仮面舞踏会
彼女はひとり、広間から露台に出た。
暗闇の中でひそひそと囁く声や
くぐもった笑い声や
衣擦れの音が聞こえてきた。
柱の影や庭に続く石の階段の隅では
すでに何組かの男女が
大胆な抱擁を交わしていた。
夜の庭には
ところどころに篝火が配置されていた。
彼女は西翼の外れまで歩いて来ると
そこに置かれていた水盤の縁に腰を掛けた。
水盤に手を浸していると
夜風が火照った頬を冷ましてくれた。
風に揺れた柳の細い枝が
彼女の背をやさしく嬲った。
夜風とともに
ふっと、麝香と白檀の香りが
あたりに漂った。
「まるで・・・細密画から抜け出てきたようだ。
わたしは、一瞬、自分がフランスにいることを忘れました」
という、低い声が聞こえた。
顔を上げると
背の高い回教徒の貴婦人が立っていた。
目元から下を覆う黒い紗のベール越しに低い静かな声を
掛けられ
「それはどうも・・・」
と若い藩王は、仮面の下で恥らいながら
胸に手を当て、優雅に首を傾けた。
そして、ひとり広間を抜け出してきたことを
言い訳するかのように、語り始めた。
「・・・実に不思議ですね・・・
必要以上に派手な色彩で
けばけばしく飾り立てられ
何もかも大袈裟に、強調されていて
仮装の為の衣装だという事は解っている筈なのに
これを身に纏っていると、いつの間にか・・・
東洋の優雅で静かな頽唐や
覇者の傲慢や奢侈や
苦悩や倦怠や冷笑・・・といった
およそ、普段のわたしには縁のないものが流れ込んで来て
わたしという人間も
わたしを取り巻く世界も
すっかり変わってしまったようで・・・」
「おや、そうですか。
広間であなたを拝見しておりましたが
実に優雅で快活で、そして素晴らしい踊り手と
お見受けいたしましたが・・・」
「ええ・・・
たしかに、ついさっきまで
あんなに浮かれていたのに・・・
わたしは、まあ、普段も社交的、というほどでもないにしろ
自分なりに愛想よく振舞っているつもりなのですが
今夜は、何だかひどく浮かれて
浮かれていたかと思ったら
急に、ひどく白けて・・・冷めてしまった。
ところで、あなたは、今夜は
どなたとも踊っていらっしゃらなかった。
ずっと柱の側に立って人々が浮かれ踊る様子を
眺めていらっしゃったから、何だか気になった。
何故ですか?」
「さあ・・・そうですね・・・
実は、わたしも、この衣装のせいでしょうか
気がつくと・・・
華やかな外交の宴が繰り広げられている大広間の様子を
白く厚い壁に穿たれた幾何学文様の風通し穴から
そっと覗いている
内気で慎み深く、そのくせ心の奥に
暗く熱い屈託を秘めている・・・
そんな、異国の後宮に棲む女の気持ちになっておりました。
何とも、不思議な気分でした・・・」
「ほう・・・あなたも、なかなか想像力が豊かな方なのですね。
そして、謎めいた眼差しの、内気で、しとやかな回教徒の貴婦人は
実は、男の方でしたか」
「ええ・・・この衣装
こちらの女主人が用意してくれたのです。
あなたは女の方ですね」
「実は、これも女主人が
わたしに用意してくれた衣装です。
あの方は悪ふざけがお好きだ・・・」
「おまけに強引で」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
そして回教徒の貴婦人は言った。
「刺激的で、人を興奮させるものは
逆に冷めさせるのも、早いものなのかも
しれませんね・・・。
だから、人はさらに、もっと強い刺激を
求めるようになるのかもしれません」
若い藩王は
───わたくしは
退屈したことはないわ。
悪口陰口だって
わたくしにとっては刺激なの。
でも、この社交の生活に欠けているものは
そうねえ・・それは幸せかしらね・・・・
と自嘲気味に語った
初老の貴婦人の言葉を思い出した。
「なるほど・・・
解るような気がします。
そして、冷めることがこわくなる。
だから、もっと強い刺激を求めるようになる」
月の光の下で柳の枝に背を嬲られ
水盤の淵に腰掛けて手を浸し
波紋を眺めている藩王の姿は
儚げで、どこか不吉で
その様子に胸を打たれて、彼は言った。
「でも、あなたは
そのような人には見えませんが。
けして依怙地な人ではないのに
快楽や刺激に溺れて
自分を見失ったりはしない。
目の前の現実も
自分に起こった事柄にも
目を背けたり逃げ出したりしないで
しっかり受け止めようとする人だ」
彼女は少し、驚いて仮面の下で、青い瞳を
大きく見開いたが
ふっと笑って
「そんな風に見えますか・・・
だとしたら、光栄です。
あなたも、そのような人に見えますよ」
と言った。そして
「さて・・
そろそろ、広間に戻りましょう。
せっかく衣装まで用意して貰って
礼を欠くわけにはいかない。
後で、女主人に叱られてしまう。
まだ、お開きまでには
ずいぶんと時間があるようだし」
と、言った。
暗闇の中でひそひそと囁く声や
くぐもった笑い声や
衣擦れの音が聞こえてきた。
柱の影や庭に続く石の階段の隅では
すでに何組かの男女が
大胆な抱擁を交わしていた。
夜の庭には
ところどころに篝火が配置されていた。
彼女は西翼の外れまで歩いて来ると
そこに置かれていた水盤の縁に腰を掛けた。
水盤に手を浸していると
夜風が火照った頬を冷ましてくれた。
風に揺れた柳の細い枝が
彼女の背をやさしく嬲った。
夜風とともに
ふっと、麝香と白檀の香りが
あたりに漂った。
「まるで・・・細密画から抜け出てきたようだ。
わたしは、一瞬、自分がフランスにいることを忘れました」
という、低い声が聞こえた。
顔を上げると
背の高い回教徒の貴婦人が立っていた。
目元から下を覆う黒い紗のベール越しに低い静かな声を
掛けられ
「それはどうも・・・」
と若い藩王は、仮面の下で恥らいながら
胸に手を当て、優雅に首を傾けた。
そして、ひとり広間を抜け出してきたことを
言い訳するかのように、語り始めた。
「・・・実に不思議ですね・・・
必要以上に派手な色彩で
けばけばしく飾り立てられ
何もかも大袈裟に、強調されていて
仮装の為の衣装だという事は解っている筈なのに
これを身に纏っていると、いつの間にか・・・
東洋の優雅で静かな頽唐や
覇者の傲慢や奢侈や
苦悩や倦怠や冷笑・・・といった
およそ、普段のわたしには縁のないものが流れ込んで来て
わたしという人間も
わたしを取り巻く世界も
すっかり変わってしまったようで・・・」
「おや、そうですか。
広間であなたを拝見しておりましたが
実に優雅で快活で、そして素晴らしい踊り手と
お見受けいたしましたが・・・」
「ええ・・・
たしかに、ついさっきまで
あんなに浮かれていたのに・・・
わたしは、まあ、普段も社交的、というほどでもないにしろ
自分なりに愛想よく振舞っているつもりなのですが
今夜は、何だかひどく浮かれて
浮かれていたかと思ったら
急に、ひどく白けて・・・冷めてしまった。
ところで、あなたは、今夜は
どなたとも踊っていらっしゃらなかった。
ずっと柱の側に立って人々が浮かれ踊る様子を
眺めていらっしゃったから、何だか気になった。
何故ですか?」
「さあ・・・そうですね・・・
実は、わたしも、この衣装のせいでしょうか
気がつくと・・・
華やかな外交の宴が繰り広げられている大広間の様子を
白く厚い壁に穿たれた幾何学文様の風通し穴から
そっと覗いている
内気で慎み深く、そのくせ心の奥に
暗く熱い屈託を秘めている・・・
そんな、異国の後宮に棲む女の気持ちになっておりました。
何とも、不思議な気分でした・・・」
「ほう・・・あなたも、なかなか想像力が豊かな方なのですね。
そして、謎めいた眼差しの、内気で、しとやかな回教徒の貴婦人は
実は、男の方でしたか」
「ええ・・・この衣装
こちらの女主人が用意してくれたのです。
あなたは女の方ですね」
「実は、これも女主人が
わたしに用意してくれた衣装です。
あの方は悪ふざけがお好きだ・・・」
「おまけに強引で」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
そして回教徒の貴婦人は言った。
「刺激的で、人を興奮させるものは
逆に冷めさせるのも、早いものなのかも
しれませんね・・・。
だから、人はさらに、もっと強い刺激を
求めるようになるのかもしれません」
若い藩王は
───わたくしは
退屈したことはないわ。
悪口陰口だって
わたくしにとっては刺激なの。
でも、この社交の生活に欠けているものは
そうねえ・・それは幸せかしらね・・・・
と自嘲気味に語った
初老の貴婦人の言葉を思い出した。
「なるほど・・・
解るような気がします。
そして、冷めることがこわくなる。
だから、もっと強い刺激を求めるようになる」
月の光の下で柳の枝に背を嬲られ
水盤の淵に腰掛けて手を浸し
波紋を眺めている藩王の姿は
儚げで、どこか不吉で
その様子に胸を打たれて、彼は言った。
「でも、あなたは
そのような人には見えませんが。
けして依怙地な人ではないのに
快楽や刺激に溺れて
自分を見失ったりはしない。
目の前の現実も
自分に起こった事柄にも
目を背けたり逃げ出したりしないで
しっかり受け止めようとする人だ」
彼女は少し、驚いて仮面の下で、青い瞳を
大きく見開いたが
ふっと笑って
「そんな風に見えますか・・・
だとしたら、光栄です。
あなたも、そのような人に見えますよ」
と言った。そして
「さて・・
そろそろ、広間に戻りましょう。
せっかく衣装まで用意して貰って
礼を欠くわけにはいかない。
後で、女主人に叱られてしまう。
まだ、お開きまでには
ずいぶんと時間があるようだし」
と、言った。