第二章 天女の楽屋裏

 「天女だの氷の華だのと
世間の人は勝手に呼ぶけれど、幸か不幸か
一緒に暮らしていれば、そういう神性などなくなる」


と、幼なじみは苦笑する。


彼は地上に舞い降りた天女の楽屋裏を知っていた。


上の姉君方が嫁してしまってから、下ろし立ての絹の衣装の匂いや
贅沢な装身具の煌き、夕方から始まるそわそわとした華やぎといったものから
縁がなくなっていた屋敷に、久しぶりに灯がともったようで
奥様も彼の祖母も、侍女たちも嬉しげに、いそいそと立ち働いていた。

知ってか知らずか屋敷の主は書斎に籠ったきり出てこないのも、おかしかった。


彼女の身支度が整った頃には
外はすっかり暗くなっていた。


真珠母色の薄絹を幾重にも重ねた豪華なドレス
大ぶりのルビーとエメラルドの装身具で飾られた
高く結い上げた髪、コルセットで締め上げた細腰の
幼なじみのあでやかな立ち姿を見たときは
思わず頬がかっと火照るのを覚えた。

こってりとした化粧の赤い唇
結髪のせいで、いつもより切れ上がって見える目は
かすかに険を含んで
いかにも取り澄ましては見えたが
彼女もまた、興奮しているのがわかった。



そしてその夜、彼は
かしかに自分でも良くわからない感情に
苛まされて、眠れなかった。



それは、嫉妬という言葉だけでは説明のつかない

彼女のクチナシの香料にも似た、甘さと苦さの
混じったような胸苦しいような感情だった。



しかし、一夜明けてみると、自分でも驚くほど冷静で
冷静になってみると、昨夜の夢の女は見事な美術工芸品のようなもので
彼の幼なじみではなくて
彼の幼なじみも、男たちにかしずかれ
誉めそやされても、自分を見失うような女でもなかった。

しかし、また、無邪気に初恋の男の為に
ドレスを着て夜会に出かけ
曲者を投げ飛ばして帰って来るような女なのだ。


彼女の宴は終わったのだ。
また、普段の彼女に戻るのだ。
そこには、少しだけ哀れなような、寂しいような
ほっとするような気持ちはあった。


ただ・・・
侍女たちが捧げ持つカンテラの明かりに
足元を照らされて、馬車に向かって歩き出す
その豪華な黒貂の外套を纏った後ろ姿が
一瞬、平衡感覚を失った人のようにぐらりと傾いたのは
慣れない華奢な繻子の靴のせいだったのか


彼はその一瞬の光景を
不思議に、長い間、忘れられずにいた。
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