第六章 天女の涙
「もう会うことはできないな」
と口にしたとたん、彼は初めて目の前の友への思慕が
湧き上がってくるのを感じた。そして
────本当に、自分はこの友の気持ちに気づいて
いなかったのだろうか
自分を追っている視線に気づいていたのでは、なかったか
────そして、自分は、この友を
けして成熟することのない性だと高をくくって
憐れんできたのではなかったか
────今は、もっと、他の言葉を掛けるべきなのではな
いのか・・
と、自問していた。・
そして、また
彼女にとって自分が過去の男になるという事は
たまらない事だと思った。
しかしそれは、また、あさましい男の未練である
という事も彼には良くわかっていた。
今、彼の目の前に立っているのは
美少年の近衛士官でもなければ
あの夜の夢の女でもなかった。
それは、たとえ、頼りなく見えても、泣いていても
毅然として大人の世界に一歩踏み出したばかり
の女の顔をしていた。
だとしたら、自分も礼をつくして別れを告げる
べきだと彼は思った。
せめて、友人として
彼女の美しい思い出になっておきたいと思った。
目の前の友も
あの、季節の終わりに見せるような
少しやつれのある顔に
真摯な表情を浮かべて口を開いた。
「ありがとう。
今までよく、付き合ってくださったのだと思う」
そして、彼女もまた
自分が少女の時代に別れを告げたことを思った。
「そうだったの・・・
フェルゼン伯爵とはそんなことがあったの。
それで、もう失恋の傷は癒えたのかしら?」
「ええ、すっかり。
他の女性を一途に想っている男性に恋をしても
しかたがありません」
「そうかしら。
噂ではあの方、あなたが思っているほど純情と
いう方でもないようだけれど」
「いいのです。もう関係ありません。
それに、わたくしも自分に何もしない男性を
追居かけても、つまらないと思うようになりました」
「あら、殿方に何かさせるのが、わたくしたち
女の役目なのよ。
それに、あなただって立派にしかけたのでは
ないの!?
わたくしは生憎、その場面に居合わせなかった
のだけれど、あの夜会の翌日、控えの間は
色男のフェルゼン伯爵を袖にした外国の伯爵夫人の噂で
持ちきりだったそうよ」
「袖にしただなんて・・・
ボロを出しそうになったので逃げ出しただけです。
それに、いきなりドレスを着て現れるなんて
唐突すぎました。
我ながら、修行がたりませんでしたよ」
「あら、そうかしら、あなたの貴婦人ぶり
なかなかのものだったわよ。
まあ
『優雅にして妖艶』
には遠く及ばなかったにしろ
『楚々として典雅』
くらいの褒め言葉は言ってさし上げられたわ」
「あはは・・・なかなか手厳しいことをおっしゃる!!
では、次回は
『優雅にして妖艶に後一歩』
とでも、お褒めの言葉をいただけるよう
修行を積むことにいたします。
どうぞ、今後ともよろしくご指南のほどを」
「なかなか、心掛けがよろしいわ」
若い娘は、ふふと笑うと、桜桃の砂糖漬けを
指先で摘み上げ、口に放り込んだ。
二人は宮殿の内庭を見下ろす大公妃の居室で
茶菓の卓子を囲んで語らっていた。
大公妃は彼女を少女の頃から姪のように
可愛がって来ていたが、秘密を共有して以来
堅苦しさが少し抜けて、女同士の気楽な会話
にも乗ってくるようになったことを喜んでいた。
しかし、今日は無理をして、はしゃいで見せて
いるようにも思える。
「そうそう、あなたの孔雀の羽団扇
ある貴公子に、差し上げてしまったわ。
あなたに焦がれて焦がれて
いっときはお食事も、のどを通らないご様子だったのだけれど
伯爵夫人が国に帰られてしまっては仕方がないと
なんとかご納得されたようで
わたくし、気の毒になってしまって
それでは、せめてあなたをしのぶ縁にでもなればと
差し上げてしまったのよ」
────わたくしの想いは
ゆっくり育てることにいたしました。
わたくしも、また、内気な男ですから・・・
そう言って、彼は大切そうにそれを受け取ると
口元を団扇で覆う内気な貴婦人の仕草で、婉然と微笑んだ。
まるで照れ隠しのように。
その榛色の瞳はいつになく輝いていて
『なんだか、いつもつまらなさそうなあの方が
嬉しそうだったわ』
と貴婦人は心の中ででつぶやく。
「うっふっふっ」
「あら、何がおかしいの?」
「このわたくしに
身も細るほど焦がれている貴公子がいる、と聞いては
悪い気はいたしません」
「あら!!
では、その方のお名前教えてさしあげましょうか?
すごく佳い男よ
あなたもきっと気に入ってよ」
「いいえ、お互い知らない方が良いのでしょう」
『でも、もしかしたら、あの羽団扇
あなたの元に戻って来ることがあるかも
しれないわね』
「それにしても、本当に唐突ね、近衛から
フランス衛兵隊へ転属なさったのですって!?」
「若くて生きの良い男がいっぱいで
楽しいですよ。
毎日、四方八方から熱い視線を浴びせられて
痛いくらいです」
「まあ、あなたったら
案外浮気者なのね。
あなたの恋人になる人は、死ぬまで退屈は
しないわね・・・
ところで、先ほどお会いしたあなたの従者
しばらく見ないうちに佳い男になったわねえ。
ただの優男だと思っていたのだけれど
なんだか急にたくましくなって、翳りがでて
あなたを見る目つき
ほの暗い熱をはらんでいるようよ。
きっとあなたに恋をしているわね。
でも、彼、片目をどうかしたの?
それにしても、まあ、佳い男が目を病んでいるというのも
何だか凄絶な色気があって良いものねえ・・・」
急に、目の前の若い娘は、ほろほろと涙をこぼした。
「あら、急にどうしたの?
わたくし何か悪いことでも申し上げたのかしら?」
────どうしたのかしら、彼女は。
それにしても、可愛らしい・・・
まるで、少女のような無防備な泣き顔だわ。
しかし、彼女は自分に備わった力を
使いあぐねているのかもしれないわね。
貴婦人は、年上の女の意地の悪さも、羨望も
思いやりも、ない混ざった複雑な表情で
遠慮がちに洟をすすっている若い娘を見つめていた。
孔雀の羽団扇の行方 おわり
2012.11.10
と口にしたとたん、彼は初めて目の前の友への思慕が
湧き上がってくるのを感じた。そして
────本当に、自分はこの友の気持ちに気づいて
いなかったのだろうか
自分を追っている視線に気づいていたのでは、なかったか
────そして、自分は、この友を
けして成熟することのない性だと高をくくって
憐れんできたのではなかったか
────今は、もっと、他の言葉を掛けるべきなのではな
いのか・・
と、自問していた。・
そして、また
彼女にとって自分が過去の男になるという事は
たまらない事だと思った。
しかしそれは、また、あさましい男の未練である
という事も彼には良くわかっていた。
今、彼の目の前に立っているのは
美少年の近衛士官でもなければ
あの夜の夢の女でもなかった。
それは、たとえ、頼りなく見えても、泣いていても
毅然として大人の世界に一歩踏み出したばかり
の女の顔をしていた。
だとしたら、自分も礼をつくして別れを告げる
べきだと彼は思った。
せめて、友人として
彼女の美しい思い出になっておきたいと思った。
目の前の友も
あの、季節の終わりに見せるような
少しやつれのある顔に
真摯な表情を浮かべて口を開いた。
「ありがとう。
今までよく、付き合ってくださったのだと思う」
そして、彼女もまた
自分が少女の時代に別れを告げたことを思った。
「そうだったの・・・
フェルゼン伯爵とはそんなことがあったの。
それで、もう失恋の傷は癒えたのかしら?」
「ええ、すっかり。
他の女性を一途に想っている男性に恋をしても
しかたがありません」
「そうかしら。
噂ではあの方、あなたが思っているほど純情と
いう方でもないようだけれど」
「いいのです。もう関係ありません。
それに、わたくしも自分に何もしない男性を
追居かけても、つまらないと思うようになりました」
「あら、殿方に何かさせるのが、わたくしたち
女の役目なのよ。
それに、あなただって立派にしかけたのでは
ないの!?
わたくしは生憎、その場面に居合わせなかった
のだけれど、あの夜会の翌日、控えの間は
色男のフェルゼン伯爵を袖にした外国の伯爵夫人の噂で
持ちきりだったそうよ」
「袖にしただなんて・・・
ボロを出しそうになったので逃げ出しただけです。
それに、いきなりドレスを着て現れるなんて
唐突すぎました。
我ながら、修行がたりませんでしたよ」
「あら、そうかしら、あなたの貴婦人ぶり
なかなかのものだったわよ。
まあ
『優雅にして妖艶』
には遠く及ばなかったにしろ
『楚々として典雅』
くらいの褒め言葉は言ってさし上げられたわ」
「あはは・・・なかなか手厳しいことをおっしゃる!!
では、次回は
『優雅にして妖艶に後一歩』
とでも、お褒めの言葉をいただけるよう
修行を積むことにいたします。
どうぞ、今後ともよろしくご指南のほどを」
「なかなか、心掛けがよろしいわ」
若い娘は、ふふと笑うと、桜桃の砂糖漬けを
指先で摘み上げ、口に放り込んだ。
二人は宮殿の内庭を見下ろす大公妃の居室で
茶菓の卓子を囲んで語らっていた。
大公妃は彼女を少女の頃から姪のように
可愛がって来ていたが、秘密を共有して以来
堅苦しさが少し抜けて、女同士の気楽な会話
にも乗ってくるようになったことを喜んでいた。
しかし、今日は無理をして、はしゃいで見せて
いるようにも思える。
「そうそう、あなたの孔雀の羽団扇
ある貴公子に、差し上げてしまったわ。
あなたに焦がれて焦がれて
いっときはお食事も、のどを通らないご様子だったのだけれど
伯爵夫人が国に帰られてしまっては仕方がないと
なんとかご納得されたようで
わたくし、気の毒になってしまって
それでは、せめてあなたをしのぶ縁にでもなればと
差し上げてしまったのよ」
────わたくしの想いは
ゆっくり育てることにいたしました。
わたくしも、また、内気な男ですから・・・
そう言って、彼は大切そうにそれを受け取ると
口元を団扇で覆う内気な貴婦人の仕草で、婉然と微笑んだ。
まるで照れ隠しのように。
その榛色の瞳はいつになく輝いていて
『なんだか、いつもつまらなさそうなあの方が
嬉しそうだったわ』
と貴婦人は心の中ででつぶやく。
「うっふっふっ」
「あら、何がおかしいの?」
「このわたくしに
身も細るほど焦がれている貴公子がいる、と聞いては
悪い気はいたしません」
「あら!!
では、その方のお名前教えてさしあげましょうか?
すごく佳い男よ
あなたもきっと気に入ってよ」
「いいえ、お互い知らない方が良いのでしょう」
『でも、もしかしたら、あの羽団扇
あなたの元に戻って来ることがあるかも
しれないわね』
「それにしても、本当に唐突ね、近衛から
フランス衛兵隊へ転属なさったのですって!?」
「若くて生きの良い男がいっぱいで
楽しいですよ。
毎日、四方八方から熱い視線を浴びせられて
痛いくらいです」
「まあ、あなたったら
案外浮気者なのね。
あなたの恋人になる人は、死ぬまで退屈は
しないわね・・・
ところで、先ほどお会いしたあなたの従者
しばらく見ないうちに佳い男になったわねえ。
ただの優男だと思っていたのだけれど
なんだか急にたくましくなって、翳りがでて
あなたを見る目つき
ほの暗い熱をはらんでいるようよ。
きっとあなたに恋をしているわね。
でも、彼、片目をどうかしたの?
それにしても、まあ、佳い男が目を病んでいるというのも
何だか凄絶な色気があって良いものねえ・・・」
急に、目の前の若い娘は、ほろほろと涙をこぼした。
「あら、急にどうしたの?
わたくし何か悪いことでも申し上げたのかしら?」
────どうしたのかしら、彼女は。
それにしても、可愛らしい・・・
まるで、少女のような無防備な泣き顔だわ。
しかし、彼女は自分に備わった力を
使いあぐねているのかもしれないわね。
貴婦人は、年上の女の意地の悪さも、羨望も
思いやりも、ない混ざった複雑な表情で
遠慮がちに洟をすすっている若い娘を見つめていた。
孔雀の羽団扇の行方 おわり
2012.11.10
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