膝の上の猫
「婚約を解消なさったのですって」
「ええ、見事に振られてしまいました。
彼女はあの片目の従者を
死ぬほど愛しているのだそうです」
「彼女を庇って負った怪我だそうよ」
「では、償いでしょうか?それとも同情?」
「あら、償いだって同情だって
愛情に変わることはあるわよ」
ジェローデル少佐は、C・・・大公妃と
大公妃の宮殿内の内庭を見渡す居室で
茶菓の卓子を囲んでいた。
明るい若草色の簡素な部屋に
杏色の木目織のドレスを纏った女主人は
よく調和してくつろいで見える。
C・・・大公妃は、身分の高い貴婦人の一人であるのに
尊大さはなく、その闊達で情の深い性格で
宮廷の老若男女に愛されていた。
そして、彼もまた、この貴婦人の妙に人を惹きつける笑顔や
その低くて滑らかな声とで交わされる機知に富んだ会話を
愛していたので、この部屋を訪ねずにはいられないのだった。
「しかし
身分違いの愛の行き着く先は
不幸ではないでしょうか?」
「男女の間の不幸は甘美なものよ。
愛し合う男と女は、当人たちは気づいてはいないのかも
しれないけれど
多少なりとも、不幸に対する嗜好を持っているものだわ。
不幸は恋愛の陶酔をさらに燃え上がらせる媚薬のようなものなのよ」
「なるほど!!
わたくしには、その不幸の媚薬が足りなかったのですね!!
ああ~うかつでした。
それでは今からでも、遺書を送りつけてから
毒を飲んでやりましょうか!?
そして駆けつけた彼女の胸の中で、うらみつらみを言いながら
息絶えて見せましょうか!?
そうしたら、少しは彼女を振り向かせることが
できるかもしれませんね!!」
「・・・およしなさいな、似合わないわ」
「冗談です」
「あら嫌だわ。本気にしてしまったわ」
彼は少しだけ苛立たしげに、スミレの砂糖漬けを摘み上げると
口に放り込んだ。
「解っています。
ただ、わたしは
われわれ貴族以外の者たちがそのように呼んでいる
燃えてはすぐに消える感情よりも
もっと確かなものがあるのだと、思っているのです」
「あなたのおっしゃりたいことは
わかるわ・・・」
優美で強靭そうな長身。
豊かな亜麻色の髪に縁取られた
雪花石膏の彫刻のような高い鼻梁の整った顔立ち
控え目で穏やかな表情
ただ、そこに立っているだけで
絵になる貴公子。
そして、特に目立つというほどではないが
その好みも際立っている、と彼女は思う。
納得のいくまで仕立て屋に差し戻したに違いないと
思わせるような見事な裁断の空色の上着
牡蠣色の胴着
ひだ飾りのシャツ
ごくあっさりと四角くカットしただけの
青みがかったダイヤの指輪をひとつだけ
そして控えめな白檀と麝香の香りが
端正だがひそやかな贅沢への好みをうかがわせる。
そして
────この貴公子の端正な外見や自然に身についた儀礼
痛ましいまでの理性的な思考は
自分と同じ、この社会で念入りに培われたものだ
と年上の女は思う。
───貴族とは・・・
幾世代にも逆昇ることができる血統
高貴な家系の担い手としての役目。
そこでは、結婚も、恋愛も
形式と理性のなかで厳かに行われる儀式なのだ。
────高貴ということは
ただ単に、形式と理性と退屈の中に感情を押し込められる
強い精神力のことを指すのかもしれない・・・
と彼女はこの貴公子の横顔を
眺めながら、思う。
「でも、そんなことおっしゃっても
あなたが愛したひとは
普通の貴族の令嬢の枠から大きくはずれている人なのに
そういうひとだからこそ、あなたも彼女に惹かれたのでしょう?」
───そして、彼女は外の世界に足を踏み出してしまったらしい。
まあ、そういう生き方も、悪くはないのかもしれない・・・
「理性では納得しているのですが
何と言うか、今になって無性に癪に障るのですよ」
「ほほほ・・・あなたらしいわ。
でもあなたったら変わったわよ
彼女に恋してから明るくなったと言うか
少し滑稽味が出てきたというか・・・
以前は、一見、申し分ない貴公子に見えて
いまひとつ何か足りなかったのよね。
今だったら
その麗しい憂い顔を、ちらと向ければ、どんな令嬢だって
思いのままじゃないかしら。
それに、あのじゃじゃ馬の男装の麗人に
果敢に求婚しに行ったなんて
殿御の勲章を下げているようなもんだわ」
「あ~なんて、お優しい・・・。
精一杯わたくしを慰めて下さるのですね。
そんなに優しくされると泣き崩れてしまいそうですよ。
そのたおやかなお膝に顔を埋めて
泣かせていただいてもよろしいでしょうか?
今はただ、そのお膝の上の白い猫になりたい・・・」
彼は胸に両手を当て、眉を下げ
身も世もあらぬといった表情をして見せた。
『そうそう
こういう愛嬌は以前はなかったわ。
あなた、ずいぶん変わったわよ』
彼女は、この目の前の健気な貴公子に加勢をしたくなった。
いまさら勝ち目はないにしろ。
「ほほほ・・嬉しいこと。
女はいくつになっても殿方に撫でさすられるような
言葉を掛けられるのが大好きなのよ。
はたして、あなたは彼女にそんな言葉を掛けてあげたのかしら?
ねえ、わたくしの可愛いジュリエットや・・・
おまえなら、わかるわよね・・・」
大公妃は膝の上の白いペルシャ猫の
ふさふさした毛波を撫で上げた。
猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
数日後、彼はかつての婚約者にばったり出会ってしまった。
「ひさしぶりだな、ジェローデル少佐
お変わりはないか?」
「ええ、いたって元気にしております。
失恋の痛手も少しは癒えてまいりました」
ふたりの間に気まずい空気が流れ
しかたなく、彼女がだまって立ち去ろうとしたとき
彼は口を開いた。
「わたしに恥をかかせた、あなたのようなひとは
大嫌いなのですが
困ったことに
どういうわけか
その可愛らしい前髪を
どうしても嫌いになれない」
彼女は一瞬、ぽかんとした顔をしたが
すぐにうつむいて彼の脇を通って
歩み去って行ってしまった。
しかし、その唇が、笑っているのを
彼は見逃さなかった。
去って行く後姿が
今日は何だか
猫のようにしなやかに見える。
────もしかしたら、彼女との間に
新しい関係が生まれるかもしれない・・・
と彼は思った。
2012.11.20
「ええ、見事に振られてしまいました。
彼女はあの片目の従者を
死ぬほど愛しているのだそうです」
「彼女を庇って負った怪我だそうよ」
「では、償いでしょうか?それとも同情?」
「あら、償いだって同情だって
愛情に変わることはあるわよ」
ジェローデル少佐は、C・・・大公妃と
大公妃の宮殿内の内庭を見渡す居室で
茶菓の卓子を囲んでいた。
明るい若草色の簡素な部屋に
杏色の木目織のドレスを纏った女主人は
よく調和してくつろいで見える。
C・・・大公妃は、身分の高い貴婦人の一人であるのに
尊大さはなく、その闊達で情の深い性格で
宮廷の老若男女に愛されていた。
そして、彼もまた、この貴婦人の妙に人を惹きつける笑顔や
その低くて滑らかな声とで交わされる機知に富んだ会話を
愛していたので、この部屋を訪ねずにはいられないのだった。
「しかし
身分違いの愛の行き着く先は
不幸ではないでしょうか?」
「男女の間の不幸は甘美なものよ。
愛し合う男と女は、当人たちは気づいてはいないのかも
しれないけれど
多少なりとも、不幸に対する嗜好を持っているものだわ。
不幸は恋愛の陶酔をさらに燃え上がらせる媚薬のようなものなのよ」
「なるほど!!
わたくしには、その不幸の媚薬が足りなかったのですね!!
ああ~うかつでした。
それでは今からでも、遺書を送りつけてから
毒を飲んでやりましょうか!?
そして駆けつけた彼女の胸の中で、うらみつらみを言いながら
息絶えて見せましょうか!?
そうしたら、少しは彼女を振り向かせることが
できるかもしれませんね!!」
「・・・およしなさいな、似合わないわ」
「冗談です」
「あら嫌だわ。本気にしてしまったわ」
彼は少しだけ苛立たしげに、スミレの砂糖漬けを摘み上げると
口に放り込んだ。
「解っています。
ただ、わたしは
われわれ貴族以外の者たちがそのように呼んでいる
燃えてはすぐに消える感情よりも
もっと確かなものがあるのだと、思っているのです」
「あなたのおっしゃりたいことは
わかるわ・・・」
優美で強靭そうな長身。
豊かな亜麻色の髪に縁取られた
雪花石膏の彫刻のような高い鼻梁の整った顔立ち
控え目で穏やかな表情
ただ、そこに立っているだけで
絵になる貴公子。
そして、特に目立つというほどではないが
その好みも際立っている、と彼女は思う。
納得のいくまで仕立て屋に差し戻したに違いないと
思わせるような見事な裁断の空色の上着
牡蠣色の胴着
ひだ飾りのシャツ
ごくあっさりと四角くカットしただけの
青みがかったダイヤの指輪をひとつだけ
そして控えめな白檀と麝香の香りが
端正だがひそやかな贅沢への好みをうかがわせる。
そして
────この貴公子の端正な外見や自然に身についた儀礼
痛ましいまでの理性的な思考は
自分と同じ、この社会で念入りに培われたものだ
と年上の女は思う。
───貴族とは・・・
幾世代にも逆昇ることができる血統
高貴な家系の担い手としての役目。
そこでは、結婚も、恋愛も
形式と理性のなかで厳かに行われる儀式なのだ。
────高貴ということは
ただ単に、形式と理性と退屈の中に感情を押し込められる
強い精神力のことを指すのかもしれない・・・
と彼女はこの貴公子の横顔を
眺めながら、思う。
「でも、そんなことおっしゃっても
あなたが愛したひとは
普通の貴族の令嬢の枠から大きくはずれている人なのに
そういうひとだからこそ、あなたも彼女に惹かれたのでしょう?」
───そして、彼女は外の世界に足を踏み出してしまったらしい。
まあ、そういう生き方も、悪くはないのかもしれない・・・
「理性では納得しているのですが
何と言うか、今になって無性に癪に障るのですよ」
「ほほほ・・・あなたらしいわ。
でもあなたったら変わったわよ
彼女に恋してから明るくなったと言うか
少し滑稽味が出てきたというか・・・
以前は、一見、申し分ない貴公子に見えて
いまひとつ何か足りなかったのよね。
今だったら
その麗しい憂い顔を、ちらと向ければ、どんな令嬢だって
思いのままじゃないかしら。
それに、あのじゃじゃ馬の男装の麗人に
果敢に求婚しに行ったなんて
殿御の勲章を下げているようなもんだわ」
「あ~なんて、お優しい・・・。
精一杯わたくしを慰めて下さるのですね。
そんなに優しくされると泣き崩れてしまいそうですよ。
そのたおやかなお膝に顔を埋めて
泣かせていただいてもよろしいでしょうか?
今はただ、そのお膝の上の白い猫になりたい・・・」
彼は胸に両手を当て、眉を下げ
身も世もあらぬといった表情をして見せた。
『そうそう
こういう愛嬌は以前はなかったわ。
あなた、ずいぶん変わったわよ』
彼女は、この目の前の健気な貴公子に加勢をしたくなった。
いまさら勝ち目はないにしろ。
「ほほほ・・嬉しいこと。
女はいくつになっても殿方に撫でさすられるような
言葉を掛けられるのが大好きなのよ。
はたして、あなたは彼女にそんな言葉を掛けてあげたのかしら?
ねえ、わたくしの可愛いジュリエットや・・・
おまえなら、わかるわよね・・・」
大公妃は膝の上の白いペルシャ猫の
ふさふさした毛波を撫で上げた。
猫は気持ちよさそうに喉を鳴らした。
数日後、彼はかつての婚約者にばったり出会ってしまった。
「ひさしぶりだな、ジェローデル少佐
お変わりはないか?」
「ええ、いたって元気にしております。
失恋の痛手も少しは癒えてまいりました」
ふたりの間に気まずい空気が流れ
しかたなく、彼女がだまって立ち去ろうとしたとき
彼は口を開いた。
「わたしに恥をかかせた、あなたのようなひとは
大嫌いなのですが
困ったことに
どういうわけか
その可愛らしい前髪を
どうしても嫌いになれない」
彼女は一瞬、ぽかんとした顔をしたが
すぐにうつむいて彼の脇を通って
歩み去って行ってしまった。
しかし、その唇が、笑っているのを
彼は見逃さなかった。
去って行く後姿が
今日は何だか
猫のようにしなやかに見える。
────もしかしたら、彼女との間に
新しい関係が生まれるかもしれない・・・
と彼は思った。
2012.11.20
1/1ページ