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来栖暁固定
主人公が完全に自キャラ
読んだら具合悪くなります
ずっと独りだった。ずっと孤独だった。わたしの世界は酷く冷たかった。だけどあの日、彼が手を差し伸べてくれたとき、世界が大きく変わって見えた。
わたしを見てくれて、受け入れてくれる。悩んでいれば解決を手伝ってくれて、悲しいときは大丈夫だよって励ましてくれる。彼はいつだって優しかった。
彼は色んな意味で人気者だった。
とある事情を抱えて秀尽学園に転校してきたらしい。詳細はわからないけれど、転校初日から彼が前歴持ちだという噂が流れ始めた。クラスの人間と深く関わることのなかったわたしの耳にまで入ってくるほどに、噂は瞬く間に広がっていった。それでも、孤独だったわたしには関係なかった。
だけど今は。
転校に加え悪い噂が絶えない彼の周りには、いつだって他の誰かがいた。
不良で有名な元陸上部の男子、
帰国子女でモデルの子、
同じクラスで生徒会長のあの子だってそう。
みんなに囲まれて楽しげに笑う彼を見ていると、器官を狭められたように息苦しくなる。胸の奥を何度も刺されているような痛覚さえやってきて、胸元から血が流れる幻を幾度となく見た。現実で起こるわけもないのに、日に日に強くなっていく妄想は現実と区別がつかないほど鮮明で、彼のことを考える時間はどんどん増えていって、気づいたときには思考の渦から出られないほど奥まできてしまっていた。
誰の言葉も耳に入らないほど奥底で、甘美な夢を見続けている。
わたしだけを見てほしい。みんなと一緒は嫌。わたしは特別だよって、あなたの口から聞きたい。贅沢だってわかっていても、夢物語で終わらせることもできなくて。
たとえこの気持ちが全て歪みきっていたとしても、彼がわたしを見てくれるためならなんだってする。それ以外を考えられないほど、心が囚われてしまっているのに。それすらも心地よくて。
当然のように歪んでいく欲望を、止めることができなかった。
▽
目を開くと見慣れない天井が広がっていた。起き上がるなりやってきた嘔気に暁は顔をしかめた。何度か瞬きを繰り返しても視界が鮮明になることはなくて、霧が広がったようにくすんで見えた。天井が見えるということは体は寝転がっているらしい、どうにも前後の記憶が曖昧だ。浮遊感の残る体を起こそうとして「あ、起きた」聞き慣れない声がした。
「おはよ。暁くん」
「………?」
中途半端に上体を起こしかけた暁へずいと距離をつめてきた人物は、にっこり微笑んで首を傾げた。合わせてふわりと揺れる髪を目で追い、もう一度視線を戻す。一応目を擦ってみたものの、暁の視界に映る女性に見覚えはなくて、今度は暁が首を傾げる番だった。
「俺の知り合い、なのか」
「えっ」
酷いよ暁くん。彼女の顔も忘れちゃったの?悲しそうに俯いたその顔に、いつかの記憶が重なって見えた。
「え、あ、みょうじさん…?」
「びっくりしたー!そうだよね。暁くんがわたしのこと忘れるわけないもんね」
ぱっと顔を上げて「暁くんは意地悪だなぁ」と膨れているその顔は、紛れもなく同じ学園の生徒であるみょうじなまえ、のはずだが。暁の記憶の中にいるなまえとは対照的で、どことなく雰囲気の明るい様子はやや違和感があった。いや、それよりも。もっと大きな違和感といえば。
「俺たち、付き合ってませんよね?」
浮かんだ疑問をそのまま口にすると、なまえはきょとんとしていた。クラスどころか学年すら違う彼女と接点が多いわけでもなく、正確にあげられるのは顔と名前、ふたつの情報のみだ。人となりを知っているわけじゃない。そんなものなまえだって同じはずだ。
なのに、どういうわけか目の前にいるなまえは「どうしてそんなこと言うの」と表情を曇らせていくばかりだった。
「わたしの暁くんはそんなこと言わない」
「は……?」
「ね、暁くん」
何言ってるんだ。喉まで出かかった言葉は、顔だけを後方へ向けたなまえを見て飲み込んだ。
なまえの後ろに立っている人影は、鏡合わせのように暁と瓜二つだったからだ。
真横にいたなまえが立ち上がり、暁そっくりの男の腕にすり寄っていく。満更でもなさそうになまえの手をとった男は、そのまま頬に手を添えた。は、嘘だろ。思わず伸ばした暁の手の先で、二人の唇が重なった。
「……キスするときは眼鏡外してって言ったじゃん」
「悪い悪い、忘れてた」
「いや、待てって、」
「暁くんはわたしのこと好き?」
「言わなくてもわかるだろ」
「わたしは暁くんのこと好きだよ」
「俺も、」
「……ちょっと待てっていってんだろッ!大体ッ、なんだよそいつ!俺とそっくりで、同じ顔で、それで付き合ってるとか。意味わかんねぇッ、から」
互いの体を抱き寄せ、甘い言葉を囁きあうふたりに向かって叫ぶ。「そもそもこんな場所に来た覚えはない!ここはどこなんだ、説明しろ!」瓜二つのこいつが、暁と同じ顔をしたやつが、身に覚えのない女性とキスまでしてのけた男が。心底気持ち悪くて仕方なかった。
やけに渇く喉で叫び終わったころには、得体の知れない疲労感に苛まれていて暁は頭を振った。
これはきっと夢だ。自分と同じ顔をしたやつが現実に存在するわけがない。言い聞かせるように目をぎゅっと瞑ると「暁くん」静かな声がすぐそばで聞こえた。
「暁くんを、わたしだけのものにしたかったの。ずっと、ずっとずっとずっと前から。やっとそれを実現できるの、だから」
大人しくしてて。
その言葉を合図に、なまえの横にいる暁だったものの形状がみるみるうちに変わっていく。化けの皮が剥がれたように姿を現したそれを見て、視界の靄が吹き飛ばされるように消えていった。すとん、と今さら降ってきた記憶にあ、と思ったときはすでに暁だったものとなまえ───のシャドウに体を押さえ込まれていた。
「すぐに終わるよ。そうしたら、ずっと一緒にいられるね」
そうだ、確か仲間たちと一緒にメメントスを散策しに来ていた。怪盗お願いチャンネルに書き込まれていた依頼をこなし、帰路へとつこうとしたとき。モルガナカーに戻るその一歩手前で、認知の歪みに飲み込まれて、それで。
「今日からよろしくね。暁くん」
注射器のようなものを振りかざしたなまえは邪気のない笑みを浮かべ、
暁の腕にその先端を射しこんだ。
▽
「みょうじ、さん……やめ……」
「ねぇ、何回言わせるの。なまえって呼んでって言ってるでしょ」
注射器を突き立て、何本目になるかわからない液体を体内へ流し込んでいく。さっきまで弱々しく抵抗していた暁くんは、力なく腕を下ろしてしまった。押さえつける必要もないほど疲弊してしまったその姿に、気持ちが昂ってしょうがない。
この薬は、わたしと暁くんを繋ぎとめておくために必要なもの。朦朧とした意識の中で瞬きを繰り返す暁くんに口づけをした。
「ぅ、…………っ、なまえ、ッ」
「うん、なまえだよ。じゃあわたしと暁くんはどういう関係?」
「俺たち、は………ッ、ちがう、俺たちは付き合って」
ない、なんて言わせないようにもう一度口を塞ぐ。かすかに肩を押してくるその手を退けて、指先で暁くんの体をなぞっていく。下へと移動させていくにつれて、暁はぴくりと素直に体を跳ねさせた。それと同時に緩んだ口元へ舌をもぐりこませる。暁くんの舌を絡めとったころにはすっかり肩にかかる力は抜けてしまっていて、内心くすりと笑った。
「ねぇ暁くん、嫌じゃないんでしょ?」
「………ッ、こんなの」
「ずるいって言うつもり?じゃあやめる」
今にも触れようとしていたそこから手を離し、暁くんに覆い被さっていた体を起こした。わたしをじっと見つめてくる両眼は、薬が効きすぎてしまっているせいか焦点が合わない。そのくせ熱だけはしっかり宿っていて、やっぱり嫌じゃないんじゃん、と呟いてみせる。
「なまえ…………なまえ、」
「なーに?」
「……………すき。すきです。すき、だから、俺、俺もすき、なまえがすき」
「うん。わたしはね、暁くんよりもずっとずっと好きだよ」
鼻先がぶつかりそうなほど顔を近づけ、ぴたりと止める。痺れを切らすように腕を引かれ、世界が180度回転した。気がつけば暁くんに押し倒されているのはわたしで、噛みつくみたいに勢いよく押しつけてきた唇が重なった。
暁くんがわたしを求めてくれている。それだけで体が熱くて熱くて溶けてしまいそうなほど、暁くんのことが好きで好きでしょうがなくて。手段が間違っていても、本心からわたしを望んでくれればそれでいいじゃない。わたしは暁くんが好きで、暁くんだってわたしを求めている。それを邪魔するものは何もかも排除する。たとえばそれが記憶なら、全部消えてしまえばいい。
床に転がっている注射器を見てそんなことを思っていると、こっちを見ろといわんばかりに顔を固定され、また身体が疼いた。
▽
浮上していく意識とともにやってくる不快感。喉よりもずっと奥で、ぐるぐると何かをかき混ぜているような気持ち悪さ。もう何度目かわからないそれらをぐっと堪えて、暁は腕にのしかかっている彼女に声をかけた。
「なまえ」
「ん、」
「朝だよ。学校行かないと」
素肌を晒したままううんと唸っているなまえの肩に、毛布を引っ張ってかけてやる。覚醒しきらない瞼をしょぼしょぼとしばたたかせているなまえの頬に、そっと口づける。ばち、と弾かれるようにして目を丸くしたなまえの顔は文字通り真っ赤に染まっていて、布団を持ち上げたその姿はいじらしいとさえ思えた。
「お、おはよ………ゴザイマス」
「なんだよそれ。いい加減慣れろって」
「だって、恥ずかしいじゃん」
布団の下で抗議を続けるなまえに、悪戯心が勝り暁は手を伸ばした。そのまま布団を掴んで引きはがすと、なまえの白い肌があらわになって、窓から差し込んだ光に照らされた。羞恥で俯いたその顔に、ごくりと喉がなった。
「………なまえ」
「あーもう!早く用意しなきゃ」
逃げるように布団から出ていったなまえを見送り、暁は息を吐いた。朝から一発かまして遅刻、なんて笑えない。保護観察の身である自分がそんなことをして、バレたら不純何たらで取っ捕まるかもしれない。苦笑いをして、寝起き以外の理由で忠実に反応している自身を隠すように腰を引いた。
まぁ、引いたところで何も身につけていないのだから、あまり意味をなさないのだけど。
「暁くんほら、遅刻しちゃうよ。いつまで布団の中にいるの」
「わかったわかった」
忙しなく戻ってきたなまえはすでに制服を着用していて、渋々布団から体を出した。見計らったように「暁くんのえっち」という言葉が飛んできて首を振る。
「生理現象だよ。なに変なこと考えてんだ、変態はそっちだろ」
「バカ!」
ぺち、と尻を叩いて逃げていったなまえは部屋を出ていってしまった。叩き逃げやめろ。服着て変態。とりとめのないやり取りしつつ、まぁ、変なことを想像したのは俺だしそれもなまえのせいだけど。と胸中で言い訳を足しておいた。
なまえの家に、いや、なまえの歪んだ認知世界にきてどれくらい経ったか。幾度となく飛んでいく記憶に数えるのをやめた。おかしな薬を打たれるたびに霞んでいく記憶と視界、一日中へばりついてくる倦怠感。それが嫌で、何でもなまえの言うとおりにした。言うことさえ聞いていれば、あの妙な薬を持ち出すことはない。だからここ数週間──といっても正確に何日経ったかは不明だが──の記憶はある。隙をついて、すぐにでもこの世界から脱出する、
つもりだった。最初は。
綺麗に折り畳まれている暁の服を広げ、袖を通した。洗面所に向かい鏡の前で襟を正すと、廊下からなまえがひょっこりと顔を覗かせた。
「今日も暁くんは格好いいね」
「つき合いたてのカップルかよ」
「なにそれ、わたしたちまだ高校生だよ。もっと乗っかってよ」
「俺がそんなタイプに見える?」
「見えない。でも好き」
ぎゅっとくっついてきたなまえへ腕を回し、同じように抱きしめてやる。へへへと気の抜けた顔で笑うなまえに、心の奥をくすぐられる。嫌じゃないのだ、こうされるのも。それよりもっと先のことをするのも。最初は薬のせいにできていたことも、徐々に鮮明になっていく頭では言い訳ができなくなったことに気づいてしまった。
俺は、この人のことが好き。なまえがこんなことをしてしまっているのも全部俺のせい。誰にも迷惑をかけていないのだし、いっそこのままでもいい。そう思えてしまうほどとっくになまえの世界に沈んでしまっていた。過程がどうであれ、今ある気持ちは本物だ。
だから今日も、偽りの世界でなまえにキスをする。現実から目を逸らすように何度も口づけをする。大人しく受け入れたなまえはまた顔を真っ赤にして、強請るように目を閉じた。
▽
どんなに苦労をして手に入れたものでも、腕の中からすり抜けていくのは一瞬だ。信頼を失うときにも似ているそれは、いつだって唐突で残酷だ。
「やっと見つけた!」
「…ったく、心配させやがって」
「無事でよかった」
突如として現れた仮面の集団は、暁くんを囲って安堵の表情を見せていた。その姿に見覚えがある。あれは、何度も何度も見せつけられてきた“仲間”だ。わたしが欲しくてたまらなかった居場所を堂々と占領してくる邪魔なもの。
また奪われる。何もかも。膝から崩れ落ちるようにして床にへたりこむと、中心にいたはずの暁くんがみんなを押しのけてわたしのところに来てくれた。
「なまえ……!俺、」
「またひとりになっちゃうのかな」
「俺、は…………」
「嫌だなぁ。せっかく幸せになれたのに」
目に溜まっていた涙が溢れて頬を濡らしていく。それを指で拭う暁くんの表情は悲痛に満ちていた。可哀想なやつ、とでも思われているんだろうか。自分の欲望に振り回されて、制御できなくなった哀れな女。暁くんの口から聞きたくなくて耳を塞ごうとすると「何が幸せになれただ!」金髪の人から怒号が飛んでくる。
「こんな世界閉じこもって、暁の気持ちも考えねえで好き勝手やって、幸せなのはテメェだけだろうが!」
「本当に好きなら、ちゃんと現実で暁に向き合いなよ」
同じく長髪の金髪を揺らす子は、きっとモデルのあの子だ。髪を弄ぶようにして言われた言葉が、ずんと心にのしかかってくる。その通りだ。わたしは現実で向き合うことから逃げて、自分の空想世界を作り上げてしまった。それが一番楽だったから。最も傷つかなくて、手っ取り早く幸せになれる方法だったから。そんな幸せを真っ向から否定されて、堰をきったように溢れてくる涙は止まってくれそうになかった。
声を上げそうになるのを唇を噛んで耐えていると、目の前の暁くんにぎゅっと抱きすくめられた。
「なまえ、俺、俺も好きだから。なまえのこと。だから、」
「…………いいよ、もう。ごめんね」
こんなことはもう、終わりにしなくちゃいけない。いつまでも現実から目を逸らしていられない。こうして見つかって、一応わたしのほうが年上なのに説教までされてしまって、自分で自分が情けなくて、変わらなきゃって思わされる。暁くんの隣にいたいなら相応しい人にならなくちゃ。胸を張って肩を並べるあの子たちみたいに。
言わされるがまま愛の言葉を繰り返してきた暁くんに向かって首を振る。欲望を手離すために、もういいんだよという思いをこめて。
なのに、暁くんの表情が晴れることはなかった。
「なん、で………俺は本当に好きで」
「暁くん?もう言わなくていいんだよ」
「………勝手に、終わりにするつもりかよ。そんなの、ないだろ」
「暁くん……」
きっとまだ薬が切れていないんだろう、うわ言のようにずるいと呟いている暁くんの背に腕を回す。一度だけぎゅっと力をこめて体を離そうとすると、嫌がるように腕が伸びてきて、まだそんな風に求めてくれる姿が名残惜しいとさえ思えてくる。
だけど終わりにする。不安そうにこちらを見てくるみんなが暁くんを待っているんだから。
なおも伸びてきた手にそっと小さな布を乗せた。
「なに、これ」
「これがね、わたしの欲望の始まり。こんなものがって思うかもしれないけど、案外恋ってしょうもないことから始まったりするから。ずっと返せなくてごめんね」
光に包まれて消えていく体は、現実のわたしの元へとかえろうとしている。渡したハンカチをぐしゃりと握りしめた暁くんは涙を流していたような気がしたけれど、最後にわたしの欲望が見せた幻覚だったのかもしれない。薄れゆく意識の中で、暁くんに好きだよと言った声は届いているのだろうか。確認する術はもうなかった。
▽
ぐしゃり。ポケットに突っ込んだハンカチを握りしめる。広げたらしわくちゃになっているであろう布切れなんかに興味はなくて、暁の頭の中を占領し続けているのはひとりしかいなかった。
「おい、大丈夫か?オマエこの間からずっと変だぞ」
「……なにが」
「それ、またあのハンカチ持ってるだろ。家でもずっと握ったままだし」
「気に入ってるんだよ」
「ハンカチを?」
「そういうときもある」
「やっぱちゃんと診てもらえって。タケミだっけか。フタバが言ってたがあの薬」
「終わった話だろ」
鞄の中から聞こえる声に語気を強めて言い返した。まぁそうだけどよ、と腑に落ちないまま奥に引っ込んだモルガナは、それきり何も言わなくなった。
あの日、現実世界に帰って早々「なまえはどういうわけかパレスに近い何かを作り上げていた」「そこにあった薬は一種の洗脳薬のようなもので、服用し続けると意識が朦朧とする。最悪記憶が飛ぶ」という話をされ、心底どうでもいいと突っぱねるところだった。そんなこと自分が一番わかっているし、今さら説明されるほどのことでもない。適当に聞き流すと、器がでかすぎると茶々を入れられた。
経過を見守って、後遺症等が残るようなら医者に診てもらう。それで話はまとまった。別に異常なんて感じていないし、仮に何かしらあったとしても、なまえを好きになるための行程なら仕方ない。最後の言葉は口には出さずに留めておいた。どうせまだ洗脳が解けていないなどとつまらないことを言うに決まっているからだ。
なまえが好きだ。暁のその気持ちが変わることはなかった。仲間たちの言う“洗脳されているから好意を持っていると誤解している”を信じて何日か経った今も、なまえへの思いが消えることはなかった。廊下ですれ違う彼女を見るたびに、あの世界で過ごした記憶が甦って虚しくなる。あれを現実にしたい。欲求は日を追うごとに増していって、ハンカチが視界に入るたびにむしゃくしゃした。
ポケットの中で潰れてしまっているであろうハンカチを握りしめたとき「あの、」耳に馴染んだ声が聞こえて脊髄反射のように顔をあげた。
「来栖くん、おはよ」
「………なまえ?」
「え、あれ名前…………まぁいいや。これ」
おずおずと差し出されたものを受けとると、もう片方の手で握りしめている布切れと全く同じものがそこにあった。
「ずっと前に貸してくれたハンカチ、返しそびれちゃってさ。ちゃんと返さなきゃって思って」
ごめんね。あのときと同じように眉を下げて無理やり笑顔を作っているなまえを見て、心臓を掴まれたように苦しくなる。
何よりも、他人という線引きをされているこの距離感がもどかしかった。なまえは何も覚えていなくたって、こっちは昨日のことのように思い出せるのに。なかったことにされるのが、悔しかった。
「わたしさ、ずっと自分の世界に閉じこもってたんだ。だけど来栖くんが貸してくれたハンカチ見てたら変わらなきゃって思えたから。だからありがとね。これからは前向いて生きてくよ」
まずはクラスの人たちとコミュニケーションとることから始めなくちゃね、と明るい笑顔を見せたなまえの表情は一切の陰りもない。改心が成功しているその姿にほっとしたと同時に、暁の胸の奥で欲望が渦巻いた。
渡されたハンカチを反対側のポケットへ突っ込み、なまえの手を取る。
「ちょっと」
「じゃあ手始めに、俺と会話の練習するっていうのはどう?」
「………来栖くんとかぁ」
「嫌?」
「嫌じゃないけどさ。…ていうか何この手」
「スキンシップ」
「距離感ガバガバか!離してよ恥ずかしい。いつの間にか名前呼んでるし」
「俺のことも名前で呼んでよ」
「だから距離感!」
わたしより年下ってみんなこういう感じなの、と独りごちたなまえの頬は赤みがかっている。どういう感情からくるものなのか理解している暁は口角を上げた。
絶対に逃がさない。なまえが俺をこんな風にしたのだから、自分だけ前を向こうだなんて許せるわけがない。現実世界で落とすのはそう難しくないことなんて言うまでもなくて、あいてしまった距離を埋めるように指を絡めた。
2020.7.11
いつだか放棄したネタをリサイクル
2023.10.23
加筆修正/胃もたれしそう
主人公が完全に自キャラ
読んだら具合悪くなります
ずっと独りだった。ずっと孤独だった。わたしの世界は酷く冷たかった。だけどあの日、彼が手を差し伸べてくれたとき、世界が大きく変わって見えた。
わたしを見てくれて、受け入れてくれる。悩んでいれば解決を手伝ってくれて、悲しいときは大丈夫だよって励ましてくれる。彼はいつだって優しかった。
彼は色んな意味で人気者だった。
とある事情を抱えて秀尽学園に転校してきたらしい。詳細はわからないけれど、転校初日から彼が前歴持ちだという噂が流れ始めた。クラスの人間と深く関わることのなかったわたしの耳にまで入ってくるほどに、噂は瞬く間に広がっていった。それでも、孤独だったわたしには関係なかった。
だけど今は。
転校に加え悪い噂が絶えない彼の周りには、いつだって他の誰かがいた。
不良で有名な元陸上部の男子、
帰国子女でモデルの子、
同じクラスで生徒会長のあの子だってそう。
みんなに囲まれて楽しげに笑う彼を見ていると、器官を狭められたように息苦しくなる。胸の奥を何度も刺されているような痛覚さえやってきて、胸元から血が流れる幻を幾度となく見た。現実で起こるわけもないのに、日に日に強くなっていく妄想は現実と区別がつかないほど鮮明で、彼のことを考える時間はどんどん増えていって、気づいたときには思考の渦から出られないほど奥まできてしまっていた。
誰の言葉も耳に入らないほど奥底で、甘美な夢を見続けている。
わたしだけを見てほしい。みんなと一緒は嫌。わたしは特別だよって、あなたの口から聞きたい。贅沢だってわかっていても、夢物語で終わらせることもできなくて。
たとえこの気持ちが全て歪みきっていたとしても、彼がわたしを見てくれるためならなんだってする。それ以外を考えられないほど、心が囚われてしまっているのに。それすらも心地よくて。
当然のように歪んでいく欲望を、止めることができなかった。
▽
目を開くと見慣れない天井が広がっていた。起き上がるなりやってきた嘔気に暁は顔をしかめた。何度か瞬きを繰り返しても視界が鮮明になることはなくて、霧が広がったようにくすんで見えた。天井が見えるということは体は寝転がっているらしい、どうにも前後の記憶が曖昧だ。浮遊感の残る体を起こそうとして「あ、起きた」聞き慣れない声がした。
「おはよ。暁くん」
「………?」
中途半端に上体を起こしかけた暁へずいと距離をつめてきた人物は、にっこり微笑んで首を傾げた。合わせてふわりと揺れる髪を目で追い、もう一度視線を戻す。一応目を擦ってみたものの、暁の視界に映る女性に見覚えはなくて、今度は暁が首を傾げる番だった。
「俺の知り合い、なのか」
「えっ」
酷いよ暁くん。彼女の顔も忘れちゃったの?悲しそうに俯いたその顔に、いつかの記憶が重なって見えた。
「え、あ、みょうじさん…?」
「びっくりしたー!そうだよね。暁くんがわたしのこと忘れるわけないもんね」
ぱっと顔を上げて「暁くんは意地悪だなぁ」と膨れているその顔は、紛れもなく同じ学園の生徒であるみょうじなまえ、のはずだが。暁の記憶の中にいるなまえとは対照的で、どことなく雰囲気の明るい様子はやや違和感があった。いや、それよりも。もっと大きな違和感といえば。
「俺たち、付き合ってませんよね?」
浮かんだ疑問をそのまま口にすると、なまえはきょとんとしていた。クラスどころか学年すら違う彼女と接点が多いわけでもなく、正確にあげられるのは顔と名前、ふたつの情報のみだ。人となりを知っているわけじゃない。そんなものなまえだって同じはずだ。
なのに、どういうわけか目の前にいるなまえは「どうしてそんなこと言うの」と表情を曇らせていくばかりだった。
「わたしの暁くんはそんなこと言わない」
「は……?」
「ね、暁くん」
何言ってるんだ。喉まで出かかった言葉は、顔だけを後方へ向けたなまえを見て飲み込んだ。
なまえの後ろに立っている人影は、鏡合わせのように暁と瓜二つだったからだ。
真横にいたなまえが立ち上がり、暁そっくりの男の腕にすり寄っていく。満更でもなさそうになまえの手をとった男は、そのまま頬に手を添えた。は、嘘だろ。思わず伸ばした暁の手の先で、二人の唇が重なった。
「……キスするときは眼鏡外してって言ったじゃん」
「悪い悪い、忘れてた」
「いや、待てって、」
「暁くんはわたしのこと好き?」
「言わなくてもわかるだろ」
「わたしは暁くんのこと好きだよ」
「俺も、」
「……ちょっと待てっていってんだろッ!大体ッ、なんだよそいつ!俺とそっくりで、同じ顔で、それで付き合ってるとか。意味わかんねぇッ、から」
互いの体を抱き寄せ、甘い言葉を囁きあうふたりに向かって叫ぶ。「そもそもこんな場所に来た覚えはない!ここはどこなんだ、説明しろ!」瓜二つのこいつが、暁と同じ顔をしたやつが、身に覚えのない女性とキスまでしてのけた男が。心底気持ち悪くて仕方なかった。
やけに渇く喉で叫び終わったころには、得体の知れない疲労感に苛まれていて暁は頭を振った。
これはきっと夢だ。自分と同じ顔をしたやつが現実に存在するわけがない。言い聞かせるように目をぎゅっと瞑ると「暁くん」静かな声がすぐそばで聞こえた。
「暁くんを、わたしだけのものにしたかったの。ずっと、ずっとずっとずっと前から。やっとそれを実現できるの、だから」
大人しくしてて。
その言葉を合図に、なまえの横にいる暁だったものの形状がみるみるうちに変わっていく。化けの皮が剥がれたように姿を現したそれを見て、視界の靄が吹き飛ばされるように消えていった。すとん、と今さら降ってきた記憶にあ、と思ったときはすでに暁だったものとなまえ───のシャドウに体を押さえ込まれていた。
「すぐに終わるよ。そうしたら、ずっと一緒にいられるね」
そうだ、確か仲間たちと一緒にメメントスを散策しに来ていた。怪盗お願いチャンネルに書き込まれていた依頼をこなし、帰路へとつこうとしたとき。モルガナカーに戻るその一歩手前で、認知の歪みに飲み込まれて、それで。
「今日からよろしくね。暁くん」
注射器のようなものを振りかざしたなまえは邪気のない笑みを浮かべ、
暁の腕にその先端を射しこんだ。
▽
「みょうじ、さん……やめ……」
「ねぇ、何回言わせるの。なまえって呼んでって言ってるでしょ」
注射器を突き立て、何本目になるかわからない液体を体内へ流し込んでいく。さっきまで弱々しく抵抗していた暁くんは、力なく腕を下ろしてしまった。押さえつける必要もないほど疲弊してしまったその姿に、気持ちが昂ってしょうがない。
この薬は、わたしと暁くんを繋ぎとめておくために必要なもの。朦朧とした意識の中で瞬きを繰り返す暁くんに口づけをした。
「ぅ、…………っ、なまえ、ッ」
「うん、なまえだよ。じゃあわたしと暁くんはどういう関係?」
「俺たち、は………ッ、ちがう、俺たちは付き合って」
ない、なんて言わせないようにもう一度口を塞ぐ。かすかに肩を押してくるその手を退けて、指先で暁くんの体をなぞっていく。下へと移動させていくにつれて、暁はぴくりと素直に体を跳ねさせた。それと同時に緩んだ口元へ舌をもぐりこませる。暁くんの舌を絡めとったころにはすっかり肩にかかる力は抜けてしまっていて、内心くすりと笑った。
「ねぇ暁くん、嫌じゃないんでしょ?」
「………ッ、こんなの」
「ずるいって言うつもり?じゃあやめる」
今にも触れようとしていたそこから手を離し、暁くんに覆い被さっていた体を起こした。わたしをじっと見つめてくる両眼は、薬が効きすぎてしまっているせいか焦点が合わない。そのくせ熱だけはしっかり宿っていて、やっぱり嫌じゃないんじゃん、と呟いてみせる。
「なまえ…………なまえ、」
「なーに?」
「……………すき。すきです。すき、だから、俺、俺もすき、なまえがすき」
「うん。わたしはね、暁くんよりもずっとずっと好きだよ」
鼻先がぶつかりそうなほど顔を近づけ、ぴたりと止める。痺れを切らすように腕を引かれ、世界が180度回転した。気がつけば暁くんに押し倒されているのはわたしで、噛みつくみたいに勢いよく押しつけてきた唇が重なった。
暁くんがわたしを求めてくれている。それだけで体が熱くて熱くて溶けてしまいそうなほど、暁くんのことが好きで好きでしょうがなくて。手段が間違っていても、本心からわたしを望んでくれればそれでいいじゃない。わたしは暁くんが好きで、暁くんだってわたしを求めている。それを邪魔するものは何もかも排除する。たとえばそれが記憶なら、全部消えてしまえばいい。
床に転がっている注射器を見てそんなことを思っていると、こっちを見ろといわんばかりに顔を固定され、また身体が疼いた。
▽
浮上していく意識とともにやってくる不快感。喉よりもずっと奥で、ぐるぐると何かをかき混ぜているような気持ち悪さ。もう何度目かわからないそれらをぐっと堪えて、暁は腕にのしかかっている彼女に声をかけた。
「なまえ」
「ん、」
「朝だよ。学校行かないと」
素肌を晒したままううんと唸っているなまえの肩に、毛布を引っ張ってかけてやる。覚醒しきらない瞼をしょぼしょぼとしばたたかせているなまえの頬に、そっと口づける。ばち、と弾かれるようにして目を丸くしたなまえの顔は文字通り真っ赤に染まっていて、布団を持ち上げたその姿はいじらしいとさえ思えた。
「お、おはよ………ゴザイマス」
「なんだよそれ。いい加減慣れろって」
「だって、恥ずかしいじゃん」
布団の下で抗議を続けるなまえに、悪戯心が勝り暁は手を伸ばした。そのまま布団を掴んで引きはがすと、なまえの白い肌があらわになって、窓から差し込んだ光に照らされた。羞恥で俯いたその顔に、ごくりと喉がなった。
「………なまえ」
「あーもう!早く用意しなきゃ」
逃げるように布団から出ていったなまえを見送り、暁は息を吐いた。朝から一発かまして遅刻、なんて笑えない。保護観察の身である自分がそんなことをして、バレたら不純何たらで取っ捕まるかもしれない。苦笑いをして、寝起き以外の理由で忠実に反応している自身を隠すように腰を引いた。
まぁ、引いたところで何も身につけていないのだから、あまり意味をなさないのだけど。
「暁くんほら、遅刻しちゃうよ。いつまで布団の中にいるの」
「わかったわかった」
忙しなく戻ってきたなまえはすでに制服を着用していて、渋々布団から体を出した。見計らったように「暁くんのえっち」という言葉が飛んできて首を振る。
「生理現象だよ。なに変なこと考えてんだ、変態はそっちだろ」
「バカ!」
ぺち、と尻を叩いて逃げていったなまえは部屋を出ていってしまった。叩き逃げやめろ。服着て変態。とりとめのないやり取りしつつ、まぁ、変なことを想像したのは俺だしそれもなまえのせいだけど。と胸中で言い訳を足しておいた。
なまえの家に、いや、なまえの歪んだ認知世界にきてどれくらい経ったか。幾度となく飛んでいく記憶に数えるのをやめた。おかしな薬を打たれるたびに霞んでいく記憶と視界、一日中へばりついてくる倦怠感。それが嫌で、何でもなまえの言うとおりにした。言うことさえ聞いていれば、あの妙な薬を持ち出すことはない。だからここ数週間──といっても正確に何日経ったかは不明だが──の記憶はある。隙をついて、すぐにでもこの世界から脱出する、
つもりだった。最初は。
綺麗に折り畳まれている暁の服を広げ、袖を通した。洗面所に向かい鏡の前で襟を正すと、廊下からなまえがひょっこりと顔を覗かせた。
「今日も暁くんは格好いいね」
「つき合いたてのカップルかよ」
「なにそれ、わたしたちまだ高校生だよ。もっと乗っかってよ」
「俺がそんなタイプに見える?」
「見えない。でも好き」
ぎゅっとくっついてきたなまえへ腕を回し、同じように抱きしめてやる。へへへと気の抜けた顔で笑うなまえに、心の奥をくすぐられる。嫌じゃないのだ、こうされるのも。それよりもっと先のことをするのも。最初は薬のせいにできていたことも、徐々に鮮明になっていく頭では言い訳ができなくなったことに気づいてしまった。
俺は、この人のことが好き。なまえがこんなことをしてしまっているのも全部俺のせい。誰にも迷惑をかけていないのだし、いっそこのままでもいい。そう思えてしまうほどとっくになまえの世界に沈んでしまっていた。過程がどうであれ、今ある気持ちは本物だ。
だから今日も、偽りの世界でなまえにキスをする。現実から目を逸らすように何度も口づけをする。大人しく受け入れたなまえはまた顔を真っ赤にして、強請るように目を閉じた。
▽
どんなに苦労をして手に入れたものでも、腕の中からすり抜けていくのは一瞬だ。信頼を失うときにも似ているそれは、いつだって唐突で残酷だ。
「やっと見つけた!」
「…ったく、心配させやがって」
「無事でよかった」
突如として現れた仮面の集団は、暁くんを囲って安堵の表情を見せていた。その姿に見覚えがある。あれは、何度も何度も見せつけられてきた“仲間”だ。わたしが欲しくてたまらなかった居場所を堂々と占領してくる邪魔なもの。
また奪われる。何もかも。膝から崩れ落ちるようにして床にへたりこむと、中心にいたはずの暁くんがみんなを押しのけてわたしのところに来てくれた。
「なまえ……!俺、」
「またひとりになっちゃうのかな」
「俺、は…………」
「嫌だなぁ。せっかく幸せになれたのに」
目に溜まっていた涙が溢れて頬を濡らしていく。それを指で拭う暁くんの表情は悲痛に満ちていた。可哀想なやつ、とでも思われているんだろうか。自分の欲望に振り回されて、制御できなくなった哀れな女。暁くんの口から聞きたくなくて耳を塞ごうとすると「何が幸せになれただ!」金髪の人から怒号が飛んでくる。
「こんな世界閉じこもって、暁の気持ちも考えねえで好き勝手やって、幸せなのはテメェだけだろうが!」
「本当に好きなら、ちゃんと現実で暁に向き合いなよ」
同じく長髪の金髪を揺らす子は、きっとモデルのあの子だ。髪を弄ぶようにして言われた言葉が、ずんと心にのしかかってくる。その通りだ。わたしは現実で向き合うことから逃げて、自分の空想世界を作り上げてしまった。それが一番楽だったから。最も傷つかなくて、手っ取り早く幸せになれる方法だったから。そんな幸せを真っ向から否定されて、堰をきったように溢れてくる涙は止まってくれそうになかった。
声を上げそうになるのを唇を噛んで耐えていると、目の前の暁くんにぎゅっと抱きすくめられた。
「なまえ、俺、俺も好きだから。なまえのこと。だから、」
「…………いいよ、もう。ごめんね」
こんなことはもう、終わりにしなくちゃいけない。いつまでも現実から目を逸らしていられない。こうして見つかって、一応わたしのほうが年上なのに説教までされてしまって、自分で自分が情けなくて、変わらなきゃって思わされる。暁くんの隣にいたいなら相応しい人にならなくちゃ。胸を張って肩を並べるあの子たちみたいに。
言わされるがまま愛の言葉を繰り返してきた暁くんに向かって首を振る。欲望を手離すために、もういいんだよという思いをこめて。
なのに、暁くんの表情が晴れることはなかった。
「なん、で………俺は本当に好きで」
「暁くん?もう言わなくていいんだよ」
「………勝手に、終わりにするつもりかよ。そんなの、ないだろ」
「暁くん……」
きっとまだ薬が切れていないんだろう、うわ言のようにずるいと呟いている暁くんの背に腕を回す。一度だけぎゅっと力をこめて体を離そうとすると、嫌がるように腕が伸びてきて、まだそんな風に求めてくれる姿が名残惜しいとさえ思えてくる。
だけど終わりにする。不安そうにこちらを見てくるみんなが暁くんを待っているんだから。
なおも伸びてきた手にそっと小さな布を乗せた。
「なに、これ」
「これがね、わたしの欲望の始まり。こんなものがって思うかもしれないけど、案外恋ってしょうもないことから始まったりするから。ずっと返せなくてごめんね」
光に包まれて消えていく体は、現実のわたしの元へとかえろうとしている。渡したハンカチをぐしゃりと握りしめた暁くんは涙を流していたような気がしたけれど、最後にわたしの欲望が見せた幻覚だったのかもしれない。薄れゆく意識の中で、暁くんに好きだよと言った声は届いているのだろうか。確認する術はもうなかった。
▽
ぐしゃり。ポケットに突っ込んだハンカチを握りしめる。広げたらしわくちゃになっているであろう布切れなんかに興味はなくて、暁の頭の中を占領し続けているのはひとりしかいなかった。
「おい、大丈夫か?オマエこの間からずっと変だぞ」
「……なにが」
「それ、またあのハンカチ持ってるだろ。家でもずっと握ったままだし」
「気に入ってるんだよ」
「ハンカチを?」
「そういうときもある」
「やっぱちゃんと診てもらえって。タケミだっけか。フタバが言ってたがあの薬」
「終わった話だろ」
鞄の中から聞こえる声に語気を強めて言い返した。まぁそうだけどよ、と腑に落ちないまま奥に引っ込んだモルガナは、それきり何も言わなくなった。
あの日、現実世界に帰って早々「なまえはどういうわけかパレスに近い何かを作り上げていた」「そこにあった薬は一種の洗脳薬のようなもので、服用し続けると意識が朦朧とする。最悪記憶が飛ぶ」という話をされ、心底どうでもいいと突っぱねるところだった。そんなこと自分が一番わかっているし、今さら説明されるほどのことでもない。適当に聞き流すと、器がでかすぎると茶々を入れられた。
経過を見守って、後遺症等が残るようなら医者に診てもらう。それで話はまとまった。別に異常なんて感じていないし、仮に何かしらあったとしても、なまえを好きになるための行程なら仕方ない。最後の言葉は口には出さずに留めておいた。どうせまだ洗脳が解けていないなどとつまらないことを言うに決まっているからだ。
なまえが好きだ。暁のその気持ちが変わることはなかった。仲間たちの言う“洗脳されているから好意を持っていると誤解している”を信じて何日か経った今も、なまえへの思いが消えることはなかった。廊下ですれ違う彼女を見るたびに、あの世界で過ごした記憶が甦って虚しくなる。あれを現実にしたい。欲求は日を追うごとに増していって、ハンカチが視界に入るたびにむしゃくしゃした。
ポケットの中で潰れてしまっているであろうハンカチを握りしめたとき「あの、」耳に馴染んだ声が聞こえて脊髄反射のように顔をあげた。
「来栖くん、おはよ」
「………なまえ?」
「え、あれ名前…………まぁいいや。これ」
おずおずと差し出されたものを受けとると、もう片方の手で握りしめている布切れと全く同じものがそこにあった。
「ずっと前に貸してくれたハンカチ、返しそびれちゃってさ。ちゃんと返さなきゃって思って」
ごめんね。あのときと同じように眉を下げて無理やり笑顔を作っているなまえを見て、心臓を掴まれたように苦しくなる。
何よりも、他人という線引きをされているこの距離感がもどかしかった。なまえは何も覚えていなくたって、こっちは昨日のことのように思い出せるのに。なかったことにされるのが、悔しかった。
「わたしさ、ずっと自分の世界に閉じこもってたんだ。だけど来栖くんが貸してくれたハンカチ見てたら変わらなきゃって思えたから。だからありがとね。これからは前向いて生きてくよ」
まずはクラスの人たちとコミュニケーションとることから始めなくちゃね、と明るい笑顔を見せたなまえの表情は一切の陰りもない。改心が成功しているその姿にほっとしたと同時に、暁の胸の奥で欲望が渦巻いた。
渡されたハンカチを反対側のポケットへ突っ込み、なまえの手を取る。
「ちょっと」
「じゃあ手始めに、俺と会話の練習するっていうのはどう?」
「………来栖くんとかぁ」
「嫌?」
「嫌じゃないけどさ。…ていうか何この手」
「スキンシップ」
「距離感ガバガバか!離してよ恥ずかしい。いつの間にか名前呼んでるし」
「俺のことも名前で呼んでよ」
「だから距離感!」
わたしより年下ってみんなこういう感じなの、と独りごちたなまえの頬は赤みがかっている。どういう感情からくるものなのか理解している暁は口角を上げた。
絶対に逃がさない。なまえが俺をこんな風にしたのだから、自分だけ前を向こうだなんて許せるわけがない。現実世界で落とすのはそう難しくないことなんて言うまでもなくて、あいてしまった距離を埋めるように指を絡めた。
2020.7.11
いつだか放棄したネタをリサイクル
2023.10.23
加筆修正/胃もたれしそう
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