Ep.2 風使いの章

「はー……こっわ。死ぬかと思った……」

 ユリシーズの元を去り、大学を出たところでジェレマイアは胸中の恐怖を言葉と共に吐き出した。
 全力で走って来たせいか、それとも殺気にあてられた恐怖のせいなのか。全身から汗が噴き出ていた。息も上がっている。

「……僕、悪くないですよね」

 乱れた呼吸を整えながら、先程のユリシーズに対する言動を振り返る。言ってしまったことはもう撤回できない。今日は何とか逃げられたが、明日以降の講義が怖い。他の生徒の前で説教や嫌味、皮肉を言われるかもしれない。彼の陰湿さは相当だ。あれで彼のことを尊敬していると言う生徒がいるのだから信じられない。
 試験が終わっていたのは幸いだった。流石に私怨で落第させるようなことはしないだろう。そうであって欲しい。

「…………」

 呼吸が落ち着いてきたところで携帯端末を取り出し、時刻を確認する。18時過ぎ。空はほとんど暗くなっている。そろそろ夕食時だ。
 ユリシーズのせいで友人たちとの飲みは流れてしまった。このままスーパーに寄って帰宅し、自炊しても良いーーが、気分的には誰かと話ながら食事をしたい。

「……よし」

 せっかくだから、『彼女』に会いに行こう。そう考えを纏め、ジェレマイアはある場所を目指し、歩き出した。



+++



 『彼女』と出会ったのは半年前。
 ひったくり犯から彼女のバッグを取り返したのがきっかけだった。
 ジェレマイアとしては本当にたまたま。こちらに向かって走ってきた男と、必死になって男を追う彼女を見て、咄嗟に体が動いた。
 両手を広げて男の進路を阻もうとして、派手にぶつかった。衝撃でジェレマイアは転び、男はそのまま走り去った。何とも情けない姿を晒してしまったが、幸運なことに男は彼女から奪ったバッグをその場に落として逃げていた。

「本当にありがとう御座いました」

 彼女は何度もジェレマイアに頭を下げ、何かお礼をしたいと言って連絡先を交換した。自分は何もしていないと。ジェレマイアは最初こそ断ったものの、彼女の熱意に押され、最終的に折れる形となった。
 後日食事に誘われ、バッグのお礼だと言って彼女は奢ってくれた。
 他者との交流は人並みにしており、親しい友人もそれなりに居ると思っている。ただ、女性の友人は居ないに等しい。そのため、最初はどう接すれば良いのか、何を話せば良いのか分からず、酷く緊張した。けれど彼女のフランクな態度やウィットに富んだ話のお陰ですぐに打ち解け、それから定期的にお茶をする仲にまで発展した。
 何度か逢瀬を重ねる内に、これは俗に言う『脈アリ』なのではと思い、ジェレマイアは思い切って彼女に交際を申し込んだ。すると彼女は喜んでジェレマイアの告白を受け入れ、めでたく交際がスタートした。人生初の恋人だった。

「私、夢があるんです」

 ある日、彼女はジェレマイアに自らの夢を打ち明けた。
 彼女の夢は、自分の店を持つことだった。得意としているスキルを活かし、人の役に立つ仕事をしたい。
 そのためには、彼女一人の力ではどうにも難しい。だから、ジェレマイアのサポートが必要なのだと。そう言って彼女はジェレマイアに助力を願った。
 彼女にそう言われ、ジェレマイアは心底嬉しかった。魔法使いではあるものの、それ以外は極々平凡。頭が良いわけではないし、運動神経も良いとは言えない。そんな自分を必要としてくれる人が、認めてくれる人が、すぐ傍にいる。
 ジェレマイアは二つ返事で彼女の願いを受け入れた。彼女のためなら、何だって出来る。どんな困難が立ちはだかろうとも、二人で乗り越えていける。
 この時のジェレマイアは有頂天だった。今はまだお金が無いけれど、仕事で稼げるようになったら指輪を買って、彼女にプロポーズをしよう。受け入れてくれたら結婚して、盛大に式を挙げよう。将来は子供が二人欲しい。男の子と女の子、一人ずつ。マイホームも建てて、犬を飼うのも良いだろう。
 そんな幸せな未来図を頭の中で描きながら、ジェレマイアは店舗兼新居となる予定の建物に辿り着いた。商店街からは少し離れた、小さな通りにある二階建て。一階が店舗で、二階が居住スペースになる予定だ。
 彼女はここで店の開業準備のため、毎日朝から晩まで作業をしている。
 今も作業中だろう彼女を誘って、どこかで一緒に食べようと考え、ジェレマイアは扉を開いた。
 しかし。

「……、え?」

 そこに開業準備の作業をしているはずの彼女の姿は無かった。
 代わりに、と言うべきか。いかつい風貌の男が二人、何かを探すように店内を歩き回っていた。一人はスキンヘッドで大柄、もう一人は顔に大きな傷があり、どちらもひと目で堅気の存在では無いと分かった。

「やっぱり居ねえな」
「……ああ、綺麗に痕跡を消してやがる」
「今回もやられたか……あんのクソアマがっ!」

 ガン、と。スキンヘッドの男が近くにあったゴミ箱を乱暴に蹴飛ばす。蹴られたゴミ箱は壁に当たり、ごろごろとジェレマイアの足下まで転がってきた。

「ったく、ボスも人が良すぎる。前もあの女にやられたって言ってたよな」

 スキンヘッドの男が蹴飛ばしたゴミ箱が転がっていく様子を見ながら、顔に傷のある男が肩を竦ませた。

「ああ。だが今回は絶対逃がさねえ。許してやるもんか。見つけ出してギッタギタのボッコボコにしてぶっ殺してやる」
「あー、見た目は悪くねえし、その前に楽しませてもらうのもアリじゃねえ?」
「お前あんなのが良いのかよ。俺はごめんだね」
「…………」

 ジェレマイアは呆然と二人のやり取りを見詰めていた。
 人の家ーーまだ仮だがーーで何をしているんだと。本来ならば文句の一つも出るところだ。しかしその強面な二人を相手に、ジェレマイアは言う勇気が持てなかった。

「……あ、の。どちら様……ですか?」

 それでも、このまま黙って見ている訳にも行かず。
 ジェレマイアはおずおずと二人に声を掛けた。

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