孔雀の羽団扇

 「そういえば、彼女はどうしているのかしら?
この扇を取りに来ないのよ。
きっと、新しいお仕事に夢中で忘れてしまっているのね」


近衛連隊長就任の挨拶の為、居室を訪れた彼に
C・・・大公妃は祝いの言葉を掛け
その華やかで凛々しい正装を誉めた後
いきなり打ち解けた口調で話しかけてきたので
それには、さすがに彼も破顔してしまった。


「かつて異国に嫁した姫君は、傷心を抱えたまま
再び愛する夫や子どもたちの元に帰って行った・・・
という筋書きだったのでは?」


「・・・あら!!まあ!!嫌だわ!!
わたくしったら、うっかり口を滑らせてしまったわ」


大公妃は、恥ずかしそうに、卓の上に置かれていた羽団扇を
取り上げ、顔を隠してしまった。

この彼の母親よりも年上の、何もかも知り尽くしているかのように
振舞う貫禄のある貴婦人が
時折見せる少女のような仕草や含羞を、彼は愛している。


「・・・まあ、わたくしも気づいてはおりましたが」


「まあ!!さすがね。
でも・・・考えてみれば当然かしら
何年も側で副官を務めていらしたのですものね。
すぐ、彼女だって、気づいたの?」


「いいえ、実は・・・
しばらく時間が掛かりました。
何と言うか・・・
余りにも身近だったせいか、かえって像が結び難かったようです」


貴婦人は
「まあ、ゆっくりしていらしってよ」
と彼をお茶の用意をさせた卓の方に誘った。


「わたくしは
彼女が近衛を去ってしまってから
彼女の顔よりもむしろ
彼女の手の形、足音、声、香り
ため息のつき方や
ちょっとした身のこなしの癖や
筆跡や机の上の片付け方・・・
そんな些細なことをよく覚えている自分に気がついたのです。

その小さな小片を掻き集め、嵌め絵のように組み立てていくと
それは、あの夜の貴婦人になりました」


「なるほど、あなたの恋は
あなたの知らない間に始まっていた、というわけね」


主張のある描き眉の優雅で貫禄のある貴婦人の顔が微笑むと
目尻に皺がよって、急に言いしがたい、やさしい表情になった。


「そして、あの、貴婦人が彼女だったと知って
改めて惚れ直したってことかしら?
でも、あのドレス姿には理由があるのよ。
その事には、けして触れないであげて下さる?」


「けして触れません。
あなたが、口を滑らせてしまったことも。
それに、ドレス姿を見て惚れ直したわけでもありませんし」


「あら、そうなの?」


────あの夜会に現われた貴婦人は
初々しい少女のようにも見えれば
恋に倦み疲れた女のようにも見えた。
水の上を滑っていく白鳥のように優雅に踊っていたかと思えば
次の瞬間、荒々しく男の腕を振り払って駆け出していた。

たおやかなその身体を抱き起こしたとき
狼藉物者に襲われかけたのに
気を失ってもいなければ、青褪めても震えてもいなかった。
広間から洩れてた明かりに照らし出されたその顔は
こってりとした化粧の下からでも解るほど紅潮し
瞳は宝石のようにきらきらと煌いていた。


「わたくしは彼女が持っている、どこか、ちぐはぐなところや
乱調に、強く惹きつけられるのだ・・・
ということに、気づきました」


────そうなのよ。彼女は
わたしなんぞより、よっぽど女っぽい女よ。
あなたは、その女の虜になったのね。



「さすがね。やっぱりあなたは並みの若造ではないわよ。
今日のあなた、何だかちょっと魅力的に見えるわ。

いえ、いままで魅力がなかった、と言っているのではないのよ。

なんだかソツが無さすぎて
若者にあって当然の、傲慢さや野心さえも感じられなくて
あなたのそういうところも好ましいと思っていたのだけれど

何と言うか・・・
あなたって、趣味が良過ぎてかえって居心地の悪くなってくる
お部屋みたいだなって
たまに思うことがあったの。
そういうお部屋って、なんだか窮屈って言うか・・・
もう花瓶一つ動かそうなんて気持ちにも、ならないじゃない?」


彼が持ち上げた茶碗が、一瞬、宙で留まった。


「・・・ずいぶん酷いことをおっしゃいます。
・・・傷つきました・・・」


「ごめんなさい。
でも、傷ついたってことは、ご自分にも心当たりがあるのよね」


亜麻色の髪の華やかな士官は苦笑してから


「わたくしは・・・
どういうわけか、いつも退屈していたのです。
子供の頃から、これと言って欲しい物もなりたいものもなく
両親や兄夫婦たちを見て育ってきたせいか
男女の情愛や結婚というものにも
たいして夢を持っていなかった。

軍人になったのも、父に坊主になるか軍人になるか選べと
迫られたから、しかたなく選んだだけの事で・・・
そして、そのような自分を心の中で恥じていたのです」

「でも、皆、あなたを有能だって言うわよ」


「坊主を選んでいても
恐らく、そのように言われたと思います。
父はさすがにわたくしという人間を見ていたと思いますよ。
わたくしはこの制服を隠れ蓑にしてみて
初めて、外から窺がわれない
内心の自由というものを得ることができるということを
知りましたから」


「内心の自由?」


初老の貴婦人がその優雅な書き眉を上げて
興味深そうな表情をした。


「ええ・・・
この制服を着ているかぎり
わたくしの倦怠も無気力も
世間にばれることはないだろう、と。
だから、この隠れ蓑を手放さない為に細心の注意を払って
努力して来たのというわけです」



────まあ、この人は人一倍、真面目で純粋なんだわ。
そして、きっと寂しがりやのくせに
その人一倍、傷つき易い心を依怙地に守っているんだわ。



「何故、あなたが、彼女に惹かれたか解る気がするわ・・・。

よく、人生は劇場に例えられるけれど
あなたのヒロインが登場したところなのね。
そして彼女は熱演タイプね。ドラマチックな人よね。
熱演しなくてはいられないというか
熱演しているという意識もないのかも。
彼女がそこに現われるだけでドラマが始まるというか」


「そして、残念ながら、わたくしは熱演タイプではない・・・」


「でも、熱演タイプが名優とはかぎらないのでは?
それに、わたくしは熱演することよりも、熱演しない方が
難しいと思うわ」


「熱演したいのに、熱演出来ない事を
恥じている役者もおりますよ」


「あら、そうなの!?
では、努力なさることね。
さしずめ、わたくしはただの観客ね。
一番、つまらない役回りね・・・

この羽団扇、お持ちになる?
ドラマチックじゃないこと!?
お芝居の幕開きは、置き忘れられた孔雀の羽団扇・・・」



「ふふ・・・
わたくしを煽っても、無駄です。
わたくしの想いは、ゆっくり育てることにいたしました。
慌てて徹夜で脚本を書き上げてもロクなことにはなりません。
それに、わたくしも、また、内気な男ですから・・・」


そう言って、彼は大切そうにそれを受け取ると
口元を団扇で覆う内気な貴婦人の仕草で婉然と微笑んだ。
まるで照れ隠しのように。

雪花石膏の肌が薔薇色に染まり
榛色の瞳はいつになく輝いている。


年上の女は、それを眩しげに見つめていた。



                孔雀の羽団扇  おわり

                  2014.3.24
  
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