戦争
「少しは時と場所を弁えられよ
陸軍連隊長殿」
貴婦人が引く長い藻裾が廊下の角の向こうに
すっかり見えなくなってしまってから
近衛連隊長は抑揚のない、冷たい声色で言った。
「ああ、これはこれは
近衛連隊長殿とその副官殿・・・
ああ、実に麗しい・・・
その華やかさといい、瑞々しさといい、気品といい
おふたりが並んで立っておられると並みの貴婦人など
顔色を失うな・・・
・・・いや、聞いておられたのか・・・お恥ずかしい・・・」
後に残されたその男は、少し、バツが悪そうに笑った。
北欧の人らしい髪の色も瞳の色も淡い
見る人に控えめで温厚そうな印象をあたえるこの人物が軍人で
しかも王妃の愛人の一人であり
また、彼の上官とも親しいらしいという事を
亜麻色の髪の副官は意外に思っている。
そして、一見、愛想が良く快活そうに見えて
どこか世間を嘲笑しているようにも見える。
自分と同じ匂いがする、と思うこともある。
「いやあ、おまえが通り掛ってくれて助かった」
「助かった!?」
「ああ、どうやって振り切ろうかと思案しているところだったのさ。
向こうから気を引いて来たくせに
いい年をした女の、形ばかりの拒絶には興ざめだと
内心、うんざりしていたところだったのだが
『貞淑』などというご大層な言葉を使ってきたので
ひとつ、からかってやろうという気になった」
「しかし、少々、辛辣すぎたのでは?
あまり口が過ぎると恨まれるぞ」
「ああ、たしかに調子に乗りすぎた。多少は、反省している。
ところで・・・近衛連隊長殿にひとつ、質問をしたいのだが
貞淑の反対は何だと思う?」
「さあ・・・不貞かな?」
「では不貞という言葉は、なぜ、罪の意味合いを
帯びてくるのだろうな?」
「貞淑の反対だからだろう。
つまり、相手を裏切っているからだろう!?」
「そうだ。不貞は裏切りだ。
しかし、そう、呼べるのは、それは貞淑に価値がある
場合に限られるとは思わないか?」
「さあ・・・」
「つまりな、わたしが言いたいのは
不貞とは、貞淑があってこそ罪の意味合いを帯びてきて
貞淑も、不貞があってこそ、その価値を帯びてくる、ということだ。
貞淑が尊いとされるのは、その裏側に、常に不貞が重なり合っている
からなのさ。
つまり、不貞はその前の状態の貞淑があってこそ裏切りなのだ。
だから、あのご婦人のように、夫婦揃って浮気に励んでいる場合は
それを不貞などと呼ぶ価値すらないし、それが不貞ではなければ
その前の状態も、貞淑と呼ぶ価値もないのさ!!
ああ、うっかり、しゃべり過ぎてしまったな。
お引止めしてすまなかった、失敬・・・」
銀色の髪の貴公子は片手を上げ、気楽な挨拶をすると
彼らの前から、去って行った。
「見かけによらず、なかなか辛辣なことを、おっしゃいますね」
亜麻色の髪の副官は珍しく、自分の感想を述べた。
あの、北欧の男には、どこか世間を嘲笑しているような
自分と同じ匂いがすると思うところもあったが
──しかし、自分ならあのような辛辣な言葉は
けして、人前では口にはしないだろう。
特に、この上官の前では
と、彼は思う。
「以前は、それほどでも
なかったのだが・・・」
────男は、遠い異国の戦場から
殺気や冷笑と言った、どこか曖昧で危険な匂いを纏って
戻ってきた・・・そう、思うのは、気のせいだろうか
と、近衛連隊長は心の中で呟いた。
「ああ、もしかしたら彼は、大尉よりも
ずっと、女嫌いなのかもしれないな」
振り返った上官の顔が珍しく、すこしやつれて見え
彼は、おやと思ったが
「恐れながら、自分は、そのような看板を
掲げているつもりはありません。
そのように噂されておりますことは承知しておりますが
単なる噂です」
と、微笑みながら言い返した。
「なんだ、そうなのか。それは、失礼な事を言った
許してくれ」
近衛連隊長は、素直に謝罪して付け加えた。
「噂などあてにならないものだな。
では、今度、そのような噂を耳にするような機会でもあれば
わたしからも訂正しておこうか?」
「いえ、そのようなご心配には、及びません」
副官は苦笑しながら言った。
「別に不都合はございませんし
むしろ、かえって好都合ということもありますので
言わせるままにしております」
「好都合、とは?」
「ええ、これも、戦術の一つです。
戦力温存のための偽装です。
おまけに、わたくし自身は指一本動かさずに済んでおりますし」
と、副官は、その雪花石膏の彫刻めいた
整った顔に、涼しげな笑みを浮かべて言った。
陸軍連隊長殿」
貴婦人が引く長い藻裾が廊下の角の向こうに
すっかり見えなくなってしまってから
近衛連隊長は抑揚のない、冷たい声色で言った。
「ああ、これはこれは
近衛連隊長殿とその副官殿・・・
ああ、実に麗しい・・・
その華やかさといい、瑞々しさといい、気品といい
おふたりが並んで立っておられると並みの貴婦人など
顔色を失うな・・・
・・・いや、聞いておられたのか・・・お恥ずかしい・・・」
後に残されたその男は、少し、バツが悪そうに笑った。
北欧の人らしい髪の色も瞳の色も淡い
見る人に控えめで温厚そうな印象をあたえるこの人物が軍人で
しかも王妃の愛人の一人であり
また、彼の上官とも親しいらしいという事を
亜麻色の髪の副官は意外に思っている。
そして、一見、愛想が良く快活そうに見えて
どこか世間を嘲笑しているようにも見える。
自分と同じ匂いがする、と思うこともある。
「いやあ、おまえが通り掛ってくれて助かった」
「助かった!?」
「ああ、どうやって振り切ろうかと思案しているところだったのさ。
向こうから気を引いて来たくせに
いい年をした女の、形ばかりの拒絶には興ざめだと
内心、うんざりしていたところだったのだが
『貞淑』などというご大層な言葉を使ってきたので
ひとつ、からかってやろうという気になった」
「しかし、少々、辛辣すぎたのでは?
あまり口が過ぎると恨まれるぞ」
「ああ、たしかに調子に乗りすぎた。多少は、反省している。
ところで・・・近衛連隊長殿にひとつ、質問をしたいのだが
貞淑の反対は何だと思う?」
「さあ・・・不貞かな?」
「では不貞という言葉は、なぜ、罪の意味合いを
帯びてくるのだろうな?」
「貞淑の反対だからだろう。
つまり、相手を裏切っているからだろう!?」
「そうだ。不貞は裏切りだ。
しかし、そう、呼べるのは、それは貞淑に価値がある
場合に限られるとは思わないか?」
「さあ・・・」
「つまりな、わたしが言いたいのは
不貞とは、貞淑があってこそ罪の意味合いを帯びてきて
貞淑も、不貞があってこそ、その価値を帯びてくる、ということだ。
貞淑が尊いとされるのは、その裏側に、常に不貞が重なり合っている
からなのさ。
つまり、不貞はその前の状態の貞淑があってこそ裏切りなのだ。
だから、あのご婦人のように、夫婦揃って浮気に励んでいる場合は
それを不貞などと呼ぶ価値すらないし、それが不貞ではなければ
その前の状態も、貞淑と呼ぶ価値もないのさ!!
ああ、うっかり、しゃべり過ぎてしまったな。
お引止めしてすまなかった、失敬・・・」
銀色の髪の貴公子は片手を上げ、気楽な挨拶をすると
彼らの前から、去って行った。
「見かけによらず、なかなか辛辣なことを、おっしゃいますね」
亜麻色の髪の副官は珍しく、自分の感想を述べた。
あの、北欧の男には、どこか世間を嘲笑しているような
自分と同じ匂いがすると思うところもあったが
──しかし、自分ならあのような辛辣な言葉は
けして、人前では口にはしないだろう。
特に、この上官の前では
と、彼は思う。
「以前は、それほどでも
なかったのだが・・・」
────男は、遠い異国の戦場から
殺気や冷笑と言った、どこか曖昧で危険な匂いを纏って
戻ってきた・・・そう、思うのは、気のせいだろうか
と、近衛連隊長は心の中で呟いた。
「ああ、もしかしたら彼は、大尉よりも
ずっと、女嫌いなのかもしれないな」
振り返った上官の顔が珍しく、すこしやつれて見え
彼は、おやと思ったが
「恐れながら、自分は、そのような看板を
掲げているつもりはありません。
そのように噂されておりますことは承知しておりますが
単なる噂です」
と、微笑みながら言い返した。
「なんだ、そうなのか。それは、失礼な事を言った
許してくれ」
近衛連隊長は、素直に謝罪して付け加えた。
「噂などあてにならないものだな。
では、今度、そのような噂を耳にするような機会でもあれば
わたしからも訂正しておこうか?」
「いえ、そのようなご心配には、及びません」
副官は苦笑しながら言った。
「別に不都合はございませんし
むしろ、かえって好都合ということもありますので
言わせるままにしております」
「好都合、とは?」
「ええ、これも、戦術の一つです。
戦力温存のための偽装です。
おまけに、わたくし自身は指一本動かさずに済んでおりますし」
と、副官は、その雪花石膏の彫刻めいた
整った顔に、涼しげな笑みを浮かべて言った。