第三章 乱調
風のように広間を横切って行く貴婦人を、呆然と見つめていた。
やがて、庭の闇にその姿を消したとき
はっとして、後を追ったのだった。
突然、何者かがばたばたと駆け去る、その場にそぐわない荒々しい物音がして
その方に目を凝らすと、一瞬、心臓が凍りつくかと思った。
闇に浮かび上がるむら雲のような真珠母色の薄絹のかたまりの上に
たおやかな肢体がながながと横になっている。
あわてて、走りよって抱き起こし、その顔をのぞき込んだとたん
また、息を飲んだ。
狼藉者に襲われて、てっきり恐怖に青褪めているものと思ったのに
広間から洩れてくる明かりに照らされた顔は濃い化粧のしたからでも
わかるほど紅潮し、矢車菊の色の宝石を嵌め込んだような瞳は
長いまつげに縁取られて大きく見開かれている。
このベルサイユ向けとも揶揄される、こってりとした厚化粧を落としたら
恐ろしく若々しい顔が現れそうである。
もっとよく見ようと顔を近づけたとき
伯爵夫人は何か外国語をつぶやき
彼の胸を押しのけるようにしてさっと立ち上がると
呆然としている彼をそこに残して
先ほどと同じ、驚くほど素早い身のこなしで
滑るように去っていってしまった。
あたりには、いつまでもクチナシの香りが漂っていた。
まるで真珠母色の裳裾の幻のように・・・。
「・・・ですから
あの夜の天女のことは、もうどうかお忘れになって・・・」
「・・・は?」
「あら、あなたったら、聞いていらっしゃらなかったの!?
あらあら、恋も重症ね・・・」
「どうか、もう一度
あの伯爵夫人にお目にかかれるように
なにとぞ、おとりなしを」
彼は跪いて、貴婦人の手を取った。
「あらまあ!!
いつもは素っ気無いあなたにしてはめずらしいこと。
まあ・・・若いのに愛想の良すぎる殿御よりは
わたくしは、あなたのような方のほうが好きですよ。
あなたのその謙虚なところも好きよ」
C・・・大公妃は、ほっそりとした長身に
日中用の淡い色の簡素なドレスを涼やかに纏っていた。
うっすらと、しかも主張のある化粧が、初老の貴婦人の
年のわりには華やいだ艶のある肌を引き立てている。
身分の高い貴婦人の一人であるのに
尊大さはなく、その闊達で情の深い性格と好みのよさで
宮廷では老若男女を問わず人気があった。
『それに、鋭い勘がある』
と彼は思っている。
「ですから、何度も申し上げたように
おことわりしますと・・・
あの方は、さる大公の末の姫君でいらっしたのだけれど
若い時分に外国の貴公子と身分違いの恋に落ち
勘当も同然でフランスを去られたの。
この度、数年ぶりに、ひっそりとお里帰り
なさっているというお寂しいかたなのよ。
少しでもお慰めしようと
わたくしが夜会にお誘いしたというわけなの。
まあ、そういう、いろいろな事情があって
ご身分を明らかにするのがお嫌なようなのよ」
貴婦人は、たたみかけるように、そこまでを早口で言うと
「それに、わたくしの知る限りでは
内気で身持ちの堅い方よ。
あなたが期待されているようなことには
ならないと思うわ・・・」
と付け加えた。そして
それにしても、わたくしはあの方が
少女の頃から存じ上げてますけれど
知らない間に、あのような典雅な貴婦人に
おなりになって・・・
このフランス宮廷で当代一の美女の名を
欲しいままにしていたやも知れないのに
もったいないことよね・・・」
と、あの夜の天女を思い浮かべるように、宙を見上げてため息をついた。
『わたしが初めて
強く心を惹かれた女性だというのに
あきらめなければならないのだろうか』
彼ごときが懇願したところで
大公妃は旧知の間柄との約束を覆すような人柄ではない
ということは承知していた。
『しかし、今日の大公妃は、嬉しそうな
何か勝ち誇ったような顔をしている』
とも、彼は思う。
彼を悟しながらその実、煽ってそそのかしているような
気もするのだった。
「まあ、一度落ち着いて
ご自分辺りを見回して見る事も、大切なのではないかしら~
ジェローデル大尉」
彼は、部屋を辞する彼に
年上の女が歌うように投げかけた言葉を
いつまでも反芻していた。
やがて、庭の闇にその姿を消したとき
はっとして、後を追ったのだった。
突然、何者かがばたばたと駆け去る、その場にそぐわない荒々しい物音がして
その方に目を凝らすと、一瞬、心臓が凍りつくかと思った。
闇に浮かび上がるむら雲のような真珠母色の薄絹のかたまりの上に
たおやかな肢体がながながと横になっている。
あわてて、走りよって抱き起こし、その顔をのぞき込んだとたん
また、息を飲んだ。
狼藉者に襲われて、てっきり恐怖に青褪めているものと思ったのに
広間から洩れてくる明かりに照らされた顔は濃い化粧のしたからでも
わかるほど紅潮し、矢車菊の色の宝石を嵌め込んだような瞳は
長いまつげに縁取られて大きく見開かれている。
このベルサイユ向けとも揶揄される、こってりとした厚化粧を落としたら
恐ろしく若々しい顔が現れそうである。
もっとよく見ようと顔を近づけたとき
伯爵夫人は何か外国語をつぶやき
彼の胸を押しのけるようにしてさっと立ち上がると
呆然としている彼をそこに残して
先ほどと同じ、驚くほど素早い身のこなしで
滑るように去っていってしまった。
あたりには、いつまでもクチナシの香りが漂っていた。
まるで真珠母色の裳裾の幻のように・・・。
「・・・ですから
あの夜の天女のことは、もうどうかお忘れになって・・・」
「・・・は?」
「あら、あなたったら、聞いていらっしゃらなかったの!?
あらあら、恋も重症ね・・・」
「どうか、もう一度
あの伯爵夫人にお目にかかれるように
なにとぞ、おとりなしを」
彼は跪いて、貴婦人の手を取った。
「あらまあ!!
いつもは素っ気無いあなたにしてはめずらしいこと。
まあ・・・若いのに愛想の良すぎる殿御よりは
わたくしは、あなたのような方のほうが好きですよ。
あなたのその謙虚なところも好きよ」
C・・・大公妃は、ほっそりとした長身に
日中用の淡い色の簡素なドレスを涼やかに纏っていた。
うっすらと、しかも主張のある化粧が、初老の貴婦人の
年のわりには華やいだ艶のある肌を引き立てている。
身分の高い貴婦人の一人であるのに
尊大さはなく、その闊達で情の深い性格と好みのよさで
宮廷では老若男女を問わず人気があった。
『それに、鋭い勘がある』
と彼は思っている。
「ですから、何度も申し上げたように
おことわりしますと・・・
あの方は、さる大公の末の姫君でいらっしたのだけれど
若い時分に外国の貴公子と身分違いの恋に落ち
勘当も同然でフランスを去られたの。
この度、数年ぶりに、ひっそりとお里帰り
なさっているというお寂しいかたなのよ。
少しでもお慰めしようと
わたくしが夜会にお誘いしたというわけなの。
まあ、そういう、いろいろな事情があって
ご身分を明らかにするのがお嫌なようなのよ」
貴婦人は、たたみかけるように、そこまでを早口で言うと
「それに、わたくしの知る限りでは
内気で身持ちの堅い方よ。
あなたが期待されているようなことには
ならないと思うわ・・・」
と付け加えた。そして
それにしても、わたくしはあの方が
少女の頃から存じ上げてますけれど
知らない間に、あのような典雅な貴婦人に
おなりになって・・・
このフランス宮廷で当代一の美女の名を
欲しいままにしていたやも知れないのに
もったいないことよね・・・」
と、あの夜の天女を思い浮かべるように、宙を見上げてため息をついた。
『わたしが初めて
強く心を惹かれた女性だというのに
あきらめなければならないのだろうか』
彼ごときが懇願したところで
大公妃は旧知の間柄との約束を覆すような人柄ではない
ということは承知していた。
『しかし、今日の大公妃は、嬉しそうな
何か勝ち誇ったような顔をしている』
とも、彼は思う。
彼を悟しながらその実、煽ってそそのかしているような
気もするのだった。
「まあ、一度落ち着いて
ご自分辺りを見回して見る事も、大切なのではないかしら~
ジェローデル大尉」
彼は、部屋を辞する彼に
年上の女が歌うように投げかけた言葉を
いつまでも反芻していた。