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 からんころん、とドアベルが木の音色を奏でる。ほとんど無意識に向けた視線の先で、やっぱりと言うかなんと言うか、予想通りの男が軽薄な笑みを浮かべていた。

「やぁ給仕さん、今日も世界中の絶景よりも美しく麗しい瞳だね」

 軽やかな足取りでやってきた太宰は、給仕の手を取って口付けをした。もしも言葉が風船でできていたら、今ごろ天井は太宰の口説き文句で埋めつくされていただろう。それくらい重みを感じないし中身もない。いつも通りのそれを気に留めることなくなまえは手を引っ込めた。

「またサボり?」
「これは断じてサボりではない、息抜きだ」
「一日に何回息抜きする気?」
「私は働き詰めの給仕さんが心配なのだよ。君は真面目過ぎる。このままだと国木田君のように堅物眼鏡になってしまうよ」
「はいはい」

 饒舌な太宰を無視してカウンターに戻る。次の太宰の台詞はツレないねぇだ。「ツレないねぇ」ほら来た。予想通りの来店に予想通りの台詞。いつからか日常になったやり取りが満更でもないのは太宰も同じなのだろう。カウンター席に腰掛けた太宰は上機嫌に歌を口ずさんでいた。心中は一人ではできない。でも二人ならできる。すっかり覚えてしまった歌詞は、太宰と過ごした時間の証明みたいで悪くない。なんて口にした日には口説き文句のバーゲンセールが始まるのが目に見えてる、余計なことは言うもんじゃない。「悪くないね、こういう時間も」見透かしたような台詞にこれだから嫌、となまえは胸の内でこぼした。

「ところで給仕さんしかいないのかい?」
「買い出しに行ってるよ」
「ワンオペか、劣悪な労働環境だね。マスターに抗議したらどうだい?」
「表のCLOSEが見えなかったの?」
「うふふ、見えてた」

 知ってる。だっていつも見計らったように来るでしょ。頭に浮かんだ文句の代わりに「ご注文は?」と促してやる。太宰の行動にいちいち突っ込んでいたら日が暮れてしまう。呆れ顔のなまえに満足した太宰はいつもの、と続けた。

「『いつもの』なんて商品はありません」
「うふふ、反抗的な態度も可愛らしいね」
「今営業中じゃないのでつまみ出しますよ」
「つまり給仕さんのプライベートタイムということだ。どうだい、私とお茶でも」
「無敵かこの人」
「だって……こうでもしないと君との時間を取れないだろう?」

 甘く囁いた太宰が目を細める。見せつけるように口唇に手を当て、熱を帯びた瞳がなまえを見つめていた。もしも恋人同士だったとしたら、甘く切ない訴えに応えたくなるものだろう。けれども相手はあの太宰だ。人心掌握の権化なのだ。よく出来た台詞も仕草も何もかも、太宰にとっては蝿を叩くより容易いはず。こんな分かりきった手口に騙されるわけにはいかない。

「どうしてわたしに拘るの」
「君に興味があるからだよ」

 何より安吾との約束がある以上、太宰を踏み込ませるわけにはいかなかった。

「治ちゃんは気が多いね。この間もそんな感じで美女を口説いてたでしょ」
「いい加減“治ちゃん”はやめてほしいのだけど」
「治ちゃんは治ちゃんだよ」
「それで話を逸らした心算かい?」
「治ちゃんこそ美女を口説いてた弁明はないの?」
「ない。そこに美女がいたから口説いたまでだよ」
「ならその美女を誘いなよ」
「生憎、昨日振られたばかりだよ」

 わざとらしくため息をついた太宰が首を振る。これ以上中身のない応酬を続ける気はないらしい。珈琲一つ!と声を荒らげると、不貞腐れたようにそっぽを向いてしまった。子供じみた仕草も演技なのだろうか。ぽつりと浮かんだ疑問は、考えても無駄だとすぐに打ち消した。
 途切れた話題はそのままに、なまえは慣れた手つきでカップに手を伸ばす。店を閉めていたとはいえ、珈琲の準備をしていなかったわけじゃない。ただ、太宰の口車に乗せられるのが気に入らなかっただけ。そこまで考えてからはっとする。やってることが太宰とあまり変わらない。

「どうぞ」

 若干の気恥しさを誤魔化すようにカップを置く。淡く湯気が立ち上り、珈琲のほろ苦い香りが鼻腔をくすぐった。部屋中が珈琲の香りで包まれているはずなのに、淹れたての珈琲が格別な気がするのはきっとなまえだけじゃない。無言のままカップを手に取った太宰が口をつけ、そっと頬を綻ばせた。

「上達したね」
「ありがとう。ツケとくから」
「容赦ないねぇ…」

 それきり太宰は口を噤んだ。
 コチ、コチ、と一定のリズムを刻む時計の針。窓の外では雨が降り続いている。よく見れば、太宰の髪は湿気を含んで膨張しているように見えた。いつもと同じ風景に、いつもと同じ台詞、そしてちょっぴりうねりを帯びた髪を見て、なまえは確かに悪くないかもね。こういう時間も。と太宰の言葉をなぞった。


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