Persona
name change
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幼馴染の明確な定義は曖昧だけど、私にもそう呼べる関係の人がいる。幼少期から顔を合わせていたわけじゃないから正確には違うのだろうけど、他に表す言葉を私が知らなかった。知り合ったのは最近のことで、下の名前で呼ぶ勇気はなかったから名字で呼び続けている。反対に彼は事も無げに私の名前を呼ぶものだから最初は少しむず痒く感じた。今はもう慣れてしまったけれど、私にとって大切な幼馴染み。大切ってそういう意味じゃないから。人間としてって意味だから。
「あ」
誰に向けてかわからない言い訳を繰り返しているうちに指から力が抜けていたらしい。膨れ上がった袋の輪が指からすり抜け、詰めこまれたペットボトルが弾けるように飛んでいった。からからと軽い音を立てて地面を転がっていくそれらを眺めて数秒の間。はぁぁと盛大にため息をついた。最悪。最ッ悪。詰めこみすぎでしょ。入るわけないじゃん。ゴミ捨て行ってきてじゃないよ袋分けてよお母さん。分けなかったのは他ならぬ私ですぐそこならいけるでしょと持ち出した自分の浅はかさを恨んだ。
文句を言っても袋にペットボトルが戻ってくるわけでもないし、歩行の邪魔になりかねない。諦めてしゃがみこんだ私は既視感を覚える光景に手を止めた。
早朝。コンクリートに散らばるペットボトル。渋々膝をついてペットボトルをかき集める私。それから。
「おはようなまえ。……ってまた?相変わらずドジだね」
視界にかかる影。呆れたような声音と、伸びてくる腕。
「ほら、手伝ってあげるから袋広げて」
言われるがまま袋を広げると黙々とペットボトルが詰め込まれる。かさ、かさ。ビニール袋に腕が当たるたびにテンポよく鳴るそれを聞き届けるころには、地面に転がる透明なボトルは姿を消していた。もう落とさないでくれ。ドジ。次は手伝わないから。軽口を叩いた影が揺れて、釣られた私も立ち上がる。
「誰がドジ」
「君以外いるの?」
くすくすと小さく笑って肩を揺らす彼が、記憶の中の光景と重なる。馬鹿にしたような、呆れたようなそんな笑み。この会話には覚えがあるし、前だって似たようなことを言われた。けど、このやり取りがあったから私たちは知り合えたのだと思うと、案外ドジも悪くないのかもしれない。偶然も奇跡も待っているだけじゃきっとやってこない。行動した結果で得たものが“彼”ならば、私はいくらだって恥をかく。
「おはよ、明智くん。それからありがと」
なんて、恥は意図的にかくものじゃないけど。彼に言ったら間抜けなだけでしょって一蹴されそうな言い分は飲み込んで挨拶を投げかける。今更なそれに「遅いよ」と間髪入れずに返した明智くんは、私と同じく持っていたビニール袋を持ちかえて歩きだした。
「待ってよ」
早くしなよって背中で急かしてくる明智くんは、私を置いていかずに待ってくれている。優しくて意地悪な彼が幼馴染みだと言い張りたくて、掴んだ縁を手離さないように今日も後を追いかけた。
▽
架空世界の幼馴染みは大人になっても縁が切れなくて、何だかんだずるずると関係が続いていく。その内一方が恋愛感情を持ったりして、意識されないもどかしさに胸を痛める。漫画の読みすぎって言われたらそれまでだけど、私も例外なくその中の一人で否定できないのだ。
近所に住んでいると頻繁に顔を合わせるし、同い年だから親近感も増して仲良くなる。どちらともなく遊ぶ約束を取りつけて、彼の知識が豊富な一面に驚いたり、勉強を教えてもらったり。共有する時間が増えるたびに彼のことを考える時間も増えていき、気がつけばもやもやとした感情を抱えるほどになっていた。
フィクションじゃないけど一番近くに居られたらいいな。隣を歩けていればいいな。今はそんな安っぽい言葉で片付けてしまえるほど心が満たされていた。
「ねぇ、なまえ。たとえば……そうだな、タラレバの話」
唐突にそう切り出した明智くんは、持っていたペン先をノートの上に滑らせた。ついさっき教えてくれた数学の公式の横に人型の何かを描いた明智くんは、黒と白の模様をつけていく。
「ある日、心底憎いやつをどうにかできる力を手に入れたとしたら、なまえはどうする?」
最後に描き足された顔は不気味な笑みを浮かべていた。お世辞にも可愛いと表現し難い造形に私は眉をひそめた。「なにこれ、怖」「恨みの化身」「伝わるけど変なの描かないでよ」解いたばかりの問題文に重ねて描かれた物体は、じっとこちらを見ているようだった。さっさと消してしまおうと消しゴムを掴んだ手が明智くんに止められてしまう。それと同じようにじっと私を見つめてくる明智くんは真顔で、けれど特段深い意味はないのだろうと思うまま口を開いてしまった。
「目には目を歯には歯をって言うし、仕返しされても文句は言えないのかも?」
もちろん受けた仕打ちにもよるけどさ。そう続けて明智くん作『恨みの化身』に目を落とすと、掴まれた私の手が解放された。
「…見かけによらず物騒なこと言うんだね」
「だって例え話でしょ?」
「そう……ただの、例え話だよ」
持っていた消しゴムは明智くんに奪われ、描いたばかりの絵に押し当てられた。紙に皺を寄せることなく消されたそれは小さな塊になり、まもなくゴミ箱に捨てられてしまうのだろう。他に使い道もないし、丸めて合体させたもので遊ぶ趣味だってない。そのはずなのに筆跡の残る部分にイメージできてしまうほど、瞼の裏に焼き付いて離れてくれなかった。次の問いに移ろう、と何事もなく再開する明智くんはいつものように笑っていた。
▽
春は出会いと別れの季節と言うけれど、私に突きつけられたのもそうだった。
「一人暮らししようと思ってる」
放課後。いつものように取りつけた約束とお決まりの場所。二人で遊ぶときに行き着けみたいな居場所が欲しいと彼が選んでくれたところ。違うのは告げられた台詞と、視界の端に映る薄紅色。ひらひらと宙を舞う花びらなんかには目もくれず、明智くんの両眼は真っ直ぐ私を射抜いていた。
何かを決意したような、強い意思を宿した瞳。
「そ、うなんだ……明智くんはすごいなぁ」
そんなもの私にはちっともわからないから、曖昧に返答することしかできなくて、ただ狼狽えた。
「寂しい?」
からかうような声色に、余裕なんてあるわけがない私は即座に返す。
「当たり前じゃん……」
聞き届けた明智くんは満足そうに目を細めて「ありがとう、素直に嬉しいよ」と言った。まるで言われることが分かっていたみたいな、台本の台詞を読み上げるみたいな受け答え。見抜かれるくらい私がわかりやすいのか、明智くんが目敏いのか。目の前の現実を受け入れることに必死な私は、どちらにせよ動揺を隠せるわけがなかった。
もう、会えないのかな。思わず心の中でぼやくと、「いつでも会えるよ」見透かしたような言葉が続く。
「約束なんかしなくたって、会おうと思えばいつでも会える。縁ってそういうものだから」
だから、さよなら。一際強く風が吹いて、地面を埋めつくしていた薄紅色が舞い上がる。くるくると螺旋を描いて回るその中で、明智くんはそれきり何も言わずに笑みを浮かべていた。どこか寂しげに映る表情とは不釣り合いなほど熱を灯した声。気を付けて。行かないで。また会おうね。どれも言いたかったはずなのに言葉にならずに立ち尽くした。踵を返して立ち去っていく後ろ姿を、ただ見送った。根拠もなくこれからも一緒に、隣に立っていられる。手を伸ばせば届くところにいてくれるのだと信じて疑わなかったものは、砂のように零れ落ちていった。何度すくいあげても指の間を通り抜けていくようで、掴みどころのない彼にもよく似たそれは、桜吹雪の中に消えていった。
▽
出会いは偶然、別れは必然。どこかで聞いたことがあるフレーズは、ふとした時に頭を過って離れてくれなかった。お気に入りの歌を口ずさむみたいに繰り返し反復すると、いよいよそれ以外を考えられなくなる。ディスクに傷がつくと読み込めなくなるのと同じで、心に僅かばかりついた傷跡に囚われ続けていた。
偶然を手離さないように足掻いたところで別れはやってくる。いとも簡単に千切れた縁を探し求める私を見て、彼だったら何て言うかな。暇そうで羨ましいよってあしらうかな。答えが返ってくるわけもなく、私の妄想だけで終わってしまう。近所に住んでいたとはいえ親同士の交流なんてなかったから、どこに行ったのかわからない。住所も、通う学校も、生きているのかも、全部。それでも明日はやってくるし、私は私の日常を生きるしかない。そうやって言い聞かせて、何とか諦めてられてきた。
ほんの数時間前までは。
偶然通りかかった住宅地。どこかで大通りに出ればいいやと無計画に入り込んだ路地、マンションに隣接する建物の階段下で揺れる黒い影。壁に体を預けて足を投げ出す人物を見て、私は吸い寄せられるように近付いて、
「え」
人影が顔を、上げた。
荒く繰り返される呼吸、目立った損傷は見られない衣服とそこから溢れ出る赤色。前髪の隙間から覗く目は私を見るなり見開かれて、信じられないとでも言うように瞬きをした。なんで、と言いかけた口元を覆って顔を歪ませたそれは私のよく知る人物にそっくりで、いっそ見間違いであってほしかった。
「明智、くん?」
半ば確信を持って名前を呼ぶと、明智くんは返事の代わりに激しく咳き込んだ。どろ、と衣服を伝う赤黒いものは止めどなく流れていて、今にも地面を濡らしそうなほど溢れていた。腹部をおさえて苦痛に耐える明智くんは、焦点の定まらない目で私を見上げていた。
どうしよう。このままじゃ死ぬ。放っておいたら死ぬ。何とかしなきゃ。
初めて見る光景に、本能のようなものがそう叫んでいた。事故現場や人の死に目に直面したことだってない。それでも内側からやってくる衝動に突き動かされて明智くんに駆け寄ると、鉄と何かが混じったような臭いに鼻の奥がつんとした。不快な臭いに構ってる暇はないとしゃがみこんで明智くんの顔色を伺う、と。今まで見たことないほどの青白い顔がそこにあって、私は無意識にスマホを取り出していた。
これは、私が解決できる範囲を超えている。早く、早く助けを呼ばなくちゃ。
頭を殴られたような鈍い痛みが走り、眩暈がした。
「きゅ、きゅうしゃの、番号…は」
早く早くと焦る気持ちとは裏腹に震え出す指。思い出せない三つの数字。苛立ちと焦りで絡まる思考の中に「呼ぶな……!」割り込んでくる声。伸びてきた真っ赤な腕に掴まれた私の手が、同じ色に染まる。生温かさの残るそれに、スマホを持っていた手から力が抜けた。
「いいから、呼ぶな……!さっさと、……帰れ!」
「なん、でよ…死んじゃうよ」
コンクリートに跳ね返ったスマホからがつ、と鋭い音が鳴る。弱々しく言い放った明智くんはごほ、と再度咳き込み私に向かって倒れこんできた。咄嗟に体を受け止めはしたものの、肩で息をする明智くんはどう見たって重症で、けれど素人に怪我の状態を判別できるわけもなかった。何もできない自分が歯痒くて、腕の中で徐々に弱っていく明智くんを見ていることしかできなくて、泣きたくもないのに目頭だけは熱くなって。
「なに、泣いて、んだよ」
頬を伝う温かいものは全然止まってくれなくて、必死に押し止めようとした分だけ流れていった。ぽた、と明智くんの服を濡らして赤が滲んでいく。「だっ……で、あけちくん、が、しんじゃうから」ぐずぐずの鼻声が出てきて情けないのに、泣いたって状況は変わってくれないのに。目の奥がじんと痛んだのを皮切りに、堰を切ったように溢れ出していた。
ぎゅう、と明智くんを抱き締めながら泣きじゃくる私の頬に、涙とは別の生温かさが這わされた。
「……じゃあ、肩、貸してよ」
涙で滲む視界の中でぱちぱち、と何度か瞬きをすると、呆れたように息を吐いた明智くんが身を捩っていた。私の腕から出ていこうとする明智くんを逃がすまいと脇下に腕を回す。余裕なんてないくせに余裕ぶって、力だってろくに入らないくせに自力で立ち上がろうとして。それだけ頼りなく映っているであろう自分が情けなくなって、また目元に熱が集まる感覚がした。
「また泣く気?」
「明智くん、全然力抜いてないじゃん」
ふらふらなんだからもっと頼ってよ。そういう意味を籠めて肩を持ち直す。
「冗談、だろ。……君に体預けるとか、不安で、仕方……ないよ」
けど、返ってきたのは可愛くない悪態だけで、私の肩にかかる重量は増えてくれなかった。
「なんで口だけは達者のままなの?むかつく」
重々しい一歩を踏み出した明智くんに続くようにして、私も足を持ち上げる。ついでに溜め込んでいた不満を真横に向かってぶつけると、明智くんはふっと少しだけ笑って「涙、引っ込んだね」満足げにそう言った。
▽
別に、一人なんて今に始まったことじゃなかった。
水商売で稼ぐ母親が客を呼ぶ度に家から追い出されていた。手狭で古くさいところだったけど、子供にとって大きな居場所。わかってる。そうするしかなかったのも、全部わかっていた。寂しさや疎外感を覚えるのは最初のうちだけで、習慣になってしまえば取るに足らないもの。ああ、またかと、歳を重ねていくうちに諦めがついてしまった。他の家の子供とは違う現状に諦められていた。……母親が亡くなる日までは。
居場所を無くし、親戚をたらい回しにされ、その都度渋い顔をされてきた。やり場のない怒りと虚しさが頭を占めていく中で、ひたすら自問自答を繰り返した。どうしてこうなった?理不尽な現実を生んだのは誰だ?答えはすぐに見つかった。母親を捨て、水商売で働く原因を作ったクズな親父。そいつが憎むべき相手なのだと、胸を満たす憎悪が叫んでいた。母親に謝罪させることはもう叶わないから、せめてこの手で地獄に突き落としてやる。そのためだったら何だってする。大人の機嫌を取り、優等生を演じ、とことん上りつめてやる。誰にも頼らず、一人でのしあがってみせる。
だから、一人で十分だった。
「あ、起きた」
もう随分と聞いていなかった声がして、明智はゆっくりと重たい瞼を開けた。聞いていないと言っても現実の話。夢に何度か出てきた彼女は、未だ明智の心の隅を占領し続けていた。復讐の道に必要ないものだと身内と同様に切り捨てた存在だった。それが今だに囚われて、挙げ句幻覚を見るほどだなんて復讐が聞いて呆れる。がしがしと無造作に頭を掻いた明智は、幻覚から目を逸らすみたいにして寝返りを打った。ずき、と腹部に鈍い痛みが走り、中途半端に体を転がしたまま動きを止める。
「い、っ……クソ、」
「まだ動いちゃダメだって!」
喋る幻覚に肩を掴まれた明智は押し戻された。幻覚もといなまえは「明智くんの指示どおりに応急手当はしたけどどう見たって入院案件だから!それ」と言って心配そうに眉を下げていた。ふと自身へ目を落とすと上半身に何も身につけておらず、なまえの言うように申し訳程度の手当てがされていた。傷跡を見るなり甦ってくる記憶の数々に、明智はため息をついて布団を持ち上げ直した。
そうだ、あの世界でヘマをした。溜まり続けた疲労ごと持ち込んだ自身の判断ミスが招いた結果がこれだ。普段ならばあり得ない失態は、多忙だったじゃ済まされない。この力であいつを生き地獄に引きずり落とすまでは、復讐を果たすまでは、死ねない。神だか悪魔だかがくれたチャンスをみすみす逃すわけにはいかない。戦略から負傷した際の治療まで一人でこなしてきた。別に困ってなんかいなかった。
そのはず、だった。
「えっと、久しぶり。明智くん」
それがどうだ。なまえが通りかからなかったら自力で解決していただろうに、いざ助けが来たらこのザマで、差し伸べられた手を取ってしまった。
「あぁ…情けないところを見られちゃったね」
「情けないっていうかびっくりして心臓止まるかと思った」
何より自身への不甲斐なさよりも、なまえにあんな醜態を晒した事実が嫌だ、などと喚きだす自分が信じられなかった。何があったの?と尋ねてくるなまえに、しかし経緯を話すわけにもいかず、明智は考え込むように目を伏せた。
「いつの間にかテレビにまで出てるし」
「あ、見てくれたんだ。嬉しいよ」
「ちょっと、都合のいいところだけ答えないでよ」
「たいしたことじゃないから」
腹部やら全身やらの痛みで頭が回らず、もっともらしい言い訳の一つも思いつきやしない。大袈裟にはぁとため息をついてみせたあと、明智は「わかったよ。話せばいいんだろ」と俯かせていた顔を上げた。
「探偵やってる…のはテレビ見たなら知ってるよね。別れさせ屋みたいな依頼を請け負ったんだけど、ターゲットの恨みを買ったらしい。執拗に責め立てられたよ」
「う、ん……」
不安そうに揺れるなまえの瞳を見つめ返しながら勿体振って間をあける。ぐっと拳を握り、ついでに苦々しい表情も作っておいた。
「まぁそれは問題なく片付いたんだけど、階段で足を滑らせてしまってね。まさかこの僕が……油断してたよ。クッ……!」
「いや恨みのくだり関係ない!勝手に階段から滑り落ちただけじゃん!!」
「だから言ったろ?たいしたことじゃないって」
即席で用意した誤魔化しにしては存外マシなものだったかもしれない。「怪我が大惨事だもん。嘘じゃん!」ばしばしと布団に両手を叩きつけてきたなまえは、納得いきませんと言わんばかりに目を尖らせた。叩いた弾みで腕が足元に当たり、びり、と電撃のような痺れが走る。傷だらけの体へ故意に叩きつけてきたわけじゃないのは百も承知だけども、駆け巡る痛みに貼りつけた笑顔がぐしゃりと歪んだ。急いで謝罪をしてきたなまえに怒る気にはなれず、明智は首を振った。異世界のことを説明するわけにはいかないし、巻き込みたくなかったのもきっと、ある。どちらにせよただの気紛れに過ぎないそれは、自分のためでしかない。真実を言えと無言の圧をかけてくるなまえを見上げながら、気だるさが残る腕を伸ばした。
「僕の言ったとおりになったね」
「何が?ていうか話反らさないでよ」
「また会える、そう言っただろ。縁があったね、僕たち」
伸ばした腕の先にあるなまえの髪は、明智の指の間を通り抜けていく。気の迷いのはずなのに、縁を手離せなかった理由は明智にもわからなかった。
▽
縁とは不思議なもので、もう二度と会えないのかと気を揉んでいるうちに、あっさりと再会の日が訪れたりする。私と明智くんも例に漏れず、路地で倒れていた明智くんに付き添って以来、ふとした時に顔を合わせる機会が多くなった。それは最寄り駅であったり、出先であったり、時には約束をして過ごしたり。もちろん明智くんは有名人だから人目を避けてはいる、らしい。自称。どの辺が?で終わるレベルの忍び具合は、本気か冗談か汲み取れきれていない。たまに抜けてる明智くんのことだから素の可能性も無きにしも非ず、だ。
結局、怪我の件は聞けず仕舞いだった。一人暮らしをしていること。探偵を始めたこと。聞きたいことは山ほどあったけど明智くんには明智くんの事情があるだろうし、無理やり聞き出す気にはなれなかった、し。
「どうかした?」
数年前の行きつけの場所に、あの頃と同じように明智くんがいる。何でもないよ。そうかい。たったそれだけのやり取りにどうしようもなく頬が緩んでしまう。心がぽっと温かくなる感じがして、途端に思考を投げ出してしまう自分がいた。毎日とはいかなくても互いの都合が合った日に一緒の時間を過ごせるのだと、私はまた根拠のない期待を膨らませていた。
「ねぇ、なまえ。たとえば……タラレバの話、ってこれ前にも言ったね」
いつかを彷彿とさせる話の切り出しに、私は緩んでしまった口元をやや引き締める。「言ってた。しかもほぼ同じ」記憶の中の明智くんと重ねつつそう答えると、明智くんは持っていたペンをノートに放り投げた。ころころと転がってツメの部分に引っ掛かり、地面に落ちる寸前でぴたりと止まる。
「なまえに気になる人がいたと仮定しよう。けど、なまえはとある事情を抱えていて、気持ちに躊躇いがある。この状況、なまえならどうする?」
「どうするって」
気になる人。つまり好きな人、あるいは好きになりそうな人。思い切り心当たりがある私の心臓は大きく跳ねた。露骨に視線を泳がせ言葉に詰まる私はさぞ怪しいことだろう。片思い相手からこの手の話題を出されて冷静を保てる人が存在するなら出てきてほしい。少なくとも私には無理だった。顔なんて強張ってるし、質問内容だって頭に入ってきやしない。たしか……そう。気持ちに躊躇いがあるだとか何とか。
「言い方を変えよう。自分と相手の幸福、どちらを選ぶ?」
追い討ちをかけるような質問が続き、中途半端に開いたままの口を閉じた。ペンへ落としていた視線を上げると、じっと私の返答を待っている明智くんがいた。この目には見覚えがある。瞼の裏に焼き付いたままの、あの絵とそっくりの目だった。恐怖から生唾のようなものを飲み込んで、目を逸らしてしまいたくなる衝動を必死に耐えた。
明智くんは面白半分でこんな質問をしてきたわけじゃない。たぶん、本気。別の意味で緊張し始めた体に鞭打って頭をフル回転させた。
もしも大きな問題を抱えていて、そこに明智くんを巻き込んでしまうのだとしたら、私は。
「私、は……相手に幸せになってほしいから、身を引く」
「……実につまらない答えだよ」
喉なんてからからに渇いて仕方なくて、肩だって変に力が入ったまま。それでも懸命に絞り出した意見はあっけなく一蹴された。瞬時に頭へ血が上り、反射的にうるさいな!じゃあ明智くんはと言いかけたところで「でも」と遮られる。
「なまえらしい答えだ。そんな君だから、僕は」
「へ?」
「何でもないよ。そろそろ帰ろうか」
一方的に会話を終えるなり、明智くんは広げていたノートと筆記用具を鞄にしまいこんだ。つられて帰り支度をした私より先に立ち上がり、数歩先へ進んでしまう。急いで駆け寄ったところで、明智くんが抱える何かや質問の意味なんて到底わからない。手を伸ばせば届くところにいて、今だって私を待ってくれているはずの明智くんがどんどん離れていく気がした。
▽
ある日を境に、明智くんは姿を消した。
行方不明になった、の方がしっくりくるかもしれないけれど、日常は恐ろしいほど円滑に過ぎていた。テレビで見かけなくなって寂しい、だなんてぼやいていたのが嘘のように誰の口からも名前が出てこなくなった。まるで最初からいなかったみたいに、皆の頭から明智くんの記憶だけ抜け落ちてしまったように、不気味なほど情報が消失していた。最初は違和感もまだ小さくて、通話が繋がらない理由は多忙なのだろうと連絡は控えていた。それが二日、三日。果ては一週間以上も続けば、いよいよ気のせいじゃ済まなくなる。何かあったのかもと、悪いとは思いつつマンション前で待ち伏せしたりもした。
待てど暮らせど、明智くんが家に帰ってくることはなかった。
みんなが忘れてしまっても、私だけはずっと覚えている。忘れたくても忘れられない。声をかけてくれたあの日から、一緒に過ごした数か月前まで。全部が私にとって宝物で、後悔してることだってある。質問の意図がわからないまま曖昧にしたり、明智くんのためと言い訳して詮索しなかったりと、挙げていけばきりがない。
もし、深く聞いていたらとか。どうしようもないタラレバを思い描いては明智くんのことばかり考えていた。進路なんてどうでいいと、おざなりになってしまうほどに。
なのに、
「なまえ、やっと見つけた」
当たり前みたいに目の前に現れた彼は、格好も相まってか酷く大人びて見えた。その声を聞いただけで、数か月間溜め込んでいたものがどっと押し寄せるように溢れ出した。
「あ、明智くん……!どこ行ってたの……わた、し」
じわじわと滲んでいく視界の中で、明智くんは困惑とはちょっと違う、複雑そうな表情を浮かべていた。
「ごめん、なまえ。やっぱり僕は相手のために身を引く、なんて綺麗事で片付けられそうにないよ」
「なにが…」
「一緒に、過ごしてほしい。今日だけでいい。訳も聞かないでくれ」
自分勝手すぎる言い分に問い質したいのは山々だけど、懇願するような瞳と、今を逃したら本当にどこかへ行ってしまいそうな気がして「仕方ないなぁ」涙声で無理やり笑顔を作ってそう言うと、「ありがとう」同じく泣き出しそうな顔をくしゃりとさせた明智くんは、ぐずぐずと泣き続ける私の頬に手を這わせて涙をすくい上げた。
「そろそろ戻るよ」
唐突に告げられた別れの台詞。訳を聞くなと言われた手前何も言えず、かといってまたね、なんて言える雰囲気でもなくて私は立ち止まった。覚悟はしていたけど、いざ目の当たりにしたら体は震え出すし、瞼も熱くなって目の奥がじんと痛んだ。背を向けたまま前を見続けている明智くんは、相変わらず自分勝手で一方的なのに嫌いになれなくて、胸がきゅっと締め付けられたように苦しくなる。
「どこに?」
口をついて聞いてしまったそれに、明智くんは徐に振り返った。
「……僕らの現実に」
明智くんが何を言ってるのか全然わからないし、わかりたくもないのに。強い意思を宿した瞳にわかりそうになってしまうのが嫌で、また会える?と聞き返していた。
「……その時がきたら、会いにいくよ。今日みたいに。だから──また会おう。なまえ」
踵を返した明智くんは一度も振り返ることなく去っていった。いつかの後ろ姿と重なる。違うのは“さよなら”とは言わなかったところ。だからわたしも言わない。今日みたいにひょっこり現れて、何事もなかったように過ごしているかもしれない。反対にもう二度と会えない可能性だって充分あるけど、約束なんかしなくたって会える、と言ったのは明智くんだから。その時は私に隠していたこと全部を白状させて、苦い顔をされようが隣にいる。その手を離さないように、零れ落ちてしまう前に、手を掴む。
いつか、また。
2020.10.23
ホワイティ吾郎
2023.11.1
BGM~星と僕らと~
「あ」
誰に向けてかわからない言い訳を繰り返しているうちに指から力が抜けていたらしい。膨れ上がった袋の輪が指からすり抜け、詰めこまれたペットボトルが弾けるように飛んでいった。からからと軽い音を立てて地面を転がっていくそれらを眺めて数秒の間。はぁぁと盛大にため息をついた。最悪。最ッ悪。詰めこみすぎでしょ。入るわけないじゃん。ゴミ捨て行ってきてじゃないよ袋分けてよお母さん。分けなかったのは他ならぬ私ですぐそこならいけるでしょと持ち出した自分の浅はかさを恨んだ。
文句を言っても袋にペットボトルが戻ってくるわけでもないし、歩行の邪魔になりかねない。諦めてしゃがみこんだ私は既視感を覚える光景に手を止めた。
早朝。コンクリートに散らばるペットボトル。渋々膝をついてペットボトルをかき集める私。それから。
「おはようなまえ。……ってまた?相変わらずドジだね」
視界にかかる影。呆れたような声音と、伸びてくる腕。
「ほら、手伝ってあげるから袋広げて」
言われるがまま袋を広げると黙々とペットボトルが詰め込まれる。かさ、かさ。ビニール袋に腕が当たるたびにテンポよく鳴るそれを聞き届けるころには、地面に転がる透明なボトルは姿を消していた。もう落とさないでくれ。ドジ。次は手伝わないから。軽口を叩いた影が揺れて、釣られた私も立ち上がる。
「誰がドジ」
「君以外いるの?」
くすくすと小さく笑って肩を揺らす彼が、記憶の中の光景と重なる。馬鹿にしたような、呆れたようなそんな笑み。この会話には覚えがあるし、前だって似たようなことを言われた。けど、このやり取りがあったから私たちは知り合えたのだと思うと、案外ドジも悪くないのかもしれない。偶然も奇跡も待っているだけじゃきっとやってこない。行動した結果で得たものが“彼”ならば、私はいくらだって恥をかく。
「おはよ、明智くん。それからありがと」
なんて、恥は意図的にかくものじゃないけど。彼に言ったら間抜けなだけでしょって一蹴されそうな言い分は飲み込んで挨拶を投げかける。今更なそれに「遅いよ」と間髪入れずに返した明智くんは、私と同じく持っていたビニール袋を持ちかえて歩きだした。
「待ってよ」
早くしなよって背中で急かしてくる明智くんは、私を置いていかずに待ってくれている。優しくて意地悪な彼が幼馴染みだと言い張りたくて、掴んだ縁を手離さないように今日も後を追いかけた。
▽
架空世界の幼馴染みは大人になっても縁が切れなくて、何だかんだずるずると関係が続いていく。その内一方が恋愛感情を持ったりして、意識されないもどかしさに胸を痛める。漫画の読みすぎって言われたらそれまでだけど、私も例外なくその中の一人で否定できないのだ。
近所に住んでいると頻繁に顔を合わせるし、同い年だから親近感も増して仲良くなる。どちらともなく遊ぶ約束を取りつけて、彼の知識が豊富な一面に驚いたり、勉強を教えてもらったり。共有する時間が増えるたびに彼のことを考える時間も増えていき、気がつけばもやもやとした感情を抱えるほどになっていた。
フィクションじゃないけど一番近くに居られたらいいな。隣を歩けていればいいな。今はそんな安っぽい言葉で片付けてしまえるほど心が満たされていた。
「ねぇ、なまえ。たとえば……そうだな、タラレバの話」
唐突にそう切り出した明智くんは、持っていたペン先をノートの上に滑らせた。ついさっき教えてくれた数学の公式の横に人型の何かを描いた明智くんは、黒と白の模様をつけていく。
「ある日、心底憎いやつをどうにかできる力を手に入れたとしたら、なまえはどうする?」
最後に描き足された顔は不気味な笑みを浮かべていた。お世辞にも可愛いと表現し難い造形に私は眉をひそめた。「なにこれ、怖」「恨みの化身」「伝わるけど変なの描かないでよ」解いたばかりの問題文に重ねて描かれた物体は、じっとこちらを見ているようだった。さっさと消してしまおうと消しゴムを掴んだ手が明智くんに止められてしまう。それと同じようにじっと私を見つめてくる明智くんは真顔で、けれど特段深い意味はないのだろうと思うまま口を開いてしまった。
「目には目を歯には歯をって言うし、仕返しされても文句は言えないのかも?」
もちろん受けた仕打ちにもよるけどさ。そう続けて明智くん作『恨みの化身』に目を落とすと、掴まれた私の手が解放された。
「…見かけによらず物騒なこと言うんだね」
「だって例え話でしょ?」
「そう……ただの、例え話だよ」
持っていた消しゴムは明智くんに奪われ、描いたばかりの絵に押し当てられた。紙に皺を寄せることなく消されたそれは小さな塊になり、まもなくゴミ箱に捨てられてしまうのだろう。他に使い道もないし、丸めて合体させたもので遊ぶ趣味だってない。そのはずなのに筆跡の残る部分にイメージできてしまうほど、瞼の裏に焼き付いて離れてくれなかった。次の問いに移ろう、と何事もなく再開する明智くんはいつものように笑っていた。
▽
春は出会いと別れの季節と言うけれど、私に突きつけられたのもそうだった。
「一人暮らししようと思ってる」
放課後。いつものように取りつけた約束とお決まりの場所。二人で遊ぶときに行き着けみたいな居場所が欲しいと彼が選んでくれたところ。違うのは告げられた台詞と、視界の端に映る薄紅色。ひらひらと宙を舞う花びらなんかには目もくれず、明智くんの両眼は真っ直ぐ私を射抜いていた。
何かを決意したような、強い意思を宿した瞳。
「そ、うなんだ……明智くんはすごいなぁ」
そんなもの私にはちっともわからないから、曖昧に返答することしかできなくて、ただ狼狽えた。
「寂しい?」
からかうような声色に、余裕なんてあるわけがない私は即座に返す。
「当たり前じゃん……」
聞き届けた明智くんは満足そうに目を細めて「ありがとう、素直に嬉しいよ」と言った。まるで言われることが分かっていたみたいな、台本の台詞を読み上げるみたいな受け答え。見抜かれるくらい私がわかりやすいのか、明智くんが目敏いのか。目の前の現実を受け入れることに必死な私は、どちらにせよ動揺を隠せるわけがなかった。
もう、会えないのかな。思わず心の中でぼやくと、「いつでも会えるよ」見透かしたような言葉が続く。
「約束なんかしなくたって、会おうと思えばいつでも会える。縁ってそういうものだから」
だから、さよなら。一際強く風が吹いて、地面を埋めつくしていた薄紅色が舞い上がる。くるくると螺旋を描いて回るその中で、明智くんはそれきり何も言わずに笑みを浮かべていた。どこか寂しげに映る表情とは不釣り合いなほど熱を灯した声。気を付けて。行かないで。また会おうね。どれも言いたかったはずなのに言葉にならずに立ち尽くした。踵を返して立ち去っていく後ろ姿を、ただ見送った。根拠もなくこれからも一緒に、隣に立っていられる。手を伸ばせば届くところにいてくれるのだと信じて疑わなかったものは、砂のように零れ落ちていった。何度すくいあげても指の間を通り抜けていくようで、掴みどころのない彼にもよく似たそれは、桜吹雪の中に消えていった。
▽
出会いは偶然、別れは必然。どこかで聞いたことがあるフレーズは、ふとした時に頭を過って離れてくれなかった。お気に入りの歌を口ずさむみたいに繰り返し反復すると、いよいよそれ以外を考えられなくなる。ディスクに傷がつくと読み込めなくなるのと同じで、心に僅かばかりついた傷跡に囚われ続けていた。
偶然を手離さないように足掻いたところで別れはやってくる。いとも簡単に千切れた縁を探し求める私を見て、彼だったら何て言うかな。暇そうで羨ましいよってあしらうかな。答えが返ってくるわけもなく、私の妄想だけで終わってしまう。近所に住んでいたとはいえ親同士の交流なんてなかったから、どこに行ったのかわからない。住所も、通う学校も、生きているのかも、全部。それでも明日はやってくるし、私は私の日常を生きるしかない。そうやって言い聞かせて、何とか諦めてられてきた。
ほんの数時間前までは。
偶然通りかかった住宅地。どこかで大通りに出ればいいやと無計画に入り込んだ路地、マンションに隣接する建物の階段下で揺れる黒い影。壁に体を預けて足を投げ出す人物を見て、私は吸い寄せられるように近付いて、
「え」
人影が顔を、上げた。
荒く繰り返される呼吸、目立った損傷は見られない衣服とそこから溢れ出る赤色。前髪の隙間から覗く目は私を見るなり見開かれて、信じられないとでも言うように瞬きをした。なんで、と言いかけた口元を覆って顔を歪ませたそれは私のよく知る人物にそっくりで、いっそ見間違いであってほしかった。
「明智、くん?」
半ば確信を持って名前を呼ぶと、明智くんは返事の代わりに激しく咳き込んだ。どろ、と衣服を伝う赤黒いものは止めどなく流れていて、今にも地面を濡らしそうなほど溢れていた。腹部をおさえて苦痛に耐える明智くんは、焦点の定まらない目で私を見上げていた。
どうしよう。このままじゃ死ぬ。放っておいたら死ぬ。何とかしなきゃ。
初めて見る光景に、本能のようなものがそう叫んでいた。事故現場や人の死に目に直面したことだってない。それでも内側からやってくる衝動に突き動かされて明智くんに駆け寄ると、鉄と何かが混じったような臭いに鼻の奥がつんとした。不快な臭いに構ってる暇はないとしゃがみこんで明智くんの顔色を伺う、と。今まで見たことないほどの青白い顔がそこにあって、私は無意識にスマホを取り出していた。
これは、私が解決できる範囲を超えている。早く、早く助けを呼ばなくちゃ。
頭を殴られたような鈍い痛みが走り、眩暈がした。
「きゅ、きゅうしゃの、番号…は」
早く早くと焦る気持ちとは裏腹に震え出す指。思い出せない三つの数字。苛立ちと焦りで絡まる思考の中に「呼ぶな……!」割り込んでくる声。伸びてきた真っ赤な腕に掴まれた私の手が、同じ色に染まる。生温かさの残るそれに、スマホを持っていた手から力が抜けた。
「いいから、呼ぶな……!さっさと、……帰れ!」
「なん、でよ…死んじゃうよ」
コンクリートに跳ね返ったスマホからがつ、と鋭い音が鳴る。弱々しく言い放った明智くんはごほ、と再度咳き込み私に向かって倒れこんできた。咄嗟に体を受け止めはしたものの、肩で息をする明智くんはどう見たって重症で、けれど素人に怪我の状態を判別できるわけもなかった。何もできない自分が歯痒くて、腕の中で徐々に弱っていく明智くんを見ていることしかできなくて、泣きたくもないのに目頭だけは熱くなって。
「なに、泣いて、んだよ」
頬を伝う温かいものは全然止まってくれなくて、必死に押し止めようとした分だけ流れていった。ぽた、と明智くんの服を濡らして赤が滲んでいく。「だっ……で、あけちくん、が、しんじゃうから」ぐずぐずの鼻声が出てきて情けないのに、泣いたって状況は変わってくれないのに。目の奥がじんと痛んだのを皮切りに、堰を切ったように溢れ出していた。
ぎゅう、と明智くんを抱き締めながら泣きじゃくる私の頬に、涙とは別の生温かさが這わされた。
「……じゃあ、肩、貸してよ」
涙で滲む視界の中でぱちぱち、と何度か瞬きをすると、呆れたように息を吐いた明智くんが身を捩っていた。私の腕から出ていこうとする明智くんを逃がすまいと脇下に腕を回す。余裕なんてないくせに余裕ぶって、力だってろくに入らないくせに自力で立ち上がろうとして。それだけ頼りなく映っているであろう自分が情けなくなって、また目元に熱が集まる感覚がした。
「また泣く気?」
「明智くん、全然力抜いてないじゃん」
ふらふらなんだからもっと頼ってよ。そういう意味を籠めて肩を持ち直す。
「冗談、だろ。……君に体預けるとか、不安で、仕方……ないよ」
けど、返ってきたのは可愛くない悪態だけで、私の肩にかかる重量は増えてくれなかった。
「なんで口だけは達者のままなの?むかつく」
重々しい一歩を踏み出した明智くんに続くようにして、私も足を持ち上げる。ついでに溜め込んでいた不満を真横に向かってぶつけると、明智くんはふっと少しだけ笑って「涙、引っ込んだね」満足げにそう言った。
▽
別に、一人なんて今に始まったことじゃなかった。
水商売で稼ぐ母親が客を呼ぶ度に家から追い出されていた。手狭で古くさいところだったけど、子供にとって大きな居場所。わかってる。そうするしかなかったのも、全部わかっていた。寂しさや疎外感を覚えるのは最初のうちだけで、習慣になってしまえば取るに足らないもの。ああ、またかと、歳を重ねていくうちに諦めがついてしまった。他の家の子供とは違う現状に諦められていた。……母親が亡くなる日までは。
居場所を無くし、親戚をたらい回しにされ、その都度渋い顔をされてきた。やり場のない怒りと虚しさが頭を占めていく中で、ひたすら自問自答を繰り返した。どうしてこうなった?理不尽な現実を生んだのは誰だ?答えはすぐに見つかった。母親を捨て、水商売で働く原因を作ったクズな親父。そいつが憎むべき相手なのだと、胸を満たす憎悪が叫んでいた。母親に謝罪させることはもう叶わないから、せめてこの手で地獄に突き落としてやる。そのためだったら何だってする。大人の機嫌を取り、優等生を演じ、とことん上りつめてやる。誰にも頼らず、一人でのしあがってみせる。
だから、一人で十分だった。
「あ、起きた」
もう随分と聞いていなかった声がして、明智はゆっくりと重たい瞼を開けた。聞いていないと言っても現実の話。夢に何度か出てきた彼女は、未だ明智の心の隅を占領し続けていた。復讐の道に必要ないものだと身内と同様に切り捨てた存在だった。それが今だに囚われて、挙げ句幻覚を見るほどだなんて復讐が聞いて呆れる。がしがしと無造作に頭を掻いた明智は、幻覚から目を逸らすみたいにして寝返りを打った。ずき、と腹部に鈍い痛みが走り、中途半端に体を転がしたまま動きを止める。
「い、っ……クソ、」
「まだ動いちゃダメだって!」
喋る幻覚に肩を掴まれた明智は押し戻された。幻覚もといなまえは「明智くんの指示どおりに応急手当はしたけどどう見たって入院案件だから!それ」と言って心配そうに眉を下げていた。ふと自身へ目を落とすと上半身に何も身につけておらず、なまえの言うように申し訳程度の手当てがされていた。傷跡を見るなり甦ってくる記憶の数々に、明智はため息をついて布団を持ち上げ直した。
そうだ、あの世界でヘマをした。溜まり続けた疲労ごと持ち込んだ自身の判断ミスが招いた結果がこれだ。普段ならばあり得ない失態は、多忙だったじゃ済まされない。この力であいつを生き地獄に引きずり落とすまでは、復讐を果たすまでは、死ねない。神だか悪魔だかがくれたチャンスをみすみす逃すわけにはいかない。戦略から負傷した際の治療まで一人でこなしてきた。別に困ってなんかいなかった。
そのはず、だった。
「えっと、久しぶり。明智くん」
それがどうだ。なまえが通りかからなかったら自力で解決していただろうに、いざ助けが来たらこのザマで、差し伸べられた手を取ってしまった。
「あぁ…情けないところを見られちゃったね」
「情けないっていうかびっくりして心臓止まるかと思った」
何より自身への不甲斐なさよりも、なまえにあんな醜態を晒した事実が嫌だ、などと喚きだす自分が信じられなかった。何があったの?と尋ねてくるなまえに、しかし経緯を話すわけにもいかず、明智は考え込むように目を伏せた。
「いつの間にかテレビにまで出てるし」
「あ、見てくれたんだ。嬉しいよ」
「ちょっと、都合のいいところだけ答えないでよ」
「たいしたことじゃないから」
腹部やら全身やらの痛みで頭が回らず、もっともらしい言い訳の一つも思いつきやしない。大袈裟にはぁとため息をついてみせたあと、明智は「わかったよ。話せばいいんだろ」と俯かせていた顔を上げた。
「探偵やってる…のはテレビ見たなら知ってるよね。別れさせ屋みたいな依頼を請け負ったんだけど、ターゲットの恨みを買ったらしい。執拗に責め立てられたよ」
「う、ん……」
不安そうに揺れるなまえの瞳を見つめ返しながら勿体振って間をあける。ぐっと拳を握り、ついでに苦々しい表情も作っておいた。
「まぁそれは問題なく片付いたんだけど、階段で足を滑らせてしまってね。まさかこの僕が……油断してたよ。クッ……!」
「いや恨みのくだり関係ない!勝手に階段から滑り落ちただけじゃん!!」
「だから言ったろ?たいしたことじゃないって」
即席で用意した誤魔化しにしては存外マシなものだったかもしれない。「怪我が大惨事だもん。嘘じゃん!」ばしばしと布団に両手を叩きつけてきたなまえは、納得いきませんと言わんばかりに目を尖らせた。叩いた弾みで腕が足元に当たり、びり、と電撃のような痺れが走る。傷だらけの体へ故意に叩きつけてきたわけじゃないのは百も承知だけども、駆け巡る痛みに貼りつけた笑顔がぐしゃりと歪んだ。急いで謝罪をしてきたなまえに怒る気にはなれず、明智は首を振った。異世界のことを説明するわけにはいかないし、巻き込みたくなかったのもきっと、ある。どちらにせよただの気紛れに過ぎないそれは、自分のためでしかない。真実を言えと無言の圧をかけてくるなまえを見上げながら、気だるさが残る腕を伸ばした。
「僕の言ったとおりになったね」
「何が?ていうか話反らさないでよ」
「また会える、そう言っただろ。縁があったね、僕たち」
伸ばした腕の先にあるなまえの髪は、明智の指の間を通り抜けていく。気の迷いのはずなのに、縁を手離せなかった理由は明智にもわからなかった。
▽
縁とは不思議なもので、もう二度と会えないのかと気を揉んでいるうちに、あっさりと再会の日が訪れたりする。私と明智くんも例に漏れず、路地で倒れていた明智くんに付き添って以来、ふとした時に顔を合わせる機会が多くなった。それは最寄り駅であったり、出先であったり、時には約束をして過ごしたり。もちろん明智くんは有名人だから人目を避けてはいる、らしい。自称。どの辺が?で終わるレベルの忍び具合は、本気か冗談か汲み取れきれていない。たまに抜けてる明智くんのことだから素の可能性も無きにしも非ず、だ。
結局、怪我の件は聞けず仕舞いだった。一人暮らしをしていること。探偵を始めたこと。聞きたいことは山ほどあったけど明智くんには明智くんの事情があるだろうし、無理やり聞き出す気にはなれなかった、し。
「どうかした?」
数年前の行きつけの場所に、あの頃と同じように明智くんがいる。何でもないよ。そうかい。たったそれだけのやり取りにどうしようもなく頬が緩んでしまう。心がぽっと温かくなる感じがして、途端に思考を投げ出してしまう自分がいた。毎日とはいかなくても互いの都合が合った日に一緒の時間を過ごせるのだと、私はまた根拠のない期待を膨らませていた。
「ねぇ、なまえ。たとえば……タラレバの話、ってこれ前にも言ったね」
いつかを彷彿とさせる話の切り出しに、私は緩んでしまった口元をやや引き締める。「言ってた。しかもほぼ同じ」記憶の中の明智くんと重ねつつそう答えると、明智くんは持っていたペンをノートに放り投げた。ころころと転がってツメの部分に引っ掛かり、地面に落ちる寸前でぴたりと止まる。
「なまえに気になる人がいたと仮定しよう。けど、なまえはとある事情を抱えていて、気持ちに躊躇いがある。この状況、なまえならどうする?」
「どうするって」
気になる人。つまり好きな人、あるいは好きになりそうな人。思い切り心当たりがある私の心臓は大きく跳ねた。露骨に視線を泳がせ言葉に詰まる私はさぞ怪しいことだろう。片思い相手からこの手の話題を出されて冷静を保てる人が存在するなら出てきてほしい。少なくとも私には無理だった。顔なんて強張ってるし、質問内容だって頭に入ってきやしない。たしか……そう。気持ちに躊躇いがあるだとか何とか。
「言い方を変えよう。自分と相手の幸福、どちらを選ぶ?」
追い討ちをかけるような質問が続き、中途半端に開いたままの口を閉じた。ペンへ落としていた視線を上げると、じっと私の返答を待っている明智くんがいた。この目には見覚えがある。瞼の裏に焼き付いたままの、あの絵とそっくりの目だった。恐怖から生唾のようなものを飲み込んで、目を逸らしてしまいたくなる衝動を必死に耐えた。
明智くんは面白半分でこんな質問をしてきたわけじゃない。たぶん、本気。別の意味で緊張し始めた体に鞭打って頭をフル回転させた。
もしも大きな問題を抱えていて、そこに明智くんを巻き込んでしまうのだとしたら、私は。
「私、は……相手に幸せになってほしいから、身を引く」
「……実につまらない答えだよ」
喉なんてからからに渇いて仕方なくて、肩だって変に力が入ったまま。それでも懸命に絞り出した意見はあっけなく一蹴された。瞬時に頭へ血が上り、反射的にうるさいな!じゃあ明智くんはと言いかけたところで「でも」と遮られる。
「なまえらしい答えだ。そんな君だから、僕は」
「へ?」
「何でもないよ。そろそろ帰ろうか」
一方的に会話を終えるなり、明智くんは広げていたノートと筆記用具を鞄にしまいこんだ。つられて帰り支度をした私より先に立ち上がり、数歩先へ進んでしまう。急いで駆け寄ったところで、明智くんが抱える何かや質問の意味なんて到底わからない。手を伸ばせば届くところにいて、今だって私を待ってくれているはずの明智くんがどんどん離れていく気がした。
▽
ある日を境に、明智くんは姿を消した。
行方不明になった、の方がしっくりくるかもしれないけれど、日常は恐ろしいほど円滑に過ぎていた。テレビで見かけなくなって寂しい、だなんてぼやいていたのが嘘のように誰の口からも名前が出てこなくなった。まるで最初からいなかったみたいに、皆の頭から明智くんの記憶だけ抜け落ちてしまったように、不気味なほど情報が消失していた。最初は違和感もまだ小さくて、通話が繋がらない理由は多忙なのだろうと連絡は控えていた。それが二日、三日。果ては一週間以上も続けば、いよいよ気のせいじゃ済まなくなる。何かあったのかもと、悪いとは思いつつマンション前で待ち伏せしたりもした。
待てど暮らせど、明智くんが家に帰ってくることはなかった。
みんなが忘れてしまっても、私だけはずっと覚えている。忘れたくても忘れられない。声をかけてくれたあの日から、一緒に過ごした数か月前まで。全部が私にとって宝物で、後悔してることだってある。質問の意図がわからないまま曖昧にしたり、明智くんのためと言い訳して詮索しなかったりと、挙げていけばきりがない。
もし、深く聞いていたらとか。どうしようもないタラレバを思い描いては明智くんのことばかり考えていた。進路なんてどうでいいと、おざなりになってしまうほどに。
なのに、
「なまえ、やっと見つけた」
当たり前みたいに目の前に現れた彼は、格好も相まってか酷く大人びて見えた。その声を聞いただけで、数か月間溜め込んでいたものがどっと押し寄せるように溢れ出した。
「あ、明智くん……!どこ行ってたの……わた、し」
じわじわと滲んでいく視界の中で、明智くんは困惑とはちょっと違う、複雑そうな表情を浮かべていた。
「ごめん、なまえ。やっぱり僕は相手のために身を引く、なんて綺麗事で片付けられそうにないよ」
「なにが…」
「一緒に、過ごしてほしい。今日だけでいい。訳も聞かないでくれ」
自分勝手すぎる言い分に問い質したいのは山々だけど、懇願するような瞳と、今を逃したら本当にどこかへ行ってしまいそうな気がして「仕方ないなぁ」涙声で無理やり笑顔を作ってそう言うと、「ありがとう」同じく泣き出しそうな顔をくしゃりとさせた明智くんは、ぐずぐずと泣き続ける私の頬に手を這わせて涙をすくい上げた。
「そろそろ戻るよ」
唐突に告げられた別れの台詞。訳を聞くなと言われた手前何も言えず、かといってまたね、なんて言える雰囲気でもなくて私は立ち止まった。覚悟はしていたけど、いざ目の当たりにしたら体は震え出すし、瞼も熱くなって目の奥がじんと痛んだ。背を向けたまま前を見続けている明智くんは、相変わらず自分勝手で一方的なのに嫌いになれなくて、胸がきゅっと締め付けられたように苦しくなる。
「どこに?」
口をついて聞いてしまったそれに、明智くんは徐に振り返った。
「……僕らの現実に」
明智くんが何を言ってるのか全然わからないし、わかりたくもないのに。強い意思を宿した瞳にわかりそうになってしまうのが嫌で、また会える?と聞き返していた。
「……その時がきたら、会いにいくよ。今日みたいに。だから──また会おう。なまえ」
踵を返した明智くんは一度も振り返ることなく去っていった。いつかの後ろ姿と重なる。違うのは“さよなら”とは言わなかったところ。だからわたしも言わない。今日みたいにひょっこり現れて、何事もなかったように過ごしているかもしれない。反対にもう二度と会えない可能性だって充分あるけど、約束なんかしなくたって会える、と言ったのは明智くんだから。その時は私に隠していたこと全部を白状させて、苦い顔をされようが隣にいる。その手を離さないように、零れ落ちてしまう前に、手を掴む。
いつか、また。
2020.10.23
ホワイティ吾郎
2023.11.1
BGM~星と僕らと~
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