誠実な人間だ。諦めも悪い。君が求めるモノを掴もうと藻掻く姿は……うん、嫌いじゃない」
そう言ってケイオスは一瞬ーー本当に一瞬だが、飛鳥に向けて微笑んだ。
「……あ」
とても穏やかで、柔らかで、優しい微笑み。第一の男ーーかつての師匠が見せた救世主の、それ。全てを愛し、慈しむーー救いの眼差し。
懐かしく、暖かい。見た目から性格まで、何もかも変わり果てたと思っていたが、当時の面影が確かにあったことに、飛鳥は何故か胸が締め付けられる感覚を覚えた。
「……、師匠」
「じゃ、またビンタされないように気を付けてね」
それは励ましか、皮肉か。
ケイオスは飛鳥が何か言う前に空間を歪め、そこへ溶け込むようにして姿を消した。
***
「それで、仲直りは出来たんだ?」
後日。
地上でのデータ収集を終えて帰還したR#は、憑きものが落ちた様な顔をしている飛鳥を見て、そう訊ねた。
「うん、何とかね。許して貰えたよ。フレデリックには結構怒られたけど」
彼らの住処へーー念の為菓子折も持ってーー向かい、出迎えてくれたジャック・オーに飛鳥は真っ先に頭を下げた。思っていたよりも緊張し、用意していた謝罪の言葉はたどたどしいものになってしまった。そんな飛鳥を見たジャック・オーはくすりと笑い、この前の事はもう怒っていないと言ってくれた。安堵はしたが、後から出てきたフレデリックにはきっちり説教をされ、「次やったらファフニール叩き込む」と釘も刺された。
「良かった。あのまま喧嘩別れなんてしたら、君は耐えられないだろうから」
「は、はは……そうだね。僕もそう思う」
覚悟はしているるもりだったが、実際に許さないと言われていたらと思うとぞっとする。二度と来るなと言われた日には、心身共に塵となって消えていたかもしれない。
「……師匠のアドバイスのお陰だ」
あの時の、二人だけの授業。内容はお世辞にも分かりやすいとは言えず、意地の悪さも感じられる内容だった。結論という結論も無かった。
それでも、前を見て、向き合って、話そうと思った。様々なことを考えるきっかけとなった。
「僕は色々理解しているつもりだったけど。そんな事は無かった。それを痛感したんだ。僕には課題点、反省点が多すぎる。全部解決していくのは大変だけれど、少しずつ……いや、一つずつ乗り越えて行って、もっとフレデリックたちの事を理解したいんだ」
「へえ……驚いたな。君の口からそんな言葉が出てくるなんて」
これが成長というものなのか。R#の意外そうな表情を見て、飛鳥はケイオスの言葉を振り返った。成長とは、自分の中に眠る可能性を形にしていくことでもある。そして、人は成長するたびに、未来の選択肢を増やしていく。
「あと、君には反対されるかも知れないけど」
クリアになった思考は留まることを知らず、飛鳥は更に言葉を続けた。
「僕は師匠の事も、『理解』したい」
第一の男を、かつての師を、ハッピーケイオスという存在を。
「僕はあの人の事を、全然知らないんだ。趣味も、好きな食べ物も、苦手な事も、何をしたら喜ぶのかも」
遠い昔の師匠は、厳格な人だった。魔法を究め、人類の幸福の為に尽力し、やがて人知れず消えて行った。
それなりに長い時間を共にしたつもりだったが、今思えば知らないことばかりだった。尊敬はしていた。でも、それだけだった。彼は自らの事を語らなかったし、飛鳥も踏み込むような事はしなかった。しなくても、分かっているつもりだった。
だから、知りたい。知った上で、歩み寄りたい。
「……ああ、うん。僕は賛成しかねる、かな」
飛鳥の言葉を聞いたR#は、露骨に顔を顰めて見せた。
彼はケイオスの事を嫌っている。オリジナルである飛鳥が、そのケイオスを理解したいと言うのだから、当然の反応ではあるが。
「でも、君がフレデリックたち以外の存在に興味を持つ日が来るなんてね。対象が師匠で無ければ手放しに喜んだんだけど……まあ、君がそれを望むって言うなら、僕に止める権限は無いよ」
R#の記憶の中にある飛鳥は、他者に対し無関心であった。フレデリックとアリアという親友が出来たのも、本当に奇跡だった。それを思えば、大きな進歩、確かな成長だ。非常に不本意ではあるが、どうすれば止めろなんて言えるだろうか。
お手上げだとばかりに肩を竦めるR#の言葉を聞き、飛鳥がはにかむように笑った。
「ありがとう、そう言ってくれると何だか……嬉しいな」
「駄目だって言ったら止めるのかい?」
「うーん、ちょっと難しいかも?」
「だろうね。だから、好きにすれば良いと思う」
これで良いのだ。世界から魔王と呼ばれ、恐れられていた飛鳥が変わる。人間離れしていた彼が少し、本当に少しだけ。本来の人間らしさを取り戻した。バックアップとして、これほど喜ばしい事象があるだろうか。
オリジナルである飛鳥の成長の瞬間に立ち会えた事が嬉しく、R#もまた微笑んだ。
「ところで飛鳥、聞きたいことがあるんだけど」
「何だい?」
ただ一つ、R#はどうしても聞いておかなければならない事があった。
飛鳥の傍に立ち、片手を彼の肩にぽんと置きながら。R#は微笑みを崩さずに、言った。
「この間僕が買ってきたどら焼きがいつの間にか無くなっていたんだけど、心当たりはある?」
「……あ」
言われる瞬間まで、すっかり忘れていた。
ケイオスの話を聞くために、飛鳥はR#が買ってきたどら焼きを差し出した。そしてその事を、今日まで本人に説明していなかったのだ。
R#は飛鳥と一緒に食べるためにわざわざ買ってきてくれた。そのどら焼きを、黙って第三者ーーそれも彼が嫌っているケイオスと食べてしまった。R#は既に気付いているのだろう。全身の血がざぁっと引いていく気がした。
「どうしてどら焼きが無くなっていたのか……説明してくれるよね?」
その後飛鳥は正座させられ、R#の長い説教を聞かされる羽目になった。
